1-3 『沙都子と大樹さん』
入江診療所の待合室には患者の他に、その者たちとのひとときを楽しもうと半ば、村の老人たちの集う憩いの場となっている。それでも、昼どきにもなれば外来患者以外は家に帰り、それは夏休みである今日も変わりのないことだった。
子供たちを乗せた軽トラックが着いたのはそんな、茶飲み老人たちの掃かれた後だった。
診療所には涼みに来たと、富田と沙都子は患者のお年寄りからお茶菓子を貰って今は、静かな待合室の角に座っていた。
「そんなに、心配しなくてもだ、大丈夫だよ」
自分のとなりに沙都子が来てからまだカップラーメンができるほども経っていないにも関わらず、富田はこの場の雰囲気に喉の渇きを覚えていた。ジュースを飲んで、またそれとなく沙都子を伺う。
「え?! え……ええ。おいしいですわねー、このおせんべい」
話し掛けられて、富田と視線の合った沙都子はそこで、一口も食べていなかったせんべいを慌てて食べた。
心ここにあらずの沙都子は診察室に、その心を置き忘れてきた様だった。
入江の配慮で、待合室のお年寄りを心配させぬ様にと、梨花と軽トラックの男性は裏口から診察室に向かうことに。
電話連絡ですでに受け入れ態勢の整っていたそこに梨花はすたすたと、慣れた足取りで歩いていくと医師たちに囲まれすぐに見えなくなった。
その一団から少し離れたベッドへ、男性をおぶった入江は沙都子を連れ、富田は待合室で待っている様に言われた。
入江を始め、医師たちの表情は一様に真剣で、喉が渇いただけと言っていた梨花の容態がひどく気に掛かりだす。
その光景の去り際に富田は、肩を落とす沙都子の背中と硬い表情にも笑顔を浮かべる入江。それと白衣たちの隙間からこちらへ、肩を竦めて見せる梨花の姿が、カーテンを引かれる間際に見えた気がした。
「えと…………。それで……古手の容体はどうなのかな……?」
「ひゃふっ?! ふぉ……っ。そ、そうでした……ん、ぐうっ!」
「さ…………あっ。だ、大丈夫……?」
一心に菓子を食べ続ける沙都子に話し掛けたら彼女は、口の中の物を噴き掛けてしまった。
「……水道で鼻を思い切り、かんできた方がいいよ」
しばらく背中をさすってみても沙都子は目に大粒の涙を溜め、けほけほと咳き込むばかり。こんなときは上品に振舞っていては埒が明かない。そんな沙都子を見兼ねて富田は助け舟を出す。
一言謝ってトイレに向かった沙都子に、このタオルを渡してあげれば良かったかもと、今更思ってみても後の祭り。しかたなく、肩のタオルで床に飛び散った物を片付ける。自分の吐き出した物を見て、沙都子を気まずい目に遭わせない為、取り零しが無いよう念入りに……。あ、ちり紙を使えば良かった……。
沙都子を前にして――どうにも――いつにも増して――緊張している。
向こうもそんな感じなのだからその分、落ち着けてもいいものを……とはいきそうもない。
沙都子と――以前の様に――彼女を呼びたい。
今日なら、不自然にならずにそう呼べそうな……呼んでも構わない気がする。
ふー。もう、落ちてないかな……。
ものぐさをして、椅子に座ったまま拾っていたから、かえって疲れてしまった。頭というより顔に血がのぼって、鏡を見なくても真っ赤なのがわかる。真っ赤といえば、恥ずかしがって顔を真っ赤にする沙都子ってすごくかわいいんだよなー。からかわれたときなんて「むがー!」って暴れだすし。
それで岡村が「沙っちゃん狂犬みたい」って言うと飛びかかって……。それで思わず「お前のどこがレディなんだよ?!」って言っちゃったら僕まで噛み付かれて……。背中にやわらかいのか押し付けられて、岡村もにやにや喜んでで……。あれは気持ち良かった……うん。そのおっぱいを僕は思い切り……スク水越しだけど大きかったなー、沙都子のって。羽入もすごく大きいし二人とも、古手と同い歳とは思えないよなー。
「ぶえっくしょいっ!!」
「……っ?!」
沙都子羽入と、おっぱい繋がりで梨花に考えがいったとたんに診察室からおやじくさいくしゃみが聞こえた。
「あれ? 梨花ちゃまかいね、今の?」
「雛クラのちびっこ部長の二人が来てるん。それできっと、追っ駆けて来たんよ」
「けどもさっきのくしゃみ、中から聞こえなかったかね? それもあんな……漢みたいなのを梨花ちゃまに限って……ん、んー…………」
耳の達者な老人の一人が腕を組み、診察室を見る。それから目のあった自分に梨花のことを聞き、とっさにレナに連れて行かれたと答えることができた。それで老人は談笑に戻り、富田は手に持ったタオルで冷や汗を拭う仕草をする。
「……? 何だろう……」
頬と、それと口元に生地の質感とは異なる物。ぺちょつく感じのそれ。
髪の毛はくっついていなかったらしいそれを、舌の上に引き伸ばす。甘いあんこの味と皮。となりを見る。
椅子の上には飲みかけのジュースと、食べかけのどらやき。今日の僕は大胆でラッキーでちょっと……変態かも。
がつがつ食べていたにしては可愛い歯型のどらやきに手を伸ばす富田はそう開き直って。「……それ、私のどらやきですけど……どうなさるおつもりですの?」
