「け、圭ちゃんっ! おおおおじさんとその、きょ、…今日一緒に帰らない!?」

「…ん。どうした魅音、変に慌てふためいて。我等が部長らしくないぜ! 一緒に下校なんていつもの事だろ、俺も一人で寂しかったんだ。行こうぜ!」

「そうじゃないよっ! …その、二人きりで帰るって意味、だよ…」

「…。…魅音」

 教室の窓越しからは朱色に染まった夕焼けの日が差し込んで、ひっそりとたたずむ室内中の備品を照らしている。
 水平線に沈みゆく太陽は今にも無くなってしまいそうで、…茜色の海と交っていた夕日がジュッと音を立てて消えた時、机上を照らしていた日差しもまた、遮られた。
 魅音が立ち尽くす圭一を教室の後列にあるロッカーまで押し込み、焦り戸惑う圭一の手に、そっと自らの掌を乗せる。
 のけぞった体勢で魅音と体の接触を回避していた圭一だが、やがて受け入れ始め、…互いの胸が重なり合う。
 教室内の明かりを保つ蛍光灯からチリチリとした微弱な震動を受ける。
 こわばった容態ながら、握られていた二人の指先が惜しむように離れてゆき、それぞれの腰のくびれへ腕を伸ばして行く。

 …魅音は、震えていた。
 圭一の顔に視野を向けず、ただ彼の右肩に顔を埋める。
 少し衝撃を与えた位で崩れてしまいそうな印象を受ける、ほっそりとした華奢な腕で圭一を強く抱き締めるだけだった。
 …今日の部活の敗者は圭一。与えられた罰ゲームは、教室で一定の時刻まで待機する事。
 圭一自身、仲間とはいえ突拍子も無しに異性から詰め寄られ、服越しの体温を感じた挙げ句泣かれてしまうだなんて、思いもよらなかったことだろう。
 されども満更では無さそうだ。瞳の奥から、ある種の覚悟が見て取れる。
 日頃の気丈な振る舞いからは想像つかない様態の魅音に、圭一は何も言わず、ただ受け入れた。


 …私が二人のすぐ付近、入り口に居る所で堂々と見せ付けてくれるなんて、宣戦布告かしら。







「…ふう。今日は暑いぜ。一体なんだって、秋も訪れたというのに、真夏を彷彿する日照りが降り注ぐんだぜ…」

「はうう」

「お疲れレナ。いくら当番だからといって、花壇の雑草抜きまで熱心にやらなくてもいいのに…。制服に泥がついてるぜ」

「いいの。レナがやりたかっただけだしね。…」

 天気は至って快晴そのもので、真上を見上げると、とめどなく広がる青空が私達の視界を包んでいる。
 裏庭は強い陽射しに照らされていた。
 ジリジリと詰め寄る熱気が嫌に体へまとわりつく、炎天下だった。
 花壇にかがみながらスコップを片手に持ち、困り顔ではにかむレナとジョウロで水撒きを行っている圭一。
 二人の額に沢山の玉の汗が浮かんでいる事から、さぞ熱心にガーデニングに忙しんでいるかが窺えた。

「それに」

 会話がとまり、間が生じたその時に不意、先ほどの言葉に付け足すニュアンスを伴ってレナが呟いた。

「…ん、それに?」

 レナが次の言葉を続けやすい、発言を汲み取った相槌を圭一が打つ。
 圭一にとって今の返事はなんとなしに返してあげた、取り上げるのないただのやりとりであるのだろうが、…対象のレナのあんばいは勇気を振り絞っているもののソレに窺えた。
 程なく圭一はレナの異変に気がついた様で、面構えがはっと意識が覚醒したものへ変貌し、全身をピクリと跳ねさせる。
 戸惑いや不安を隠し切れないでいるレナだったが、ほどなく決心を固められたか腰を据えたまなじりで圭一をじっと見つめ、まもなくガーデニング場にか細いささやきが響き渡った。

「圭一くんと、長く居たいから」

「…へ?」

 レナの声は、震えていた。
 とぼけた感嘆を漏らして取り合わない圭一に、レナはじっとその場に据わえ、圭一の眼を凝視するのみだった。
 その態度は誤魔化さないで欲しいと懇願している風にも受け捉えられ、…息が止まりそうになる時間の隔たりが流れ、痺れを切らした圭一が再度レナに尋ねようと口を開く。

