「魅ぃちゃん、レナは知ってるんだよ」
夕暮れの教室に、涼やかな声が響いた。思わず私は振り返る。
放課後、部活も終わり、レナと私のふたりだけになった教室。窓を背に立つレナの顔は、オレンジ色の逆光でよく見えない。
ただ、その声の軽やかさから、何となく笑顔なんだろうという想像はついた。
「知ってるって、何を?」
ふざけているのかと思って、私も軽快な調子で言葉を返す。オレンジ色の中にそびえたつ、レナの黒いシルエットが微かに揺れた。
「圭一くんと付き合ってるんだよね、よね」
不意に、緊張が身体に走った。私は目を見開いて、レナを見つめる。
レナはこちらに近付いてくる。この上なく優しい口調で声をかけながら。私は徐々に壁に後ずさっていた。
「レナ、圭一くんのこと好きだって言ったよね?協力してって、お願いしたよね?聞こえなかったのかな、かな」
レナはもう、息がかかるほど近い位置に来た。口元は微笑んでいるのに、目はちっとも笑っちゃいない。
壁に追い詰められた私は、身体にまとわり付く恐怖を振り払って、何とか喉から声を絞り出した。
「何のこと?おじさんよく分かんない…」
「嘘だッ!」
鋭い声。般若のように歪むレナの顔。私はぺたんと床に膝をついた。
レナの冷たい色に満ちた瞳が私を無慈悲に見下ろす。次の瞬間、レナがぐいっと私の髪の毛を掴んだ。
頭皮に千切れそうな痛みが走る。苦痛に表情を歪ませた私に、ぬっと顔を近付けて、レナが再度口を開いた。
「あの時、レナは言った。圭一くんとレナが付き合えるように協力してって。
 魅ぃちゃんは言った。おじさんに任せろ、必ずふたりをカップルにしてあげるから、って」
「ひ……!」
恐怖に唇が震えた。思わず目元に涙が込み上げる。

そう、私は確かに言った。おじさんに任せろ、って。実際そのつもりだった。
私だって本当は圭ちゃんが好きだった。けど、レナに勝ち目は無いと思った。
どうせ勝ち目は無いのに、レナとの仲が壊れてしまうのは嫌だと思った。
だから圭ちゃんに、「レナは圭ちゃんが好きなんだって」と言いに行った。ひどく軽い調子で。
すると圭ちゃんは、苦しそうな、悲しそうな、そして怒ってるような顔で私に言った。
「どうしてそんなこと言うんだよ。お前にだけは、そういうこと言われたくなかったのに」、と。
まさかと思った。信じられなかった。けれど圭ちゃんは続けた。
「俺はレナじゃなくて魅音が好きだ。魅音と付き合いたいんだ。魅音は?」

「びっくりしちゃったよ。昨日、忘れ物取りに学校に戻ったら、ふたりが教室でキスしてるんだもん。
 その時のレナの気持ち、分かる?苦しかったよ。悲しかったよ。まさか魅ぃちゃんが裏切るなんて、思ってもみなかったもん!」
レナが掴んだ髪の毛を、ぶん、と振り上げる。壁に頭ががつっ、とぶつかる。痛い。
「ご、ごめん!でも私もずっと圭ちゃんが好きだったんだよ!」
「それが何?」
私はレナを見た。つまらなそうな、どうでもいいことを聞いたような、そんな表情を浮かべていた。
「知ってたよ。魅ぃちゃんの態度バレバレだったもん。だからこそ、魅ぃちゃんに協力してって頼んだんだよ。魅ぃちゃんを敵にはしたくなかったからね!」
レナが口元を歪ませながら、そう叫んで、笑う。唾が私の頬や額に飛び散る。
私ははっきりと知った。このレナは、尋常じゃない。
「なのに!なのに魅ぃちゃんは、そんな気遣いも無駄にして!レナは信じてたのに!大好きだったのに!」
張り裂けそうな声。恐怖に身が竦む。
次の瞬間、レナの白く華奢な手が、信じられないほどの力で、私の胸を鷲掴みにした。圧迫するような痛みに、呻き声が漏れる。
「ねえ、圭一くんとは、もうセックスしたの?」
「し、してないよ!そんなのしてないっ!」
「ここは?圭一くんに触ってもらった?気持ちよかった?ほら、黙ってんじゃないわよっ!」
爪が食い込みそうなほど、レナはぎゅうぎゅうと手に力を込める。
労わりのカケラも無い、まるで強姦魔のような手つき。あまりの苦痛と恐怖に涙が零れた。
「ああ、ごめんね、痛かったぁ?レナ処女だから、加減とか分かんなくってさあ。
 でもさ、親友の好きな人奪っちゃうような魅ぃちゃんは、さぞかし淫乱なんだろうね!レナ、本当敵わないよぉ!」
恐い、恐い。これから何をされるのか、恐ろしくて想像できない。私は必死に許しを乞う。
「ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさい!何でもするから許して!」
「何でも?本当に、何でもするの?」
「する、するから許して!」
「ふうん、何でもするんだね……」

