ヒッチャー

あの日、空港から出た時は、なんてことのない、いつもどおりの日常だと……そう思っていた。
勝手にそう思っていただけだった。
でも、そうじゃなかった。
日常はある時、何の前触れも無く、不条理に、一方的に壊されていく物だと悟らされてしまった。
アスファルトのハイウェイが荒野を一本の線のように伸びて、奥へと連なっていっている。
西部開拓時代、人は馬に乗って荒野を駆けていた。
だが、今は違う。
荒野はアスファルトを敷かれ、馬の代わりに車で駆けていく。
永遠に続くようなそんな気持ちにさせてくれる、長くて無常なハイウェイ。
夏の蒸し暑さが今更になって、肌で感じている。
汗はさっきから出ていた。
でも、夢中だった。
さっきまで起きていた、非現実的な出来事が嵐のように感じられていて。
今は、過ぎ去った嵐の後の空虚な廃墟のような気分だ。
SUV型の警察車両は、さっきの「嵐」のせいで、エンストして動かない。
わたくしは「嵐」の痕を視界から背けるように、視線をかえた。
夕陽がアメリカの荒野に沈んでいく……。
そして、アメリカに来てから今までの事を思い出した。
ジム……ごめんなさい。
……ごめんなさい。
……ごめんなさい。
…………ごめんなさい…………。




—————『ヒッチャー』——————




Chapter 1 「二人だけのドライブ」

日本からアメリカに向かって何時間経ったのだろう。
眩しいばかりの晴天のアメリカ大陸にジェット機が着陸した時は、日本との時差に困惑してしまう。
何度も来たことはあるし、子供の頃我慢したけど涙がこぼれ出て仕方が無かった耳鳴りの痛みも慣れたし、大体いつも通りのバカンスの筈。
別荘がある州やその近隣には幼い頃から何度も着ている。
……なのに、何故だろう。
この嫌な胸騒ぎは。
出発前に何か変な物でも食べたのだろうか?
お世辞にも美味しいとは言えない機内食を食べたせいだろうか?
英語のアナウンスで、客員は降りろという放送が流れ、客室乗務員に挨拶しながら、乗客は次々と空港へと降りて行った。
わたくしも行かなければ……。
理由もなくわたくしを襲った胸騒ぎは、今や胸焼けへと変化し、さらには頭痛まで加わる始末。
わたくしは今更ながら、たった一人でアメリカに向かってしまった事に後悔し始めていた。
本当なら、わたくしが懇意にしている恩師……といってもわたしより4つも下なのですけれど……、その恩師と一緒にこのアメリカの地を踏みたかった……。
わたくしは自分の短気と余計な思いっきりの良さに、嫌気が差してしまう……。
乗客が次々と降りていくが、わたくしは気分が落ち着くまで席に座っていた。
そして、勢いでお供も連れず、一人で来てしまった成り行きを思い出していた。
そう、あれは出発の前夜、学校の寮で、わたくしの腐れ縁とも呼ぶべき幼馴染と口論していた夜だった……。

その日、わたくしはルンルン気分で寮の廊下を歩いていた。
スキップはレディとしてはしたないので、ダンスのステップでも踊りかねないぐらい上機嫌だった。
わたくしはこの日をどれだけ心待ちにしていた事か……。
あの小猿娘はわかっていないのですわ!
今思い出しただけでもイライラする……。
とにかく、わたくしはある部屋の前まで、ステップを踊りかねない程上機嫌で向かっていたのだった。
その部屋の中には、わたくしの腐れ縁とも呼ぶべき幼馴染と、そのルームメイトで学園長先生のお孫さん。
そして……わたくしがお慕い申し上げている……ね、ネギ先生……。
あぁ、思い出しただけでも、おでこは湯気を上げる程熱くなり、身体も火照ってしまう……。
部屋の扉の前で、どれほどの間、悶絶したことか……。
わたくしは押さえ切れない心の昂ぶりをぶつけるように、扉を開けた。

「ネぇギ先生ぇ〜〜♪♪♪」

「ふ、ふぇ!?い、いいんちょさん!?」

あぁ、わたくしの視界に飛び込んでくる愛らしい姿……。
倫理観など吹き飛んでしまいかねない程愛くるしさに、わたくしの顔はメロメロ状態になってしまった。
わたくしの突然の訪問に驚いてるその姿も愛くるしい……。
わたくしのテンションは高まる一方。
メロメロ顔をキリッ!っと爽快なガムを噛んだような爽やかな顔で、レディらしく振舞った。

「ネギ先生、夏休みのご予定は?」

「え?え〜と、実は「一緒にわたくしの別荘に行きましょう〜〜〜♪」

「え、別荘?そこってどこなん?」

ネギ先生の横で訛りのある言葉を話す黒髪の少女は、近衛木乃香。
学園長先生のお孫さん。

「アメリカ・ネバダ州……砂漠の真ん中に突如生まれた黄金の宮殿……ラス・ベガスでございますわぁ〜〜♪♪♪」

「あ、アンタの家って、もうなんでもアリね……」

「そこ、チャチャを入れないでくださいまし」

チャチャを入れたのは、見た目はおサルさん、頭脳もおサルさんの、腐れ縁の幼馴染、神楽坂明日菜。
余計なチャチャを入れたおサルさんを一蹴すると、視線も思考もネギ先生の方へと戻した。

「わたくし……雪広家はラス・ベガスにホテルを所有しておりますの。ぜひネギ先生へ、日々の重労働から解放し、憩いの地で安らぎを提供したいと思いまして……」

「あ、あの…実は「ネギ先生!先生はラス・ベガスには行った事ございませんものね!?さぁ、いざ黄金の舞う享楽の地へ共に行きましょう……♪」

わたくしは燃え盛る情熱のあまり、勝手にダンスのステップを踏み、ネギ先生に猛アピールしてしまっていた…。
しかしその燃え盛る情熱を吹き消したのは、小憎らしいおサルさんの一言だった。

「ムリよ、それ」

「…………は?」

「だから、無理だって言ってんの!M・U・R・I!ム・リ!」

「何故アスナさんが勝手にネギ先生のスケジュールを決めているんですの!?保護者か何かのつもりですの!?」

「理由はコレよ!」

燃える情熱を吹き消したと思えば、次におサルさんはわたくしの前に、プリント用紙を突き出していた。
そこにはこう書かれていた。

『夏休み補習授業日程表』

ま、まさか……。

「そういう事。ネギは夏休みの補習授業をしなくちゃならないから、アンタとのバカンスはムーリ」

「補習授業に出るメンバーは……いつもと同じ、バカレンジャー5人組やで♪」

「言わなくていいわよぉ!」

驚愕の事実を突きつけられ、怒りがこみ上げて来た。
彼女二人はネギ先生をよそに、私に追い討ちの言葉を浴びせる。

「補習授業はちゃんと出席しないと意味ないからね〜、一日も外せないのよ」

「ネギ君の教員審査も兼ねとるし……ネギ君も頑張っとるんよ。10歳の教員なんて、PTAとか教育委員会とか、何かと厳しい目ぇで見よるし…。ここは補習授業で心証良くせんとあかんのよ」

「そういう事。私もネギも夏休みは一日も外せないってワケ」

「そういう訳なんです……。すみません、いいんちょさん……せっかく誘って下さったのに……」

「残念ねぇ〜♪い・い・ん・ちょ♪おっほっほ〜♪」

『残念ねぇ〜』『残念ねぇ〜』『残念ねぇ〜』……。
その言葉が、何度も頭の中でこだました。
そして……その言葉を切っ掛けに、わたくしの中の何かが、音を立ててプッツン!と切れた。

スパコーン!

と、いう小気味のいい音が部屋中に響いた。

「い、痛ッ!?な、なにすんのよ!!」

わたくしは思わず、履いていたヒールを手にして、アスナさんという名の憎たらしい日光のおサルさんの頭を叩(はた)いた。

「あ、あなたのせいで……。あなたがおバカさんなせいでネギ先生は補習授業なんかにぃ〜〜〜〜!!」

「わ、私だけのせいじゃないわよ!!」

「い、いいんちょさん落ち着いて!ぼ、暴力は駄目です、暴力は!!」

「せめて、踵の尖った部分では殴らんといて!?多分シャレにならん程痛いと思うわ」

「こ、このか!?そっちの心配!?いいんちょを止めてよ!!」

怒り狂い暴走したわたくしは、金髪の長髪が逆立つ程だった。
後で聞いた話によると、ネギ先生は私を抱きしめて必死で止めようと健気に奮闘していらしたとか。
今思えば、非常に申し訳ない事……。
とにかく、その時はネギ先生の奮闘に気づかず、怒りに身を任せていた。

「このおバカさんのおサルさんのせいでネギ先生は…ネギ先生はァ〜〜!!せめて、ネギ先生の心労が減るように、補習用員を今ここで減らしますわ!!!」

「ちょっ!?バカ!!!やめてーっ!!!」

「みんな!こっち来て!いいんちょが大変やーっ!」

後で聞いた話によると、ネギ先生のお部屋は忠臣蔵の松の廊下状態だったらしい。

「いいんちょ!殿中でござる!殿中でござるぅ〜〜!!」

「な、ならぬ!武士の…武士の情けじゃぁ〜〜!!」

……思わずそう口走っていたらしい。

「いいんちょ、落ち着いて。どうどう、どうどう」

「馬じゃありませんわ!」

怒りが頂点に達しても、突っ込みは忘れられなかったようだった…。
とにかく、松の廊下と化したネギ先生の部屋は、クラスメートが総出で集まって、なんとか場を…というかわたくしを沈めたようだった。
わたくしを止めに入らなかったクラスメートは、ただの野次馬のようだ。
荒い息を必死で抑えると、持っていたヒールを床へ落とし、履きなおすと、

「もういいですわ……。別荘へは一人で参ります……。悪しからず!!」

と、啖呵を切って、ヒールの高い音を立てて足早にその場を去っていった。

やり場を無くした怒りはヤケとなり、私は荷物を纏めて、アメリカへと向かった。
勢いに任せて、家の者には誰一人にも言わず、実家に帰る妻のように足早に日本を去っていったのだった。

(そうでしたわ……。なんて愚かな事を……)

ふと気が付くと胸焼けや頭痛は無くなり、一気に現実に引き戻された。

「お客様、ご気分がすぐれないのですか?」

客室乗務員がわたくしに声をかけてきた。
もちろん、英語。
日常会話はもちろん、幼い頃から欧米各国を廻って来た私は、すんなりと当たり前のように返事をした。

「い、いいえ……心配など無用ですわ」

後悔はいくらでも出来る。
だが、現実は変わらない。
怒りという名の勢いで来てしまった為、ネバダ州への便などなく、隣のカリフォルニア州の空港の便しかチケットは無かった。
カリフォルニアからネバダのラス・ベガスの実家まで、国内便で行くしかない。
わたくしは荷物を棚から降ろし、さっさとジェット機から降りて行った。

さっそく入国手続きを済ますと、ネバダ州のマッカラン国際空港かリノ・タホ国際空港行きの便を探した。
だが……わたくしの行く手を阻む事態が既に起きていた。
……国内便が……無い。

(そ、そんな筈は!?)

だが、何度見ても同じだった。
アメリカン航空もユナイテッド航空もパンアメリカン航空も……。
それどころか、いつのまにか国際便まで無くなっていた。
わたくしはわけがわからず、受付まで急いで向かった。

「どういう事ですの!?国内便が一つも無いなんて!それどころか…国際便まで無くなるなんてどういう事ですの!?」

わたしの捲くし立てる英語に、受付の女性は「やれやれ、まただわ」といったような顔をした。

「あちらをご覧下さい。すべてがお分かりになりますよ」

受付の女性が指差した方向に、テレビの画面があった。
ニュースが流れており、リポーターがリポートをしていた。

『○○空港の職員達が大勢でストライキを行っています。上は操縦士から、下は掃除のオバチャンまで、待遇の改善と向上を求めてストライキを起こしています!もう、職員全員が死ぬ程エキサイトしまくってます!下手に刺激をすると暴動なんて起こりそうな感じですよ、マジホント!』

『ねぇゲイブ。このストは、どのくらい続きそう?』

キャスターがリポーターに質問している場面に移った。

『当分無理ですね!時間は少なくとも3〜5時間はどの飛行機も飛びそうにありませんよ!…まったく、掃除のオバチャンはともかく、なんで操縦士までストライキを起こすんですかね?』

スト……スト……。
目の前に突きつけられた現実に、その後のリポーターとキャスターの話は耳に入らなかった。
リポーターが告げていた空港の名前は、よりにもよってこの空港だったのだ……。
勢いで来てしまった結果がこれだ。
わたくしは思わずその場に座り込んでしまった。
もう、バスで向かうしか……。
と、そう思った時、誰かがわたくしを呼ぶ声が聞こえた。

「……お嬢様!あやかお嬢様!」

若い金髪の男性が駆け寄ってきた。
執事の格好をしたその男性が誰なのか、最初は分からなかった。
だが、執事の格好をし、わたくしをお嬢様と呼ぶその男性は、確かに雪広家の従者……。
あ……。

「あやかお嬢様。ご無事で何よりです」

「ジム……。ジム・ハルシー……?」

「覚えていて下さったんですね。光栄です…!」

「覚えておりますとも……」

ジム・ハルシー。
彼は去年、ベガスの別荘に来たときに、新しく雪広家に入った新米執事だと紹介された。
そしてその年のバカンスは、彼が付きっ切りでわたくしの面倒を見てくれた。
あの時は初々しかったのに……。

「すっかり……立派になって……」

「い、いえ……そんな。まだまだ未熟者です……」

赤面してはにかんだしぐさは去年と変わり無いのに、たくましい顔つきになって……。

「本当に……立派になって……」

ジムが来てくれた。
そう安心出来た途端、わたくしは感極まって、人目もはばからず泣いてしまった。

「じ、ジムぅ〜……わ、わたくし……不安で…不安で…」

「お、おおおおお嬢様…。お、落ち着いて下さい…」

「ジムぅ〜〜〜……」

「あらやだ。あの男の人、彼女を泣かせてるわよ!酷いわねぇ〜!」

「別れ話でも切り出されたのかしら?あの男も罪よねぇ〜!」

「ち、違います!誤解です!この方は、私が仕える家のお嬢様で…!」



落ち着いて、泣き止むとジムはこう切り出した。

「日本のルームメイトの方から、あやかお嬢様が日本を飛び出してベガスの別荘に向かったと聞いたものですから…」

「グス……なぜ、この空港だと?」

「情報を聞いて、日本からアメリカへの国際便を全て調べました。ネバダ州への便はなく、カリフォルニアの便しかないのを見つけて、ここに来るのではないかと思ったんです」

「さすがですわ……ジム」

「い、いえ……大したことではありませんよ。さぁ、用意した車で別荘へ向かいましょう」

空港を出ると晴天だったはずの空が雲で茂っていた。

「この様子じゃあ、降りそうですね……。早く、車に乗りましょう」

ジムが駆けていく先に、ダークブルーのBMWがあった。
後部座席を開けると、先にわたくしを乗せ、荷物をトランクへ、そして運転席へとジムは座った。

「疲れているのでしたら、お眠り下さい。ハイウェイの旅はつまらないだけですよ」

「そんなことありませんわ。ジムがいるのですから」

「あはは……光栄です。さぁ、行きましょう」

BMWは空港からハイウェイへと向かって走り出した。
ハイウェイに向かう途中、雷らしき音が、ゴロゴロと鳴り出していた。
わたくしは日本からここまでの疲れを癒すように、シートにもたれかかってまぶたを閉じた。
雷はまだ鳴っている。

「……あ、降り出してきましたね」

わたくしに声をかけているのか、それとも独り言なのか、ジムはそう言った。
また雷が鳴った。
雨音と雷が支配する世界で、わたくしを乗せた車は走り続けた。
だけど、今思えば、前兆だったのかもしれない。
これから起きる、不吉な前兆の……。

Chapter 2 「ジョン・ライダー」

どのくらい時間が過ぎたのだろう。
雨が窓ガラスを叩く音で、わたくしは目を覚ました。
窓から見えるカリフォルニアの地は、暗く、建物が何もない、無の世界だった。
車はカリフォルニアの街からすでに砂漠のハイウェイへと走っていたのだ。
ジムがいなければ、本当につまらない旅になっていただろう。

「あ、お嬢様。ご気分はいかがですか?」

「そこそこ……といったところですわ」

「もうすぐカソリンスタンドがありますので、そこで給油します。……ついでに何か食べていきますか?」

「結構ですわ。ガソリンスタンドで買い食いなんて、はしたないですわ」

わたくしは正直なところ、その時は本当にお腹が空いていた。
でも、レディとしての振る舞いと、ジムに対するメンツから、その好意を拒否してしまった。
本当はありがたいのに……。
すると、わたくしの本音を告げるかのように、……恥かしい事に、お腹のお虫さんが鳴いてしまった。
わたくしは顔から湯気が出る程恥かしかった。
それでも、ジムはいつものはにかみ顔で、こう言ってくれた。

「気にすることありませんよ。ご無理でもなさって体調を崩されることが心配です。……ここは僕とお嬢様の秘密ということで」

「……そこまで言われてしまっては、返って断るのが無作法になってしまいますわね。よろしいですわ。ここはジムの言う通りに致しますわ」

「そういう事にしておいて下さい」

ジムの笑顔。
従者としての顔を持ちながらも、敬いつつ対等に接してくれる人。
この人柄が、わたくしは気に入っていた。
車の中の空気はジムが作り出した楽しい雰囲気に包まれていた。
……けれでも、その雰囲気は一瞬にして吹き飛んでしまった。
車の前……ハイウェイの上に人がいる……!

