ベルンカステルの背理



「また来年の綿流しの日に、ここへ来るよ」
 赤坂は私の頭を撫でながらそう言った。
「……」
 私は黙ったまま、そっぽを向く。
「どうしたの、梨花ちゃん?」
 赤坂がいぶかる。
「私、もう来年には高校生よ」
「……何か気に障ったかな?」
 私は赤坂の顔を見上げた。
「別に……赤坂のせいじゃないけど……」
 そう。赤坂のせいではなく、私が勝手にむくれているだけだ。
 頭に乗せられた赤坂の手。
 彼に触れられるのは心地よいし、少しでも長く触れられていたいと思う。けれども、幼
子にするかのように頭を撫でられると、少し悲しくなってしまう。
 何年たってもお子様扱い。もう「にぱー」だとか「みー」だとか、あえて稚気を装った
言葉を口にしなくてもいいくらいに背も伸びたし、沙都子には敵わないが胸だってそれな
りに大きくなったのだから、一人の女性として見て欲しいと思う――そう思うのは、裏を
返せば、私が赤坂を一人の男性として意識しているからなのだが。
 そんなことを考えていると、
「ああ、そうか。ごめんね。そうだよね、もう気安く触れるのは良くないね」
 と、赤坂がまったく的外れなことを言い、私の頭から手をどけてしまう。触れるのが良
くないのではなく、触れ方が良くなくて私がむくれていることに、彼は気付いてくれない。
「あ……」
 赤坂の手の感触が去ってゆくのに未練を感じながらも、私は何も言うことが出来ず、再
び視線をそらしてしまった。
「本当にすまない」
 無駄なまでに誠実さを感じさせる口調で、彼は謝罪する。
「じゃあ、もう行くよ。またね」
 そう言って赤坂は、背を向けて歩き始めてしまった。彼の背中を見た途端、激しい後悔
が私を苛む。何か大切なものにひびが入ってしまったような、そんな気がした。

 違うのに……。そうじゃないのに……。

 遠くなってゆく背中を見ながら、私は胸の中でそう言い続けた。



 赤坂と気まずい別れ方をした綿流しの日から、一年が経った。

 綿流し前日の深夜。

 私は布団の中で、自分の身体を慰めていた。
 シャツをたくし上げ、露になった胸の先端を左手で転がしたり軽く摘んだりする。下着ま
で脱いで、遮る物が何一つなくなった陰部を右手が弄る。
 全身は汗ばみ、息が荒くなっている。時折、足が生まれたての子鹿のようにガクガクと震
えてしまう。
「ああ…っ!」
 不意に大きく喘いでしまう。右手の人差し指が、あずきのように膨らんだ突起へ触れたか
らだ。すでに内股にまで愛液が滴っている。ひょっとしたら、シーツにも染みを作っている
かも知れない。
「……っ」
 私は、中指をおずおずと自身の中へと忍び込ませた。少し進入させた所で一旦指を止め、
指先をかすかに動かし、指の腹で軽く押すように天井を刺激する。
「あ……う……」
 段々と中指の動きに遠慮がなくなってくる。さっきまで慎ましく、軽く押すような動きを
していた指は、いつの間にか、くじるような恥知らずな動きをしている。すでに左手も乳首
を弄うのを止め、股間へと伸びて来て陰核を撫で回していた。
 中指が動くたび、納豆をかき混ぜるような音がしてしまい、羞恥で頬や耳が熱くなってし
まう。でも、指を止めることが出来ない。恥ずかしいと思うのと反比例するかのように、た
だただ指はその動きを速め、荒げてゆく。 
 段々と身体の芯が痺れたような感覚に見舞われる。幼子がイヤイヤをするように頭を振って
しまう。放っておくと叫びそうになってしまうので、シーツを噛んで声を抑えた。それでも唇
の端から、声が漏れ出てしまう。