不意に手が胸から離れた。痛みから解放されて、思わず安堵する。
けれど、ほっと息を吐いて、顔を上げた瞬間、私は信じられないものを見た。
レナが柔らかく囁く。
「何でもするって、言ったでしょ?」
ぷらん、と目の前でぶら下がっているそれ。
水色で、楕円形の形をしていて……そうだ、私はこれを見たことある。
確か洋モノのゲームを買おうと取り寄せた通販カタログ、それのずっと後ろのページに、ひっそりと、隠れるように掲載されていた。
あの時は、こんなものもあるのか、と思って流し読みしただけだったけど……
「ローターだよ。遠隔操作が出来るの。便利だよね、よね?」
私は小さく叫んだ。ありえない。まさか、そんなことあるはずない。
けれどレナはあまりにも無慈悲で、完璧な笑みを浮かべている。そこには私の願いが届く隙など、まるで無い。
「明日、学校にコレ付けて来て」
「無理っ…無理だよ、そんなの!」
「魅ぃちゃんに拒否権があると思う?私の味わった悲しみに比べたら、全然マシだよ、だよ」
「で、でも…」
「それにさ、圭一くんのオットセイは、これよりずーっと大きいでしょ?これよりずーっと大きいモノを咥えてる魅ぃちゃんなら、こんなのへっちゃらだって!」
「だから私、圭ちゃんとはしてないって…」
「嘘。あの後、ふたりは帰ったよね。魅ぃちゃんの家にさ。確か昨日は魅ぃちゃん以外誰もいなかったはず。そんな状況で、何もなかったわけ無いよ」
その通りだ。昨日は家には婆っちゃもいなくて、私と圭ちゃんのふたりきりだった。
圭ちゃんは、部屋に入った途端抱きついてきた。私は圭ちゃんが好きだったし、そういう行為に興味もあった。だから私は圭ちゃんを受け入れた。
「ね?分かったでしょ?これはそれよりも、ずーっと楽だよ。魅ぃちゃんは私にいっぱい嘘をついたね。その罪は償わなきゃ」
まるで飴玉でも渡すかのように、レナは私の手の中に、その器具を押し込んだ。
ひんやりと硬いそれは、得体が知れなくて、とても気味が悪かった。こんなの捨ててしまいたい、と思った。けれど出来なかった。出来るはずが無かった。
「明日、ちゃあんと付けて来るんだよ?レナ、魅ぃちゃんが言いつけを守ったかどうかチェックするからね。絶対だよ?」
微笑むレナの柔らかな声が、力無くうなだれた私に降り注ぐ。
オレンジ色の夕日の光が、レナに渡されたものを掴む私の手を、焼き尽くすかのように照らし出している。
教室の外のどこかで、ひぐらしが鳴いていた。

朝、いつもより早く来た学校のトイレの個室で、自分の中にローターを押し込む作業は、かなり辛いものだった。
自分の、つい一昨日までじっくり触っても見なかった場所をこじ開けて、そこにひんやりとした得体の知れない器具を押し込む。
もちろんあっさり入るはずもなく、私は徐々に、指先でその器具を押してめり込ませながら、必死にその異物感に耐えていた。
苦痛だった。やめてしまいたいと何度も思った。
けれど、すぐに私は思い出した。夕日を背に、鬼のように恐ろしい表情を浮かべ、私の髪を引きずり、胸を潰しかねないほどに掴んだ。
あの恐怖は、今でも生々しく、私の脳裏に焼きついている。
きっとこれをして来なければ、昨日よりも恐ろしい目に遭うだろう。もちろん、これをしたって、恐ろしい目に遭うことに変わりは無いけれど。
実を言うと、私は、罪悪感を抱いていた。
普段は温厚で親切なレナ。彼女が変貌した原因は、私の裏切りだ。
レナは親友で、仲間で、唯一の同年代の女友達で、私はレナが好きだった。
だから、あんなにも憎々しげに私を罵るレナの姿には、恐怖と共に悲しみを感じてもいた。
私の責任。私が悪い。

