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東方問題(二)

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東方問題(二)
ウィーン会議
ナポレオン戦争後の国際秩序を巡って各国の利害が鋭く対立したウィーン会議。妥結されたウィーン議定書では正統主義を掲げて19世紀前半のヨーロッパ反動体制、いわゆる「ウィーン体制」を形成した

「東方問題(二)」では、ウィーン体制以降クリミア戦争までの東方問題を対象とする。それ以前は「東方問題(一)」を参照。それ以降は「東方問題(三)」を参照。

東方問題(とうほうもんだい)とは、オスマン帝国?およびその支配地域をめぐるヨーロッパ諸国の外交問題。広義にはオスマン帝国成立以来、キリスト教?ヨーロッパ世界がイスラム?教国であるオスマン帝国の圧迫を受け、それに関わるヨーロッパ諸国間の外交問題。狭義においては18世紀以降のオスマン帝国の解体過程に伴って生じ、19世紀に顕著となったオスマン帝国領内での紛争に関連するヨーロッパ諸国間の国際問題を意味し、今日一般的にはこの用法で使われる。


歴史的展開


東方問題(一)」から続く

ギリシャの独立

バイロン
ロマン主義を代表する詩人。オスマン帝国支配下のギリシャに同情的で、ギリシャ独立戦争に義勇兵として加わった。図ではアラビア風の衣装に身を包んでいる

1821年にギリシャ?がオスマン帝国からの独立を宣言すると、「東方問題」は再びヨーロッパの主要な問題となった。そもそも「東方問題」という用語はこの時に作られたものである。1815年以来ロシア?がオスマン帝国領内にたびたび侵入しようとしたと噂されていたため、ギリシャの独立問題はロシアが画策した陰謀である、あるいはこの機に乗じてロシアがオスマン帝国への侵略を開始するのではないかという危惧が広がった。オーストリア?の外務大臣メッテルニヒとイギリス?の外務大臣ロバート・スチュアート・カッスルレー卿はロシア皇帝アレクサンドル1世?にギリシャ独立戦争に参戦しないよう助言した。すなわちロシア皇帝自身が主導するウィーン体制でのヨーロッパの安定した協調を維持するために、勢力均衡を崩すかもしれない行動に出ることのないよう訴えた。アレクサンドルはこのような状況で去就を決めかね、結局「東方問題」に積極的に介入することができなかった。

1825年にアレクサンドルが崩御し、ニコライ1世?が登極すると、ヨーロッパ諸国の思惑に配慮するのをやめて、ギリシャ独立戦争?に介入することを決定した。ロシアが介入するような態度を見せると、イギリスもギリシャがロシアの従属国とならないように、すぐにこの問題に介入しようとした。さらに当時西ヨーロッパを風靡していたロマン主義もギリシャの独立に有利に働いた。フランス?はギリシャを支援するようになった。ただオーストリアだけはロシアに対する警戒からギリシャへの支援を控えていた。しかし1828年にこのような列強の介入に憤慨したオスマン皇帝マフムト2世?がロシアを「イスラームの敵」と非難し、ロシアの宣戦布告を招くと、事態の進展に驚いたオーストリアは反ロシアの同盟を形成しようとしたが、成功しなかった。

1829年までにロシアの軍隊はオスマン帝国との戦争を優勢なうちに進めたが、戦況は長期化の様相を呈したのでオーストリアの参戦を求めた。このことはイギリスの懸念を招き、ロシアの意図したオスマン帝国の解体は現実的には見込みが無くなった。このときになってフランスのシャルル10世?が列強によるオスマン帝国分割を提案したが、すでに時機を逸していたのでこの提案が何らかの成果につながることはなかった。

したがってオスマン帝国の決定的な敗北もその領土の分割も実現することができなかったが、ロシアはオスマン帝国をますます従属的な立場へ追いやる方法を選んだ。1829年にロシアとオスマン帝国の間で結ばれたアドリアノープル条約?によって、黒海に沿った領土がロシアに割譲され、さらにロシアはダーダネルス海峡?での商船の航行権を得た。またオスマン帝国内におけるロシア商人の商業特権が強化された。その後1832年のコンスタンティノープル条約?でギリシャの独立は確認され、ギリシャ独立戦争は終結した。