「レナ」

「好きだよ」

 されども、圭一がレナを呼びかけ、発言を遮られつつ即座に返された答弁は圭一が避けたかったであろう心の内側の本音だった。
 圭一はまるで道端の蛙から話し掛けられたかの様に、驚いてはまごつく。
 正面に向いている瞳孔をレナのいない右端のそっぽに動かしては右手の人差し指で頬を撫でまわし、やおら、言いかけだったレナへの言葉を詰まらせてしまった。

「…ガーデニングが、か?」

「違う」

「…レナ、具合が悪くなったのか」

「とぼけないでよ」

 いくらでもはぐらかし、すり抜けようとする圭一に、レナはやるせなさそうに溜め息を漏らす。 
 好きになった男の子の、いざとなったら逃げ道を確保しようと思案する情けない様態に、幻滅してしまったのだろうか。
 しかしながらその後すぐ、眩しく日照った足元より延びる、二つの陰が踏みよってゆく。
 一つは戸惑いと躊躇が顕著に現れたもの、…もう一つは真っ直ぐと進んだ、迷いのないもの。
 やがて重なり、陰の面と面が、色濃くなった。

「…こういう、ことだよ」

「…」

 吐息は荒く、視線の焦点も、まともに定まっていない具合だった。
 身体の火照りを感じたか、ぶるる、と背中一面を震わせて感触から逃げようとするも、今日の太陽の陽射しの様に悪質なソレは二人に纏わり付いて離れない。
 熱したフライパンの上に乗せたバターはとろとろと形を無くして平べったくなり、縁に寄り添い、主役の固形物を待ちわびて絡みつくのだ。
 今では卑猥な湿り気の音だけが、学校のガーデニング場だけに、残された。



 ジョウロとスコップ、園芸セットを片手に持って立ち尽くす私の姿はさぞ滑稽な事でしょう、…嫉妬しちゃうわ!






「おーっほっほっほっほ! 圭一さん、ちょっと予測すれば楽によけられる簡単なトラップに引っ掛かるだなんて、やっぱり圭一さんはどんくさくて惨めな人ですわねー!」

 圭一の後頭部、襟足の所にはしっかりとチョークの跡が付けられていた。
 周りには粉末も飛び散っている。
 様々な色合いが混ざり、一日分の苦労を溜め込んだ黒板消しの腹部からはねぎらって欲しいと言わんばかりに、一部分を除いて微粒子の凝縮した層を地面からとくと見せ付けていた。
 圭一の着用しているブレザーはおろかなんとズボンの臀部にまで粉黛が飛び火されていて、酷い有様だった
 …しかしながら肝心の圭一が、幾ら沙都子に呼びかけられても、反応を起こさない。
 机に突っ伏したまま微動だにしない状況なのだ。
 本当に深い眠りについているのか、はたまた無視を決め込み空寝を装っているのか。
 私たち側からでは判別できないが、隣に居る甘えん坊さんがつまらなそうに唇先を尖らせていることだけは事実だった。

「…ちょっと」

 のこのこと、さながら小動物を彷彿する挙動の歩きで沙都子が圭一に近付き、沙都子の体一面よりも広い圭一の背中をせっせと揺らす。
 予想は出来ていたが…、威圧するかの様に鎮座する大きな背部に対する沙都子の華奢な腕つきの力などたかが知れていて、圭一を無理やり起き上がらせるほどの決定打は起こらなかった 。
 それどころか、ピクリともすら、動かすことができなかった。

「ちょっと、圭一さん!? 可憐なレディーを前にして狸寝入りを決め込むだなんて、失礼極まりないと思いませんこと!?」

 沙都子がキンキンとした甲高い声を圭一の耳元に浴びせ、結果圭一の眠りをほんの少し、浅いところに引き上げることには成功した。
 圭一はというと両腕に額を当てて枕代わりにしている格好から頭を浮かせる程度に眠りから覚醒し、かったるそうに薄目を開け、状況を把握しているあんばいだ。
 されども圭一の表情からはうざったい心境であることが用意に見て取れて、またすぐ自身の腕枕に額をつけて沙都子と対面する方向の逆へ寝返りを打ち、そっけなく顔を背けたのだった。