私は歯を食いしばって、ローターを身体に入れると、ショーツを上げた。薄い布のその部分が、不自然に盛り上がっている。
それはどこかグロデスクで、苦々しい思いをさせるのと同時に、つい一昨日、自分の部屋で目にした圭ちゃんのペニスを思い出させた。
ううん、こんなのじゃない。こんなのよりもずっと大きくて、色も濃くて……
そう思い出そうとした瞬間、たちまち下半身に熱が集まるのを感じた。頬が火照る。
私の身体に圭ちゃんの手が伸びてきた。キスされた。唾液がこぼれた。恥ずかしくてどうしようもないような部分を触られて、舐められた。
私は毛布に顔を埋めて、子どものように泣きじゃくった。
そんな私を、圭ちゃんは抱き締めてくれた。とても切ない表情で、好きだと言ってくれた。たまらなく嬉しかった。
お互いの、熱を孕んだ吐息を感じながら、訳が分からないほどびしょびしょに肌を濡らし合いながら、私たちはのぼりつめた。ふたりで、一緒に。
圭ちゃん。
不意に、愛しさが込み上げる。
私を優しく呼ぶ圭ちゃんの声を思い出す。私に向ける明るい笑顔を思い出す。
圭ちゃん、圭ちゃん。
「…よし」
私は大丈夫。レナへの罪悪感だけじゃない。圭ちゃんとのこれからのためだ。そのためなら、こんなの平気。
そう自分に言い聞かせながら、私はトイレのドアを開けた。

「魅ぃちゃんおはよう!今日は早いんだね」
「ったく、先行くならそう言えよなぁ」
教室のドアを開けた瞬間目に入ったのは、私を見つけて不満げに唇を尖らせる圭ちゃんと、その圭ちゃんの傍らに立って、いつもと全く変わらない笑みを浮かべたレナだった。
私は頬を強張らせながら、何とか微笑んで、「ごめーん、今日までの宿題のノート学校に忘れててさあ。まだやってなかったんだよねえ」と言う。
圭ちゃんは私の嘘を信じたらしく、「ふうん」と呟いて、そして私の顔を見つめた。
きりっとした賢そうな瞳が、じいっと覗き込んでくる。やばい、胸がばくばくする。
「な、何?」
「お前、熱でもあるんじゃねえか?顔赤いぜ?」
そう言いながら、圭ちゃんの手が、私のおでこに触れる。
ひんやりとした心地よい感触とは反対に、心臓がどくんと鼓動をひとつ跳ばすのを感じた。
「べ、別にそんなこと…」
「いや、赤いって。この時期に風邪か?」
圭ちゃんは「夏風邪はバカが引くって言うしなあ」と笑いながら、まだ手を離そうとしない。
私のおでこと、圭ちゃんの手のひらの温度が、徐々に同じに溶け合っていく。

やだ、照れる。でもすごくきもちいい。もうちょっと、このままで……
不意に、震えた。
「うあっ!」
「え?」
私は圭ちゃんの手をぱしんと振り払った。突然身体を離されて、不思議そうな顔をした圭ちゃんに、少し胸が痛む。けれど、今はそれどころではない。
低い振動。あれだ。あの不気味な小さい器具が、私の中心でうめいている。嫌。
「ふ…う、うぅっ」
吐こうとした息がひしゃげて、奇妙な声になる。びりびりした感覚が身体の軸を走る。やだ、やだよ。
「み、魅音、どうしたんだよ?やっぱり具合悪いのか?」
心配そうに私を気遣う圭ちゃんの声。ううん、ちがうよ。私は無理やり、震えそうな声を捻り出す。
「だ、だいじょうぶ。気にしないで…」
「気にするなって、でも」
「圭一くん、魅ぃちゃんがそう言うんだから、ほっといてあげたら?」
柔らかな声。悪魔の声。
「ほら、魅ぃちゃん。大丈夫?」
白い華奢な手が、ぎゅうっ、と私の肩を掴み、私の席に座るように促す。
震える。私の太ももの間で、禍々しい悪意が蠢いている。私はそれに抗えない。身体の力が抜ける。
ぺたん、と、崩れるように自分の椅子に座り込む。
「魅音…」
圭ちゃんが私の名前を呼ぶ。
私はそれに応えるために、圭ちゃんの方を振り返ろうとする。
でもそこにはレナがいる。まるで遮るように。
私は震えそうになる自分の身体を、必死で押さえつける。
「魅ぃちゃん、ちゃんと付けて来たんだね」
愛くるしい笑顔が、私を縛る。
私は口を開いて、何か言おうとした。けれど言葉が見つからなくて、ただ口をぱくぱくさせるだけに終わった。
すぐそこに圭ちゃんがいるのに。言葉を発せば伝わるのに。助けを求めることだって出来るのに。
「今日一日、頑張ってね?」
甘ったるい声が鼓膜を刺す。
とても出来ない。こんなこと耐えられない。けれど、耐えなければならない。
私はじっと俯いて、唇を噛み締める。
やがて授業の始まりを告げる鐘の音が、遠くから聞こえてきた。

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2007年01月25日 03:45