「ぁ……か……さか」

 あかさか――赤坂。
 漏れ出る声は、その名を呼んでいる。ことの始めから、頭の中には赤坂がいた。
 彼が、私の身体へ快感を与えてゆくというふしだらな光景。この身勝手な光景を、私は今ま
でに何度もリピートした。そして、同じ数だけ自慰に耽ってしまっている。
「……っ!」
 やがて、終わりが訪れる。身体の節々に力が入る。全身が小刻みに震える。赤坂のこと以外、
何も考えられなくなってしまう……。
 月明かりの薄暗い部屋の中、しかも目を閉じているはずなのに、眩しいような不可思議な感
覚と、身体の中心から波紋のように広がってゆく甘くてむず痒いような刺激に、全身が翻弄さ
れる。
 ややあって、身体の力が抜けた。同時に、倦怠感と空虚感、そして罪悪感のようなものが全
身を覆い始めた。いつものことだと思いながらも、這い上がるようにやって来るやるせなさに、
心が慣れることはない。
 身体を仰向けたまま、頭だけを窓へ向けた。
 銀色に光る月が、暗い空に浮かんでいる。
 その月を見ているうちに、何とも言えない淋しさが胸に満ちてくる。
 赤坂を……想う。表情や仕草、優しげな眼差しや声は、造作もなく脳裏に思い浮かべること
ができる。だが同時に、その仕草や声が、私一人のものには決してならないという現実が目の
前に立ちはだかる。
 彼には、雪絵という愛する妻がいる。実際に会ったことはないが、一度だけ赤坂に写真を見
せてもらったことがある。美しくて優しそうで、なおかつ聡明そうな女性に見えた。彼の惚気っ
ぷりからしても、二人の間には入り込む隙間などないように感じた。
 考えてみれば皮肉なものだ。かつて私は、雪絵に迫る危険を赤坂に教え、それにより雪絵は
命を落とさずにすんだ。
 もしも……もしも私が黙っていれば、雪絵はこの世におらず、赤坂は一人になっていたはず
なのだ。そうなったら私が――思考が奇妙に捩れてゆく。
 そこまで考えて、大きなため息をついた。
 この「もしも」はそもそも成立しようがない。
 なぜなら、雪絵が死んでしまっていたら、今日の私が存在しえないからだ。昭和58年6月
の迷宮を抜け出し、赤坂に想いを寄せる今の私が存在できるのは、雪絵が生きているからこそ
である。
 だが、その雪絵の存在が、今の私を苦しめる。
 私が脳内で赤坂にされたことを、いやそれ以上のことを雪絵は現実の中でしてもらっている
に決まっている。相思相愛の成熟した男女、ましてや夫婦なのだから、そんなことは自明の理
だと理解はしている。理解はしているが、胸が詰まるような感覚をなだめることが出来ない。

 気が付けば、眦から熱い雫がこぼれ、頬を濡らしていた。

 最近、こんなことばかり繰り返している。赤坂を想い、自慰に耽り、雪絵に対して不穏な気
持ちを抱き、最後に枕を涙で濡らす。まるで昭和58年の6月に捕らえられていた時のように、
何度も同じことを繰り返している。
 どうしたらいいのか、私には分からない。分からないままに流されては、不埒な快感に溺れ、
淋しさを消そうとあがき、そして結局それは成功しなくて、最後は涙で締めくくる羽目になっ
てしまう。
 胸が締め付けられる。
 また、涙がこぼれ出る。
 赤坂……会いたい……。
 声にならない声で私は言い、そっと涙を指で拭った。



綿流し当日。

 昨夜の不埒な夜更かしのせいで、私は少し寝坊してしまった。のろのろと布団から出て顔を洗
うと鏡台の前に座り、化粧を始める。余り濃くならないように注意する。
 最後に鏡台の引き出しの中から、紅皿を取り出した。蓋を開けて小指に紅をつけて唇へ塗る。別
にリップタイプの口紅でも構わないのだが、何となく演舞をする日だけはこの方法で口紅をつける
ことにしている。
 化粧を済ませると、巫女の装束に着替えた。そして髪を丁寧に梳かし、赤と白の組紐と紫色の金襴
で飾り付けられた絵元結(えもとゆい)という髪留めで髪を一つに結わく。
 身支度を終えると、私は大きなため息をついた。
 もうじき、赤坂がやってくる。
 一年振りの再会――でも、どんな顔で会えばいいのか分からない。何を話せばいいのかもよく分か
らない。そもそも、私は一体どうしたいのだろう――それが一番分からない。
 もやもやとした気分のまま家を出て、古手神社の境内へ入った。すでに境内は多くの人で賑わって
いたが、私は何となく祭りを楽しむ気になれなかったので、そのまま村を一望出来る高台まで抜ける
ことにした。あの景色を見れば、このもやもやとした気分も少しは晴れるかも知れない。