「…うう」

 沙都子には、圭一の行動がやおら拒絶のように思えたのだろう。
 心地よい睡眠を妨害された時、どんなに相手が親しい人柄であろうと、本能的につれない態度をとってしまうのはわかるが、…あいにく相手は幼いのだ。
 過ちを過ちと認識できないまま自失呆然としている沙都子。
 まさか普段から大の仲良しである圭一にことさら相手にされないだなんて、ほとほと思いもよらなかったことなのだろう。
 …沙都子は、痛みに敏感だからこそ、構って欲しかったのだろう。
 やがて悲しみに耐えられなくなった沙都子が、自分がいくらアプローチをしても手ごたえが無いどころか突っ返される態度に愛嬌のある顔をしわくちゃにしてゆき、とうとう泣き出してしまった。

「ああああああん、ああん、ああ。…ふえ、ああ」

 教室中を揺るがす叫び声に敵わないと判断したのか、圭一は寝ている格好のまま圭一のすぐ傍で蹲っている沙都子の頭部へと腕を伸ばし、その頭を撫で始める。
 圭一のソレはがさつで、なおかつ優しい手つきである。
 沙都子が一通り落ち着いた所で圭一が自分の脇近くまで沙都子を誘導し、沙都子を抱える様態で、また眠りについたのだった。
 脇で固められた沙都子は苦しそうにもがき、圭一を叩いたりするものの、満更ではなさそうで口端からは笑みが綻んでいた。
 圭一の素振りを察しても、とても沙都子を突き放すといった非道なたたずまいだなんて、微塵にも感じられなかった。

「…圭一さん、なんだか汗臭いし、居心地が悪いですわ。離してくれませんこと」

 息を吹きかけたら消え入ってしまいそうな位のほのかな声音で、沙都子が圭一に呼びかける。
 圭一は沙都子の頼みを承諾してか、脇の力を緩めて沙都子を解放してやろうとするも、沙都子はその場から離れようとしなかった。
 むしろ渋い面持ちを浮かべているくらいだった。
 しばらく沙都子が離れない事を確認してか、再度圭一は、沙都子を包み込むように腕を回して抱え込む。
 すると沙都子はまたまたイヤイヤの態度を示すのだが、さみしんぼうな沙都子は、いつまでも圭一に身体を預けるのだった。



 …よりによって、私が、彼らと一緒の空間に居て、同じ時間を過ごしているというのにね。
 羞恥心というものが、欠如してない?







 …何よ、何よ何よ!




『魅音、その、えっと…』

『何、圭ちゃん。いきなり押し掛けちゃって、迷惑だったかな』

『…柔らかくて、暖かいよ』

 魅音も!



『…はあっ、はあ』

『圭一くん。レナはもう、圭一くんを、皆の圭一くんとは、見れないよ…』


 レナも!



『…圭一さん。願うなら、今日はずっと、このままで…』

 挙げ句の果てには、沙都子まで!


 後日談? 愛は一なる元素? そんなもの糞くらえ!
 私は圭一が好き、部活メンバーの中でも一番好き、私が絶対一番好き!
 百年ずっと想いを焦がしていたけれど、その炎の威力が少したりでも弱まったことなんて旅の最中一度もない!
 愛は尊いものではない! 醜く、薄汚れた、お互いを貪りあう軽蔑すべきものであって、それを乗り越えて行く過程こそが美しい!
 人々は愛を勘違いしているだけ、恋に恋をしている、私は圭一を愛しているのっ!
 誰よりも何よりも、ずっと、ずっとおっ!




「好き、私も好きっ! 圭一の事が大好きいっ!」










「詩ぃ、お願いです! 僕に恋愛の秘訣を、伝授して下さいなのですっ!」

「…、…。…梨花ちゃま? とりわけ連絡も無く、私のマンションに何故か入り込んでいる事は、まあ、ともかく。そんなの、知った所でどうするのですか?」



 フルデ梨花の大嫉妬!?