「危ない!!!」

わたくしは思わず叫んでしまった。
ジムもフロントガラス越しから見えるその人影を見て驚いた。
次の瞬間、わたくしは後部座席を揺らされて、横に倒された。
ジムの運転する車がブレーキをかけ、おそらく人影を避けようとしたのだろう、ハンドルを切ったために車が横滑りをしたのだ。
まるで遊園地の絶叫マシンのような重心移動に、肝がつぶれる思いだった。
タイヤが擦れる高い音が鳴り、景色は横に流れていく。
そして、車は横滑りした後、止まった。
わずかな間だったが、本当に肝が潰れるような思いを味わった。

「だ、大丈夫ですか?お嬢様……」

「へ、平気ですわ……」

車は人影を避けるように半円を描き、人影の反対側へと廻っていた。
人影はジムが覗き込んだバックミラーに映っていた。
すると人影は、さっきのスピンをまるで何もなかったかのような仕草で、こっちに近づいてきた。
暗い闇に包まれた黒い人影。
最初に見たときはライトの反射で見えなかった。
まったくの謎の人物だった。
その人影が近づいてきた。
不気味な影を背負っているように、わたくしには見えた。

「お、降りて怪我がなかったか聞いてきます……」

ジムはそういうとシートベルトを外し、ドアを開けようとした。
けれども、わたくしは急に一人になる事が不安になってジムが降りようとする手を止めた。

「お、お待ちになって……!ジムがそんな事をする必要はございませんわ……」

「しかし……」

「ハイウェイの上に突っ立っていらしたのよ!?しかも、わたくし達の車を避けようともしませんでしたわ!」

「……お嬢様」

わたくしは怖かった。
きっと変な人なんだわ。
バックミラーに映る暗い人影が寄り一層そう思えて仕方がなかった。
そしてその影はどんどん近づいてくる……。

「ジム、早く車を……!」

「は、はい…!」

ブレーキで止まったエンジンを、ジムはキーを捻って動かそうとする。
だが、エンジンはかかるかと思ったら、……かからない。
ジムは何度もキーを捻ってエンジンをかけようとする。
恐ろしい人影は、その間にもどんどん近づいてくる……。
わたくしは、ただ祈るばかりだった……。

(はやくかかって……。お願いですから……早く……!)

何度も祈った。
すると、何度目の祈りかはわからないが、その祈りが届いたのか、エンジンが大きな音を立てて始動した。
安堵すると、わたくしはジムを急かした。

「ジム、早く…!」

「はい…!」

人影は、車が遠ざかるのと同時に歩みを止めた。
バックミラーに映る闇の人影は、どんどん小さくなり、やがてハイウェイの向こうへと消えていった。
はっとため息をついて胸に手を当てると、心臓の鼓動が早くなっていた。
気がつくと、額から汗が流れていた。
わたくしはそれをハンカチで拭いた。
するとジムがこう言ってきた。

「大丈夫ですよ、お嬢様。……別荘に着いたときには笑い話になってますよ」

ジムの細かな気遣いが嬉しかった。

「そうですわね……。あんな思いしたのは初めて」

「僕もですよ。……初めてスピンしましたよ」

そう言って、ジムはスピンした事を笑いながら話す。
さっきまでの事を笑い話にして終わらせようとする彼の気遣いだ。
わたくしも、それにのることにした。

それから程なくして、ガソリンスタンドが見えた。
スピンした位置から遠いか遠くないか、微妙な場所だった。
砂漠の真ん中に位置するガソリンスタンドは、ハイウェイを運転する人にとっては欠かす事の出来ない場所なのだろう。
ジムは車を給油機の横に止めると、こう言った。

「中で何か食べる物を買ってきます。……といっても、お嬢様の口に合うかどうか……」

「心配無用ですわ。まともな物なら、文句など言いませんわ。……それに、気分転換でもしたいですから、一緒に参りますわ。」

そう言って、自らドアを開け、雨など気にせず、スタンドの中へと向かった。
ジムは慌ててわたくしの後をおいかけてきた。
その様子がおかしくて、わたくしは思わず笑みがこぼれた。
入ると、スタンドはそれなりの広さを持った店で、日本でいうコンビニのような感じだった。
レジではバーベキューが焼かれており、少し柄の悪そうな男性が、顎を引いて上目遣いで入ってきた私たちを見た。

「よう、ひどいな、ずぶ濡れだな」

「わかってらっしゃるのなら、タオルでも持ってきて下さいまし?」

「ここはホテルじゃないぜお嬢ちゃん。そういうのは、悪いがセルフサービスだ。ウチでタオルでも買って使いな」

「ジム。わたくしはタオルを探しますわ。あなたは何かいい食べ物がないか探してくださいまし」

「はい、お嬢様」

わたくしはそういうと、商品棚の奥へタオルを探しに向かった。

「『お嬢様』ぁ?あの子はどっかのお金持ちの娘なのか?」

「そうです。『雪広家』ですよ」

「……ふ〜ん、知らねぇなぁ」

「なら、お休みの日にでもベガスにでも行ってみて下さい。ホテルを所有してますから」

ジムと店員の男は、わたくしが場を離れた後も話を続けていた。
それでも、ジムは店内を見回して食べ物を探していた。

「悪いが、店には俺一人だけなんだよ。滅多な事がない限り、空けるわけにはいかねぇんだよ」

「……そうですか、残念です」

ジムの発音からして、さして残念そうでも無さそうだった。

「なぁ、アンタ達の車ってアレか?あの高級車」

「えぇ、それが何か?」

「へぇ〜、いいねぇ……。女とヤレる車だ。あの車なら、女の方から寄ってくる」

店員の下品な物言いを、ジムは受け流したようだ。
だが、店員は勝手に話を続けた。

「俺の車はカマロだ。まぁ、兄貴のお下がりだけどよ。今は車庫で改造中よぉ。女を釣れるようにビシッ!と決めるんだよ。ハイウェイもぶっ飛ばずぜ……!」

「あ……。そういえば、ここに来る前にハイウェイに人がいたんだけど……」

「近いのか?」

「えぇ、車で数分程……」

「なら、心配いらねぇよ。ここには歩いても来れる距離だ。それに、どっかのだれかがここまで乗せて来るかもしれねぇし」

タオルの入ったビニールの商品を手に取ると、わたくしはジムの元へと戻っていった。
途中、店員が親指を店の外に指した。

「ほら、あんな風によ」

外を見ると、大型のトレーラーがスタンドに入ってくると、助手席から黒に近い紺色のトレンチコートを着た男が出てきた。
トレーラーの運転席に礼の代わりに手を上げると、襟を立てて、駆け足で店内に入ってきた。
……その時、わたくしの心臓は鷲掴みされたように、胸が苦しくなった。
ふぅ、と息をつくと、襟を広げてその顔をはっきりと見せた。
30代頃の金髪の男性……彫りは深く、ワイルドな顔つきをしている。
ダンディーな中年男性好きのアスナさんなら喜ぶような、そんなタイプをしている。

「あの、もしかして……さっきハイウェイにいた人ですか?」

ジムがおそるおそる聞いてきた。
わたくしは、もしかしてではなく確信していた。

「……あぁ、あの車は君だったのか」

あのハイウェイの真ん中にいたあの男だ。

「すみません。動転して思わず……」

ジムは男を置き去りにした事を謝った。
そんな必要はないのに……。

「いや、いいさ。私だって、君と同じなら、……同じような事をするさ」

男は笑って、ジムにそう言った。
だが、わたくしにはその笑顔がとても浮ついた……表面上だけものにしか思えなかった。

「ここから、一番近いモーテルまでどのへんかね?」

男が店員にそう言った。

「モーテル?だいぶ東の向こうだぜ。歩いていったんじゃ日が暮れちまうぜ。……もう夜だけどよ。」

店員の寒いジョークを受け流して、男はジムにこう言った。

「君は、どっちに向かうんだい?」

「僕ですか、僕は……東に行きます。同じ方向ですね」

「……よかったら、乗せていってくれないか?モーテルまで」

その言葉を聴いて、わたくしはたまらず二人の間に入った。

「ジム、この方は?」

わたくしはわざと知らない振りをしてジムにたずねた。

「この方は、さっきハイウェイにいて、轢きそうになった人で……。モーテルまで乗せていってほしいそうです」

「同じ方向?」

「みたいです」

店員が間に口を挟んだ。

「こんな天気だし、他の車は滅多にこねぇよ。悪いけどアンタ、ここに泊まろうなんて考えるなよ?ベッドは俺の分しかねぇからよ」

常識的に考えれば、ここは親切で乗せていってあげるべきだ。
ジムの様子からして、この男に負い目があると思っているようだ。
本当は不気味な見ず知らずの人を乗せたくはないのですけれど……。

「どうでしょう、同じ方向ですし……」

ここで拒否したら後味悪い。
わたくしも、ジムと同じように、置き去りにしてしまったこの男に、少なからず負い目があった。
だから、こう答えてしまった。

「よろしいですわ。モーテルまで、お連れしますわ」

男はその言葉を聞くと、ニヤリと頬を歪ませた。
愛想を浮かべてるつもりだろうが、嫌らしくて不気味にしか思えない。
男は手を差し出して、こう名乗った。

「ジョン・ライダーだ」

わたくしは手をとり、同じように名乗った。

「雪広あやかでございます。お見知りおきを」

それを聞いた男——ジョン・ライダーは愛想笑いをすると、

「『お見知りおきを』、か。ハハハ……」

と言って笑った。

給油をし終わったジムがスタンド内に入り、ホットドックを口にしているわたくしと、スタンド内を物色しているジョン・ライダーに、出発の用意が出来たと言ってきた。
わたくしは最後の一口を食べると、雨が降りしきる中、急いで車に向かって駆けていった。
わたくしが後部座席に座ると、ジョン・ライダーは助手席に座った。
塗れたコートの雫がシートやカーペットに付く事などお構いなしといった様子だった。
ジムが運転席に座ると、ようやくして、ガソリンスタンドから出発した。
出発してから沈黙が車内を支配していた。
わたくしは沈黙に耐え切れず、ハンドバッグに入れていたペーパーバッグの洋書の小説を取り出して読み出した。
沈黙に耐え切れなかったのは、ジムも同じようだった。

「生まれはどこですか?」

どうでもいい世間話で空気を和ませようとしていた。
だが、ジョン・ライダーの答えも、つまらない答えだった。

「あっちこっちだ」

ジムは小さなため息をついた。
すると今度はジョン・ライダーの方から話しかけてきた。

「あんたたちはどこへ行くんだ?」

「え?あぁ、ラス・ベガスへ。別荘のホテルがあるんですよ」

「へぇ、いいじゃないか……」

暫く間を置くと、こう言った。

「かわいい娘じゃないか……。彼女か?」

ジムは苦笑いしながら返答した。

「いえ、そういうのでは……」

だが、その言葉をさえぎるようにジョン・ライダーは耳を疑うような事を言った。

「何発ヤった?」

ジムは驚いて、

「……えっ?」

と、聞き返す事しか出来なかった。
わたくしだって驚いた。
おかげで本を読むのに集中できなかった。
なんて下品な男……。
嫌な男を乗せてしまった……。
場の空気が一気に悪くなった。
それでも、ジョン・ライダーは構わず聞いてきた。

「簡単な質問だろ。……何発ヤった?」

ジムは答えられない。
当たり前だ。
わたくしを前にして、どう答えをするというのだ。
ジムはしばらくして、意地になったのか、こう切り替えした。

「奥さんとは何発?」

奥さん……という単語が出てきた。
この男は結婚しているのか?

「……いない。ひとりだ」

「それじゃあ、なんで左手の薬指に指輪を?」

ジムが切り返した言葉の根拠は、男の指にしていた指輪だったようだ。
ジョン・ライダーは嫌らしい笑みを浮かべながら、こう言った。

「コレか?……コレを付けていたら、誠実な男だと思われるからな」

その言葉がきっかけで、わたくしは本をバッグにしまい込むと、二人の様子を伺った。
男……ジョン・ライダーの意図がまったく読めない……。

「誠実……じゃあないんですか?」

ジムが怪訝そうにそう言った。
すると、男はカップスタンドに置いてあったジムの携帯を手に取った。

「おい、アンタ!?」

携帯を開くと、男は両手に持ち、こう言った。

「あぁ。……そうだ」

その言葉が終わると同時に、携帯は音を立ててへし折られてしまった……。

「何するんだ!!」

ジムは激昂した。
当たり前だ。
当たり前の反応だ。
こんな事をされれば……。

「頭にきた……。もう、ここで降りてくれ!」

ジムは速度を緩め、路肩に止めようと、ハンドルを右に切った。
だが……。

「……っ!?」

男がジムのハンドルを持つ手を押さえ、ハンドルを戻した。
そして、次の瞬間、わたくしは思わず口を押さえて息を呑んだ。
コートのポケットからナイフを取り出し、柄のボタンを押してナイフの刃が飛び出た。
そしてハンドルを押さえていた左手を、ジムの右ひざに置き、力強く抑えた。
アクセルを踏んでいるその足はどんどん力が入り、速度は増していった。

「そのまま運転を続けろ……」

目の前をモーテルが通りすぎる。
泊まりたいと言っていたモーテルだ。
だが、それが目的ではないのは、わかってしまった。

「な、何が望みなんだ……?金か……?」

ジムはおそるおそる、恐ろしい男に変貌したジョン・ライダーに尋ねた。
声には震えが入っていた。
わたくしには、ジムの恐ろしい気持ちがわかっていた。

「いいや……金はいらん」

男は冷徹に、淡々と答えた。
ナイフには赤黒い模様が付いていた。
それは明らかに……乾いた血が付着していたものだ。
男はそれを剥がすようにイジっていた。

「じゃあ、この車か……?」

ジムは震えながらも、男に尋ねた。

「いいや……。車もいらん」

わたくしは恐ろしい男に悟られないように、ハンドバッグに手を差し込んだ。
その先は携帯電話がある。
警察に助けを求めなくては。
わたくしは、恐る恐る、番号の「9」を押した。

「じゃあ、何が望みなんだ!!」

ジムが叫んだ。
そのジムを、男はあの嫌らしい笑みで笑った。
わたくしは、続けて「1」の番号を押した。

「望みか…?望みは……」

そして最後の「1」を押した。
これでコールを押せば警察に繋がる——。
そう思った瞬間、急に髪を引っ張られ激痛が走った。

「あぁっ!」

悲鳴が口から飛び出した。
目を開けると、男がわたくしの髪を鷲掴み、左目の近くにナイフの刃先を近づけていた。
ほとんど密着状態で、目の下からそのまま刺そうと思えば刺せる位置だった。
わたくしは恐ろしさのあまり、震え、目から涙がこぼれた。
男はその涙をすくい、ナイフの刃に伝えさせた。

「お嬢様に手を出すな!」

ジムはわたくしの方へ体を向けて叫んだ。
わたくしは声にならない声を上げて、ジムに助けを求めた。

「俺の望みは何かって聞いたな?……こう言えばいいんだよ」

男の次の言葉に、わたくしは、そして恐らくジムも、戦慄したに違いない。

「たったの四文字だ。"I want to die. "(死・に・た・い)」

「……え?」

耳を疑った。
この男はジムに死ぬ事を求めている……!

「ほら、言えよ……。ガールフレンドの目玉がえぐれるぞ?……I(死)……?」

「あ……I(死)……。」

男の脅しと促しに、ジムは恐る恐る、続けて言った。

「ジム……駄目……」

わたくしは溢れる涙を流しながら、ジムを止めようとした。
だが、男に強く髪を引っ張られた。

「……want(に)……?」

「……want(に)……」

ジムは震えながら、男に続けて言う。
わたくしは、必死に祈った。

「……to(た)……?」

「……to(た)……」

ジム……駄目……。
言っては駄目……!

「……die(い)……!」

「…………」

ジムは震えつつも最後の一言を言わない。
最後の一言を言ってしまえば……殺されてしまう……。

「ほら、言えよ……?……die(い)……!」

ジムは限界を迎えたかのように、叫んだ……。

「……死にたくない!!!」

そう言うと、車は急ブレーキがかかり、重心が一気に前へと移った。
わたくしの眼球を刺そうとしていたナイフは離れ、男の頭部はフロントガラスに打ちつけられた。
フロントガラスはヒビが走り、そして車は止まった。
ジムは不意を突かれた男を足の裏で何度も蹴った。

「この野郎!このサイコ野郎!!」

ジムは叫びながら蹴り続けると、私にこう叫んだ。

「お嬢様!ドアを開けて!コイツを叩き出します!」

わたくしは答える間もなく、シートとドアの隙間に手を入れ、ドアノブを手探りで探した。
そしてドアノブの感触を確かめると、躊躇わず引いた。
ジムの蹴りが男に当たると、そのままドアは開き、男は車外へと放り出された。
それを確認すると、ジムは急いで車を発信させ、ドアを閉めた。
恐怖を運んできた男は、わたくしたちの車から消えうせたのだ。

「お嬢様、大丈夫ですか!?」

「……これが大丈夫に思えまして……?」

わたくしは涙交じりの鼻声でジムに答えた。
恐ろしくて恐ろしくて……涙が溢れ出て止まらなかった。
ハンカチで目を押さえると、気丈に振舞った。

「わたくしは……大丈夫ですわ。ジムのほうこそ、大丈夫ですの?」

「ぼ、僕は大丈夫です……」

ようやく落ち着いたわたくしは、ハンカチをバッグに戻すと、ある事に気がついた。
……携帯電話が……無い!