 だが、私のそんな期待はあえなく打ち砕かれることになった。

 高台には、先客がいた。
 一組の男女が、村を見下ろしていた。
 女の方はアンバーのワンピースを着ている。髪は肩口の辺りまで伸ばされており、全体的にすらり
とした身体つきで、後姿からでも美人であることが十分に伺える。
 女は隣に立つ男の左腕に、自分の右腕を絡ませていた。
 隣の男は、ベージュのカジュアルジャケットにカーキ色のパンツという格好だった。ふと男が、女
の方へ顔を向けたので、横顔が見えた。その男が誰であるかを判別するのには、横顔だけでも十分だった。

 赤坂、だ。

 私の鼓動が、不自然な程に速くなる。一年ぶりの再会。ずっと会いたかった人が、近くにいる。
 けれども……私は心の水面に細波が立つのを覚える。
 その腕にくっついている女は……?
 その疑問に答えるかのように、女が顔を赤坂の方へ向け、私に横顔を見せる。こちらも横顔だけで
分かった――赤坂の妻、雪絵だった。
 考えれば、いや考えなくても分かることだったはずだったのに。赤坂に妻がいるという現実を受け入
れたくない私の頭の中は、その存在を認めたがらなかったのだ。
 雪絵が軽く頤をあげ、目を閉じる――接吻を、ねだっている。
 赤坂は少々戸惑っていたようだが、ややあってゆっくりと顔を近付けた。二人の唇が触れ合う。

 私の見ている前で。

 心の何処か深い所で、亀裂の入るような音を聞いた。

 その時、私の足元で、ざっ、という音がした。無意識の内に私は、地面を蹴っていたらしい。その音に
赤坂が気付き、慌てて顔を離してこちらを向いた。
 赤坂は私の顔を見て驚いたような顔をしていたが、雪絵の方は、私に見られたことなどまったく意に介
していないように泰然自若としており、あまつさえ笑みすら浮かべていた。見られているのを知っていた
かも知れない、と感じるほど雪絵は堂々としていた。
 私は軽く睨むように雪絵の顔を見た――正妻の余裕? それとも赤坂の心の手綱を、完全に握っている
という自負心の表れ? でもね、貴女は知っているかしら。長年愛用しているワイングラスでも、割れる
危うさを常に秘めているものなのよ。

「やあ、久しぶりだね」
 赤坂の声は何処かうわずっているように聞こえた。
「紹介するよ。妻の――」
「妻の雪絵です」
 赤坂の言葉を遮るかのように雪絵が言った。妻、という部分に殊更に力を入れたように、私には感じら
れた。
「あなたが、梨花ちゃん――古手梨花ちゃんね。とても綺麗だわ」
「いえ……雪絵さんの方こそ、とても綺麗です」
 私は『奥さんの方こそ』とは言わず、あえて『雪絵さんの方こそ』で通した。私の口からは意地でも奥
さんなどとは言いたくなかった。
「あら、お上手」
 雪絵がにっこりと笑う。そして、聞いてもいないのに、
「娘を私の両親に預けて来たんですよ。衛さんと二人きりで旅行なんて、新婚旅行以来かしら」
 などと、私の神経を逆撫でするようなことをのたまう。
「一度、見てみたいと思ってたの」
「雛見沢を、ですか?」
「いえ。あなたのことを」
 雪絵の目が、半ばまで閉じられたようになる。
 瞬間、雪絵の周囲の温度が、氷点下まで下がったように感じた。
「衛さんってば、毎年毎年雛見沢に来ているでしょう? そして、帰ってくる度にあなたの話をするの」
「お、おい雪絵……」
 それまで地蔵のように黙り込んでいた赤坂が、及び腰ながらようやく口を開いた。だが、雪絵が半分
閉じたような目で一瞥をくれると、再び地蔵になってしまった。
「やれ梨花ちゃんの演舞が素敵だの、やれ巫女の衣装が似合ってるだの……聞いてないのに、自分から
話すのよ」
「妬いているのかしら?」
 私は鼻で笑うように言って見せた。しかし、そんなことで逆上するような雪絵ではなかった。逆に、
「まさか。自分で言うのもおこがましいけれど……私、寛容ですから」
 と言って、にっこりと花のように微笑んで見せた。しかし、私はその笑みに、おぞましさと得体の知れ
ない不気味さしか感じない。
「衛さん」
 私の方を見据えたまま、雪絵が赤坂に声を掛ける。 
「な、なんだい?」
 いきなり名を呼ばれ、まるで富竹のように赤坂が狼狽する。
「二人とも久しぶりの再会だから、積もる話しもあるでしょう。私は先にお祭りへ行ってますから、
せいぜい旧交でも暖めて下さいな」
「え? あ、ああ……」
「……私と赤坂、二人きりにしていいの?」
 私が問うと、雪絵は先刻と同様に微笑んだ。
「私、寛容ですから。でも20分後には、私の所へ来てくださいね」
 と赤坂に向かって静かに言うと、雪絵は境内の方へと行ってしまった。来てくださいね、と表面上
こそ穏やかなお願いの言葉だが、これは明らかに命令だった。
 ……寛容、ね。とてもそうは見えないけれど。
 後には呆然とした様子の赤坂と、胸中穏やかならぬ私が残された。

