<前編>
ヤンデレレナ



レナ。
竜宮レナ。
名前が思考の中で飛び交う。
急き立てるように頭を叩くお湯。両耳を、絶え間なくノイズが走り抜けている。視界にまとまる湯の塊で、見えるものが少なくなっていた。秒数を刻むよりずっと早く、次々に足元に落ちる様子は、まるで世界が崩れていくような感覚を起こさせる。しかし、そんな中にもレナだけは居た。翳る瞳。その過程を俺は理解できなかった。一体何が、レナの暗い感情を引き出し瞳に宿しているのか。一瞬で、そう、何をと思う間もなく俺はいつも息を呑んでいる。底抜けに明るかったり、底も見えず無表情だったり。好意というには抵抗がある。
……誰かに、相談したほうがいいだろうか。
シャワーを浴びている間ずっと考えていた。レナは今せっせと夕食を準備しているのだろう。もしかして、扉越しに突きつけていたかもしれない包丁を片手に。好きなメロディーでも奏でながら。
髪の毛でも詰まっているのか、身体の汚れを流した湯に両足が少しずつ浸されていく。崩れ行く世界が目の前にあるのなら、それは残骸だった。縋りつきたかった。実際に膝をついて、そこここの波紋で歪む水面を見つめた。背中に当たるお湯が冷たさと痛みを誘う。レナにつけられた傷だ。

「……」

排水溝を開けゴミを取り除く。シャワーも止めた。
深刻に考えすぎだ、と頭を振る。今ここにある現実は、気が滅入るほどに酷いものではない。雛見沢に来る直前に俺が身をおいていたものと比べれば……。そこでふと思いつく。話してみようか。俺がなぜ都会を離れることになったのか。親父の仕事で、というには、画家の肩書きは一般的な知見からすると謎めいていて都合がいいのかもしれない。寂れつつある雛見沢にあって、都会から田舎へという構図も案外あっさりと受け入れられる。しかし親父がたびたび家を空けることを皆知っている。都会に住んでいたほうがよかったのではないか、と思わない人はいないだろう。
体を拭いていく。シャワーで済ますと体の冷えは早かった。後ろ髪から垂れる水滴に、背中が震えそうになる。
忘れたい過去のはずだった。人を、それも幼い子どもを傷つけて爽快感を得ようとした。溜まるばかりだったストレスのはけ口を人として最低なところに求めた。俺が犯人だと知ったときの、両親の驚きと怒りと悲しみと軽蔑を今もはっきり覚えている。何をどう思って俺がそんな行動に出たのか。要求されて話したら理解をしてくれたが、仮に親以外の第三者に話そうとしたのなら、ほとんど客観的事実を並べるだけになる。そうして、俺は完全に嫌われる自信があった。だから、封印していた。ずっと。仲間と呼べる者たちと出会ってから。
懺悔のつもりだろうか。許しを得たいのだろうか。しかしそんなことは自己満足に過ぎない上、レナに話したところで十字架が軽くなるはずもない。ならばどうして。どうして今更になって、俺はほとんど思いつきに近い形で過去を曝け出そうと思ったのか。わかっている。
わかっていた。俺は、レナに軽蔑されたかった。そうして遠ざけたかった。俺から距離をとることができないのなら、レナの意思でその行動をとってくれればいい。そう考えたんだ。
ただ、日々の楽しさに埋もれていたはずの過去の露呈が、今の俺にどこまでの影響を与えるかは想像もつかない。平静を保とうと努めても、受け止めきれない反応がレナからくるかもしれない。そう思うと怯える。
結局どっちつかずの考えを胸に抱えたまま、俺は食卓についた。



「圭一くんって子どもは男の子がいい? それとも女の子?」

どきりとした。思わず動作を止めてしまい、箸の先端のご飯粒が離れがたそうに落ちる。残りを口に含み咀嚼した。そのたびに溶けて舌に馴染み、粘り気をもっていく。レナの激しいキスを思い出し急いで飲み込んだ。やはり昨日の行為のことを指して聞いているのだろうか。そう考え答えようも無く沈黙していると、レナのほうが口を開いた。