「どうかなさったんですか?」

「携帯が……無くなってしまいましたわ」

まさか……あの男と一緒に外へ……?
わたくしは意気消沈してしまった。
これでは警察や家族に連絡が出来ない……。
わたくしはバックミラーを見た。
あの男の影がないか、不安だったからだ。
幸いにも、あの男の影はなかった。
ようやく、安堵できた。

恐怖の出来事は、これで終わった。
その時は、本当にそう思っていたのだ。

Chapter 3 「助けて!」

あの恐怖の時間からどれくらいの時間が流れたのだろう。
わたくしは心身ともに疲れ果ててしまった。
ジムも同じようで、フロントガラスの亀裂を何度も見ていた。
いまだにあの男——ジョン・ライダーの恐怖が脳裏を支配している。
早く忘れよう、忘れてしまおう。
そう思う事に専念した。
ジムは車をハイウェイの横の砂漠地帯に車を止めた。
ハンドブレーキを引くと、エンジンを切ってこう言った。

「もう遅いですから、今日はここで眠りましょう」

ジムの顔にも心労の様子が見て取れた。
わたくしも、さすがに車で寝たくないなどとわがままは言えない。

「そうですわね。……今日は本当にいろんな事がございましたから……。ゆっくり休みましょう」

「はい。」

ジムはそう言って、運転席のシートを少し倒して、目を閉じてもたれ掛かった。
わたくしは、ガソリンスタンドで買っていたミネラル・ウォーターをハンドバッグから取り出した。
本当に疲れた……。
わたくしは、ドアと座席のくぼみにもたれ掛かった。
ボトルのキャップを開け、ミネラル・ウォーターを口に流し込む。
早く忘れよう、そう言い聞かせながら飲んだ。
だが……

バリン!

っというガラスの割れる音が、突然車内に響き、ガラスの破片が飛び散った。
そして、男の手がわたくしの首を絞めるかのように伸び、わたくしの首に絡めた。

「……ここに居たのか……お嬢ちゃん……!」

「……!!!いやぁああああっ!!」

叫び声を開けずにはいられなかった。
突然あの男……ジョン・ライダーが現れたのだ。
ジムは目を覚まさない。
唯一助けになる人がいない……!

「こいつを忘れてたからな……?」

わたくしの首を右腕でしっかりと締め上げると、左手のポケットから、あの血のこびり付いたナイフを取り出した。
そして、逆手に持つと、わたくしの心臓めがけて、ナイフを振り下ろした———。

「いやあああああああっ!」

「お嬢様!?どうなさいました!?」

ジムの声で、ようやく私の身の回りの状況を把握できた。
わたくしは後部座席で横になっており、車の窓から陽の光が注いでいた。
蒸し暑さに包まれた車内で、ジムがわたくしを心配そうに見つめている。
……そうか、夢だったのか……。
あの男が突然現れ、襲ってくる夢を見てしまったのだ。

「だ、大丈夫ですわ……」

強がりを言ったが、わたくしは寝汗で身体中がびっしょりと濡れていた。
ワンピースなんて着なければよかった……。

「ご気分が優れないようなら、外に出て気分転換でもいかがですか?」

「そうですわね……そういたしましょう」

車を降りると、まばゆいばかりの朝日が、カリフォルニアの砂漠を照らしていた。
その美しい光景を見ている私の傍に、ジムがやってきた。

「……もう、帰りたいですわ……」

「……大丈夫ですよ、お嬢様。旅のいい笑い話になります、最後には。」

「……自慢したいだけなのでしょう?私を守った、って」

「ち、違いますよぉ!」

「ん?本当ですの…?」

わたくしはジムをからかった。
ジムは顔を赤くしながら、観念したように、あのはにかみ笑顔で言った。

「……そうです。お嬢様を守れたんですから、誇らしい気持ちになりますよ」

「ふふ……正直でよろしい事ですわ♪」

そう、旅のいい笑い話になる。
あんな危ない男の話なんて、別荘に着けば、笑い話になる。
……そう自分に言い聞かせた。

「そろそろ行きましょう」

「えぇ、そうですわね」

早く別荘に行きたい。
たったのそれだけが願いだった。
わたくし達は車に乗ると、再びハイウェイを走り出した。
何の変哲もない、眩しいばかりの砂漠が続くハイウェイ。
その光景を見つめながら、わたくしはあの男の事を忘れようとした。
車はラジオのカントリー・ミュージックを哀愁たっぷりに奏でている。
荒野の光景と、ラジオの曲がとても調和のとれた美しい絵になっていた。
しばらく車を走らせていると、後ろから古いミニバンの車がやってきて、私達を追い越した。
仲のよさそうな夫婦と小さな子供達が乗っていた。
追い越す際に、夫婦はわたくし達に笑みを浮かべながら手を振って挨拶をした。
わたくし達もならって挨拶をした。
後部座席では、見えるだけで子供が2人いて、可愛い笑顔でわたくし達に手を振っていた。
そして、おそらく3人目なのだろう、大きなテディベアのぬいぐるみに隠れて、テディベアの手を動かして、手を振っていた。
無邪気で可愛い。

「ジムは…子供が欲しいなどと、思った事ござませんこと?」

「僕はまだまだ先の話だと思ってます。……でも、えぇ、欲しいですね」

ジムははにかみながらそう言った。
やはり、子供はいいですわ……。
幼い子供を見ると、思わず脳裏に浮かんでしまうのは……生まれるはずだった、わたくしの弟……。

「お嬢様……」

「……大丈夫ですわ」

わたくしは溢れる笑みで、3人目の子に手を振った。
すると、テディベアに隠れていた子が姿を現した。
……が、その姿を見て、わたくし、そしておそらくジムも戦慄した。
昨日何度も見たあの嫌らしい笑みを浮かべた……ジョン・ライダーだったのだ……。
わたくし達の笑顔は一瞬にして消え去り、凍りついた。
どういうわけなのかはわからないが、わたくし達と同じように、ヒッチハイクをして乗り、ここまで来たのだ。

「まずい……!」

「止めて、知らせなくては……!」

ジムは車の速度を上げると、対向車線に車線変更をし、家族連れのミニバンの横に並んだ。
助手席に座っていたわたくしは窓ガラスを開け、力のかぎり叫んだ。
ジムはクラクションを何度も鳴らして、ミニバンの家族にわたくし達を注目させようとした。

「止まって!止まって下さいまし!」

運転席と助手席に座っている夫婦は、何事かと、苦笑いしていた。
わたくし達が馬鹿な事をしている変な連中だと思っているのだろうか。
しかし、わたくし達がどう思われようとも、今すぐ彼らに伝え、あの男が危険だと知らせなくてはいけない。

「後ろに乗っている男は危険ですわ!」

車の駆動音で掻き消されそうだったが、わたくしは何度も力の限り叫んだ。
車内から身を乗り出して、何度も何度も叫んだ。

「わたくし達をナイフで脅しましたわ!早く後ろの男を降ろしてくださいまし!危険な男ですわ!」

わたくしがそう叫んだ途端、腕を引っ張られ、車内に無理やり戻された。

「お嬢様!危ない!」

そしてわたくしが目にしたのは……対向車線から真正面に、私達の車に今にもぶつかりそうな、トラックが目の前に迫っていた。
ジムは急いで、左にハンドルを切り、クラクションを鳴らすトラックを避けた。
だが、避けた先は、ハイウェイを外れた、荒れた砂漠の谷間だった。
次の瞬間には、車は弧を描くように空を飛んだ。
胃がひっくり返るような気分が一瞬したが、それよりもその直後の着地の衝撃が激しかった。
ボンネットは衝撃でひしゃげ、外れてしまい、フロントガラスを太い木の枝が貫いた。
木の枝はフロントガラスの真ん中あたりを貫いたので、幸いにもわたくし達の顔面や身体を貫くような事はなかった。
着地の瞬間に、砂漠の砂埃が舞い、車内に充満した。
わたくしたちは、恐怖と埃で、何度も咳き込んだ。

「ケホッ…ケホッ……お嬢様、大丈夫ですか?」

咳き込みながら、ジムはそう言った。
だが、私はなにも言えず、咳き込むだけだった。
ジムはドアを開けようとするが……着地の衝撃でひしゃげたのだろう、ドアが開かなかったようだ。
ジムはそのまま開けた窓から身体を出し、砂漠の砂地に倒れ落ちた。
わたくしも、開けた窓から身体を出したが、バランスを崩して尻餅をついた。
ジムはわたくしを気遣うより先に、あの家族が乗ったミニバンを確認しに行った。
ミニバンは何もなかったかのように、ハイウェイの奥へと走り去っていった。
ジムは悔しそうに頭を抱えた。
そして、ほとんど廃車と化した車に拳を叩きつけた。

「何で!何で止まってくれないんだ!!!」

わたくしは目に入る煙に目が染みて涙があふれ出た。
何度も何度も咳をしてむせると、悔しさを表面に出しているジムをなだめた。

「ジム……。ジムの責任ではありませんわ……」

「お嬢様……」

ジムはわたくしを見ると、顔を歪ませ悔しそうに震えていた。
ジムは何度か深呼吸をして、廃車になった車のトランクからわたくし達の荷物を取り出した。
車は、レッカー車を呼ばなければ回収は不可能だろう。
どっちみち、保険を掛けているのだから構わない。
だが、この荒野の砂漠……一筋のハイウェイしかない砂漠を徒歩で歩くには過酷すぎる。
しかし、文句を言っても変わらない。
どっちが先だったかわからないが、わたくし達は歩みを進めた。
荒野に降り注ぐ暑い日ざしが、ハイウェイの上をゆらゆらと陽炎を作っていた。
何分……何十分歩いたかわからない。
水分補給をお互いしながら歩いたが……お互い、口を開かなかった。
耐え切れず、わたくしのほうから口を開いた。

「……あの家族……大丈夫かしら……?」

「大丈夫ですよ……きっと……」

何が大丈夫なのだろう。
ジムは何の根拠も示さず、そう言って口を閉ざした。
恐らく、ジムも根拠など無く、そう言ったに違いない。
わたくしの不安や疑問を払拭するためについた嘘なのだろう。
それを知ってしまったら、わたくしはそれ以上掛ける言葉などなかった。
途中、一台の赤いSUVがハイウェイの奥の対向車線から向かって走って向かってきた。
わたくし達と反対側だが、乗せてもらいたかった。

「おーいっ!乗せてくれーっ!」

ジムは必死で叫ぶ。
だが、SUVは無常にもわたくし達の傍を通り過ぎてしまった。

「誰も……ヒッチハイカーなど、乗せないのですわね……」

「お嬢様……」

いったい、なぜこんな事になってしまったのだろう?
砂漠を歩きながら、何度も自問した。
あの男を乗せてしまったから?
それともヤケでアメリカに来てしまったから?
不条理だ……。
わたくしは何も悪い事などしておりませんのに……。

「……!お嬢様……あれを……」

突如、ジムが動揺した声色でわたくしに声をかけてきた。
ジムのほうを見ると、右手の人差し指でハイウェイの奥を指していた。
その先には……あの家族のミニバンが路肩の砂漠に止まっていた。
ジムはわたくしが声を掛ける前に、駆け出した。

「ジム!お待ちになって!」

わたくしも急いでジムの後を追いかける。
ジムはミニバンの近くにくると、歩みを緩め、恐る恐るゆっくりと近づいていった。
ジムに追いついたわたくしが近づくと、ジムは手でわたくしを制止した。

「お嬢様……ここでお待ちになってください」

ジムはそういうと視線をミニバンに戻し……中の様子を伺った。
わたくしは遠巻きに見ていたが……それでも、ミニバンの中が異様な事になっている事はわかった。
人の気配などまったく感じない、それどころか……窓ガラスに赤い斑点が付着していた。
わたくしは想像し……震えが止まらなかった。
あの家族の行く末を、何度も頭から振り払おうとした。
ジムは恐る恐る近づき、車の中の様子を伺っていた。
そのジムの表情が、曇り、歪んでいった事から、どんな事態になっているか想像出来てしまった。

「お嬢様……お願いですから……車には近づかないで下さい……」

それはわたくしに言い聞かせているつもりなのか……それとも、ジム自身に降りかかろうとしている恐怖を紛らわせる為に言った言葉なのか。
そんな言葉を、わたくしは耐え切れずにこう返してしまった。

「なぜですの……?一体、何がどうなっているんですの……?」

わたくしの問いかけに、ジムは、

「お願いですから…近づかないで下さい。……お願いですから……近づかないで下さい」

そう何度も何度も繰り返し呟いた。
ジムが口を押さえ、恐怖なのか悲しみなのか、両方とも受け取れるような表情で中の様子を伺っていると、ジムが運転席を覗き込んだ途端、血まみれの手が窓ガラスにビタッ!と張り付いて現れた。
その時は、思わず、わたくしも、そして恐らくジムも驚いたに違いない。
ジムは慌てた様子で運転席を開けた。
わたくしは思わず、ジムの言葉を無視して、車に近づいていった。
そして、その時初めてジムが制止させた意味を理解した。
車の中の様子は……凄惨……残虐……そんな言葉が当てはまる程、悲惨な光景だった。
血まみれのシートに、血で汚されたぬいぐるみ、そして生気のない顔をした幼い子供達。
腹部は血まみれで、衣服に数箇所穴の開いた形跡がある。
どのようにして幼い命が失われたのか、想像したくない。
けれども、想像せずにはいられない。
特に……幼い子供が命を落としてしまう……そんな状況を知ってしまったら、わたくしは正気ではいられなくなりそうだった。
わたくしが幼い頃……生まれる前に命を失ってしまった弟……。
一生消えないわたくしの心の傷を、再びナイフで切り開かれたかのような心の痛みを感じた。
心臓の鼓動が聞こえるぐらい大きく早く鼓動し、呼吸が困難になってしまった。
砂漠の土に手をついて倒れこむと、涙が溢れ出て止まらなかった。
なんてひどい……。
涙で歪む景色の中、ジムは必死に運転席から人間の身体を砂漠の床へ降ろしていた。

「……ハァ……ハァ……助けて……助けてくれ……」

「大丈夫ですか!?しっかりして下さい!」

溢れる涙を何度も手で拭い、現状を見据えた。
生きている人がいる……!
わたくしも急いで、ジムと生き残っている人の傍へ寄った。
中年男性で、手と胸が血まみれになっており……胸にナイフが刺さっていた。
ナイフの刃はすべて男性の肉体へ刺さっており、柄だけが胸に垂直に伸びていた。
だが、なによりも恐ろしいのは……そのナイフの柄が、あの男……ジョン・ライダーの持っていたナイフの柄と同じだという事だった。
もう何もかもが明白だ。
あの男が……ジョン・ライダーが、この家族を皆殺しにしてしまったのだ。
何の罪も無い、親切で乗せてくれたこの家族を……。
……けれど、まだこの男性は生きている。

「……こ、このナイフは抜かないでおきましょう。抜いたら、出血が酷くなります……」

わたくしは何も言わず、その意見に賛成した。
何かで聞いた話だったが、刺さったナイフは、そのナイフ自身が蓋となり、出血を抑える効果になるとか。
けれども、刺さったままだという事も恐ろしい事だ。
わたくしとジムは何も言わないまま、家族の乗っていたミニバンの後部座席の荷物を地面に捨て、空いた所に男性を寝かせた。
男性は震えながら、こう呟いた。

「家族は……家内や子供達は……?」

わたくしは助手席に、奥さんらしき女性を発見した。
シートに眠るようにもたれかかっていた。
喉を横にかき斬られていなければ、本当に寝ていると勘違いする程に……。
わたくしの様子を察したのか、ジムは目を閉じて悔しそうに震えていた。
わたくしだって、泣きたい……。
怖くて……怖くて……これが夢ならどれだけマシか……。
でもこれは現実なのだ……。
人間の死という……変えられない現実なのだ……。
床に捨てた子供達の、血まみれの絵本が目に飛び込んだ。
題名にこう書いてあった。

『WILL I GO TO HEAVEN ?(天国へ行けますか?)』

えぇ……行けますわ……。

「お嬢様、この男性を診ていてください……。僕が運転して、早く警察か病院へ……」

ジムはそう言って血まみれの運転席に座った。
横に、血まみれになって生気を失って死んでいる女性の死体を見ると、悔しそうな悲痛な表情をした。
そして意を決するように、エンジンを始動させた。
ミニバンは路肩からハイウェイへと戻り、そのまま発進していった。
わたくしは、男性の胸に刺さっているナイフから溢れ出る血を手で押さえた。
手は、男性の血でどんどん真っ赤に染まっていく。
こぼれた血が、わたくしのワンピースに赤い染みとなって付着していく。
だが、もうそんな事など気にする余裕はなかった。
せめて……せめてこの男性だけでも助けなければ……。

「家族全員を襲うなんて……」

むご過ぎる現実に、わたくしは心を押しつぶされそうな苦しみを味わった。
……すると、突然、大きな衝撃を車全体が襲った。
わたくしもジムも、何事かとあたりを見回した。
そして後部を見ると……わたくしは恐怖で固まってしまった。
……赤いSUV……さっきわたくしたちを無視して走り去ったあのSUVが……後ろから追いかけ、わたくしたちが乗っているミニバンに激突してきたのだ。
そして最も恐ろしい事に……そのSUVに乗っているのが……あの恐怖の男、ジョン・ライダーだった……。

「あの男ですわ……」

わたくしは震える身体を止められず、恐怖に狩り立てられた。
その恐怖はジムも同じようで、車を加速させていった。
だが、SUVはそれをものともせず、再びミニバンへ激突していった。
その瞬間、わたくしはジョン・ライダーの顔が……あの不気味な嫌らしい笑みに歪んでいるのを見てしまった。
そう思った瞬間再び、ミニバンへ激突してきた。

「車から放り出した仕返しですの……!?」

「なら、あのまま殺されればよかったんですか!?」

そんなのわからない……。
わたくしは恐怖で叫びたくなった。
叫んで……叫んで……狂ってしまいたかった。
この恐怖から逃れられるのなら、どんなことでもしたい……。

「いや……いや……!……死にたくありませんわ……!」

わたくしはジョン・ライダーの視線から逃れるように、血まみれの男性の傷口を押さえ、屈みこんだ。

(神様……助けて……助けて……!)