ムハンマド・アリー

ムハンマド・アリー
エジプトを実質支配し、ムハンマド・アリー朝といわれる世襲支配の礎を築いた

ギリシャ独立戦争が終結した頃、エジプト?を実質的に支配していたムハンマド・アリー?とエジプトの宗主国であったオスマン帝国の間で紛争が発生した。近代的で、よく訓練されていたエジプト軍はオスマン帝国の軍隊を圧倒し、オスマン帝国全域を制圧するかに見えた。ロシアはオスマン帝国を弱体化させた上で従属させる政策をとっていたため、この事態に際してオスマン帝国に同盟を打診した。両国間には1833年にウンキャル・スケレッシ条約?が結ばれ、ロシアはオスマン帝国を外敵から保護し、さらにオスマン帝国はロシアが交戦中の場合はダーダネルス海峡における全ての軍艦の通航を封鎖することを約束した。この条約は「海峡問題」として知られる外交問題を発生させた。というのは、条約は全ての軍艦の通航を封鎖するとしていたが、ヨーロッパ各国の政治家の多くにはロシアの船舶の通航だけは例外とされていると誤って信じられたためである。イギリスとフランスはこの誤解からロシアの態度を非難し、ロシアの台頭を抑えようとした。両国はしかし、目的を果たすための基本姿勢において異なっていた。イギリスはオスマン帝国の保全を望んでいたのに対し、フランスはより有力と思われたムハンマド・アリーによってオスマン帝国が統治されることを望んでいた。結局このロシアの介入によって1833年にオスマン皇帝とムハンマド・アリーの間に和約がなったが、1839年に再び紛争が発生した。

同年マフムト2世が死去すると、アブデュルメジト1世?が即位した。アブデュルメジト1世はまだ若く、いまだその権力は安定していなかった。このような状況の中ムハンマド・アリーのエジプト軍は今度もオスマン帝国の軍隊を圧倒した。これを見てイギリス・フランス・ロシアはオスマン帝国の解体を防ぐために一斉に介入したが、フランスはいまだにムハンマド・アリーを支持する立場にいた。1840年に列強の間に妥協が合意され、結局ムハンマド・アリーはオスマン帝国との名目的な宗属関係にとどめおかれたが、エジプト支配の世襲を約束させることに成功した。

この間いまだ「海峡問題」は解決されていなかった。1841年ロシアはロンドン海峡協定?を受け入れることにより、ウンキャル・スケレッシ条約は最終的に廃棄された。この協定によって、ヨーロッパの列強(ロシア、フランス、イギリス、オーストリア、プロイセン)はオスマン帝国が戦争中その同盟国に認める場合を除いて、基本的にダーダネルス海峡での全ての軍艦の通航を禁止する「古い規則」に戻された。このことはオスマン帝国を保護国にしようというニコライ1世の考えを改めさせ、従来のオスマン帝国の分割という方針に復帰させた。

すなわち1831年以来のエジプトとの紛争の結果、弱体化したオスマン帝国はロシアに従属する立場ではもはやなかったが、独立国とはとてもいえない状態で、列強の保護下におかれていたというのが実状であった。この時期のオスマン帝国はさまざまな内政改革を試みたが、かつての栄光を取り戻すことはできなかった。1840年代には「ヨーロッパの病人?」となり、帝国の瓦解は避けられないものと考えられた。

1848年の諸革命

ドイツ・オーストリア三月革命
フランス二月革命にはじまった1848年の革命は急速に広がり、翌月には反動体制を支える中心の一つ、オーストリアにまで波及した

1848年までのおよそ10年間、「東方問題」は平穏に推移した。フランスとオーストリアは自国内の混乱を収拾するのに忙しく、ロシアは「東方問題」に介入する絶好の機会にあるように思われたが、実際には介入しなかった。ロシアはオーストリアの反革命を支援するために出兵し、オーストリアの政府を支持することでのちにオスマン帝国の領土を分割する機会が訪れたときに、オーストリアをはじめとする列強の支持が得られることを期待した。