「ライバルを出し抜くためですっ!」

 …両手を脇につけて自信満々に玄関前で立ち尽くす梨花ちゃまの表情は、なんというかまあ、青春って感じです。
 平たくいえばアホなことやってるなって所ですかね。
 さながら敵無しと鼻息荒く私を見つめる梨花ちゃまを、さすがにそのまま胸を反らせた状態で玄関のインテリアにするわけにもいかないので、気力に満ち溢れた格好を解除してもらいダイニングルームにまでお邪魔させることにしました。

「それにしても、最近は空気が乾燥してきて、めっきり寒くなりましたよね。秋も終わりに差し掛かって、変わり目である冬の訪れを肌でひしひしと感じます。…どうやって、ここまで侵入したのですか」

「気合です」

「私のプライベートにかかわるから、できれば事前に私に話を入れておくか扉前で待っていて欲しかったのですが」

「知ったこっちゃないのです。『女』無法梨花、無理を通してみせるのですっ」

「物理的に通っちゃったしねえ…。まあ、どうでもいいです。話とは?」

 始めは当り障りのない世間話でお茶を濁し、いざ私がとても気にかけている本題へ突入したのですが、手ごたえはまるでのれんに腕押しです。
 壁に大声で愚痴を叫び、返事を求めるような錯覚を抱きました。

「詩ぃ、僕と圭一は最早結ばれたも当然なのです」

 日常通りぶっとんだことをさらりと吐き出す梨花ちゃまですが、これしきの事で一々たまげていたらとても雛見沢で生活なんてできません。
 6月を超えたあたり、正式には特殊部隊との闘いを終えたあたりから梨花ちゃまに劇的な変化がもたらされてご覧の有様になったわけですが、なんでですかね。
 私には梨花ちゃまの様子が散々長いこと我慢していた物事による鬱憤晴らしの様に窺えるのですが、梨花ちゃまはまだまだ幼いですし、そんな耐える事なんてあるんですかねえ。

「なるほど。梨花ちゃまの仰られていることの9割を理解できませんでしたが、圭ちゃんとの恋を成就させるために一肌脱げってことですね」

「分かりが早くて助かるのです」

 圭ちゃん自身はさっぱり気が付いていない具合ですが、梨花ちゃまが圭ちゃんに恋心を燃やしている様子
は、同性の女の子として見るにくっきりと浮かぶ位にわかりやすかったですからね。
 いずれ相談は受けるかもと頭の片隅で抱いたりしていたのですが、いざ妄想が実現するとなると、どうにも緊張するものですね。
 何せ相手は玉の輿の前原圭ちゃん。私たち部活メンバーにとっても唯一身近で年齢も高い男子だけに、皆圭ちゃんにメロメロの虜にされていますからねえ…。
 競争率はかなり高いですよ、梨花ちゃま。
 他のメンバーが圭ちゃんにアプローチをかけている姿ならよく見かけるものの、梨花ちゃまに限っては目立ったアプローチをしている姿を見たことがありませんし、歳の差のハンディもある。
 こりゃ、厳しい闘いですね…。

「そういえば梨花ちゃま、時々圭ちゃんの後をつけまわっているけど、それをやった後はいつも落ち込んでいましたねえ」

「う、どこでそれ、あっ、…うぐ」

 私が口を開いた途端に動揺し、汗を浮かべる梨花ちゃまの様子は可愛らしいことこの上ありません。

「ジョウロとスコップを片手に持っていたり、ノート持ってたり、黒板消し持ってたり様々ですけど。まあ、共通していることといえば薄志弱行と共にある状態になるってところですね」

「や、もう言わないで、わかったから、自分のウィークポイント把握できたから」

「さらに言えば梨花ちゃまの奇行が終わった後、必ず部活メンバーの誰かが上機嫌ですよね。お姉の時はなんだか頬を染めて、レナはいつも以上に天真爛漫で、沙都子は圭ちゃんにべったりで…」