何度も祈った。
この時程、初めて真剣に神に祈った事はなかった。
……すると、来る筈のジョン・ライダーの激突が……来なくなった。
思わず、身体を起こすと、ジョン・ライダーの乗ったSUVがハイウェイから離れ、砂漠の向こうへと消えていくのが見えた。

「な、なんだったんだ!?今のは……!何がしたかったんだ!!!」

ジムは恐怖からか怒りからか、怒号を上げた。
その気持ちは、痛い程わかっていた。
わたくしも同じ気持ちだ。
恐怖を煽るだけ煽っておいて、わたくし達を殺そうとはしなかった。
……それでも、わたくしは恐怖だけで、死にそうだった。
明らかに精神的に追い詰められたのは確かだった。
そんな精神状態を落ち着かせられる事もなく、狂騒状態のまま、車は一軒のダイナーに近づいていった。
ここなら、電話があるはずだ。
ジムが車を止めると、わたくしはいてもたっても居られず、車から飛び出した。

「ジム!警察か病院へ電話しますわ!あなたはあの男性を診ていてくださいまし!」

「お嬢様!?」

ジムを制止を振り切り、ダイナーの扉を開けた。
落ち着いてなどいられなかった。
その前に警察か病院に連絡するのが先だ。
扉を開けると、ウエイターの女性がわたくしを驚いた目で見ていた。
わたくしは間髪入れずに叫んだ。

「警察か病院に電話を掛けてくださいまし!あ、あとタオルはございませんこと!?」

「た、タオルならトイレのペーパータオルが……」

「感謝致しますわ!」

昨日の夜、ガソリンスタンドで購入したタオルは、既に男性の傷口を押さえる為に使ってしまった。
だが、それでもなお、男性の出血は止まらなかった。
わたくしは、店内を見回し、トイレを探した。
男女共同のトイレが個室であるだけだった。
わたくしは駆け込むようにトイレに入ると、洗面所のシンクの横にあるペーパータオルを、何枚も引っ張って取り出した。
トイレから出ようと振り返った……その時、わたくしの目に恐ろしい物がうつった。
……赤いSUV……あのジョン・ライダーのSUVが窓ガラス越しに、ダイナーの外に止まっていたのだ。
あの男が……ジョン・ライダーがここにいる……!
トイレの扉を見ると、扉の下から人間の足らしき影が伸びていた。
こっちに近づいてくる……!
わたくしは扉の古い鍵を掛けると、後ろの洗面所の壁まで後ずさりした。
口を手で押さえ、呼吸の音が聞こえないように、ぐっと抑えた。
影はちらちらと動き、そして……ガタガタと扉を開けようと動かした。
目を閉じて、恐怖から目を背けたかった。
だが、一旦閉じてしまったら、死んでしまうような気がした。
何が起ころうと、目を開けていなくてはならない。
こんな所で死にたくない……。
恐怖はどんどん増し、わたくしの心を犯していく……。
扉を激しく乱暴にガタガタと動かす音。
それはまるで、わたくしの心の領域を侵すかのようだった。
わたくしは、必死に耐えた。
恐怖と戦い、疲弊し気を失わないよう努めた。
どのくらい時間がたったのかわからない程、扉を開ける音との戦いは続いた。
そうしてやっと、諦めたかのように、扉を開けようとするのを止めた。
わたくしは恐る恐る、扉の隙間からダイナーの店内を覗いた。
……あの男の姿はなかった。
窓から外の様子を見たら、あの赤いSUV……ジョン・ライダーの車はなかった。
ようやく安心して、わたくしは扉の鍵を開けると、店内へ飛び出した。
ウエイターや客は、わたくしを怪訝な顔で見つめていた。
わたくしは改めて自分の姿を見た。
手やワンピースを血で染まった姿だった。
そんな姿を見て、変だと思わない人などいないだろう。
それでも、そんな事を気にする余裕などなかった。

「電話はかけてくださいました?」

「え、えぇ、かけたわ。」

ウエイターのその言葉だけ聞くと、わたくしはペーパータオルの束を持って店内を飛び出した。
急いで、ミニバンの後部座席に駆けつける。
後部座席には、ジムがタオルを男性の傷口に当て必死に抑えていた。
わたくしは声を掛ける間もなく、ペーパータオルをその上に重ねて、ジムと一緒に傷口を押さえた。
ジムもわたくしも、服を血まみれにしながら、男性の命が助かる事を願っていた。
男性は瞳孔の定まらない目をしながら、うわ言のように呟いていた。

「……主は我が牧者なり……たとえ死の影の谷を歩いても……私はどんな悪も恐れない……」

溢れ出る血、全身の痙攣、そして口から吹き出る血……。
わたくしは祈った。
わたくしは敬虔な神の従者ではないけれど、この時ばかりは神様がこの男性を救ってくれるように、祈った。
……けれども、男性は大きな吐血を、わたくし達が抑える手に浴びせるように噴出すと、そのまま痙攣がなくなり……目を開いたままピクリとも動かなくなってしまった……。
……死んでしまった……助けられなかった……。
絶望がわたくし達を包んだ。
後悔と自責の念……そして不条理な現実に、わたくしは涙が止まらなかった。
口を開いたら、声を上げて泣いてしまいそうだった。
……だから、わたくしは……必死に声を出さずに、泣いた。
どれほど泣き続けたのだろう、しばらくするとパトカーのサイレンの音が鳴り響きながら近づいてきた。

(今更……手遅れですわ……)

わたくしは泣きはらした顔を上げた。
すると、信じられない光景が広がっていた。
警官が二人、パトカーから降りていて……わたくし達に銃を向けている。

「動くな!……両手を挙げて見えるようにしろ!車から降りろ!」

わたくしは訳がわからなかった。
わたくしは、警官の言う通りに、手を挙げながら車から降りた。

「違いますわ!警察を呼んで欲しいと言ったのはわたくしですわ!」

「黙れ!連行する!」

警官はわたくしをミニバンから引き離すと、パトカーのボンネットにわたくしを押さえつけて、手を後ろに組まされて、手錠をはめられた。
それはジムも同じようで、ジムはミニバンのボンネットに押さえつけられて手錠をはめられた。

「君には黙秘権がある。発言は不利な証拠となり得る」

「わたくしではありませんわ!!」

わたくしは警官によってパトカーの後部座席に座らせられた。

「彼女は無実だ!信じてくれ!」

「弁護士を雇えない場合は、国選で弁護士がつけられる。……さぁ、来い!」

ジムはわたくしを見つめていた。
わたくしもジムを見つめる事しか出来なかった。
……どうしてこんな事に……。

Chapter 4 「保安官事務所」

「その男は名乗ったのか?」

「ジョン・ライダーだよ!」

ジムは警官に階の下に連れていかれる途中に、警官とそういう会話をしていた。
わたくしは、取調室に連れていかれた。
壁の一部が鏡になっている。
おそらくマジックミラーに違いない。
そのマジックミラーの手前には、ビデオカメラが設置してあり、ランプが赤く光っている。
初老の警官……というより保安官だろう。
その保安官が、わたくしに座るよう促した。

「すわりなさい……」

わたくしは緊張を解かずに、その通りに従った。
取調べにどのくらいの時間がかかったのだろう。
一向に埒があかなかった。

「その男は名乗ったのかね?」

「えぇ、ジョン・ライダーですわ」

「その男をどこで乗せたのかね?」

「ここから東へ……どのくらいの距離かはわかりませんけれど、ガソリンスタンドですわ」

「なんていうガソリンスタンドだね?」

「そんな事、いちいち覚えてませんわ!目印になるようなものもありませんでしたわ!」

初老の保安官は、やれやれといった顔で調書を書いていた。

「その男を乗せたのを証言できる人間はいるのかね?」

「えぇ、ガソリンスタンドの店員が知ってるはずですわ」

「そうかね……」

わたくしの話を信用しているのかしていないのか。
どちらなのかわからないが、まともに相手にしていないといった様子だった。
だんだん、腹が立ってきた。

「わたくし達の事より、早くあの男を捕まえて下さいまし!あの男は危険ですわ!何度も言ってるように、あの家族を殺したのは、私でもなく、ジムでもなく、ジョン・ライダーですわ!早く捕まえなければ、また犠牲者が増えてしまいますわ!」

わたくしの訴えを、保安官はやれやれといった様子で聞いていた。
どうしてわかってくれないの……?
わたくしは、頭を抱えながら、保安官に聞いた。

「……ジムは、今どうしてますの?」

「地下の留置所にいるよ。『僕はやっていない』、『お嬢様と話をさせてくれ』、そう叫んでいたよ」

「……ジム……」

わたくしは責任を感じていた。
わたくしのせいで、ジムがこんな目に……。
そう責任に悩まされていると、若い保安官……ジムを連れて行ったあの保安官が初老の保安官に何かを告げるた。

「ちょっと席を外すよ。しばらくくつろいでてくれ……」

取調べ室でくつろげるわけがない。
気休めの言葉を受け止められる筈もなく、わたくしは憮然とした態度のまま、安っぽいパイプ椅子に座り続けた。

初老の保安官が出て行ってからどのくらいの時間が過ぎたのだろう。
まるで時間が止まっているかのような気がした。
マジックミラーの奥だけがひときわ存在感を出しているような気がした。
わたくしを監視しているのだろうか?

「ごめんあそばせ……。そこにいるのはわかってますわ。はやくわたくしを解放してくださいまし!そこにいるのでしょう!?」

返事がないのはわかっていた。
けれども、言わずにはいられなかった。
永遠とも、止まっているとも言える無のような時間。
わたくしは重い空気の支配する取調室に取り残されたのだ。

しばらくすると、ガチャ、というドアノブが回る音がして、取調室のドアが開いた。
不思議だった。
鍵は掛けてあるはずなのに……。
わたくしはおそるおそるドアを開いた。
……そこは、まるで無人の館だった。
人の気配がまるで無かった。
どういう事なのだろう……?
わたくしは急に不安になった……。
……嫌な予感がする。
廊下に出ると、一匹の警察犬が通り過ぎて奥へと駆けていった。
そして、奥で、何かを舐めていた。
何事かと、わたくしはゆっくりと足を進めた。
無線だけが、無の支配する空間で、音を鳴らしていた。

『○○保安官事務所へ、定期報告がないという連絡を受けた。至急、応答されたし。○○保安官事務所へ……』

その繰り返しだった。
わたくしは恐る恐る犬に近づいていった。
……わたくしは旋律した。
思わず後ずさりして、机の上に倒れこんでしまった。
……あの初老の……わたくしを取調べしていたあの保安官が……顔を血まみれにして倒れている。
顔はぐちゃぐちゃになっており、どんな死に方をしたのか、わたくしにはわからなかった。
その血まみれの顔を、警察犬は、甲斐甲斐しく舐めているのか、それとも血を味わっているのか、わからないが何度も舐めていた。
わたくしは過呼吸に陥った。
今日は一体何度死体を見たのだろう。
わたくしはこみ上げそうな物を口で必死に押さえた。
早くむごい光景から目を逸らしたかった。
だが、そうしたら、再びむごい光景が目に飛び込んでしまった。
ジムを留置所に連れて行った若い保安官が、喉をかき切られて死んでいた。
保安官事務所は、血の池で溢れていた……。

(神さま……なぜですの?なぜこのような事に……)

何度目の涙かはわからないが、わたくしは口を押さえながら、涙を流した。
何度も漏れる嗚咽。
ここは地獄だ。

『誰かーっ!ここから出してくれーっ!お嬢様と話をさせてくれーっ!』

扉の奥から、ジムの声が響いて聞こえた。
ジム……!
わたくしは、ようやく気を落ち着けると、嗚咽を漏らしながら、鍵を探した。
留置所の鍵だ。
鍵棚から、留置所らしき名前のラベルが付いた鍵を探す。
……だが、無い。
留置所の鍵だけが、鍵棚からひとつ、ぽっかりと無くなっていた。

(……そんな……!)

わたくしは、死んでしまった保安官が持ってるのではないかと、推測した。
おそるおそる、死んだ初老の保安官の傍にやってきた。
血の池に膝をつき、舐め続けている警察犬をやさしくどかすと、ズボンのポケットに手をいれまさぐった。
……ない。
わたくしは無残な状態になっている初老の保安官の頭部を見ないようにしながら、後ずさりした。
と、その手に、拳銃を握り締めていた。
……明らかに、誰かに襲われたのだ。
だから、拳銃を抜いていたのだろう。
しかし、その前に殺されてしまった……。
わたくしの動悸は強くなっていった。
保安官の拳銃を、わたくしは恐る恐る手に取った。
力の抜けきった手は、あっさりとわたくしに拳銃を渡した。
銀色のリボルバーは持ち手がべったりと血に塗れていた。
わたくしは次に、喉をかき切られて死んでいる保安官の元に近づいていった。
初老の保安官よりむごたらしい死に方はしていないが、それでも恐ろしい事には違いない。
視線を傷口に向けないように、必死にズボンをまさぐった。

(……!……あった!)

ようやく留置所の鍵を手に入れると、わたくしは留置所へいく扉を開けた。
中は真っ暗で、光がなければ何も見えない。
わたくしは中に入る前に、懐中電灯を探した。
懐中電灯は棚に置いてあり、すぐに見つけることが出来た。
ライトを点け、ゆっくりと留置所へ扉を開け、地下へ伸びる階段を下りた。

「ジム!大丈夫ですの!?」

しかし、わたくしの問いかけに、ジムの返事はなかった。
わたくしは不安になった。
ジムに身に何かが起こったのではないか?と。

「ジム!返事をしてくださいまし!」

返事はない。
わたくしはライトを照らしながら奥へと降りていった。
ライトを照らしても、奥までは光が届かず、どうなっているのかはわからない。

「ジム!返事をしてくださいまし!ジム!」

わたくしは不安で何度も叫んだ。
留置所の階につくと、ようやく鉄格子の中のジムを見つける事ができた。

「ジム!!」

わたくしは泣きそうになりながら、鉄格子に寄り添った。

「お嬢様!」

ジムもようやく安心した顔をしてくれた。

「今すぐここを開けますわ!ライトを持って、わたくしの手元を照らしてくださいまし」

「は、はい!」

古い鋼鉄の鍵を、鍵穴に入れようとするが、手元がわずかなライトの光しかないので、難儀した。
何度目かの挑戦で、ようやく鍵穴に差し込むと、鍵がまわり、施錠が外れる音がした。
鉄格子の扉が開いた。

「ジム!」

「お嬢様!」

わたくしはジムに飛びつき、抱きしめた。
ジムもそれを受け入れるように、わたくしをだきしめてくれた。
自然と涙が溢れ出た。

「ジム……ジム……上で、保安官が……」

「お嬢様……」

わたくしはなんとか説明しようとした。
けれども、恐怖と、ジムの元へたどり着いた安心感から、わたくしは声は言葉にならなかった。

ガチャン!