オーストリアで革命がロシアの強力によって鎮圧されると、両国とオスマン帝国の戦争が差し迫っているように見えた。なぜなら、革命に失敗したオーストリアの反逆者がオスマン帝国の支配地に次々亡命していたが、オーストリアが亡命者の引き渡しを求めると、これをオスマン皇帝が拒絶したからである。憤慨した両国は大使を召還し、軍事力に訴えようとしたが、ただちにイギリスとフランスが介入してオスマン帝国に艦隊を送って支援した。両国は戦争に見込みが無くなったと考え、要求を撤回した。

クリミア戦争


1850年代に些細な宗教論争によって、新たな対立が生じた。18世紀に結ばれた協定によれば、ロシアがオスマン帝国内の正教徒の保護者であったと同様に、フランスもオスマン帝国内のカトリック教徒を保護する権利を有していた。そのため数年間にわたり生誕教会と聖墳墓教会の管理を巡って正教徒とカトリック教徒の間で論争がおこなわれていた。1850年代の初めに両者はオスマン皇帝に判定を求めた結果、1853年オスマン皇帝は正教側の猛烈な反対を押し切ってフランス側を支持する判定を下した。
ニコライ1世
開明と専制の間を揺れ動き、屈折した君主だった父アレクサンドル1世に比べると、ニコライ1世は反動的で膨張主義的、典型的な専制皇帝であった。彼の治世下の1853年、ロシア軍がオスマン帝国領内へ進軍し、クリミア戦争が勃発した

ニコライ1世はメンシコフ王子に特命を与えてオスマン帝国政府へ急派し、最初に「帝国内の全てのキリスト教徒と教会を保護する」ことを約束させる条約を締結した。しかしメンシコフはさらに「ロシアがオスマン皇帝のキリスト教徒に対する保護が不十分であると判断した際はオスマン帝国に干渉することを認める」という内容の新しい条約を締結することを試みた。メンシコフの要求を知ったイギリスの外交官ストラットフォード・カニング(初代ストラットフォード子爵)は、巧みな外交を展開し、オスマン帝国の独立を脅かすかもしれない条約を拒絶するようオスマン皇帝を説得した。メンシコフの外交交渉が失敗に終わったことを知ったニコライ1世は聖墳墓教会の問題を持ち出して、モルダヴィアとワラキアに進軍した。ニコライ1世は1848年の革命を抑えることに協力したのだから、ロシアが隣接するオスマン帝国支配下の2,3の州を併合することにヨーロッパ諸国は反対するまいと考えていた。

ロシアがモルダヴィアとワラキアへ派兵すると、オスマン帝国の保全を望んでいたイギリスは、フランスの艦隊によりロシアに封鎖されることなく維持されていたダーダネルス海峡へ艦隊を派遣した。しかしヨーロッパの勢力は当時外交的な解決を望んでいたので、イギリス・フランス・オーストリア・プロイセン 4国はウィーンでロシアとオスマン帝国双方が受容できると思われる妥協案を示した。ロシアはこれを承認したが、オスマン皇帝アブデュルメジト1世は拒絶した。妥協案の簡潔な文言が、多くの拡大解釈を許容するものであると考えたからである。4国はオスマン皇帝の意向を受けて修正案を提示したが、今度はロシア側からの拒絶にあった。イギリスとフランスは外交による妥協を放棄し、交渉をうち切るが、オーストリアとプロイセンは依然として外交努力を継続しようとした。オスマン帝国はダニューブ川付近でロシア軍を攻撃し、両国は交戦した。1853年11月30日シノープ海戦でオスマン帝国艦隊を壊滅させたロシアは制海権を握って補給を確保し、ロシア軍は急速に南下した。オスマン帝国艦隊の壊滅とロシアの急激な拡大はイギリスとフランスに脅威を抱かせ、フランスはオスマン帝国を擁護して介入する姿勢を見せた。1854年、モルダヴィアとワラキアから退くようイギリスとフランスは最後通牒をロシアに突きつけ、これが無視されると宣戦を布告した。

1848年の革命の経緯から、ニコライ1世はオーストリアは少なくとも中立を守るだろうと期待していたが、オーストリアはロシアの行動を脅威と感じており、イギリスとフランスがロシア軍の撤退を要求すると、これを支持した。ロシアに宣戦することはなかったものの、中立を守ることは約束しなかった。 1854年の夏に再びオーストリアが撤退を要求すると、オーストリアの介入を恐れたロシアはこれに応じた。
セヴァストポリの陥落
クリミア戦争最大の激戦。英仏両軍の猛攻によりロシアの黒海経営の要衝であったセヴァストポリ要塞は陥落した