「やめて、もうやめて、私の傷口を広げないで」

 数ある奇行でも梨花ちゃん尾行癖は有名なもので、他の人物からも度々目撃されているそうですよ。
 遠目で観察しているとやがて独りでに悶えだすのが特徴です。

 …この物事を突き止めたとしても何も起こらない、すこぶるくだらない事ではありますが、何で梨花ちゃまは自分の立場が不利になったりと切迫される立場になるといつもの敬語を外し、乱暴な口ぶりになってしまうのでしょうかね。
 今なんてまさにそう、私の傷口を広げないでだなんて、常々の梨花ちゃまだったら聞いてるこちらが悲しくなる腹黒い言葉なぞ頑なとして使いません。
 部活メンバーやクラスメイトの皆だって梨花ちゃまに汚らしい言葉を覚えさせるはずはありませんし、地域のじいさまばあさまなんてもってのほか。
 しかしながら、誰かが教えていなければ梨花ちゃまがまだまだいたいけな歳に分相応の言葉遣いをするはずなどないのです。
 ミステリー、謎が謎を呼ぶ、けだく永遠の課題ですよ! 村から遠出すらしたことのない梨花ちゃまがいかにして身丈にふさわしくない話し言葉を学んできたのか、研究が必要ですよ…!
 …閑話休題です。

 梨花ちゃまの抱えている悩みの解決方は至ってシンプル、梨花ちゃまが自身のチキンハートのしがらみから脱出して圭ちゃんにアタックを仕掛ければいい話なのです。
 されども今の梨花ちゃまにとってのこの正論は大地を這う蛇に大空を飛べと無茶を言うようなもので、このまま梨花ちゃまを放っておくというのはあまりにも可哀想ですし、慈悲深い私はお情けで案を提供してあげる事にしたのです。

「そもそもとして、梨花ちゃまはいつも圭ちゃんをコソコソと尾行するばかりでまともな働きかけをしていないでは無いですか。それでは梨花ちゃまが幾ら胸内で情熱をたぎらせていようと、圭ちゃんに想いが伝わる事なんて一生涯ありませんよ」

「だから、だからというか、どこで私が圭一をつけてるだなんて知ったのですか…?」

「知ってましたとも、梨花ちゃまが圭ちゃんの私生活に、熱心に探りを入れていることだって。動きが、あまりに明瞭なものですからね」

「他の事実まで…」

 先ほどからちょっぴり隅に落としていた影を、私の吐露を耳に挟んだ始末露骨に背中全体から惜しみなく放出し出し始めた梨花ちゃまの様は、さながら小喜劇を鑑賞しているようで滑稽です。
 どんより・ガックリだとか、もうだめだとか、明日から頑張ろうといった負の語彙がバッチリ似合います。アイアンディティが生まれて、良かったですね、梨花ちゃま。

「ストーカーまがいの偵察は可愛げのある幼少期にてスッパリやめたほうがいいですよ」

「うううう…」

 今の梨花ちゃまの気持ちを察するならば『視界がぼやけて唇に液体が触れてきて、その液体の味がしょっぱく感じるのは、どういうことなのかしら』ってところでしょうかね。
 私と目線を合わせることを拒否し、人差し指でフローリング張りの床にのの字を書き始めた梨花ちゃまの態度が見るにかねなかったので、意地悪な応答はこの位の加減にして本題を切り出し始めることにしました。
 梨花ちゃまの周辺は心なしかジメジメしていて、放置しておくとカビが生えてくるだとかナメクジが生息してきそうに思えて、不気味でしたしね。

「まあ、過ぎてしまった事は仕方ありません。圭一に梨花ちゃまの気持ちを気が付かせたいというなら、今からでも行動する事ですね。しかしながら、恋愛については極度に人見知りになってしまう梨花ちゃまに、この忠言はあまりに厳しいです。その節について、私より提案が…」

「提案? …何なのですか」

「まあまあ。…ゴニョゴニョゴニョ。ゴニョ」

 おやおや。私の弁に耳を傾けた梨花ちゃまの顔色が、瞬く間に茹で上がってしまいました。
 先ほどまでの陰湿な雰囲気なぞどこにも見当たりません。代わりに、額から湯気があがっています。
 特に私が最後に付け足した言葉の後に際立って変化が見て取れて、しまいには硬直したままの置物になりさがってしまいました。
 困ったなあ、下手にコレを置こうにも、部屋に溶け込めないタイプの家具なんて要りません。
 内装のイメージを変えたくありませんし、物置にしまいこむには大きすぎですし。
 うーん、粗大ごみの日に、そっとごみ捨て場に置いてくるしか無いのかな…。…こんなことはまずありえませんね。
 このままでは埒があかないので、私は凍りついた梨花ちゃまの耳元にて魔法の言葉を囁きます。
 数秒の間を置いた後、なんということでしょう。
 最早私たちの過ごしている時と別の時間軸へ飛び立ってしまった梨花ちゃまが少しづつ、注意深く梨花ちゃまを凝視していないと認識できないほど微弱に、動き出してゆくではありませんか!
 後に梨花ちゃまは完全に息を吹き返し、見事解凍させることに成功しました。