「レナはね。男の子がいいかなぁ」
「……どうして」 
「だって、女の子だったらパパに恋しちゃうかもでしょ?」

微笑みながら、俺が掬うより半分以上も少ない白飯を口に運ぶ。

「そしたら、レナ困っちゃうなーと思って」

俺は昨日の行為を指して質問されているのかと考えて、内心で焦っていた。しかしレナの口ぶりと態度は、そんなこととは関係なくただ純粋に話題として出しただけのようだった。……それもそうか。昨夜のことはお互いに一言も触れていないのだから。だがそうであるなら余計に気になることがあった。
何で、そんなに心から困ったように溜息をつくんだ? その答えはすぐに返された。

「圭一くんはレナのものだから」
「――ッ」

自然だった。その一言まで。レナは俺が料理に向かうフリをして視線を合わそうとしないことに何も言わず、ろくな返答がなくても止めた箸をすぐに動かしたり俺のコップにお茶を注いだりと、途切れそうな間を辛うじて繋げていた。一方で、俺が顔を上げたときは下を向く。そうして交わらない視線の応酬が続いていた。しかし――。

「とても、困るよ」

今は俺を捉えている。瞼の重量感に震える。鉛のような瞳孔。それが沈まぬようにと、俺を焦点から外さぬようにと必死に支えているのが瞼だった。なのに瞳は一瞬たりとも揺らぐことなく、鈍い光を携えてただ俺を凝視していた。瞬きもしない。無意識に腰が浮きかけた。
この態度の豹変は何を意味している? さっきまではお互いに探り探りでコミュニケーションをとっていたはず。手当てをしたときのぎこちない空気はそれを暗に証明するものだろう。
一歩、さらに一歩と踏み込むような行動はなかった。しかしここにきて。レナは無遠慮に俺を見据え、激情というにはあまりに静かすぎる感情の奔流を、臆すことなく向けている。そのせいか食卓の空気は完全に凍り付いてしまった。食事など続けられる雰囲気ではない。こうなることは分かっていたんじゃないのか? 分かっていた上であえてそんな目で俺を見るのなら――。
この先レナがどんな行動をとっても不思議ではなかった。

「俺っ、が……レナのもの、だって……?」

針を持つ手がわかりやすく震えるように、その言葉は怯えと警戒とをあっさりレナに伝えてしまっていた。それに対してレナは何も言わなかった。ああ、さっき手当てをした際の、レナの気持ちがよく分かる。沈黙は、耐え難いほどの圧力を俺の肩に乗せている。あの後レナは何事もなかったように笑顔になっていたが、俺にはとてもできそうにない。――沈黙は肯定。そう無理やり納得させられるほど、レナの箸をすすめる所作は自然だった。

「おかしい、ん…じゃないのか……?」

よせばいいのに、言葉を紡ぐ。
レナの肩がぴくりと動いたのを、沈黙の裂け目だと勝手に解し、俺はかすかに声を荒げて続ける。

「だいたい子どもなんてっ。存在すらしていない者にッ――!」

抱く、おそらく嫉妬。異常だ。そうなじろうとして俺はある事実に気づく。簡潔だった。単純明快。俺は今のレナを理解している。異常な嫉妬。であるならば、なぜ学校では普通に振舞えているんだ? あまりにも普通な日常こそが違和感の元だった。魅音や沙都子や梨花ちゃんと、俺は変わらず同じ態度で接することができている。それは、レナがそうだったから。ところが今はどうだ。心臓が針の筵にされるような、焼けた鉄に両足を置くような、反射的に逃げ出したくてたまらなくなる感情が、際立って目に映る。それは二人でいるときだけ。

『存在すらしていない者にッ――!』

たった今発した言葉が頭の中に響いていた。
正確に言うならば。あの電話があってから、だ。

『うん。誰か、知らない女の人』

そうレナが形容した電話の相手。不自然に女という単語が強調されていた。それに、女の子だったら困るというあの一言。魅音たちと笑いあうレナ。俺が、レナ以外と過剰に接することになっていても、そのときどきでまるっきりレナらしいと思える反応をしていた。……こう言うと何か思惑があってわざとそう振舞っていたようにも感じられるが、そうは見えなくて、本当に自然だった。

『暗闇の中で感じるのって、自分だけなんだ。見えないもの触れないもの聞けないものを信じることなんて、できっこないよね?』

昨晩のレナの言葉が脳裏を過ぎる。混乱していた頭でもちゃんと聞き取れていたようだ。
容易に推測できた。レナが何より恐れているのは、存在しない誰かだと。赤ん坊の話はそういうことだろう。電話の相手は厳密に言えばどこかに生きているが、ただ声を聞いただけだ。
俺ならすぐに忘れるだろう。間違い電話ならなおさらそうだ。しかし、レナの心にはいつまでも引っかかっているのかもしれない。