その声に慌てて手を引っ込めた。
口元をハンカチで押さえつつ、神妙な面持ちで歩いてくる沙都子を富田はあうあうと、羽入の様に困り顔で見つめるだけ。そして、正面に来た沙都子は膝に両手を付いて、富田は目だけで彼女を見上げ……。
「だ……ぁ。……だい、きさんの食いしんぼ…………ん……」
こつんと、頭突きを食らった。
「私は……今はちょっと……。
よろしければ、私のお弁当もお食べになって…………」
「顔が真っ青だけど、北条も具合が悪いの……?」
もうとっくに昼を回っていたので、持ってきた弁当を食べることにしたのだが、沙都子は弁当を広げただけで箸を持ちもしない。前屈みで、さきほどと同じく口元を押さえ、それに震えてもいた。
「そうだ! 監督に診てもらおう。それで薬を貰って古手といっしょに休ませてもらえば……っ!」
「…………いちいち煩いですわねぇ……」
富田を睨み、心底苛立たしげに突き放すと、沙都子はおもむろに立ち上がった。どこに、などと聞く様な――気――勇気――無粋――は、今の彼女には湧き様もない。わずかだが、恐怖で目元が潤んでしまう。
小川での件で、沙都子から嫌われたかと思っていた。だけどさっきの……額と額のふれあいがそうではないと。沙都子の眼差しに険は見られなかったのだけど……だけどそれこそ、そうではなく…………。
お茶菓子が効いているのか、あまり食欲はないが弁当を食べる。
軽トラックに踏み潰されはしたが全滅ではなく、おにぎりが一つとピーマンの肉詰めが丸ごと残っていた。
好物のおかかおにぎりに銀紙の歯触りを感じて、沙都子の弁当を見る。
日の丸とのりたま。ミートボールにアスパラガスのベーコン巻きに野菜炒め。それとてんぷら。丸いのやらかき揚げがあって、これはカボチャだろうか。特徴のある扇状のそれを拝借。
ここに来る前、雛クラの最中に、羽入お手製のカボチャのてんぷらの話を、げんなりした沙都子から聞いたのを思い出す。揚げたてならよりおいしいだろう甘い風味にもう一つ。
塩気が欲しくなり、ベーコン巻きと……ピーマンを除けて野菜炒めを立て続けに。
カボチャは相変わらずみたいだけど他は……おかずに入れてくるのだから……。もしかしてナスも、克服したのかもしれない。やっぱり……沙都子はすごいな…………。
除けて食べていたけど苦味を感じ、それが理由ではないけれど今になって、あの涙が目から零れ落ちた。沙都子がまだトイレから戻ってはこないことに安心し、富田は目元を擦った。
箸を動かしている内に結構な量を食べられた。
自分のは食べられるところだけ。沙都子のもピーマンごと、野菜炒めを平らげた。梨花の分も食べていいと言われていたけどもう無理。中途半端のつまみ食いではかえって悪い。
「お待たせしましたー……おや? 富田くんひとりですか?」
お昼を終えてきたお年寄りで再び待合室が埋まり出す頃になって、入江がやってきた。
「あの……さ、沙都子は気分が悪いみたいで、トイレに行ってます。それでまだ帰ってこなくて……」
きょろきょろと、とぼけた動きで沙都子を探していた入江は富田と梨花、それと沙都子の弁当を一瞥。
「この手を付けられていないのは梨花ちゃんのですか?」
富田は頷き、ではこれを本人に持っていってあげてもいいですかという問いに、少し戸惑って、また頷く。
「失礼ですが、沙都子ちゃんがトイレに行ってからどのくらい経ちましたか?」
「え……? と…………二十分くらい、ですけど……」
時計を見て、とりあえずそう答えた。
富田の受け答えに入江は、空になった沙都子の弁当と富田を交互に、それも恨めしげに見ては「なぜ、私の分を残しておいてくれないのですか?!」と、理不尽にのたまってくれた。それからはあはあとアブない息遣いで沙都子の弁当を見つめ、何かを思い出したのか入江は、梨花の弁当と沙都子の水着入れを持って診察室に引っ込んでしまった。
「ちわーす。まいどお世話になってまーす」
「きしめんキター!」
「あの……古手の容体は……」
弁当を届けに行っただけなのか、入江はすぐに帰ってきたが今度は出前に気が向いてしまう。それから自分の分はあらかじめ富田の前に持ってきたテーブルに。残りは休憩室へと運び、またとんぼ返り。
「梨花ちゃんは念の為、今日はここで過ごしてもらうことになりました。
ここに来る途中に彼女が言っていた通り、軽めの熱中症でした。だから心配しなくてもいいですよ、ええ。本人はすこぶる元気で、それもなぜか不機嫌なくらいで……。ひょっとして梨花ちゃんも、ですかねー」
きしめんをずぞぞぞと啜る合間に、入江は聞きたかったことを一気に話してくれた。
「ちなみにこの件はすでに沙都子ちゃんにはお話ししてありますから。で、羽入ちゃんなんですけど……もし見かけたらここへ来てもらう様に言ってもらえませんか」
何でも、梨花は独り言で……。
『……羽入。ちょっとボクにツラぁ出しにきやがれなのですよ。くすくすくすくすくすくすくす
くす★』
ちょっ……! 古手怖いよっ!
