「この急須に入っているのは?」
「ショウガ湯よ」
「ショ、ショウガ? そんなのを飲むんですか?」
 あの辛い物を液体として飲むことがうまくイメージできず、俺は少し驚く。
「そう、ショウガに入っている辛味成分が咳によく効いて、体も温めてくれるの。少し飲みにくいと思うかもしれないけど、砂糖や蜂蜜を少し入れてかなり飲みやすくしたから大丈夫よ」
「は、はぁ」
 戸惑いながら返事をする。さすがにショウガ湯は聞いたことがなかったが、まぁ、医者が言っているんだし、信用しても良いだろう。

「それじゃあ、いただきます」
 のんびりしていたら冷めてしまいそうなので、俺は話もそこそこに土鍋の横にあるレンゲを取ろうとした。が、途中で鷹野さんがそれを制止する。
「……ダメよ。前原くんは患者さんなんだから、無理しちゃ。お姉さんが食べさせてあげるから、ジッとしてて」
「は、え、えぇ!? ……い、いや、そんなことしないでも大丈夫ですよ! 別に手が動かなくなった訳じゃないんですから……!」
 鷹野さんの突然の言葉を、俺は必死に拒否する。いくらなんでも、女の人に食事を手伝って貰うなんて恥ずかしすぎる……!
「こんな所、誰も見ていないんだから恥ずかしがらなくても大丈夫よ。こんな奇麗なお姉さんにそんなことをして貰うなんて、滅多に無いんだから、今日は大人しくとことん甘えちゃいなさい」
「い、いやでも……」
「良いの。誰にも言わないから安心して。……そんなにいつまでもグチグチ言ってると、これ下に持ってっちゃうわよ?」
 そう言って、鷹野さんはトレーに手をかけるフリをする。
「な……!? そ、それは駄目ですよ!」
「じゃあ、早く頭を縦に振っちゃいなさい」
 鷹野さんはまたしても小悪魔のように笑みを浮かべる。何て無茶苦茶なんだこの人は……。
「……わ、わかりましたよ。どうせ今日だけですし、……お願いします」
 仕方なく、俺は妥協した。
「ふふふ、そうこなくちゃ。意地になって恥ずかしがっちゃって、可愛いわねぇ。」
 顔がトマトみたいに真っ赤になる。……なるほど、これが大人の女性という奴か。

「はい口をあけて、あ~ん」
 鷹野さんが実に古典的なことを言って、粥の乗ったレンゲをこちらへ近づけてくる。俺はそれに対して無言で口を開いた。……決して、『あ~ん』なんて言うもんか。ここで乗せられてしまったら、完全に俺の負けだ。
 だが、鷹野さんはそんな俺の心理すら見越していたようで、ニヤニヤとこちらを見て笑っている。……どうやら俺は、この人には天地が引っ繰り返っても勝てないらしい。そう、顔を真っ赤にしながら思った。
「むぐっ……」
 覚悟を決めて、俺は鷹野さんの持っているレンゲに食いつく。直後、ニラの特徴的な匂いと、お粥の柔らかい食感が口の中に広がった。
「これは……」
「どう、美味しい?」
「……はい、かなり」
 ……驚いた。鷹野さんがここまで美味しい物を作ってくるとは思っていなかった。
 塩加減は薄い訳でもなく、かと言って病人の事を考慮して辛すぎる訳でもない。絶妙な加減具合。
 昨日までの食事は、食欲なんてまるで起こらなく、無理矢理胃に詰め込めるという、ひたすらに辛いものだったが、これは違う。自然と食欲が湧いてくる。
 正直、これはお袋の作ったお粥を超えているかもしれない……。
「良かったぁ。力を入れて作った甲斐があったわ」
 鷹野さんが嬉しそうに笑う。その笑顔の中には、さっきのような小悪魔的なものは全く無く、純粋に嬉しがっているようだった。こんな鷹野さんは、初めて見たかもしれない。
そんな鷹野さんの隠れた一面が見れて、俺は嬉しいと同時に何だか恥ずかしくなってしまった。

「さ、この調子でどんどん食べてちょうだい」
 余程嬉しいのか、鷹野さんはこちらへ身を乗り出して粥が乗ったレンゲを差し出した。そして俺も何の躊躇もなく、身を乗り出してそのレンゲを口の中へ入れた。

 ……その時、俺の腕に”何かとてつもなく柔らかくて気持ちの良い物”が触れる。それはやけに凹凸が大きく、俺の腕をその間で挟み込むような形になっているようだった。
 何だろうと思い、俺はその感触がした方の腕を見て、……思考が凍結する。

 何もできない。口も動かせない。数秒間、呼吸もできずに時間が止まる。

 そしてそれは……。
「あらあら。前原くんって、案外大胆なのね、くすくすくす」

 例によって、小悪魔的な笑みを浮かべた鷹野さんの笑い声で一気に砕けた。

「ぶぅぅぅぅうううぅぅぅぅッッ!!!」
 俺は口に含んでいた粥を一気に吹き出した。粥がシャワーみたいに口から飛び散る。
 更に、飲み込もうとしていた粥が喉に引っかかったのか、大きく咽た。
「……ゲホッ! ゲホッ! うぅ……ゲホッゲホ!」
「だ、大丈夫? 前原くん?」
 言いながら、鷹野さんが優しく俺の背中をさする。だが、一向に喉の引っ掛かりは治まらない。段々吐き気がしてきた……。
「う……ゲホッゲホ」
「ほら、これを飲んで。丁度良い温度になっているから、大丈夫よ」
 鷹野さんがショウガ湯を湯呑に入れて、俺の前に差し出した。それは、ツーンとしたショウガの刺激臭を俺の鼻へ突き刺してきて、一瞬飲むのを躊躇わせる。
 しかし、このままでは苦しくて仕方がないので、俺は勇気を出して湯呑を口に付けた。
 飲み込んだ瞬間、俺は強い刺激を覚悟した。……だが、そのショウガ湯は臭いと裏腹に甘くてかなり飲み易く、温度も少し熱いくらいだった。なんの抵抗もなく、飲み続けることができる。
 二、三回喉を通したところで、ようやく俺の呼吸は落ち着いた。
「ごめんなさいね、少しからかい過ぎちゃったわ」
「い、いえ。それより、せっかく掃除してもらったのに、部屋を汚しちゃってすいません」
 俺の部屋は、俺自身が噴き出した粥が辺りに飛散し、見るも無残な状態になっていた。
「別に、謝らなくてもいいわよ。元々は私のせいなんだし、また掃除をすれば良いんだから。そんなことより、早くこのお粥を食べちゃいましょ。冷めたら勿体ないわよ」
「あ、はい……」
 そうして、再び俺は鷹野さんに食べさせてもらい、十数分後にようやく土鍋と急須が空になったのだった。

 ――眩しい陽光が目に刺激を与え、俺はゆっくりと重い瞼を開けた。
 最初に感じたのは、体を覆う妙な違和感。そしてそれを掻き消すかのように、俺を包む眩い風景が目に飛び込んでくる。
 目が霞んでよくわからないが、慣れ親しんだ匂いから、脳が覚醒しなくともそこが何処なのかは認識できた。

 そう、そこは俺の部屋だった。

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最終更新:2007年06月22日 01:57