「……」

俺から目を離さないレナ。もしも今、再びコール音に空間が震えたならば――。
はっ、と短い息を吐きそれ以上に吸い込んでしまった酸素に肺が悲鳴を上げかけた。
――考えてみればいい。人間と霊というものを。どちらを恐れるかということを。確実に存在を感じられる者と存在があやふやな物。大半が後者を選択するはずだ。俺とレナはまだ子どもで人生経験もほとんど積めていない。きっとそう選択する。なぜなら。
はっきり分かる形で存在さえしていれば。
どうにだってなるだろうから。どうということはないだろうから。
つまりレナは。
俺と魅音たちとの間に何かあったとしても、どうにでもなるし、できると考えている……?
瞬間、背筋をざわりと覆うものを感じた。その気配は流れる冷や汗を、速度に合わせてじぃっと凝視しているかのようだった。

「座ろうよ、圭一くん」
「……ぁ」

芽生えた疑問があまりにも恐ろしく、その恐怖のままにレナを見たからかもしれない。そんな気配、感じるはずもないのに。レナの声は穏やかだった。少なくとも、俺の創りだした幻影が醸し出す雰囲気よりは。
ふっと足の力が抜けた。椅子の冷たさがジャージ越しに伝わる。レナの言葉で初めて気づいたが、俺はいつからか立ち上がっていたらしい。小声で謝りつつ箸をとった。夕食は、まだ半分以上も残っている。腹は一杯だった。それも料理の匂いすら留める空きがないほどで、一体何にここまで満たされたのかと思う。
しかし満腹からくるものではない脱力感が肩から脚にかけてあった。ほぼ普段と同じ生活様式で衣食住を行っているにも関わらず、常に気を張っている。そのせいで色々考えてしまう。
そうしなければ変わらず心安らげる一日であったろうに、足元に線引かれている境界から目が離せない。すぐ目の前に日常があるという認識が、帰りたいというもどかしさと何故こっちにいるんだという恨めしさを生んでいる。
端的に言うなら俺は疲れ始めていた。だからだろうか。

「レナは……俺のこと、好きなのか?」

独り言のように、気がつけばそんなことを聞いてしまっていた。表面上、紛れもなく平和な日々を再現している今に縋りつこうとしたのか。それともただ単に諦めただけなのか。声にどんな感情を込めたのか自分でも計りかねた俺は、喉の震えの余韻だけを静かに感じていた。

「……」

レナはきょとんとした表情で俺を見ていた。
だがすぐに頬が緩む。色づき始めの花のように控えめで未成熟な笑みは、それが照れを表しているものだと、少しして気づく。目を伏せて一度大きく頷くと。

「うんっ、大好きだよっ!」

と元気に叫んだ。その後はしおしおと肩を窄め、子犬のような鳴き声を時折小さく発しながら、飯をつついていた。俺はしばし呆然とする。何より純粋、想いの全てがその一言に込められていたような気がして、レナは本当に恋をしているだけなのだと思わざるを得なかったからだ。体裁も生活も何も気にしないでいい、相手と自分さえ居れば成り立つこの瞬間。俺たちはそんな時代を生きているのだと。……しかしだからこそ、子どもでもあるんだろう。
少しだけ腹の空きを感じた俺は、再び料理に手を出した。



レナはなかなか帰ろうとしなかった。もう夜の九時を回ろうという時間なのに、何かと理由をつけては俺の言葉をのらりくらりとかわしている。茶碗を洗いたいから、という。宿題を見てほしいから、という。そして今度は。

「ねぇ圭一くん。お風呂お借りしてもいいかな、かな?」
「わざわざうちで入ることはないだろ」

テレビのチャンネルを変えながら、きっぱりと言う。身構えることなく片手間で拒絶できるほどに、そのお願いへの俺の態度ははっきりしていた。後ろにいるレナもそれ以上は何も言ってこない。

「本当に……そろそろ帰らないとまずいだろう、レナ」
「うん……うん」
「……レナ」

諭すように言う。

「あ、あのね圭一くん、今日、その……泊まっちゃ、ダメかな……」
「……」

風呂に入りたいといった時点で、ある程度は予想していたことだった。そのときは遠まわしに体の関係を望んでいるのだと、瞬時に思い浮かんだ。が、必ずしもそうと断定できない、考えてみるべき他の可能性が、風呂に入るといった行為くらいならいくらでもあると思ったので、特に意に介していない素振りをすることができた。しかし一泊するということなら話は別だった。