「……まあ梨花ったら、影ではそんなことを……? まったく、レディ失格ですわね」
「沙都子?!」
「え……?!」
「…………おや? おやおやおや……?」
突然の声に反応した男二人に注目され、沙都子は驚いている様子だった。それが朱として顔に表れ、こほんと咳払いをして何事も無いかの様にとなりに座った。……? 監督はなんで僕の顔も見てるんだろう?
「ほほ……。出す物出したらおなかが空きましたわ……あら? 私のお弁当がありませんわ」
え゛……?!
「それなら富田くんが全部、食べてしまった様です」
「げげえええっ?!」
「どうしましたか、富田くん?
あ……もしかしてメガネマンのものまねですね。わかりますわかります」
「そんな超人いませんよ!」
「……何だか、チエノ〇マンとタッグを組んでいそうなネーミングですわね」
「北条もいちいち乗っからない!」
って、うわっ! また睨まれた。……え? その手は……ナニ?
「……そういえば、私のも食べていいって言いましたっけ…………食いしんぼの誰かさんに。じゃあ梨花のお弁当を」
「そ……それなら! ドクターメガネが北条のスク水といっしょに持っていったよっ!」
「う……?! とっ、富田くん! それは私に対する当て付けですね。わかりますわかります。それはそうと、ドクターメガネってなんですか! それを言うならドクターボ〇ベでしょう普通は?!
ついでに誤解を解くために言いますが、正確には水着入れを頂いたのであって、まだ沙都子ちゃんのスク水は頂いていません!」
「……おふたりとも、ナニを訳のわからないことをぐだぐだと……。
それと監督……。私、どちらも差し上げる気なんてこれっぽちもありませんでしてよ……!「ささ……っ! 沙都子ちゃん痛い痛い!! め、眼鏡が割れてしまいます!」
沙都子は眼鏡ふたりをアイアンクローで締め上げる。
沙都子はその後、入江が自分のきしめんと沙都子の水着入れを返すことで手打ちとしたが、入江ではなく富田を自由にし、その空いた手できしめんを食べ始めた。
「その様子ですと今日はもう大丈夫みたいですが、横になっていきますか?」
沙都子の情けで、半分はきしめんに有り付けた入江がそんなことを聞いてきた。
沙都子は腹を摩ってみたり座ったまま体を動かしてみたり何かを考える仕草をしたり。入江はそんな彼女の答えを静かに待っていた。
「…………大樹さん……は、これからどうしますの……?」
聞き慣れない、いや。家族からならそう呼ばれているが……。なんと沙都子に名前で呼ばれてしまった。
え……っと? 何て答えたらいいんだろう…………。
「う……うん。僕はもう帰るから北条は、休んでいった方がいい……と、思う」
自分ではベストな答えを言えたと思うのだが……。
「……鈍感」
しかし、沙都子との答え合わせは失敗した様だった。入江も苦笑いを浮かべている。
「……監督。私もこれで帰りますわね。お薬は先月の物がまだありますから……」
沙都子は小さな声で、入江だけに聞かせたい雰囲気でその胸を告げ、帰り支度を始める。「それでは、羽入さんには後で梨花に会いにいく様に言っておきますわ」
「ええ。本人はあんな風に言っていますが、はは。照れ隠しですかねー」
「ほほ。今は、梨花みたいな子を『つんでれ』って言うみたいですわよ」
「ああ、それなら聞いたことがあります。前原さんとそのお父さんがよく口にしていますね」
そして二人は朗らかに笑った。
「沙都子ちゃん……。
気分が優れない様でしたら遠慮せず、そのときは……富田くんにおぶってきてもらってください」
入江の変化球気味の言葉に、沙都子が富田を見た。
「…………考えておきますわ……」
あまり気乗りしないその呟きに、しかし入江は嬉しげに笑っていた。
胸の横で手を振る彼にお辞儀をして、沙都子はぱたぱたとスリッパを鳴らして玄関へ。見送るお年寄りに笑い掛け、富田を置いてさっさと外に出て行ってしまう。
「ほりゃ大樹! ウチのヨメほったらかしてぇ……。ぼさっとせんと、はよ追っかけ!」
いつの間にか、富田の祖母が来ていたらしい。
今年の綿流し祭で、お魎と沙都子。その周りを、喜一郎に魅音、梨花とその仲間たちの連なる姿に、村人たちは一つの時代の区切りを見たのだった。故に少しずつ、雛見沢に沙都子の笑える場所が増えていった。
それと祖母の様に「沙都子をうちの嫁に」という、冗談交じりの声がわずかではあったが村で聞かれる様になり、そして……圭一の存在が富田を焦らせる一番の要因となる。
……まったくあのひとったら……。一体どこに行きましたの……?