「何で黙ってばかりなのよ。徹甲弾って仇名は、羽を生やして何処かへ逃げてしまった?」
 雪絵の姿が見えなくなると、私は軽く赤坂を睨んでそう言った。
「まあ……勘弁してくれないかな」
 赤坂が苦笑して、私を見る。
「雪絵さん、疑ってるわよ。赤坂のこと」
「……そうみたいだね。何処をどうしたら、そういう勘ぐりがでてくるんだろうか」
 赤坂は首を捻り、私はため息をついた――まったく男という生き物は。鈍感でいることに美徳でも感じ
ているのだろうか。呆れてしまうくらいに女心に疎い。昔の圭一の姿が浮かぶ。
「疑われるだけの条件は揃っているわ。足繁く雛見沢に通って、聞かれてもいないのに他の女の話しばかりする」
「あ……」
 赤坂が虚をつかれたような顔になる。
「でもそれだけじゃないわね、多分。何かもう一押しあったはず。去年帰ってからも、雪絵さんに私の話をした?」
「した……ね。ああ、そうだ。梨花ちゃんは覚えているかい? 去年、私が帰る時のやり取りを」
「……ええ。覚えているわ」
 忘れる訳がない。
「頭を撫でたら『もう来年には高校生だ』と言われて、梨花ちゃんがご機嫌斜めになった話をした」
「それから?」
「でも『赤坂のせいじゃない』とも言われた、ということも雪絵に話した」
「……それよ」
 私はため息をついた――まったく女という生き物は。鈍感であることに嫌悪でも感じているかのように
やたらと鋭い。昔のレナの姿が思い出される。
 雪絵は、赤坂のほんの少しの言葉の中から、私が女として、赤坂を意識していることを見抜いたのだ。
いや、見抜いたというより、直感的に感じ取ったのだろう。更に私が高校生になったのを知って、危機感
を募らせた。高校生ともなれば、精神的にはさておき、肉体的には成人した女とさほど差はない――いや、
差がない所か、肉体的に若い女の方が有利とも言える。
 男は若い女の方が好き――とういうのが世間一般の共通認識だからだ。
 そういう訳で、今回初めて赤坂について来たのだろう。