という音が、突然、背後で鳴り響いた。
と、同時に、何かプラスチックのケースが床に落ちるような音も聞こえた。
ジムがわたくしを抱きしめる力を強めた。
痛い程抱きしめるその腕は、わたくしをジムの後ろへとまわしていた。

「お嬢様……僕から離れないで下さい……」

「ジム……?」

ジムはわたくしを後ろに隠すと、ライトを前方へ照らした。
その瞬間、わたくしは何度も味わったあの戦慄を感じた。
黒に近い紺色のトレンチコートがうつると、ジムはだんだんライトを上にあげていった。
そしてうつったのは……ショットガンを持つ、ジョン・ライダーだった。

「……泣けるな。感動の再会ってやつだ……」

わたくしの嫌な予感は的中してしまった。
ジョン・ライダーがこの保安官事務所の保安官を全員殺してしまったのだ。

「何が目的なんだ……?なんで僕達を付け回す!?」

「目的……?わからないのか……?」

ジョン・ライダーの嫌らしい笑みが不気味に闇を背にうつっていた。
わたくしは怒りに駆られた。

「ジム、どいてくださいまし!」

「お嬢様!?」

わたくしはジムをどかすと、持っていたリボルバーの銃口をジョン・ライダーに向けた。

「〜〜♪」

ジョン・ライダーは余裕な態度で、口笛を吹いた。
そして、

「どうする気だ……?」

そう、挑発的な言葉を吐いた。

「あなたを撃ちますわ……!」

「そうかい……?」

その瞬間、目にも止まらない早さで、ジョン・ライダーはショットガンの銃口をわたくしに向けた。

「勝負といくか……?俺とお前……どっちが生きるか……死ぬか……」

わたくしは震えが止まらなかった。
銃口はガタガタと揺れ、定まらない。

「そのリボルバーはダブルアクションだ。引き金を引くだけで弾は出るが……力の弱いお嬢ちゃんには無理だ。狙いが外れる」

「……おだまりなさい……」

「そんな時は、撃鉄を降ろしたほうが、引き金は軽くて済む。……やってみろ……」

「……おだまりなさい!!!」

わたくしはリボルバーの撃鉄を降ろした。
その様子を見て、ジョン・ライダーは笑った。

「ハハハ……。それでいい!……さぁ、撃てよ」

わたくしは必死で震える手を押さえ、銃口をジョン・ライダーに定めようとした。

「ココだ……。さぁ、撃てよ……」

ジョン・ライダーが左手の人差し指で自分の額を指した。
わたくしは無意識に従うように、ジョン・ライダーの額に銃口を向けた。

「お嬢様……」

声をかけるジム。
しかし、その後の言葉がない。
ジム自身、なんて言葉をかけていいのかわからないのだろう。
ジムがわたくしをとめたら……おそらく、ジョン・ライダーはジムをショットガンで先に撃ち殺してしまうはずだ。
それをわかっているのか、止めるに止められないのだろう。
これは……わたくしとジョン・ライダーの勝負になってしまったのだ。

「ほら……俺が憎いだろう……?あの家族を殺し、保安官も殺した……。おまけにお前らは、殺人の濡れ衣まで着させられた……。この俺が憎い筈だ……。違うか?」

「憎いですわ……。殺したくて仕方がありませんわ……!」

「ハハハハ……!なら撃てよ……!ほら……チャンスだぞ……?」

わたくしは、溢れる涙を抑える事が出来ずに、ジョン・ライダーに銃を向けていた。
引き金に指を掛けている。
いつでも、撃つことができる……。

「さぁ、撃てよ!」

「うるさい!!!!」

ジョン・ライダーの構えるショットガンの銃口が、わたくしの顔を捉えていた。

「なら、こっちからいくぞ……?カウントの後に……俺は撃つ。3つ数える間に、お前は俺を殺せるチャンスを与えてやる。死にたくなかったら、さっさと撃て……!」

「…………」

「3………」

「…………」

「2………」

「…………」

「1………っ!」

その瞬間、わたくしの中の『何か』が切れた。

「あああああああああああ!!!!」

ガチッ!

金属を打つ、虚しい音が留置所内に響いた。

「ハハハハ……!どうだ?初体験……。人を殺す快感は……?気持ちいいだろう……?」

わたくしは、放心状態のまま、その場に座り込んでしまった。
……わたくしは……引き金を確かに引いてしまった……。
弾はリボルバーから出ず、ジョン・ライダーは余裕で生きている。

「弾はここだ……!」

そう言うと、ジョン・ライダーはコートのポケットから弾丸を取り出して、それを床にばら撒いてこぼした。
わたくしの持っていたリボルバーは弾が全て抜かれていたのだ。
ジョン・ライダーはわたくしに近づくと、わたくしの同じ目線まで、しゃがみこんだ。
ジムはショットガンを向けられ、身動きが取れない。
わたくしは放心状態のまま、ジョン・ライダーに問うた。

「一体……何が目的ですの……?あなたは……何がしたいんですの……?」

ジョン・ライダーは意外にも、わたくしの右頬を左手でやさしく撫でると、こう言った。

「……お前は頭のいいガキだ。……自分で考えろ……」

そう言うと立ち上がり、一階へあがる階段を上り、わたくしたちに背を向けて立ち去った。

「お嬢様…っ!」

ようやくジムがわたくしを後ろから抱きしめた。

「お嬢様……!」

わたくしは放心状態から立ち直る事が出来ずに、うわ言のようにつぶやいた。

「ジム……わたくし、人を殺してしまいましたわ……。未遂とはいえ……銃の引き金を引いて……人を……」

「お嬢様……!」

すると、サイレンのけたたましい音が聞こえた。
ジムはわたくしを抱き起こすと、地面に散らばった弾丸を拾い集め、わたくしを抱きかかえながら階段を上った。
窓からは、パトカーが何台も、保安官事務所の前に止まって、警官が降りてきていた。
ジムはわたくしを連れ、裏口から保安官事務所を出た。
沢山の警官が入れ違いに保安官事務所へ突入していくのが見えた。
わたくし達は、裏口から丘の上へ上っていった。
その時になって、ようやくわたくしは気を持ち直すと、一人で歩けるようになった。

「お嬢様……銃を」

「え……?」

「銃を僕に……危険です」

「差し上げますわ、こんなもの……」

わたくしは押し付けるように、リボルバーをジムに渡した。
苛立っていた。
その時のわたくしは身勝手にも、ジムを責めていた。

「あの時……帰っていれば……」

「僕のせいですか……?」

「してませんわ!」

「してますよ!」

「……なぜ、あんな男を乗せたんですの?」

「あ、あの男が乗せて欲しいって言ったから……!あの店員だって!」

「あんな危険な男ですのよ!?」

「仕方がないでしょう!僕だって、わかってれば乗せませんでしたよ!……お嬢様だって、賛成したじゃないですか……」

険悪な空気が漂っていた。
その空気を作ってしまったのはわたくしだ。

「えぇ……賛成しましたわ」

わたくしはジムから視線を背け、前に進んだ。
……すると……、

ガシャンッ!

という音と共に、頭上から何かが降ってきた。
巨大な鉄の塊が降ってきたのだ。
わたくしはおもわずしりもちをついてしまった。
鉄の塊は赤い塗装をしていた。
……よく見れば、あのジョン・ライダーの乗っていた赤いSUVだった。
あと数センチ前に出ていたら巻き込まれ、潰されていた。

「お嬢様っ!」

ジムが傍に駆け寄ると、わたくしを抱き起こし、降ってきた頭上方向へ、銃を向けた。
ジョン・ライダーらしき人影はなかった。

「……畜生っ!」

わたくしたちは、何かに逃げるように岩肌の露出した丘を歩いた。

わたくし達が丘へ逃げている間、保安官事務所は現場検証が行われていた。
若い白髪の男が、現場の凄惨さに苦虫を噛み潰したような顔をしていた。

「エスターリッジ警部補、資料です。」

若い警官が、エスターリッジと呼んだ白髪の男に資料を手渡していた。
その資料は、わたくし達が保安官事務所で取らされた写真と調書があった。

「男のほうは21歳……。女のほうは……まだ14歳か。ムリだ……。この二人には殺れない。ホシは他にいる」

エスターリッジ警部補は、銃器棚を見た。
棚から二つ銃がなくなっている。

「犯人は銃を持っている……危険だぞ。周囲に検問を張れ!手の空いてる者は周囲を巡回しろ!」

そういうと、一人の若い警官を呼んだ。

「おい、状況が知りたい。男の方は留置所にいたんだな?」

「はい」

エスターリッジ警部補は歩いて、取調べ室のマジックミラーの内側に進んだ。

「女のほうは、ここで取り調べを受けていた。そうだな?」

「えぇ」

それを聞くと、マジックミラーを指さした。

「……それじゃあ、コレは誰が描いたんだ?」

エスターリッジ警部補が指したところには、絵が描いてあった。
血で描かれた、恐らく指で描いたのだろう、女の絵だった。

「ヘリを飛ばしてホシを探せ……。奴はまだこの周辺にいるぞ」

わたくし達は一軒のトレーラーハウスにたどり着いた。

「開けて!開けてくださいまし!」

ドアを叩いて必死に懇願した。
けれども、ドアが開くどころか、人の気配すらない。

「クソッ!無人か!!」

ジムが悪態を着く。
わたくしはジムの悪態にはかまわず周囲を見回した。
……すると、遠方に……紺色のトレンチコートの男、ジョン・ライダーが見えた。
手に、今度はショットガンではなく、ライフル銃を持って……こっちに近づいていた。

「ジムっ!」

「え?……!!」

ジムもジョン・ライダーの姿を確認したのか、慌ててわたくしの手をとって走り出した。
走る先に、金網があり、その向こう側には古い黒のスポーツカーがあった。

「あの車に……!」

ジムはそう言って、金網を登り始めた。
だが……、どこからともなく、猛犬が走って近づいてきた。

「ジム!離れて!」

「う、うわあっ!?」

黒い猛犬……恐らくドーベルマンだろう、金網に近づくわたくし達を吠え立てた。
金網がなければ、おそらく、襲われ、噛み殺されただろう。
ジムは金網から慌てて降りると、わたくしの手を取り、トレーラーハウスの横の古びた納屋に入り込んだ。
埃と、蜘蛛の巣が張り巡らされている古い納屋の扉を閉め、わたくし達は息を潜めた。

「逃げ道はありませんの……?」

「無い……ありません……」

わたくしは壁になっているトタンの穴から、外の様子を伺った。

「やつは!?」

「……見えませんわ……」

ジムはリボルバーを取り出すと、弾を詰め、装填すると、外へ向け銃を構えた。

「ヤツが入ってきたら……撃ちます!」

わたくしは何も言えなかった。
おそらく、それが正しい選択なのだと、本能的に悟ったからだと思う。
わたくしは穴を覗きこみ、周囲を見回した。
ジョン・ライダーの姿はない……。
すると、しばらくして一台のパトカーが近づいてくるのが見えた。
中から警官が出てきた。
……ダイナーでわたくし達を捕まえたあの警官の一人だった。

「ここから出て、あの人に保護してもらいましょう……」

「よして下さい!またつかまるだけです!」

「でも、あの男に殺されるよりマシですわ!せめて、話だけでも……」

ジムは悩んでいるようだった。
わたくしの考えている事は、ジムも同じようだった。

「……僕が話してきます……。銃を持っていて下さい……」

ジムが銃を差し出す。
わたくしはそれをおそるおそる受け取った。

「ここから、見張ってて下さい……」

ジムはゆっくりと納屋から出ると、辺りを見回しながらパトカーへと近づいていった。
……すると、どこからか警官が現れ、ジムに飛び掛り、地面へ押し倒した。

「!?僕は何もしてない!!」

「もう逃がさないぞ……!」

そう言うとジムに手錠を掛け、無線を取った。

「こちらSO-258。男の方の容疑者を確保した。……女の方はまだだ」

ガチリ!

という音で警官は音の鳴った方へゆっくりと振り向いた。

「お、お嬢様……!」

わたくしは、撃鉄を降ろし、銃を警官の方へと向けていた。

「ジムをお放しなさい」

警官は固まったままだった。

『すぐ応援がそっちへ行く』

無線がそう告げていた。

「早くジムをお放しなさい!早く!」

警官は慌てて、ジムの手錠を外した。

「手を挙げて……。言う通りになさい……!」

「落ち着け……冷静になれ……」

「冷静ですわ……!早く手をお挙げなさい!」

警官は手を挙げた。
だが、すぐに右手がゆっくりと下ろされ、携帯している拳銃に伸びるのが見えた。

「手を降ろさないで!」

そう一喝すると、警官はすぐに手を戻した。

「お嬢様……そんな真似はおやめください!」

「ジム……銃をお取りなさい」

ジムは動揺しながらも、手を挙げている警官の銃を抜き、奪い取った。

「すみません……」

「逃げますわよ……ジム。あなたは車にお乗りなさい!」

わたくしは警官に一喝した。
手段を選ぶ余裕などなかった。
はやく逃げなくては……あの男から……!
ジムはわたくしの傍に立って、同じように警官に銃を向けていた。

「お嬢様……無茶ですよ!」

「例え無茶でも……逃げるのです!後ろをお向きなさい!」

そう言われると、警官はしぶしぶ後ろを向いた。

「ジム、あなたは早く車に乗って……」

ジムはわたくしの言葉に従って車に乗ると、エンジンを始動させた。

「あなたも……車にお乗りなさい!」

「銃を寄こしなさい……。それは子供のおもちゃじゃないんだ」

「わかってますわ……」

銃を寄こすように促すと、警官は手を伸ばした。
わたくしはそれを拒否するように、警官の顔に銃を突きつける。

「今すぐ、ここから逃げないといけませんの……。早く車にお乗りなさい!」

わたくしがそう叫ぶと、パンッ!という破裂音が響いた。
と、同時に、警官の頭部に穴が開き、パトカーに血が飛び散った。

「っ!!!!」

そんな……わたくしは撃っていないのに!?
わたくしは慌てて回りを見回した。
すると、金網の向こうの廃車になった古いバスの中から……あのジョン・ライダーがライフル銃を向けていた。
ライフル銃の銃口から煙が立ち込めていて、ジョン・ライダーはあの嫌らしい笑みでニヤリと笑うと、ライフル銃を仕舞い込んだ。

「お嬢様!なぜ!?」

「わたくしではありませんわ!」

すると、奥から別の警官が現れた。

「動くな!!」

そう言うと、わたくしに向かって発砲してきた!

「きゃああ!」

弾は幸い当たらなかったものの、いつ当たってもおかしくない。

「お嬢様!早く乗って下さい!逃げるんです!」

わたくしは転びそうになりながらも、急いでパトカーの助手席に乗り込んだ。
警官はなおも発砲し、パトカーに当たった。
ジムは急いでパトカーを発進させ、荒野を降りてハイウェイに向かった。
パトカーの無線が鳴り響いた。

『こちらSO-265!警官が撃たれた!警官が撃たれた!女が撃った!パトカーで逃走した!』

わたくし達はパトカーで必死に逃げた。
警察から……そして、あの男から。

Chapter 5 「カーチェイス」

わたくし達を乗せたパトカーは、荒野からハイウェイへと飛び出た。
その後を、わたくしに向かって撃ったあの警官のパトカーがぴったりとくっついて来た。
運転するジムに、わたくしは問いたかった。
どこへ向かっているのか……。
わたくしは、先ほど撃たれそうになった動揺を必死に抑えようとしながら、ジムに問うた。

「一体、どこに向かっているんですの?」

「どこか遠くですよ!どこでもいいから、早く逃げ切らないと……!」

ジム自身、走ってるハイウェイがどの町へ、どの方角へ向かっているのか、わかってはいないようだった。
ただひたすら……、警察から逃げている。

「お嬢様……さっき一体何があったんですか!?」

「あの男ですわ……あの男が、あの警官を……!」

「クソッ!とことんやる気だ……!」

ジムの悪態にはもう慣れた。
悪態をつきたい気持ちはわたくしだって同じだからだ。

「えぇ……」

そう、返事するのがやっとだった。
わたくしはひとつにして最大の疑問が浮かんだ。
あの男……ジョン・ライダーの目的はなんなのだ?

「あの男……わたくし達を陥れるつもりなのかしら……?」

「なら、保安官まで殺さなくても十分ですよ!」

「なら、なぜ!?」

「知りませんよ!!」

追跡のパトカーが近づいてきた。
警察無線が、警察の状況を述べていた。

『容疑者は銃を所持。繰り返す。容疑者は銃を所持……』

バックミラーを覗くと、いつの間にか追跡のパトカーは2台に増えていた。

『警部補。○○号線で容疑者の車を追跡中』

今度は3台に増えた……!