「圭一くんのこと、大好きだよ」

俺が口を開こうとするのに被せてレナは言った。

「好きかって聞いてくれて嬉しかった。当たり前のことだけど、確認し合うって大事だよね。でもレナ謝らなくちゃいけない。そう確認したのは、圭一くんが不安になっていたってことだもんね」

思惑が筒抜けであることを理解し、その前提で喋っているように見える。さらには俺の意思がレナのそれと合致しているものだと、勝手に思い込んでいる節もある。だからさっきまでのようなこちらの言い分に気を遣う様子は一切感じられない。別人だ。まるで俺に好きだと伝えることがレナにとっての魔法であったかのように。

「……不安?」

俺は訊き返す。

「やっぱり嘘はだめだなぁ、あはは。圭一くんにはすぐバレちゃうよね。分かっていたことなのに、レナって本当馬鹿だよね」

嘘。その不吉な響きのせいかレナの声に冷たさを覚え始めた。本人は嬉々として喋っているように見えるのに。聴覚だけが異常を察したのだろうか。

「電話、男の人からだったんだよ。圭一くんが心配するかと思って嘘ついたんだ。関係ないことだけど、女の人からだって嘘つくだけでレナは少し恐くなっちゃった」

前髪から覗く瞳一杯に俺を映してレナが近づいてくる。
わけが分からなかった。心配? そんな要素は電話にはない。いつだってお前に向いていたんだ。曝け出したい本音はしかしその意に沿わず、端から見れば俺は大人しくレナの言葉を待っているだけの情けない男に違いない。

「大丈夫だよ、レナが一番好きなのは圭一くんだけだから。心配しないで、ね? 他の誰より、何より一番だよ。圭一くんにならどんなことをされてもいいと思ってる。壊されたって構わない。圭一くんのもので喉を乱暴に突かれて声が出なくなっても、きっと好きって言えるよ」
「何を、言っているんだ……」
「だってレナは圭一くんのものだから。そして……圭一くんもレナのものだよ」

語尾は囁くようだった。それで十分だったのだ。何故なら既に目の前にいるのだから。
もうそれは声よりも吐息のほうが強く感じられて、半ば強制的に脳内へと染み込んでくる。

「してみようよ。昨日はレナばっかりがしちゃったから。今日は圭一くんの好きなようにしてほしいよ。邪魔は入らないから。ね?」
「……」

レナが俺に覆いかぶさる形で、二人ソファーに寝る。昨晩と全く同じ状況なのにも関わらず俺はあまり警戒していない。部屋が明るいからだろうか。レナが破壊的ともいえる女の行動を起こしてこないからだろうか。またそうしない保証がされたからだろうか。所詮、俺も雄。身の安全に重きを置きながらも、同級生からの一線を越えた甘美な誘惑に動かされないはずがなかった。昨晩の記憶には快感だけしかなかったと都合よく解釈し始めて、いよいよ思考はひどく感情的な性欲のみによって埋め尽くされていこうとする。
そのときになって周囲の有様を強く感じたのは、その本能の侵蝕を、辛うじて危険だと判断できたからかもしれない。だがそれもすぐに掻き消える。俺は鋭敏になった五感覚にただ身を奮わせていただけだった。
テレビの音量は、気づかぬうちにほとんど聴き取れない程度に調整されており、轟く秒針の足音は時が進むことの重さを部屋に刻み込む。どこまでも冷静でいながら心の奥底はつかみどころのない炎に燻っていた。いつ燃え上がってもその果てに燃え尽きてもおかしくなかった。
そんな感覚でレナを見る。
たくし上げられたスリットの奥で、俺以外の男には秘められた熱が宿り始めている。それが感じられたのは、布を数枚隔てたところで男と女の象徴が触れ合っていた、から。何を求めているのか頭で理解せずとも、体が率先して動いた。凍り付いたようだった四肢は嘘のように流動し、体勢を整えていく。半身を起こした俺の目の前に、レナの胸があった。薄い紫のリボが左右均等に見事な蝶を作っており、まるで俺のために設えられたかのように映る。丁重に扱えということでもないだろう。壊してもいい、とレナは言うのだから。乱暴に剥ぎ取り、その勢いでスリットの裂け目まで通り道を作るのもいいかもしれない。さすがにまずいだろうか、そう思ってレナを仰ぎ見たが本人もそれを望んでいるようだった。期待に満ちた表情が、俺の手元を見つめている。