「…え、ええ!? そんな、圭一と私が、せっ、セッ、セッ…!?」

 自我を取り戻した後の第一声がひわいな発言だなんて、悲しくならないのでしょうか。

「上手く事が運んだらですよ、肝心の内容を口走らないでどうするのですか…。まあ、時折片鱗を見せる梨花ちゃまのずば抜けた知性と演技力なら、こんなけったいな作戦なぞお茶の子さいさいですよ。早速明日のためのミーティング、ゲネプロに入りますよ」

「ええ、明日やるの…? あまりにも急じゃあ…」

「圭ちゃんをモノにするための企み事なのに、じっくり計画を練ってどうするんですか! 臆病者の言い分なんて知りません、さあ、××××と×××の××××××、×××××××××を用意しに行ってください」

「あ、れ、私、が?」

「当然でしょう。得をするのも、決行するのも梨花ちゃまです」

「そんなあ。それに、私は圭一とつ、付き合う、付き合うとしても、お互いにお互いを尊重しあえる関係がいいなあって…」

 両手をぶんぶんと振り回し、1000度の高温で燃えたぎる焼却炉の炎ほどに真っ赤な血色で反論を捲し立てる梨花ちゃまはまさしく恋する乙女といったあんばいで、見ていて気分がほっこりします。
 口元が自然に吊り上ってゆく感触を、自分でも認識します。梨花ちゃまが愛らしい反応を見せるから、私もイジワルをしたくなってしまうというものです。
 つまるところ、梨花ちゃまが私にいびられて苦しいと感じるのは、自分のせいであるのですよ…?

「女の子たるもの男を全てを独占したいと思うものですよ、そうでしょう? 安らぎの時間も、性欲の解消役も、まるごとです!」

「せ、せ、せい、…~!!? …きゅう」

「…ああ。梨花ちゃまの思考回路が、熱にて完全にやられたみたいです。先ほどからオーバークロック気味ではありましたが、幼い子供相手に、ちょっと責めすぎましたかね…。はあ、ぞうきんとフリルのカチューシャ、紺色の小間使いの服は私が用意することにしましょう…」





「け、けい、圭一…」

「ん? どうしたんだ梨花ちゃん、…うわっ!」

(梨花ちゃんがこんな、ツボを抑えた衣装を着用するなんて…。本当、俺好みで心が躍ってくるぜ)

「圭一。別に、この格好は衣装という訳ではないのです」

「…へ? 俺に、見せびらかすわけではないのか?」

「もちろんです。僕は、圭一の小間使い。圭一だけの、使用人なのです。なんなりとご命令を申し付けくださいなのです…」

「え、そ、そんなの出来ないよ梨花ちゃん!」

「ご主人さまは僕のような小間使いにも気をかけてくださる、とても心の清らかな人なのです…。では、圭一に永遠の服従の契りを交わす見返りとして、どうか一つだけお願いをお聞きくださいなのです。圭一、僕を、ずっと圭一の傍に置いて…」

「梨花ちゃん…」

「違うのです、梨花、です…」

「梨花…。俺、…もうっ!」

「きゃっ! あーん、そこは駄目なのです、あ、やめちゃ駄目です、もっとやって~!」

※続きはこの計画が達成、成就されたら行われます






「…くふ。ふふふ、ふふ…」

「もう、梨花ったら。昨晩からうっすらとした笑いばっかりこぼして、気味が悪いと言ったらありはしませんこと。私たちが布団を敷いて床についた後も、ずっとですのよ…」

「ハッ!ドリーム!? …圭一、カムバックミー!」

「ひとまずの間を開けてこの発言の有様ということは、寝不足なんでしょう。かかわらないであげましょう」

「…ね、ねーねー…」




ミッション1 小間使いに変貌し、圭一を虜にせよ!
作戦内容:放課後圭一宅に侵入し、小間使いの作業服を着用。その後、圭一に接近し、接触する!
ポイント:愛嬌と知理を兼ね揃えた幼女が縁の下で支えるだなんてシチュエーション、男ならメロメロです!