『容疑者は銃を所持している。ヘリから見えるか?』

『こちらからは見えない』

わたくしは窓から上空を見上げた。
だが、窓からはヘリの姿を見つけることは出来なかった。

「お嬢様。その無線で、奴の居所を知らせては!?」

「え、えぇ……」

わたくしはパトカーの無線機を取ると、スイッチを押しながら、無線が通じる事を祈りながらおそるおそる口を開いた。

『もしもし……。誰か、聞こえますの?』

わたくしがそう言った途端だった。
上り坂のハイウェイから下りへ降りようとわたくし達のパトカーが走っていると、坂のほうからギリギリ見えない位置からヘリが現れた。
上り坂で隠れて見えなかったのだ。
ヘリはわたくし達のパトカーをかすめるように上を通り過ぎた。

「わっ!?」

「きゃっ!?」

わたくし達は突然現れたヘリに驚いて、悲鳴を上げてしまった。
だが、ヘリはかまわず、無線でこう告げていた。

『ヘリから本部へ。容疑者の車を発見』

事態はますます悪い状態になっていった。
バックミラーで見えるだけで……追跡してくるのは、パトカーが5台、そしてヘリだ。
この状況下で、ジムは必死でアクセルを踏んで、ひたすらハイウェイを走っていた。
ジムの心境を察するにあまった。
すると、無線の応答が違うものへと変化していた。

『雪広あやかとジム・ハルシー。私はカリフォルニア州警察のエスターリッジ警部補だ。大丈夫か?』

大丈夫か、ですって!?
わたくしは思わず、無線に向かって叫んでいた。

『どこを見たらそう思えますの!?大丈夫どころではありませんわ!』

『…………』

無線の相手——エスターリッジ警部補と名乗った男性は、わたくしの怒鳴り声に言葉を失ったようだった。

『……落ち着きなさい。はやく車を止めて、投降するんだ』

『警官を撃った男は、保安官事務所の近くにあるトレーラーハウスの付近にいますわ!』

『目撃者は、君が撃ったと言っている。いいか、今すぐ車を止めれば、話を聞いてやる』

わたくしは迷った。
止まって、警察に身を預けるべきなのか。
それとも逃げ続けるか——。

『いいから、聞いてくださいまし!わたくしは警官を撃ってなどおりませんわ!あの家族も殺してなどおりませんわ!何度言えば信じてもらえるんですの!』

『どうするかは、私が決める。だから、手遅れになる前に車を止めるんだ』

いや、止めるわけにはいかない。
わたくし達は、警察にだけ逃げているわけではない……。

『止められませんわ……。あの男が……あの男から逃げないと……』

『いいか、言う通りにしないと力ずくで車を止めるぞ!』

『車は止めませんわ!』

『話し合い』は決裂に終わった。
今、止まるわけにはいかない。
あの男から逃げなくては……。

『警部補!車は停止しません!』

『なら、さっさと車を止めろ!』

バックミラーから、パトカーが2台、間に挟むように並行して近づいてきた。
助手席の警官が、窓からライフル銃を取り出して構えるのが見えた。
そして次の瞬間には、発砲してきた……!
最初の一発目はフロントガラスに当たり、警官は続けて何発も撃ってきた。
サイドミラー、ボディ、サイレン、ありとあらゆる所から弾けるような音がした。
本当に撃って、止める気だ……!
このままでは、あの男に捕まるより先に、警察に殺されてしまう……!
わたくしは慌てて無線で答えた。

『待ってくださいまし!止まりますわ!止まりますから撃たないで下さいまし!』

無線から口を離すと、ジムに止まるよう促した。

「ジム!早くお止まりなさい!」

「は、はい!」

ジムは慌てたように、ブレーキとクラッチを同時に踏んだ。
すると、左右横に並行に進んでいた2台のパトカーがわたくし達の車の前方に飛び出た。
そして、お互いが、お互いのパトカーのフロントタイヤを撃ち抜いた……!
本来ならば、わたくし達のパトカーの左右のフロントタイヤを撃ち抜くはずだったのだろう。
前方に飛び出た2台のパトカーはそれぞれ、撃ち抜いたタイヤの方角へバランスを崩した。
そして……おそろしい事に2台はバランスを崩して、空中できりもみ回転した。
まるでコマのように、転がるようにスピンした。
それは壮絶な光景だった。
ジムは目の前に迫る、コマと化してスピンする2台のパトカーを、なんとか避けようとハンドルを大きくきった。
まず、右斜め前から迫る1台目を避けようと左へ大きくきった。
重心が右に寄る。
すると、車は横滑りを始めた。
明らかに曲がりきれていない……。
すると、今度は右へハンドルを切った。
タイヤが悲鳴を上げながら、景色は左から右へ、重心は右から左へと移っていった。
そして車の右横をコマと化したパトカーが通り過ぎた。
だが、今度は右向きのまま横滑りの状態で、左斜め前から2台目のパトカーが迫っていた。
ジムはそれも避けようと、急いでハンドルを左へきった。
今度は、景色は右から左へ、重心は右から左へと移っていった。
2台目のパトカーは、わたくし達の車の鼻先をわずかにかすめると、フロントガラスからは右から左へと流れるように通り過ぎていった。
2台のパトカーを避けると、わたくし達の車は、バランスを取り戻すように、ゆらゆらと左右に揺れながら、次第にハイウェイに向かって真っ直ぐ進んでいった。

「はぁ…はぁ…お、お嬢様、大丈夫ですか?」

「は、はぁ……あぁ……」

わたくしは腰を抜かし、間抜けなあえぎ声を出してしまった。
それほど、さき程の出来事は怖かった。
わずか数秒ほどの出来事だったが、わたくしにはまるで時間の流れがゆるやかになり、数十秒にも感じた。
バックミラーを見ると、あの2台のパトカーはハイウェイを転がるようにすべった。

『2台大破!2台大破!』

後ろのもう3台も、なんとか転がる2台を避けたようだった。
すると、無線がまた何かを告げた。

『……警部補!後方から車が1台接近中!……黒のトランザムです!』

まさか……!?
わたくしは身体ごと後方を見入った。
黒いスポーツカーが接近している。
車は、あのトレーラーハウスの近くにあったものと同じ車種だ。
そしてそれに乗っているのは……。
わたくしは思わず涙声で喘いでしまった。

「……ジム……。あの男ですわ……!」

……ジョン・ライダーだった。
ジョン・ライダーの乗る黒のスポーツカー……トランザムはわたくし達の後方で並行して走行している2台のパトカーの左側に並んだ。
そして……拳銃らしき物を取り出すと、パトカーに向かって発砲した……。
2台の内、左側のパトカーのフロントガラスが真っ赤に染まると、バランスを崩したように右側のパトカーにぶつかっていった。
右側のパトカーは左側から来る重心に耐え切れず、転がるように回転してスピンした。
そして、バランスを失った左側のパトカーは、回転してスピンする右側のパトカーに巻き込まれるように、スピンした。
2台は転がるようにスピンし、車体をグシャグシャに変形させながら止まった。

『2台大破!2台大破!なんなんだあれは!?』

無線から悲痛なまでの困惑と恐怖の声が聞こえてきた。
恐ろしいのはわたくしだって同じだ……。
昨日の夜から……ずっとあの恐怖に追いかけられているのだ……。
ジョン・ライダーは、今度は拳銃をヘリに向けて、発砲した。
何発もの銃弾がヘリのボディを傷つけた。
そして、その後の数発の発砲で、ヘリのフロントガラスは真っ赤に染まった。
想像したくはないが、ガラスを貫通し、ヘリの操縦士に命中したのだろう……。
ヘリは失速しながら、わたくし達の前方へ墜落し、炎上した。
突然の燃える障害物に、ジムは慌ててハンドルを切り、紙一重で避けた。
だが、わたくし達の後ろの最後の1台となってしまったパトカーは、避けきれず、燃え盛るヘリの残骸に正面から衝突、そのまま爆発して炎上した。
わたくしには、その断末魔が聞こえるようだった。

『チクショーーーーッ!』

エスターリッジ警部補の怒りの叫び声が、無線からけたたましい音として鳴り響いた。
ハイウェイの上には、わたくし達のパトカーと、ジョン・ライダーのトランザムの2台だけになってしまった。
すると、次第にトランザムが近づいてきた。

「ジム!急いで!早く!」

「駄目です!これが限界です!」

パトカーは白い煙をボンネットの内側から出ると、大きな音を悲鳴のように数回出して、減速していった。
すると、ジョン・ライダーの乗ったトランザムが、それに合わせるかのように、わたくし達の横に並んだ。
わたくしは、この時、あのパトカーの警官のように、撃たれて殺されるものと思った。
おそらく、ジムも同じだったに違いない。
だが、わたくし達の顔を見ると、あの恐ろしくて嫌らしい笑みを浮かべて、わたくし達の前方へと走り去っていった。
わたくしは恐ろしくて、わけがわからなかった。
わたくし達を好意で助けたわけではないことは明らかだ。
だが、何のつもりで警官を殺し、パトカーやヘリを排除したのかわからない。
ジョン・ライダーは、いつも……いつも……わたくしに恐怖と疑問を残して姿を消す。
まるでわたくしに謎解きをさせるかのように……。
わたくしの脳裏に、あの時の言葉が蘇った。

(……お前は頭のいいガキだ。……自分で考えろ……)

パトカーは煙を上げながら、ゆっくりとハイウェイの上で止まった。
辺りはすっかり真っ赤な夕焼けに染まっていた。
けれども、その夕焼けの美しさも、まるで残酷な世界の一風景にしか見えなかった。

「お嬢様……」

ジムの問いかけに、わたくしは無言のまま頷いた。
車を降りたジムは、助手席のドアを開けると、わたくしに手を差し伸べた。
わたくしはその手を取ると、車から降りた。

「……行きましょう、お嬢様」

わたくしは、また無言のまま頷いた。
先の見えない逃避行。
生き延びる、たったそれだけが目的の逃避行だった。
車から降りて、わたくし達は荒野を歩いた。
わたくしとジムは、去年以上の絆で結ばれている気がした。
……生き延びる、絶対最後まで……。
手を握りながら、わたくし達は荒野を歩き続けた。

Chapter 6  「モーテル」

どのくらい歩き続けたのか……。
夕日はすでに、荒野の中へと沈み、暗闇が辺りを支配していた。
わたくし達は無言のまま荒野を歩いていた。
会話など必要なかった。
不思議な事に、たった一日でわたくし達の絆は深い物になっていた。
言葉など要らない、要るのは互いの存在だけ。

岩肌の露出した丘を登ると、明るいネオンのモーテルが見えた。
明らかに安宿だが、文句を言える余裕などない。
以前のわたくしならば、あんな安宿など死んでも泊まりたくないと、駄々をこねていただろう。
けれども、今のわたくしには、やっと訪れた安らぎの場に思え、有難かった。
モーテルには、何台もの大型のトレーラーが駐車しており、ハイウェイを通るトレーラーの運転手が良く利用するのだろう。
わたくし達は各々が持っている銃を見られないように隠しながら、モーテルまで近づいていった。
管理人らしき人物は場を離れているようだ。

「今がチャンスです。無人の部屋に忍び込みましょう」

文句があろう筈もなかった。
ジムは、窓から部屋の中を見て、無人かどうかを確かめていた。
いくつか見て回ると、どうやら無人の部屋を見つけたようで、部屋の窓に近寄ると、窓を開けた。
窓は簡単に開いた。
……ここの経営者は、このモーテルの警備システムを把握しているのだろうか?
簡単に入り込めたら、いくらでも不審者が侵入してしまう。
だが、そんな心配はいくらしても無駄だという事はわかっている。
わたくしは銃を持つ手を硬く握りしめた。
自分の身は自分で守れ———ここに来て、イヤという程教わった教訓だった。
ジムは窓から部屋に侵入すると、ドアの施錠を外し、ドアを開けてわたくしを中に招き入れた。

「お嬢様。部屋の電話で、別荘のホテルに電話を……」

言われなくても、わたくしは既にベッドの横に備え付けてある古い電話機に向かっていた。
受話器を取ろうとした瞬間、わたくしは意気消沈してしまった。
怪訝に思ったのだろう、ジムが声を掛けてきた。

「……お嬢様?」

わたくしはジムの疑問に答えた。

「この電話……フロント専用ですわ」

「……そんな!?」

ジムの落胆する声が部屋に響いた。
わたくしだって同じ気持ちだ。
けれども、物は試し、と受話器を取った。
電話機のたった一つしかないボタンを押すと、受話器からコール音が鳴った。
けれども、いつまでたってもフロントは電話を取らない。
やはりフロントには誰もいないのだ。
再び落胆すると、受話器を置いた。
わたくしは無言で首を振った。

「……クソっ!」

ジムは荒い息を立て、怒りを部屋の壁にぶつけた。
何度も何度も、拳を壁に打ち続けていた。
ジムは荒い息をようやく落ち着かせると、わたくしにこう言った。

「お嬢様はここで休んでいてください。僕は近くに電話がないか探してきます」

「ジム……」

わたくしは急に不安になり、ジムの胸に飛び込んだ。

「ごめんなさい……。わたくしのせいで……こんな事に……」

ジムは暖かい笑みでわたくしを向かえると、優しく頬を撫でてくれた。

「お嬢様のせいではありませんよ……。責任を感じる必要はありません……。今は……前だけを向きましょう」

ジムの添える手を、わたくしは握りしめた。
自然と涙を嗚咽が漏れた。

「ジム……!ジム……!」

わたくしの心は崩壊寸前だった。
アメリカに来てから、恐怖の連続だった。
およそ中学生が味わう事のない恐怖を、突然不条理に味あわされた。
それでも……それでもジムがいてくれたから……わたくしは生き延びる事が出来た……。
ジムがいなかったら、わたくしは既に心身ともに死んでいたはずだ。
……既にわたくしにとって、今やジムが唯一の心の支えだった。
そんなジムがわたくしの傍から離れようとしている。
そう思っただけで恐ろしくなった。

「大丈夫ですよ、お嬢様……」

そう言って、ジムはわたくしの溢れる涙を手で拭ってくれた。

「……15分で戻ります。……待ってて下さい」

ジムはそう言うと、わたくしを身体から離すと、ドアノブに手を掛けた。

「……ジム……」

ドアを開けると、ジムは振り返り、わたくしを見つめ返した。
気丈にも、爽やかで朗らかな笑顔で……。

「大丈夫ですよ……お嬢様」

……わたくしは、その時の、ジムを笑顔を忘れる事が出来ない。
ジムはわたくしを励ますように、笑顔のまま部屋を出た。
急に部屋にひとり取り残されたわたくしは、やり場のない不安を胸に抱えたまま、ベッドに倒れこんだ。
そして、ひとり部屋の中で、泣いた。
わたくしはひたすら心の中で自分を責めた。
ジムはわたくしに、責めることはないと言ってくれたけれども……。
わたくしには、自分を責める事しか出来なかった。
短気でアメリカに来なければ、ジムを巻き込まずに済んだ……。
あの男に付け狙われるような事もなかった。
そして、いつものように、あの賑やかな学校のクラスメイトと、愛らしい先生と、楽しい笑顔に満ちた生活を送れたはずだ。
……それを捨て去ったのは、わたくしなのだ……。

(ごめんなさい……ごめんなさい……)

ふと、目に砂埃が入った。
その時ようやく、わたくしの身体が誇りまみれになっていることに気付いた。
わたくしは身体を起こすが、まるで甲冑を背負ったかのように重く感じた。
それでも、わたくしは身体を起こし、シャワールームへと向かった。
ベッドの横に置いたリボルバーを手に取り、洗面台の前に立った。
……酷い顔をしている。
何度も泣きはらした顔をしており、涙の跡や、埃に塗れた汚い顔になっている。
……こんな顔でジムに抱きついたのかと思うと、恥ずかしくなった。
涙をぬぐい、鼻をすすると、洗面台にリボルバーを置き、シャワールームの扉を施錠した。
ワンピースを脱ぐと、それを手にとって見つめた。
汗と砂埃……そして血に塗れ、すっかり美しさを失っている。
靴とキャミソールとショーツも脱いで、身に纏う物を一切排除した。
バスタブに入ると、ノブをひねって、シャワーからお湯を頭から被った。
バスタブの排水溝に泥の濁った水が流れていく。
……わたくしはただ、バスタブの上に突っ立ったまま、頭からお湯を浴びるだけだった。
何を考えるでもない、ただ虚しい気持ちを胸に抱いたまま、亡霊のように立っていた。
……はやく帰ってきて欲しかった。
……ひとりになることが、これほど孤独で、恐ろしく感じたのは初めてだった。
もう二度と戻ってこないのではないか、そんな気すらしていた。
わたくしは、怖そうな心を必死に奮い立たせて、自分に言い聞かせた。

(あやか……ジムを信じるのです。ジムはいつだって……わたくしの味方でしたわ)

ジムを信じる他はない。
たったそれだけの事なのに、それを信じればいいだけなのに、今にも心が折れそうな程不安だった。
わたくしは思い立ったかのように、バスタブから出ると、濡れた身体のまま洗面台に向かって対峙した。
雫が滴るわたくしの裸体は、まるで痩せ細って今にも死んでしまいそうな程、貧相に写っていた。
ロングの髪が肌に張り付くのも構わず、わたくしは洗面台に置いたリボルバーの上に手を置いた。
そして祈った。
さながら、リボルバーは聖書か十字架のようでもあり、頭からお湯を被ったわたくしはバプテスマの洗礼を受けた巡礼者のようでもあった。

(信じるのです……ジムを……信じるのです……)

何度も……何度も……自分に言い聞かせた。
そしてリボルバーを手に取ると、鏡に写った自分の額に銃口を向けた。
鏡に写ったわたくしも、銃口をこちらに向けている。

「…………バン…………」

わずかに漏れるような声で、そう呟いた。
リボルバーを再び洗面台に置くと、汗で汚れたショーツとキャミソールとワンピースを着た。
そしてすっかりくたびれた靴を履いて、洗面所から出た。
洗面所から出ると、ベッドの横の時計を見た。
……それを見て、わたくしは急に不安に駆られた。
必死に自分に言い聞かせていた事が崩れそうになった。
あの時……ジムが部屋を出てから……すでに15分以上経っていた。
約束の15分が過ぎても……ジムは戻ってこなかった。

「…………ジム?」

たったひとりきりの部屋で、わたくしはジムを求めた。

「…………ジム?」

なぜ戻ってこないの……?
わたくしは、嫌な予感が脳裏に浮かぶのを必死で消そうとした。

(そんな事……ジムは必ず戻ってきますわ……そう申していたでしょう……!)