「一体、どういうことなんだい?」
「雪絵さんに悟られたわ……私が赤坂を好きだってことを」
 思わず自分の気持ちを打ち明けてしまう。
「私も梨花ちゃんのことが好きだよ」
 そう言って爽やかに赤坂が微笑むが、明らかに彼は、私が言う『好き』の意味をずれた形で受け止めて
いる。赤坂の鈍さに腹が立ってくる。
「赤坂は……分かってない」
「どういうことだい?」
 赤坂が不思議そうな顔をする。私はイライラしてきた。鈍いにも程がある。何故、ここまできて分から
ないのだろうか。私が女としての好意を赤坂に抱いている、というのは雪絵の言動や話しの流れからして
容易に推察できるだろうに。
 赤坂はまだ合点がいかない、という顔をしている。
 そんな赤坂の顔を見ている内に、私の中で様々な想いが交錯し、ぶつかり合って、とうとう大きく爆ぜた。
「いい加減、気がついてよ!」
 私は大きく叫び、赤坂の胸にすがりついていた。
 もう、止まらなかった。堰を切ったように言葉が溢れ出してしまう。
「私は、貴方のことが好きなの! 一人の女として、貴方のことが好きなの! ずっと貴方を想ってた!
会えなくて淋しかった! 会いたかった! もう子供じゃない! 貴方を想って自分の身体を慰めもした!」    
 かなり恥ずかしいことまでぶちまけて、赤坂の顔を見上げる。涙で彼の顔の輪郭が滲む。
「梨花ちゃん……何を馬鹿な……」
 赤坂が呆然としている。
「馬鹿だって知ってる、分かってる! 赤坂には雪絵さんがいるもの。でも、でも……それでも私は……!」
 赤坂の両手が、私の両肩に静かに置かれた。触れられた部分から、全身に暖かいものが広がってゆく。膝が
がくがくと震える。
「……! あ、あぅ。う、うそ……」
 私は立っていられなくなって、赤坂に身を預けた。頬が熱くなり、呼吸と胸の鼓動が速くなってしまう。
「そ、そんな……」
 今、自分の身に起こっていることが、信じられなかった。
 軽くではあるが、オーガズムを迎えていた。肩に手を置かれているだけなのに……。
「あ、ああ……」
「ど、どうしたんだ! 梨花ちゃん!」
 赤坂の慌てた声が、ぼんやりと聞こえる。
「大丈夫か!? しっかりして」
「……平気よ。ちょっと、イっちゃっただけ」
 私は苦笑しながら、小声でそう言った。こんな時に、私ときたら――それだけ赤坂を求めていたということな
のか。肩に、しかも布越しに触れられているだけでこんなになってしまうのなら、直接触れられたら、一体どう
なってしまうのだろう。想像しただけで頭の芯が痺れてくる……。

「いやらしい雌猫」

 突然、氷刃を思わせる声が聞こえ、私の不埒な想像を断ち切る。まったく気がつかなかったが、いつの間にか
雪絵がすぐ傍らに来ていたのだ。寛容だとか何とか言いながら、実は隠れて見ていたに違いない。
 怒りを湛えた雪絵の顔は、般若の面を思わせた。そして、その般若が両手を伸ばし、私の首に手を掛け、華奢
な腕からは想像も出来ないような力で締め上げる。
「イったですって!? 人の夫を自慰の道具に使うなぁぁぁぁぁぁ!」
 造作の整った顔を嫉妬で歪め、敵意剥き出しの声で雪絵が叫ぶ。
「ぐ……」
 意識が遠くなる。雪絵やめるんだ、と言う赤坂の声が遠くに聞こえ、身体が左右に振られる。必死に雪絵の手
を解こうとするが、万力のように私の首を締める手はびくともしない。
 ややあって私は、意識を失った――意識が飛ぶ寸前、雪絵の死んだような目と、何故か雪絵の背後で何かを言っ
ている羽入の姿が見えた。



 目が覚めると、ベッドの上だった。身を起こして辺りを見回すと、見覚えのある風景だった。どうやらここは入江診療所らしい。
 首がひりひりとする。きっと雪絵に締め上げられたせいだろう。手を当てると包帯の感触がした。どうやら首に包帯が巻かれ
ているらしい。私は首を軽く擦りながら、ベッドの端に腰を掛けた。
 ドアの開く音がした。視線を巡らせると、入江と赤坂が部屋に入ってくるところだった。赤坂は私を見ると、足早に近づいてきた。
「梨花ちゃん、大丈夫かい?」
 心配そうな顔で赤坂が聞いてくる。
「何とか、ね……。ところで雪絵さんは?」
 私のその言葉に、赤坂が顔を曇らせる。
「今は別の部屋で眠っていますよ」
 答え難そうな様子の赤坂の代わりに、入江が答えた。
「そう……。あの後一体どうなったの?」
「……どうやっても雪絵は手を離さなかった。仕方なく、首に当身を入れて失神させた」
 赤坂の顔に苦悩と後悔が滲む。いかに私を助けるためとは言え、雪絵に手を上げたことを心底悔やんでいるのだろう。
「すごい力だったわ。それにあの表情……」
 意識を失う直前に目にした光景が、頭の中に浮かぶ。雪絵の恐ろしく歪んだ顔に、死んだような目。そして何故か羽入の姿。
ここのところ、滅多に私の前に現れなくなった羽入が、何故いきなり出てくる?
「あれ……?」
 何かが引っ掛かる。私は慌てて記憶を巻き戻す。羽入のところ、だ。 私が気を失う寸前、羽入は何か言葉を発していたが、
私には聞こえなかった。ただ、唇の動きは覚えている。私はそれを自分の唇で再現してみた。