 来たわ、来た、来たの、楽しみでとても眠れなかったわ!
 とうとう私と圭一が繋がる瞬間が訪れるの! それは誰に邪魔されることのない、至福の時間…!
 ああ! 神よ、私一人だけ100年越しのメシアに真実へと導かれることを、お許しください…!
 もう待ちわびしいわ、待てないわ、ちょっとくらいフライングしても問題ないわ…!

「…梨花ちゃん、どうしたんだよ、さっきから。教室の机に着席してから小刻みに動いては笑いを起こして、突っ伏しては起き上がって…」

 来た! 圭一が自ずから私に話し掛けてきてくれたは、圭一と私が共に歩む未来は運命と共にあるのよ!
 小指に結ばれた赤い糸、切っても絶ち切れない絆、熱々の白ご飯には鯖の味噌煮!
 女神とかそこらへんのお偉いさん全てが私に味方してチャンスを与えてくれたのよ、これを逃すわけにはいかないわ!

「あっ、圭一! 僕と一緒にイチゴとアワビのあわせ合いっこをしましょうなのです!」

「へっ?」

「今日もいい天気ですね、にぱー。圭一は、その、小間使いさんとかが身近にいたらいいなって思いますか?」

 自分の手にあまって追加に在庫ができちゃうほどの初心者っぷりは、きちんと把握しているつもり。
 ここは無理に圭一を引き込もうとせず、円滑な会話を広げて好感を持たせる事が大切よね。何事も、焦らずに。
 事前に調査をしとくのも重要なことだし、なかなかどうして、私の行動は頭がキレているわ…。
 私の視野の片隅に入るところで詩音が親指を上に立ててくれているし、これはもう結婚目前とも言い切れるわね。
 ハネムーンはハワイに行きたいわ。

「…いや、うーん。意気揚々と話してくれてる梨花ちゃんには悪いけど、興味持てないかな。」

「そうですよね! 僕も小間使いさんが居てくれたら洗濯とかしてくれて楽だなあって思うのですよ、え、ちょっと、Why、…ええっ!?」

 圭一があまりにすっとんきょうなもの言いをするものだから、思わず外来語を喋っちゃったじゃない。

「ん、どうしたんだ梨花ちゃん?」

「メ、いわばメイドですよ?」

 メイド、それは男の野望、雄として生まれてきたからには追い求めしサダメ、朽ちることのない究極の理想…!
 その野心と欲望を何故いともたやすく切り離せるというのか、どういうことだ、雛見沢に何が起こってというのか…!?
 詩音も心なしか焦ってる。どうしてくれるのよ、全て圭一のせいよ、責任取って私の婿になるか私をお嫁にするか熱い一夜を過ごすかを前者2つの選択肢から1つ・後者1つを必ず選抜して私の所までに意見書を提出しなさい。
 エンゲージリングと婚姻届2つセットにして圭一に返すわ。

「…うん、要らない。小間使いだといっても気を使うだろうし、自分でやるよ、人にやらせるのだったら」

「え、な、なんで!? メイド服なのよ、服従の体制なのよ!? 要望があれば猫耳だって張り切って装着するわ!」









「部活の罰ゲームで、いつも、見てるしなあ…」

 利き腕の人差し指にて右頬をポリポリとかき、流れた沈黙を破った圭一の言葉は、寝ることすら放棄してひたすらもんもんと妄想を繰り広げていた私にとってそれはそれは無慈悲なものだった。

「…あ。あ、ああ…」

「…梨花ちゃん。どうした、あからさまに血色を蒼白にして机につんのめるだなんて。崩れ落ちるって表現がお似合いだな、あっはっは! …息をしていない? まずい、誰か救急車をー!」




ミッション1 失敗
原因:ターゲットの情報収集不足(慣れは一番恐ろしい)




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最終更新:2009年12月26日 10:13