さっきまでそう言い聞かせていた事が、まるで現実味の無い絵空事のような気になっていた。
わたくしは待ち続けた。
けれども、どんなに待っても、ジムは戻ってこなかった……。
どんなに待っても……ジムは戻ってこない……。

「……ジム……。……ジム……!」

とうとう、不安が心を支配した。
不安と恐怖に駆られ、わたくしはリボルバーを持って部屋を飛び出した。
部屋を飛び出すと、大型のトレーラーが目の前を横切っていた。
とっさに、後ろに銃を隠した。

「…………ジム?」

トレーラーが並ぶ駐車エリアと、それを囲むモーテルの部屋の間を、わたくしは彷徨った。
ひたすら、ジムの名を呼びながら。

「…………ジム?」

すると、1台のトレーラーが駐車エリアから出て行った。
……その時、わたくしの目に信じがたくて恐ろしい光景が姿を現した。

「ジムっ!!!!」

わたくしは思わず叫んだ。
ジムが……あのジムが……二台のトレーラーに、鎖で両手両足を繋がれ、宙吊りになっていた……。
まるで橋のように、二台のトレーラーの間に、ジムの身体が引っ張られ、揺られているのだ。
ジムは苦悶の表情でわたくしを見つめていた。
恐ろしい光景だった……。
あの鎖で繋がれている2台が離れた瞬間……ジムの身体は……。

「ジムっ!!!!いやぁあ!!!!!ジムっ!!!!」

急いでジムの元に駆け寄った。
ジムはハンカチかバンダナのような物で口を塞がれ、満足にしゃべる事も出来なかった。

「お、お嬢様……!」

「ジム……!いやぁ……!ジム……!」

自然と涙と嗚咽が漏れた。
涙で揺れる視界に構わず、ジムの両手を縛りあげている鎖を解こうとした。
けれども、鎖は鋼鉄製で、何重にもジムの両手両足を縛りあげている。
おまけに、南京錠で鎖が外れないように施錠されていた。
わたくしの力では、到底ジムを解放することなど出来なかった。

「ジム……ジム……」

涙で顔を歪ませ、ジムの身体に寄り添うことしか出来なかった……。
……すると、ジムの足の方に繋がれているトレーラーが、けたたましい音を立てた。
そしてエンジンを吹かす音がすると、わずかにトレーラーが前に進んだ……。
次の瞬間には、ジムの身体は跳ね上がり、しなった。

「ヴゥ……ウウウウウウアアアアッ!」

ジムの悲痛な声が上がった。

「いやあああああああああああっ!」

……その時、わたくしはジムの身体が引き裂かれると思った。
だが、すぐに、トレーラーは停止した。
ほんのわずか前に出ただけだった。
だが、さっきより、より一層ジムの身体は張り詰められていた。
わたくしは、動き出したトレーラーの方を向いた。
……トレーラーのサイドミラーに……ジョン・ライダーの顔が写っていた。
わたくしは、ジムをしばらく見つめると、トレーラーに身体を向け、歩みを進めた。
……ジムを助けるには、あのトレーラーを止めなくてはならない。
……それはつまり、あの男と対峙するという事なのだ。
リボルバーのグリップを持つ手に力が入った。
わたくしと……ジョン・ライダーは、サイドミラーを隔てて顔を向けあっていた。
トレーラーの助手席のドアに近づくと、わたくしは勢いよく開けた。

「止めなさい!!!!」

そう言うのと同時に、銃をジョン・ライダーに向けた。
その時、改めてジョン・ライダーの姿を見た。
あの何度も見せたあの嫌らしい笑みは消え去り、顔中を汗で滴らせていた。
いつもとはまるで違っていた。
あのジョン・ライダーが、何かに追い詰められているかのように、冷や汗をかいて、緊迫した顔をして前方のフロントガラスを見ているのだ。

「出来ない……」

目を見開いてわたくしに振り返るジョン・ライダーは、余裕のない声でそう言った。

「エンジンを止めるのです!!!!」

ジョン・ライダーは汗を滴らせながら、自分の足元を見た。

「……この車のクラッチは気難しくてな……」

そういうと左膝を小刻みに上げ下げした。
そのたびにエンジンはうなり声をあげ、わずかにトレーラーは前に進んだ。
そして、……ジムの悲痛な声があがった。

「……半クラッチだ……!」

ジョン・ライダーの額に流れる汗が、顔を伝わり、顎から滴り落ちた。

「撃ちますわよ!!!!」

わたくしは、おそらく、生涯でこの時より前に、こんなに気性を荒立たせ、ヒステリーのような怒鳴り声を上げた事はなかった。
だが、ジョン・ライダーはわたくしの脅しに、まったく変わらない態度で、こう切り替えした。

「……足が離れてトレーラーが動き出すぞ……?」

それは、ジムの死を意味していた。

「……乗れよ」

ジョン・ライダーはそう促した。
余裕などない……切迫した表情だった。

「……乗れよ!!!!」

わたくしが躊躇しているのを見て、ジョン・ライダーも気性を荒げ、吠えた。
それに気圧されて、わたくしは震える足で段を上り、トレーラーの助手席に座った。
その際に、何度も何度もジムを振り返った。
ジムの悲痛な声を上げる度に、わたくしは心が張り裂けそうになった。

「……閉めろ」

ジョン・ライダーの促しに、今度は躊躇なく従った。
トレーラーは密室となり、わたくしとジョン・ライダーだけの世界になっていた。
そしてもはや、ジムの命は、ジョン・ライダーの気持ち次第……一挙手一投足次第だった。

「エンジンを止めて……」

「…………」

「お止めなさい!」

ようやく、ジョン・ライダーは笑みを浮かべた。
だが、それは眼球を見開き、顔を引きつらせた、今まで見た一番恐ろしい笑みだった。

「できない……」

その言葉に、わたくしの声は力を失っていった。

「できますわ……」

「ムリだ……。できない……」

わたくしの声は、もうほとんど懇願に近かった。

「異常ですわ……」

わたくしのその一言に、ジョン・ライダーは過敏に反応した。

「異常だと……?まだ何もわからないのか……?」

わかるわけがない……!

「一体何が望みなんですの!!!!」

わたくしは叫んだ。
すると、ジョン・ライダーは、こう答えた。

「銃を突きつけろ……。ここだ……」

そう言って、右手で自分の額を叩いて指した。
わたくしは促されるように従った。
すると、目にも止まらない早さでリボルバーの銃口を掴むと、自分の額に押し当てた。
わたくしは思わず、悲鳴を上げた。

「……チャンスだぞ……?泣き虫の恋人を助けられるぞ……?」

「やめて!!!!言わないで!!!!」

涙が溢れ出て止まらない。
本当は、この男を殺したい……。
殺したくてたまらない……。
しかし、そんな事をすれば……。

「俺を止めてみろ……。俺を止めてみろ……。俺を止めてみろぉおおお!!!!」

ジョン・ライダーは叫んだ。
それは悲痛なまでの叫びだった。
挑発しているようにも聞こえるが……わたくしにはまるで『自分を止めてくれ』、と懇願しているようにも思えた。

「"I want to die. "(死・に・た・い)」

ジョン・ライダーに押し付けている銃口が、額を何度も歪ませている。

「さぁ……やれっ!!!!」

ジョン・ライダーの悲痛な叫び声が上がった。
その時、外からサイレンの音が鳴り響いた。
警察のサイレンだった。
わたくしはフロントガラスから外を見た。
何台ものパトカーがモーテルに入ると、わたくし達のトレーラーを囲むように停止し、何人もの警官が降りてきた。
おそらく事態の異様さに気付いた、管理人か部屋にいる人間が通報したのだろう……。
警官達はパトカーから降りると、ジムの処刑場となってしまっているこの状況を把握したのか、わたくし達に銃を向けていた。

「警察だ!!銃を捨てろ!!」

トレーラーの中で銃を持っているのは……わたくししかいない。
だが、わたくしは銃を捨てることなど出来なかった。
今、銃を捨てたら……。

「……あんな奴ら、ほうっておけ」

何人もの警官が、銃を捨てろと口々に叫んでいた。
……もうわたくしには、懇願することしか出来なかった。

「……お願い……エンジンを止めて……」

「……なら、早く撃てよ……。さぁ、早く……!」

「できませんわ……」

ジョン・ライダーはまるで脅すかのように、またクラッチを少し戻し、トレーラーを前進させた。
ジムの悲鳴があがり、……ついにわたくしの心は折れた。

「……お願い……彼を傷つけないで……放してくださいまし……」

たったその一言だけ言うと、わたくしは力を失い、銃を座席に降ろした。
わたくしは、座席に手をつき、……ほとんど土下座の状態で懇願していた。

「……お願い……彼を……傷つけないで……お願い……」

ジョン・ライダーは、わたくしのその姿を信じられないといった表情で見ていた。
こんな顔をするジョン・ライダーを見たことがなかった。
そしてみるみる……失望と怒りの表情へと変わっていった。

「クソぉぉっ!」

わたくしは、その怒号を全身に浴びるしかなかった。

「……役立たずめ……。まるでカスだ……。失望したぞ……!?」

そう吐き捨てた。
…………そして、ギアを動かし、エンジンを吹かした……。

「いやああああああああああああああああああ!!!!!!」

トレーラーが前進し…………ジムの悲鳴が上がり…………そして…………肉の引き裂かれる音がした。

「いやああああああああああああああああああ!!!!!!あああああああああああああああああ……!!!!!!」

それが何を意味するのか…………わたくしは想像もしたくなかった。

Last Chapter 「ヒッチャー」

どのくらいの時が過ぎたのだろう。
わたくしは医師の診察を受けていた。
医師はわたくしの眼球にライトで当て、瞳孔をしらべていた。

「とりあえず、問題はないが……あとでちゃんとした病院で検査したほうがいい」

わたくしはその言葉を、無言で、無表情で、ほとんど放心状態で聞いていた。
医師はわたくしが何も言わないのを見て、それ以上口を出さなかった。

「……彼の事は残念だ。気の毒にな……」

エスターリッジ警部補が声を掛けてきた。

「何か出来るか?」

わたくしは無言のまま首を横に振った。

「我々にも、どうする事もできなかった……」

……それは、わたくしも同じだった。

監視モニターが、留置所から警官に連れられて出てくるジョン・ライダーを写していた。
あの後警察によって、わたくしは保護され、ジョン・ライダーは逮捕された。
そして、別々の車に乗って、カリフォルニア州警察に連れて行かれたのだ。
そこで初めてエスターリッジ警部補に会った。

「あの男は何者ですの……?」

エスターリッジ警部補と共に監視モニターの映像を見ていたわたくしは、問うた。

「わからん。入獄記録、運転免許証、出生証明書、社会保障番号すらない。指紋もデータベースから弾かれる。名前すらわかっていない。……奴はまるでゴーストだ」

そして、ジョン・ライダーと名乗った正体不明の男は、わたくし達の目の前にある取調室に連れて行かれた。
わたくしとエスターリッジ警部補は、取調室のマジックミラーの内側から、その様子を見ていた。
取調室の内側には警官が数人と、私服の男性がいた。
私服警官なのか、弁護士なのか、どちらなのかはわからなかった。
ジョン・ライダーはあの紺のコートを脱がされて、手錠をはめられ、腰縄を付けられていた。

「気分はどうだ?」

私服の男が聞いてきた。

「……疲れた……」

ジョン・ライダーは、まるで今までの暴走がストップしたかのように、冷静な態度で答えた。

「あの男には、我々は見えない」

エスターリッジ警部補は、当たり前の事を、まるで安心して聞かせるかのように、わたくしに言った。
わたくしはマジックミラーに近づいて、こう言っていた。

「あの男と……話をさせてくださいまし……」

私服の男が、ジョン・ライダーに聞いてきた。

「名前は?」

ジョン・ライダーは答えなかった。
まるで自分の存在は無であるかのように。

「さぁ、名前を言うんだ!」

私服の男は痺れを切らしたかのように叫んだ。
その質問を代わりに答えるかのように、わたくしの口は自然と開いた。

「……ジョン・ライダー」

エスターリッジ警部補が怪訝な顔でわたくしを見た。

「……今、なんて言った?」

取調室のジョン・ライダーが、わたくしの言葉を、まるで呼ばれたかのように、見えないわたくしの方に顔を向けた。

「あの男の名前は……ジョン・ライダー……」

わたくしとジョン・ライダーはマジックミラーを通して見つめ合っていた。
私服の男が別の事を尋ねてきた。

「逮捕歴は?」

ジョン・ライダーは、顔を私服の男の方に戻すと、

「調べたんだろ?なら……それが答えだ」

と、挑発的な言葉を吐いた。
エスターリッジ警部補はしばらく悩んでいた様子だった。
14歳のわたくしを、殺人犯と会わせていいものか、そんなところだろう。
だが、意を決したかのように、こう言った。

「……いいだろう、着いて来い」

わたくしは頷いた。
取調室での取調べは続いていた。
私服の男は、次にこう聞いてきた。

「出身地は?」

ジョン・ライダーは首を傾げながら答えた。

「あの娘から、何も聞いてないのか?」

私服の男は首を横に振った。

「なら教えてやる……」

ジョン・ライダー少しだけ前に身を乗り出すと、

「…………ディズニーランドだ」

そう答え、あの嫌らしい笑みを浮かべた。
私服の男は顔を赤くさせて怒りに震えていた。
エスターリッジ警部補は取調室のドアを開け、ノックした。

「ちょっといいか?」

ジョン・ライダー以外の全員がエスターリッジ警部補の方に向いた。

「……入れ」

エスターリッジ警部補の促しで、わたくしは取調室に入った。
ジョン・ライダーはわたくしの姿を見ると、驚いた様子でこっちを見た。
まるで、二度と会えないと思っていた友人に会えたような。
そして、懐かしそうに笑みを浮かべ、口を開いた。

「…………よう」

わたくしはジョン・ライダーの方へ歩み寄った。
襲ってくるとは思わなかった。
手錠も腰縄もしてあるし、今この場でそんな事をするような男だとは思っていなかった。
わたくしは傍までくると、ジョン・ライダーに左手を差し伸べた。
ジョン・ライダーはそれを手錠のはめた両手で握り締めた。
そして、愛しげに、わたくしの手を優しく撫でた。
それは、まるで恋人にする仕草のように、優しくて心がこもっていた。
わたくしはジョン・ライダーに顔を寄せた。
ジョン・ライダーも身体を起こすように、顔を近づけてきた。
そして、

スパーン!