 ご…めん……な……さい。ごめ……なさ……い。ごめんなさい。

 口に出して、私はぞっとした。まさか……!
「入江……まさか雪絵さん……雛見沢症候群が発症……したの?」
 入江がなぜ分かったのか、という顔をして私を見た。
「赤坂さんから、雪絵さんの様子を聞きまして、念のためと思い検査をしてみました。ただL3とL4の中間くらい
です。ワクチンの投与を続ければ、何とかなります」
 何とかなる、と入江は言うが、雪絵がその身に爆弾を抱えてしまったことには変わりはない。
「そんな……どうして? 雪絵さんは今日初めて雛見沢に来たのでしょう?」
「私のせいだ……」
 赤坂が苦しそうに言った。
「迂闊だった。私は頻繁に雛見沢に来ていたから……。私から雪絵に感染したんだ」
「ですが、感染しただけですぐに発症する訳ではありませんよ」
 入江が合点がいかないという顔をする。
「精神的に不安定な状態、まあ一番良くないのは疑心暗鬼に陥ることなのですが……そういった状態にならないと
おいそれと発症するものではありません」
「それも、私のせいだ」
 赤坂のその言葉に、私は、はっとした。
「私は毎年、この時期になると雪絵が疑心暗鬼になってしまうようなストレスを与えていた」
「え? それはどういう――」
「入江。お願いだから、それは聞かないで」
 思わず私の声が尖ってしまう。
「は、はあ……」
 入江が口をつぐむ。
 私はベッドから降りた。壁にかけてある時計に目をやる。もうじき演舞が始まる時間だ。
 ――私が赤坂に近づこうとすればするほど、彼は遠ざかってゆく。赤坂を強く想えば想うほど、傍にいられなく
なる。この背理に、私はなす術を持たない。無理に近寄れば、雪絵が壊れてしまう。そうなれば、赤坂も……。
 赤坂が大事だというのなら、彼を悲しみの底へ沈めるようなことだけは、絶対にしてはならない。
「赤坂……」
「何だい、梨花ちゃん?」
「演舞を見て欲しい」
「……」
 赤坂が困った顔をしている。雪絵を一人にしたくないのだろう。当然のことだ――でも、それでも私はあえて言う。
「最後の……お願い」
 声が震えるのが分かる。
「……分かった」
 ややあって、そう短く赤坂が答えた。



 私はこの年の演舞を、きっと死ぬまで忘れることはないだろう。何年もこの演舞を行ってきたが、こんなにも
心の中が澄み切り、集中していたことは過去にない。

 赤坂の記憶に焼き付けるためだけに、舞う。

 きっと、もう会えないから。

 せめて、記憶の片隅にだけでも、私を置いて欲しいから。

 雪絵の症状をこれ以上酷くさせないためには――。
 赤坂は二度と雛見沢に来てはならない。
 古手梨花のことを口にしてもいけない。
 古手梨花の影を感じさせてはならない。
 雪絵にとって、雛見沢という土地と、私の存在は災厄でしかない。

 今日を境に、私と雛見沢は生まれ変わらなければならない。

 赤坂にとって、私と雛見沢は、触れてはならない禁忌へと生まれ変わらなければならない……。

 演舞が、静かに終わった。



 演舞が終わり、綿流しが始まる。
 自分の罪を綿にのせ、川に流して許しを請う儀式。
 私と赤坂は河原に立ち、村の人々が綿を次々に流してゆくのを眺めていた。
 私と赤坂は、綿を手に持つことはしなかった。許しは得られても、罪がなくなる訳ではない。
「ここで、さよなら……しましょう」
 川面を流れてゆく綿の群れを見ながら、私は告げた。
「私が言えたことではないけれど……奥さんを、どうかお大事に……」
「……うん」
 どんな表情で赤坂が返事をしたか、私はあえて見なかった。今、顔を見たら、決意が挫けてしまうに違い
なかった。
 赤坂が背を向け、歩き出す。私は振り向いて、赤坂の背中を見つめた。
 ゆっくりと、赤坂の背中が遠くなってゆく。
 追いかけて、すがり付いて、その歩みを止めてしまいたい。
 でも、それは許されないこと。
 それは、私にだけ許されないこと……。
 やがて、赤坂の背中が暗闇の中へ消えてゆく。
 頬を、熱を帯びた雫が滑り降りた。

 さようなら。

 声にならない声で、私は呟いた。



 -了ー

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最終更新:2007年10月25日 11:05