ロシアがダニューブ川付近から兵を退いたので、戦争は元々の理由を失ったが、イギリスとフランスは戦争を続行した。オスマン帝国に対するロシアの脅威に終止符を打ち、「東方問題」を決着させるために、ロシアに「1.ダニューブ川付近の公国に対する保護権の放棄、2.オスマン帝国内の正教徒の保護を理由に介入することの放棄、3.「海峡問題」について1841年の条約が再確認されること、4.ダニューブ川の通行権は全ての国に認められること」を求めた。しかしニコライ1世はこの「4項目」を拒否したので、戦争は続行した。

ニコライ1世が死ぬと、あとをついだアレクサンドル2世?は和平交渉を開始した。講和条約として締結されたパリ条約では「4項目」の主旨が厳守されていた。ダニューブ川沿岸の公国に対するロシアの特権は列強に譲渡され、黒海の非武装化が決定された。黒海の沿岸にはオスマン帝国もロシアも一切の海軍施設および海事に関わる軍需工場を設けないことが約束され、このことによりオスマン帝国に対するロシアの脅威は大きく減じた。さらに列強はオスマン帝国の独立および領土保全を尊重することが約束された。

クリミア戦争前後の各国の軍事支出(単位:100万ポンド)
1852 1853 1854 1855 1856
ロシア 15.6 19.9 31.3 39.8 37.9
フランス 17.2 17.5 30.3 43.8 36.3
イギリス 10.1 9.1 76.3 36.5 32.3
トルコ 2.8 ? ? 3.0 ?
サルディニア 1.4 1.4 1.4 2.2 2.5
クリミア戦争は「東方問題」が各国の政治に特に大きな影響を与えた事例。主要参戦国であるイギリス・フランス・ロシアの軍事費がのきなみ増大しているが、イギリスの軍事費の異常な増大が特に注目される。この大規模な戦争での敗北によってロシアの影響力は著しく低下し、1870年代にいたるまで「東方問題」は安定した。(出典:『ミシガン大学政治・社会研究インター・ユニヴァーシティー・コンソーシアム』)

パリ条約の姿勢は1871年にフランスが普仏戦争でプロイセンによって打撃を受けるまで維持されていた。普仏戦争の結果ドイツはプロイセンを中心に強力なドイツ帝国?を形成し、フランスに帝政をしいていたナポレオン3世?は追放され、フランスは共和国となった。1852年に始まったナポレオン3世の治世の間、イギリスと友好関係を維持したいフランスはロシアと「東方問題」で対立関係にあった。しかしオスマン帝国へのロシアの干渉が重大問題となることはなかったために、共和制になるとフランスはロシアに接近した。さらにビスマルクの支持を得たロシアは黒海の非武装化条項を非難し、イギリス単独ではこのような動きを押さえ込むができなかったため、ロシアは黒海艦隊を再建することに成功した。

以降「東方問題(三)」へ続く

出典


  • 尾形勇ほか編『歴史学事典』弘文堂、1999年
  • 鈴木董著『オスマン帝国の解体』ちくま新書、2000年
  • 森安達也著『スラブ民族と東欧ロシア』山川出版社、1986年
  • 山内昌之著『オスマン帝国とエジプト』東京大学出版会、1984年
  • 木戸蓊著『東欧現代史』有斐閣選書、1987年
  • 樺山紘一ほか編『岩波講座世界歴史16 主権国家と啓蒙』岩波書店、1999年
  • S・J・ウルフ著、鈴木邦夫訳『イタリア史 1700-1860』法政大学出版局、2001年
  • Duggan, Stephen P. (1902). The Eastern Question: A Study in Diplomacy. London: P.S. King & Son.[1]
  • Taylor, Alan John Percivale. (1980). Struggle for Mastery in Europe 1848 1918. Oxford: Oxford University Press.[1]

[1]ウィキペディア英語版の参考文献。

使用条件など

この記事はGFDL文書です。
このページに掲載されている画像はウィキコモンズに公開されているものを使用しています。


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