、という音が、取調室に響いた。
わたくしの右手の甲が熱くヒリヒリと痛んだ。
それは、ジョン・ライダーの右頬も同じだろう。

「止めろ。……連れて来たのが間違いだった」

エスターリッジ警部補は、わたくしがジョン・ライダーの顔をはたいたのを見て、すぐにわたくしの腕を掴んで、わたくしを取調室から追い出した。
わたくしは、追い出されるまで、ジョン・ライダーを見つめていた。
ジョン・ライダーは、叩かれた頬を愛しげに擦ると、嬉しそうな笑みを浮かべた。
エスターリッジ警部補は、取調室の椅子に座ると、ジョン・ライダーと対面した。

「……お前はイカレてるな。あの若者を……あんな殺し方をして……。さぞや快感なんだろうな?」

ジョン・ライダーは何も答えず、うわの空で聞いていた。

「捕まると分かっていたはずだ。……なぜあんな真似をした?……なぜだ?」

ようやくジョン・ライダーは顔をエスターリッジ警部補に向けると、呟くように答えた。

「…………悪いか?」

エスターリッジ警部補は、帽子を机の上に置いた。

「……今までに何人殺した?」

ジョン・ライダーはしばらく考えた後、答えた。

「…………覚えてない…………」

「……まぁ、いい。……カリフォルニア州には死刑があるぞ。…………平気そうだな?」

「…………悪いか?」

その言葉に、エスターリッジ警部補は鼻で笑った。

「……手錠はきつくないか?」

ジョン・ライダーは手首にはめられた手錠を擦りながら答えた。

「……きついな」

「そうか、やっぱりな。新品だからな」

エスターリッジ警部補は立ち上がると、ジョン・ライダーに近寄った。

「だんだんなじんでくる」

そう言うと、ジョン・ライダーの手錠を掴み、硬く締め付けた。
手首に手錠が食い込み、ジョン・ライダーはわずかに、苦悶の表情を浮かべた。

「俺を見ろ……」

ジョン・ライダーはエスターリッジ警部補の方へ顔を上げた。

「俺の管轄であんな真似をしやがって……。一日も早い死刑を望んでるぞ……」

エスターリッジ警部補は帽子を拾って被り、取調室のドアを開けた。

「法廷で会った時は……もっと仲良くしようや」

そう言うと、取調室から出て行った。
ジョン・ライダーはその言葉を、あの嫌らしい笑みを浮かべて聞いてた。

ジョン・ライダーの移送が始まった。
衣服を青の囚人服に着替えさせられ、胸に防弾チョッキを着せられた。
そして、両腕をそれぞれ警官が抱えられ、廊下を歩き出した。
わたくしはエスターリッジ警部補に連れられ、外に出た。
日は傾き始めていた。
あの夜から、わたくしは警察の医務室で治療を受けていた。
だが、もう一日が終わろうとしているとは思えない程、時が立つのが早かった。
出入り口の門には、報道陣が詰め掛けていた。
わたくしの知らない所で、メディアは注目していたのだろう。
出てきた時、フラッシュの光を浴びた。

「あの車に乗るんだ」

エスターリッジ警部補は止めてある警察車両のSUVを指した。
警部補は運転席に乗るが、わたくしが車に乗らないのを怪訝に思ったのだろう。

「どうした?」

そう言った。

「もう少し……お待ちくださいまし」

わたくしは、待った。
あの男が現れるのを。
報道陣のフラッシュが再び激しくたかれた。
フラッシュの光の中から、ショットガンやライフルを持った警官達に囲まれながら、ジョン・ライダーは出てきた。
両手両足に手錠をはめられ、無表情で報道陣の前を横切った。
そして、護送車に乗せられた。
…………その時、ジョン・ライダーはわたくしの方を見た。
そしてそのまま、護送車の扉は閉じられた。

「……行くぞ」

エスターリッジ警部補の促しに、わたくしはようやく従った。
助手席に座ると、エスターリッジ警部補はエンジンを掛けた。
そして、護送車の後を追いかけるように、外に出た。

空は赤く染まり始めた。
護送車とわたくし達の乗るSUVは荒野のハイウェイを走っていた。
エスターリッジ警部補は漏らすように口を開いた。

「まさか本当に現れるとは思わなかった……。ただの都市伝説だと思ってた……」

「伝説……?」

わたくしはその言葉が気にかかり、口を開いた。

「……ハイウェイに現れて、乗せた相手を殺して回るヒッチハイカー……。『ヒッチャー』の伝説だ」

「……ヒッチャー」

「だが、奴は伝説の存在じゃない。撃たれれば死ぬ人間だ」

エスターリッジ警部補はわたくしを一瞥すると、声を弱めた。

「……あやか。すまなかった……。もっと早くに気付くべきだった」

エスターリッジ警部補の言葉を、わたくしは静かに聞いていた。

「……ジムはもう戻ってはこないが……本当にすまなかった」

心からの謝罪だと、声でわかった。

「ここからは法廷が奴を裁く。ジムの仇は取れるはずだ」

わたくしは口を開いた。

「……ムリですわ。あの男は素直に裁きを受けるような人間ではありませんわ」

エスターリッジ警部補はわたくしのその言葉に、むきになって切り返した。

「いいか……!もう君は関係ない……ただの被害者なんだ。奴にこれ以上関わることはない。わかったか……?」

わたくしはその言葉を受け入れる事が出来なかった。
……もうそういう問題ではない。
自然とエスターリッジ警部補の銃が目に入った。
あの何度も手にした銀色のリボルバーと同じ銃だった。
……その瞬間、わたくしの心は決まった。

「……窓を開けてくださいませんこと?」

「あぁ、いいだろう」

エスターリッジ警部補の視線が窓ガラスに向けられた。
左手をハンドルから離した。
……わたくしはその隙に、エスターリッジ警部補のリボルバーをベルトから抜き取ると、銃口を頭部に向けた。

「……車をお止めなさい」

わたくしに銃を向けられた事に気付いたエスターリッジ警部補は冷静に答えた。

「……やめるんだ。馬鹿な真似は止せ」

わたくしは撃鉄を降ろした。

「……車をお止めなさい」

SUVは速度を緩め、路肩に止まった。
護送車はハイウェイの奥へと遠ざかっていった。

「分かった。……何を考えてる?」

わたくしはしずかに答えた。

「……お降りなさい」

エスターリッジ警部補はわたくしの考えがわかったようで、こう答えた。

「馬鹿な真似は止せ……。君が殺されるぞ……。およそ中学生がやる事だとは思えない……」

「……これは、わたくしと……あの男の問題ですわ。あなたを巻き込むわけにはいきませんわ……」

「君は分かってない……!」

「……いいえ、分かってますわ……」

エスターリッジ警部補は沈黙していた。
そして、そのままシートベルトを外すと、運転席から降りた。
わたくしは運転席に、席を移動した。

「……そんな事をしても、ジムは戻ってこないぞ……?」

「……それも、……分かってますわ……」

シートベルトを装着して、クラッチとブレーキを踏みながら、キーをひねった。
エンジンが掛かると、ギアをローに入れた。

「……それでは……御機嫌よう……」

クラッチを戻して、ゆっくりと車を発進させた。
エスターリッジ警部補と別れ、わたくしはハイウェイを進み続けた。
そしてひたすら、奥へと消えた護送車を追いかけた。
護送車を見つけると、わたくしはリボルバーの弾丸を確認した。
……すべて入っている。
……わたくしは決意した。
…………もう迷わない。
護送車に近づくと、突然銃声が聞こえた。
一発……二発……。
そして三発目で、護送車のドアに無数の散弾の穴が出来た。
ドアが開くと、ショットガンを手にしたジョン・ライダーが姿を現した。
わたくしを見つけると、嬉しそうにあの嫌らしい笑みを浮かべた。
わたくしもジョン・ライダーに向かって、リボルバーの銃口を向けた。
すると、勢い良くジョン・ライダーはわたくしの車に向かってジャンプした。
その瞬間、護送車は横転し、転がった。
ジョン・ライダーはわたくしの車のフロントガラスを割り、車の中へと入ってきた。
ガラスの破片が足元に散らばる。

「…………よう」

ジョン・ライダーはショットガンを再装填すると、銃口をわたくしに向けた。

「……さぁ!止めてみろ!」

わたくしはアクセルを踏んで加速させると、一気にブレーキペダルを踏んで急ブレーキをかけた。
重心が前に移動し、ジョン・ライダーの身体は車外に放り出された。
エンジンは停止し、沈黙が辺りを包んだ。
わたくしは身体に食い込むシートベルトの痛みに、顔を歪めた。
そして、前方を見た。
前方には、倒れているジョン・ライダーと、横転した護送車だけがあった。
すると、ガラスの破片で切ったのだろう、頭から血を流したジョン・ライダーは、ゆっくりと身体を起こし、立ち上がった。
地面に落としたショットガンを拾うと、わたくしに銃口を向けた。

「……っ!」

わたくしはとっさにフロントガラスから身体を隠した。
次の瞬間には、ショットガンの散弾でフロントガラスは撃ち抜かれ、バラバラになった。
隠れなければ、その一撃で絶命していた……。
わたくしは、フロントガラスから身を乗り出さないように隠れながら、クラッチを踏みエンジンキーを捻った。
だが、なかなかエンジンはかからなかった。
その間にも、ジョン・ライダーはショットガンで車を撃ちぬいて来た。
ボンネットやランプを撃ち、徹底的に破壊しようとしていた。

「……早く……!早くかかって!」

破壊された車のボディが破片となり、何度もわたくしの身体に降り注ぐ。
何度もクラッチを踏み、エンジンキーを捻った。
……そして、何度目かの挑戦で、やっとエンジンが始動した。
エンジンが唸りを上げる。
わたくしは身体を起こし、クラッチを戻した。
フロント越しに、ジョン・ライダーの姿を見た。
腕を広げ、嬉しそうな笑みを浮かべていた。

「……さぁ!来いっ!」

「うわああああああああああああああああ!!!!」

わたくしは叫びながら、アクセルを踏んだ。
アクセルを一気に踏むと重心は後ろに引っ張られ、勢い良く車は前に進んだ。
そして、車はジョン・ライダーを跳ね飛ばした。
大きく弧を描き、ハイウェイに落ちると、転がって止まった。
車は再びエンジンを停止して止まった。
ジョン・ライダーは、震えながら身体を起こそうとするが、力を失い倒れた。
……そして、呼吸が止まった。
わたくしは銃を持って車を降りると、ジョン・ライダーに近づいていった。
傍に立ち、見下ろすが、ピクリとも動かない。
……本当に、息絶えたのだ。
そう思うと…………なぜか涙が出てきた。
どうしてかわからなかった……。
なぜか悲しくなった……。
憎い男なのに……。
わたくしはハイウェイに膝をつくと、左手でジョン・ライダーの髪を撫でた。
……この男は、わたくしにとって恐怖そのものだった。
……それでも、この男とは……絆が生まれていた。
それを認めると、涙が出て止まらなかった……。
……この男に出会わなければ、何も変わらなかっただろう。
だが、わたくしは出会い、変わった……。
何があっても生き延びようとする意思を持った。
この男は、わたくしを強くしたのだ。
決して恐ろしいだけの存在ではなかったのだ。
わたくしを鍛え、強くした。
……そうか。
……わたくしはこの男を尊敬していたのだ……。
わたくしの心の中で大きな存在になっていたのだ。
決して普通ではない方法で、心を通わせていたのだ……。
だから……涙が出てきたのだ。
その存在を失ったから……。

わたくしは今までの出来事を思い出した。
日本を発つ前の事。
アメリカでのトラブル。
ジムとの再会。
……そして、ジョン・ライダーとの出会い。
すべての出来事がまるで長い年月を掛けて作り出された思い出のように蘇った。
そして、隣には、息絶えたジョン・ライダーがいた。
最後に、わたくしは惜しむようにジョン・ライダーの髪を撫でると、立ち上がった。
ジョン・ライダーを背に、車に向かった。
……後ろから音がした。
そして、荒い息遣いが……。
……もう、何も言わなくてもわかっていた。
わたくしは振り返った。
荒い息で、ジョン・ライダーは立ち上がっていた。
まだ……死んではいなかった。

「……どうした?……もう終わりか……?」

弱々しいが、あの嫌らしくて……温かみのある、あの笑みを浮かべた。
すると、銃声が荒野に響いた。
……ジョン・ライダーが前のめりに倒れた。

「……ジョン……!?」

わたくしは思わず叫んでいた。
……初めて、あの男に向かって名を呼んだ。
ジョン・ライダーは膝をつき、立ち上げって、後ろを振り返った。
背後に、横転した護送車の運転席から、ドアを開けて身を乗り出した警官が、頭から血を流しピストルを構えていた。

「この……化け物めっ!」

再び警官は発砲し、ジョン・ライダーを撃った。
だが、二発ともジョン・ライダーの着ている防弾ジャケットで防がれていた。
ジョン・ライダーは後ろによろけ、倒れながらも、懸命に立ち上がろうとしていた。
地面に落としたショットガンを拾い、立ち上がって構えた。

「……邪魔を……するなぁああああ!」

ショットガンの弾は護送車の真下に放たれた。
すると、地面が燃え出した。
おそらく、護送車の燃料タンクからガソリンが漏れ出て、それが引火したのだろう。
ジョン・ライダーはショットガンを捨てると、わたくしの方へ身体を向けた。
次の瞬間、引火したガソリンの炎が護送車を襲った。

「う、うわあああああああああ!!!!」

警官の悲鳴が上がり、護送車は爆発炎上した。
爆発の炎の熱気に、身体が焼けそうな痛みを感じた。
だが、それにも構わず、ジョン・ライダーは炎上する炎を背に、わたくしに向かって歩き出した。
そして、おもむろに口を開いた。

「……俺の名を呼んだか?」

「えぇ…………ジョン・ライダー。」

嬉しそうな笑みを浮かべると、ジョン・ライダーは防弾ジャケットを脱ぎ捨てた。

「……こんな物を着ていたらフェアじゃない」

そして、ズボンに挿していたピストルを抜いて手に持った。

「……西部劇を観たことがあるか?」

「いいえ……」

「……なら、簡単に教えてやる。……ただの早撃ちだ。……銃を床に置け」

わたくしはそれに従った。

「……撃鉄は降ろしておけ」

床に置いたリボルバーの撃鉄を降ろした。
ジョン・ライダーの持つ銃も、撃鉄を降ろして、床に置いた。

「後ろに離れろ……。遠くにだ……」

わたくしはジョン・ライダーを見つめたまま、後ろに下がった。
足元に置いたリボルバーとの距離はどんどん離れていく。
ジョン・ライダーも、自分が置いた銃から後ろへ離れていった。
遠距離に対峙したわたくしとジョン・ライダーは、二挺の銃を挟んで向き合っていた。

「決闘だ……あやか。……俺を止めてみろ」

「えぇ……」

荒野を静寂が支配した。
時折吹く風が、肌を刺激した。
荒野に立つ、二人。
命を賭けた決闘が始まった。
お互い、まだ動かなかった。
相手の出方をうかがっていた。
いつ、何時、ジョン・ライダーが銃を取りに走るかわからない。
それより遅れたら、わたくしの負けだ。
ジョン・ライダーより先に銃を取らなくてはならない。
わたくし達は沈黙に包まれた。
ヒリヒリとした緊張感が心を支配した。
指先がピクピクと痙攣し、汗が額から滲んで来た。

ほとんど同時だった。
わたくしとジョン・ライダーは、ほとんど同時に、銃に向かって駆け出した。
銃に近づくと、飛びつき、銃を掴んだ。
そしてそのまま前転とジョン・ライダーに銃を向けた。
二発の銃声がほとんど同時に、荒野に響き渡った。

気が付いたら、わたくしはハイウェイに倒れていた。
そして激しい痛みが、左肩を襲った。
今までに味わったことの無い、強烈な痛みだ。

「あ、あぁ……ああああああああああ!!!!」

苦痛に顔が歪み、涙が溢れ出た。
肩は異常な程熱くなっていた。
苦痛に耐えながらも、左肩をみると、穴が開いて血が溢れ出ていた。
銃で撃ち抜かれたのだ。
……わたくしは覚悟した。
二発目が来るに違いない。
そう思い、目を閉じて、覚悟を決めて、その時を待った。
……だが、二発目が来ることはなかった。
わたくしは目を開け、苦痛に耐えながら身体を起こした。
そして……ジョン・ライダーを見た。
……そこには、完全に動きを停止したジョン・ライダーがいた。
膝立ちのまま、胸を撃ちぬかれ、胸の穴と、口から血を吹き出していた。
目は見開かれ、遠くを見ていた。

「……雪広……あやか……」

ジョン・ライダーが口を開くと、その度に口から血が吹き出た。

「……やっと……俺を止めてくれたな……」

そう言うと、ハイウェイに座り込み、後ろに倒れた。

「……ジョン……。ジョン……!」

わたくしは這いつくばって、懸命にジョン・ライダーの傍まで近づいていった。
ジョン・ライダーの身体を起こし、膝に頭をゆっくりと乗せた。
……彼は虚ろな目をしながら、全身を痙攣し、口からこぽこぽと音を立てながら血を吹き出していた。

「……ジョン……。ジョン・ライダー……」

わたくしは彼の名を呼び続けた。
……今にも、彼の命は消えかけていた。

「……あやか……。俺は……臆病だった……。死にたかった……だが、自分で死ぬ勇気が無かった……。誰かに止めて欲しかった……」

彼はうわ言のようにそう呟いた。
それは……死を目前にして、自分の胸の内を伝えたかった懸命で一途な思いだった。
わたくしは再び涙を流していた。
そして、彼の髪を優しく撫でた。

「……わかってますわ。あなたは……自分で自分を止められなかったのですわね……。はやく……あなたの事を理解していればよかった」

「俺は……お前に会えてよかった……」

彼は、足元に転がっている自分の銃を拾うと、わたくしに差し出した。

「さぁ……とどめを差してくれ」

わたくしはそれを受け取ると、彼の身体を抱き起こし、抱きしめた。
そして、銃口を彼のこめかみに押し当てた。
嗚咽を漏らしながら、銃の引き金に指を掛けた。

「……さようなら……ジョン」

荒野に一発の銃声が響き渡った。
ジョン・ライダーは力を失い、わたくしの身体にもたれかかった。
頭部を撃ち抜かれたジョン・ライダーは目を見開いたまま、口から大量に血を吹き出し、力を失ってた。
完全に……ジョン・ライダーの命の炎が消えたのだ。
彼をハイウェイに寝かせると、左肩を押さえた。
わたくしはジョン・ライダーの死を確認すると、涙で溢れる目をぬぐった。
そして、わたくしは立ちあがった。
荒野のハイウェイはわたくし一人だけになった。

わたくしは歩き続けた。
撃ち抜かれた左肩をおさえなか、それでも懸命に歩いた。
ただ、一人、ハイウェイを歩き続けた。
それはまるで永遠に続く道を歩くような……そんな気がしてた。
夕陽が沈む太陽の光を浴び、歩き続けた。

……すべて終わったのだ。

そして、わたくしは力を失って、ハイウェイに仰向けに倒れた。
生きるか、…このまま死ぬか、それはわたくしにもわからなかった。


——— THE END ———

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最終更新:2010年03月20日 22:37
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