大事にはならなかったとはいえ梨花が、それと岡村と羽入もまだ帰ってこないから、もう雛クラをする気分ではなくなり、今日は御開きにすることに決めていた。そして自分と同じく彼も、家に帰ると言っていた。だったら当然、行き先も同じなはずなのに……。
商店街にある富田の家で、只同然に豆腐を買った沙都子の足取りは軽やかとは言えず。それは通る先々で買い込んだ食材のせいもあるが……。
「う、ン……っ」
素直になれない心と素直な身体の温度差に沙都子は震えた。
「ほ……っ、北条……っ!」
また……北条ですのね…………。
商店街の出入り口で息急き切った富田と出会った。ここでもまた名前ではなく…………解っている、彼も恥ずかしいのだと。
軽トラックの下で、待合室で。
どちらも意識して呼んだのではないのだろう。でもあれが、彼も以前の自分たちに戻りたいと思っていて、思わず口にしたのだったら……。それに彼が望むなら、私はどんなことだって…………。
「ンッ! ふああ……っ!」
刹那の白昼夢に尻がずくんと疼き、よろけた拍子に声が出でしまう。そんな自分に彼が、駆け寄ってくる。
「……大丈夫…………沙都子……?」
おっかなびっくりの――でも…………自分にだけ聞こえる――やさしい声。
「僕が持つよ……」
「あ…………大樹……さん……」
う……重い……と、食材の詰まったビニール袋の全部を手にして、大樹は歩き出す。
「付かぬ事を聞きますけど……私が買い物をしているとき、大樹さんはどこに行ってましたの……?」
本来なら遠慮するなり半分は持つなりするところだが、沙都子はあえてそうしなかった。
「えっと…………古手たちの家に行ってた」
「ぐずぐずして、早く追い駆けてこないからはぐれるんですのよ」
少し、上から目線で言ってみる。
雛クラの終わった後の三人娘は真っ直ぐに帰らずよく、商店街に寄って行くことを失念していたらしい。それだけ自分のことで頭が一杯だったと思えば……悪い気はしない。
「それで…………家には誰も……?」
水着入れを後ろ手に下から、覗き込む様に囁く。彼がこちらを向き、すると狙い通り、息が掛かるほどにふたりの顔が向き合って、大樹の肘が沙都子の胸にめり込み、いやらしく歪んだ。
「おおっ……! 岡村と羽入がいた! そっ……それで北条は商店街にいるかもって……。僕もそう思って……走ってきたんだ!」
また北条……。
でも…………そう……。じゃあ、仕方が無いですわね……。
「…………ねえ、大樹さん。少し、休んでいきません……?」
「え…………ここで……? あともう少し……で、でも…………沙都子が言うなら……」
驚いて離れてしまった大樹に再び擦り寄り、沙都子は上へと、彼を誘う。そして沙都子は……林に用を足しに行った際に着替えたスパッツに手を掛け、大樹の目の大樹の目の前で下ろした。 蜜が糸を引いているのが――女のソレが硬く、水着の上からでも大きな芽が出ているのが――彼の視線がそれらに釘付けなのが――またいやらしい自分になっていくのが――わかる。
「……祭具殿の裏なんて…………人が来なくて絶好の場所……ですわね…………」
ほら……がんばってくださいまし……と、是見よがしにスパッツを穿き直し、沙都子は古手神社の石段を登って行った。
続く
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最終更新:2010年03月05日 22:25