「やめ、て…ください。おねぇ……いや……っ」
上気した頬。熱っぽい語調。潤んだ瞳。
部屋の隅。背中を壁に、前を私に塞がれた詩音はその場に崩れ落ちた。
「詩音が悪いんだからね。自業自得」
ほんの些細なことが原因だった。
それがなかったとしても、いつかは起こっていたと思う。
ただそれが今日だったというだけ。
普段なら弄ばれるだけ弄ばれて泣き寝入りするしかなかったけど、今日は違った。
ついかっとなって、やってしまった………禁じ手を。
「観念しなよ」
詩音を追い詰めながら思う。本当に観念しなきゃいけないのは自分の方だと。
いつのまにかこんなことになってしまって、後戻りできないのに引き返したくてたまらない。
だって、これじゃあ、まるで──。
「変態さんなのです」
まるで変態………って、え、ちょっ…あれ?
声のした方へ向くと、笑顔の梨花ちゃんに迎えられた。
「はたから見ると魅ぃが変態さんなのですよ。にぱー☆」
梨花ちゃんだけならまだ良かった。
「へんたい?おふたりは喧嘩をしているだけじゃありませんの?」
「沙都子は知らなくてもいいことなのです」
ドアの向こうで沙都子と羽入がいて、なにやらひそひそと話をしているようだった。まる聞こえだけど。
私は持っていた缶詰を近くの机に置いた。
「あのさ、梨花ちゃん、これは」
「ボクのことは気にしないでほしいのです。忘れものを取ったらすぐに帰りますです」
そう言って自分の机まで駆けて行き、中に腕を突っこんで探る。
彼女の動作を私は目で追っていた。
そしてどう弁解しようか考えていると、プリントを手に梨花ちゃんは目の前を通り過ぎる。
振り向いたときには遅かった。
ドアがぴしゃりと閉まって、競争でもしているのか騒々しく足音が遠ざかっていく。
しばらくするとまた静寂な空気に戻って、心なしかすすり泣きが聞こえてきた。
相変わらず詩音は抱えこんだ膝に顔を埋めている。
「ははーん。泣き真似して油断させようっての?残念だけどその手にはひっかから…な……い…」
調子が狂う。
缶詰でもっと追いこんでやろうと思っていたはずが、とても実行する気にはなれなかった。
たしかに詩音を負かしたかったさ。今でもそれは変わらない。
だから、嬉しいはずなのに。
こんなに後味が悪いのは、卑怯な手を使ったからなのか、何なのか。
予定では缶詰めで詩音をちょっと怖がらせるつもりだった。
それにどうせ詩音にまるめこまれて、最終的にはおふざけになるだろうと思ってた。
だけど、まさかここまで詩音が怯えるなんて想像していなかった。
悪態をついてみたけど言い返してくれない。
もう限界だった。
「あの…さ、…ん………ごめん」
詩音の前に屈みこんだ。
目線はちょうど同じくらい。やっぱり顔は見えない。
近づいたおかげで、しゃくりあげているのが耳に入ってくる。
「えと、ほらっ、もう缶詰は持ってないからさ…」
小刻みに震える肩に手を伸ばそうとした瞬間、顔を上げた。
「……っく、ふふ、なに深刻そうな顔しちゃってるんですか」
間近で見る詩音の表情には翳りがなかった。
これだけ近くなら腫れぼったい目とか泣いた跡とかがわかりそうなものだけど、全く見あたらない。
むしろ笑いを噛み殺した様子で、私を見るなり笑い声を漏らした。
はぁ、やっぱり嘘泣きだ。騙された。
我ながら子どもっぽいとは思いながらそっぽを向く。
「いじけないでくださいよー」
「べつにいじけてなんか…」
「私は缶詰を持っててほしくなかっただけなんですよ」
不意に詩音が飛びこんできて、抱きとめるしかなかった。
でも姿勢を保つことができなくて尻餅をつく。
「だって缶詰持ったお姉をこうやって抱きしめることはできませんから」
意味がわからない。
それじゃあ、全然理由になってない。
「嘘でしょ?」
「はい。嘘です」
要するに私はまた詩音に言いくるめられたわけか。
すっかり拍子抜けして、ため息をつく。するとまた笑った。
「つまりですね」
ぎゅっと抱きしめられた。
「私はなにがあってもお姉を抱きしめてあげる、ってことです」

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最終更新:2009年01月03日 16:07