「……」

右手を、腰からお尻にかけた敏感なラインに絡ませる。そのままぐいっと僅かに力を入れて引き寄せた。猛る性器とさらに密着度が高まると、レナが喉奥から小さな声を漏らした。空いた左手でリボンを緩めた。はらりと床に落ちる。ひらけた胸元から、一気に女の匂いが溢れてきた。その白く滑らかな肌に顔を埋める。下着の覆わない双丘の膨らみ始めを、舌先で幾度も昇り降りする。もどかしそうな嬌声が押し損ねた鍵盤から発せられるような控えめさで、頭上から降ってくる。舌を休めぬままふと見ると、乳房の大きさに比して下着のそれが合っていないように思った。成長途上であるのだろう。そのとおりレナの体はまだ熟し始めだが、ここから息が長そうな、男を虜にする魔性の魅力を放っていた。

「圭一、くんぅ…」

肩にレナの重さを感じて、胸から口を離した。香りよい茶髪のさざ波に頬を撫ぜられながらしばし乱れる吐息に耳を傾けていた。その最中、看過できない匂いのあることに気づく。ガーゼだった。手当てをした頭の怪我。つんと鼻を刺激する。勘違いかもそれないが、かすかに血の匂いも混じっていたような気がする。ほぼ同時に、背中の傷が疼いた。

「……」

ぐっと目を閉じる。
それから無言でレナを引き剥がし、今度は俺が上になるように寝かせた。情欲のうねりは留まることを知らず、あとは丸ごと吐き出すだけのはずだったのに。

「レナ、聞いてくれるか」
「なんでも、聞くよ」

躊躇いのない返答に一瞬だけ気後れしたが、決心が鈍るほどではなかった。

「……俺は、雛見沢に引っ越してきた」

姿勢は変えないまま話し始める。最初はゆっくりと、徐々にペースを上げて。
俺がモデルガンを遊びのおもちゃにしていたこと。そのおもちゃで幼い女の子を傷つけたこと。罪は社会的にはお金で許され、事件は解決をみたこと。ただのストレス解消というには大仰すぎたその事件名も、ただの馬鹿ガキだった俺と世間との認識の違いを示すため、話に出した。とにかく迷惑をかけた。謝罪してもしきれないほど。それなのに、俺はまるで逃げるようにして都会を離れた……。

「……」

 割と冷静に話せた。第三者の視点からそうしたからだろう。もしも過去を追体験するよう振り返っていたのなら話はまったく進まず、レナにとっては訳の分からない状況になっていたに違いない。しかし話の途中で目を合わせることは、終ぞできなかった。レナは一片も身じろぎをせず、ずっと耳を傾けていたようだった。反応があったとしても困ったが、逆に何もないのも嫌だった。……自己中心的だ。だから所々同情を引くように語った部分も、多分あった。
本当に、情けない。軽蔑に値するほど。小さい人間だ。
唇を噛む。喉が渇いていた。普通に会話をするのとは違う後味が口の中に残っている。もしかしたらと思ったがやはり、すっきりとした感覚もありはしなかった。一生消えることはない、それはこういうことなのだろう。

「圭一くん」

拒絶された、と反射的に思った俺は、上半身をずっと支えていた両腕から力を抜きすぐにレナと距離をとる。とはいってもソファーの端による、といった程度のものだったが。恐るおそるにレナを見た。
瞳は――暗かった。
……当然だろう。一体何を期待していたというのか。汚い部分を曝け出してもなお俺を好きといってくれるなら、と悲劇の主人公にでもなったつもりだったのか?
百人居れば百人とも、俺を蔑視するに決まっている。くそっ……。そう考えている癖に、ほんの少しでも落胆の色を隠せていない自分に心底腹が立つ。次に投げかけられる言葉はどんなものだろうか。仲間に裏切られたという感情が言葉に乗れば、相当にきついものに違いない。俺はそれを待った。

「その女の子が悪いんだよね?」
「え?」

一瞬、呆ける。

「圭一くんは悪くないよ」
「いや……俺が、悪いんだよ……」
「こんなに苦しんで……。レナ、許せないよ……」

頬が優しく包まれた。人肌のぬくもりが、無条件に安らぎを与えようとする。しかしレナの瞳は俺に向けられたものではなくて、違和感を覚えた。
一体誰に? 
考えるともなく脳をついた答えに、俺は恐ろしく震えた。

「違うっ。悪いのは俺だっ。俺が傷つけてしまったんだっ」
「本当に? 傷つけられる理由があったんじゃないのかな? 圭一くんは悪くないよ」
「……っ! 話聞いてたのかよっ!? 原因は全部俺なんだよ! 女の子もその家族も、不幸にしたのは俺なんだよっ!」
「……じゃあ、悪いのは、……ご両親なのかな?」

瞬間、俺の中で何かが弾けた。心臓の半分ずつがそれぞれ別々の火打石のように。痛いほど鋭く音を立て炎を上げた。すぐに頭に血が昇った俺は、右手に添えられたレナの手を思い切り振りほどいていた。

「違うって言ってるだろ!」

声が反響する。

「そうかな? 圭一くんがストレスで苦しんだのはそういうことじゃないのかな」
「なっ……」
「だいたいおかしいよ。昨日も今日も圭一くんを一人残して。レナならずっと一緒にいるのに。だから圭一くん、悪くないよ。自分を責めないでね?」
「……誰が、悪いっていうんだよ……」

半ば脱力しかけた状態で俺は立ち上がり、レナを見下ろす。

「圭一くんじゃない誰か」

首を傾げてにっこり笑う。我なんてとっくに忘れていた。脱力したのはこれから爆発させる感情に、体を備えるため。じりじりと背を焼くような我慢をしながら、俺は声を絞り出した。

「それ、なら……。俺が悪いっていうんじゃないのなら……っ!」

近づいてこようとするレナを睨んで。

「レナが悪いんだろっ!」
「え……?」
「そうだろっ!? 俺が悪いに決まってるっ! なのに悪くないなんて言う、レナが悪いんだろっ!? だいたい……一体なんなんだよ昨日から! いい加減にしてくれよ!」
「圭一、くん?」

喉が張り裂けそうなほどに叫んだ。
俺の怒号を受けたレナは、茫然自失とした表情で固まり俺が息を落ち着ける頃になってわなわなと震えだした。心底怯えた様子だった。みるみるうちに涙が溜まっていき、瞳の頼りなさに信じられない者を見る色を掴んだが、なおそれに縋り付こうと手を伸ばしてもくる。

「もう帰れよ!」
「ど、どうしたの……? 圭一くん、どうして、どうしてそんなひどいこと……?」
「帰れって言ってる!」
「圭一くん…圭一くん……圭一くん……。そんなひどいこと言わないで。お願いだから…レナ謝るから……圭一くんのこと大好きだから……」

やり切れない思いを抱える。
俺は足音荒く自室に向かった。 
レナのむせび泣きが背に聞こえたが拒絶した。
もう一度、帰れと叫ぶことによって。
寝てしまおう。胸糞の悪さを寝て忘れよう。
俺は敷きっぱなしの布団にもぐりこんだ。



目覚めたら朝、ということにはならなかった。時計は深夜二時を指している。同時に空腹を感じた。ふらつきながら歩く。一階に下りてもレナはいなかった。冷蔵庫を開けると、見慣れぬ皿に盛られたデザートのようなものが目に入った。その下に挟んであった掌ほどの紙切れが開けた拍子に一度揺らいだ。
手に取る。

『明日の朝、食べてね。 レナ』

可愛らしい文字でそう書き記してあった。
不意に、目頭が熱くなった。抑えた指がじわりと濡れる。
意識が覚醒していく。これは夕食と一緒に作ったものを予め入れておいたのだろうか。それとも、帰る直前に作ったものだろうか。分からない。どちらにしろ、俺はレナに対して罪悪感で一杯になるのを防ぎようがなかった。
嗚咽が漏れる。
どうしてこんなことになってしまったのか。これ以上、一人でどうにかするなんて考えられなかった。俺とレナの問題なのだろうが、それほどに俺は参っていた。

「相談、しよう……」

しばらくその場で泣いてから、呟いた。
真っ先に浮かんだのは、雛見沢分校の委員長にして俺たちの部長、魅音だった。


<続く>

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最終更新:2008年05月04日 23:41