前回 Miwotsukushi3



事後。あぁ、なんて今にぴったりの単語だろう。
ベッドの上で目が覚めた時には、まだ圭ちゃんは眠っていた。
まぁ、あれだけ暴れれば、細身の彼じゃあ体力が持たないと思う。
辺りを見渡し、一糸纏わないこの状況を打破する布を探す。
ベッドの下に落っこちていたパジャマを発見し、トイレに向かいながら上を羽織った。
下腹部の違和感。いつもと違って躰が重い……。
「あ……」
用を足そうと座って気が緩んだ瞬間、どろりとしたモノが排出された。
思わず腰を浮かせてそれを確認してしまう。白と透明が半々の、固体と液体が半々のものが付着している。
昨日圭ちゃんと性交をした証拠。私は愛してくれた証拠がここにある。
「……まさか受精なんてしてないわよね」
安全日とは言え、百パーセントしない訳じゃないことは知っていたので、今更不安が頭をよぎる。
これからはコンドームなるものがあった方が良いわけだけど、どちらが用意すれば良いのだろうか……。
女性の尊厳から言えば、圭ちゃんにしてもらいたいわけだが、圭ちゃん自身が乗り気でないのは分かっている。
誘った方のマナーとして、やはり部屋に備えているべきかもしれない。
する事を済ませてトイレを出た私は、朝食を作ろうと冷蔵庫を開けた。
適当に卵やらハムやらを取って、台所に並べる。
時刻は十二時半。訂正しよう。昼食のために私は冷蔵庫を開けたんだ。
油で熱せられたフライパンに、卵の水分が弾かれる。ばちばちと大きな音が耳をつんざく。
「……おはよう。詩音」
乱れた髪をいじくりながら圭ちゃんが台所を覗く。まだまだ睡眠が欲しいのか瞼が重そうだった。
「おはようございます、圭ちゃん。昨日はお疲れ様でした」
フライ返しを掲げてウィンクしてみせる。あー、なんかマンガに影響されやすいお姉みたいじゃないか。
「うっ……、そう言われると恥ずかしいじゃねえかよ」
本当からかい甲斐のある人だ。一番血が通いにくい耳たぶまで真っ赤になっている。
「ふふ。昨日の圭ちゃんはまさに獣でしたからね。あんなこっぱずかしいセリフまで言っちゃってー」
フライ返しを握ったままくるくる回して圭ちゃんを挑発する。
どうも目を合わすことも恥ずかしいらしく、視線が床へと落ちている。
「昨日のこと考えたらまた濡れてきちゃいましたよー、圭ちゃん」
「嘘をつけ」
そこは冷静なのか、と心でツッコミを入れる。
「まぁ嘘ですし」
痴女と思われるのは嫌だったので、私もあっさり認める。
こんな所で圭ちゃんをからかえるとは思わなかったので、自然気持ちが高ぶる。
鼻歌も歌いながら体をキッチンへと戻した。
瞬間、目に入る。異臭を放つ真っ黒い異物がフライパンにこびりついていた。
「……」
しばらく静止した私に、圭ちゃんがなにか私へ言葉を投げかける。
だが、何を言ってるかまでは識別できない。依然プスプス焦げ続ける異物を見つめるだけだ。
とりあえず火を消す。青い炎が消えても余熱で異物は未だ焦げるのをやめてくれない。
水をぶちこんでやると白い水蒸気がぼわっと発生し、視界が軽く塞がれる。
また圭ちゃんの声が後ろで起こった気がするが気にしない。
フライ返しで何度か削ってやるとその異物は剥がれた。あぁ忌々しい。さっさと流し台にでも押し込んでおこう。
「詩音、俺あんま腹減ってねぇから……、な?」
……それは慰めと言うより、終止符ってやつだろう……。
このフライパンを振り回したい気分だが、それをぐっと堪えてため息を漏らした。
しばらくは圭ちゃんの中に、料理下手のイメージが定着するのかなぁ……と思いながら。
いや、昨日の夕食で多少評価は高いと思うから……って、あの時は味なんて考えられる状況じゃないか、と勝手に焦っていると部屋のチャイムが鳴った。
園崎の黒い奴らが住むこんなマンションにわざわざ足を運ぶと言えば一人しか居ない。

「詩音、誰だ?」
「黒いのの親分ですよ」
はぁ?、と聞き返す声を流しながら、私は玄関戸の小さな窓を覗いた。
大柄のサングラス髭オヤジが、最近の小学生に見せてやりたいほどの『気を付け』をしている。
とりあえず他の園崎関係の奴じゃないことだけ確認して、私は扉を開けた。
「お迎えに参りました、詩音さん」
開口一番ドスの効いた低い声が唸る。
明日の朝まで離れる、と言った割にはえらい遅く来たもんだなと思う。
空気が読める、と言うかヤクザらしくない、執事のような一面がある。
執事よりも格段にボディガードの名称が似合う彼の顔を見てると、ふと余計なことを気付いた。
あんまり空気読めてるから気付きにくかったが、私を学校行かせるなら当然早朝に来るはずだ。
てめぇ、絶対私が登校しないことを前提に行動してるだろう。
残念なのは、その前提を私が確実に消化してしまっているので、これからも葛西は私の不登校癖を踏まえて関わるのだろう。
絶対いつか見返してやろう、と切りをつけて私は圭ちゃんを呼んだ。
ピンクの寝間着で登場し、葛西を見つけてかすぐに引っ込む。
そりゃぁ、罰ゲームとは違う恥ずかしさがあるから、コントのような一連の流れも至極納得できた。
「妙に可愛らしい格好でしたね」
口元を緩めて葛西が言う。幾らこの葛西と言えども、圭一の一挙一足は面白みを感じるらしい。
「私のチョイスですからね、なかなか似合ってるでしょう」
「ええ」
小さく頷きながら、またサングラスで若干隠されている表情が明るくなる。
事実、もうちょっと男の子向けのモノもあったが、そこは家の主の権限として圭ちゃんに無理をしてもらった。
お陰で一時期の目の保養と、しばらくのからかうネタが出来たので、大成功と言えるだろう。
引っ込んでからなかなか反応がなかったと思うと、自分の服を着込んで圭ちゃんが再登場した。
葛西にちらりと目線を配る。葛西がわざとらしく視線を避ける。圭ちゃんの目が一瞬絶望を映した気がした。
「圭一さんも雛見沢にお戻りになりますよね?」
顔を背けたまま葛西が言う。意外としつこくいたぶるモノだ。
「あ、はい」
力のない声で圭ちゃんが答える。肩が下がり、視線も下方修正されて見るからに面白い。
この反応が一層楽しませているのを気付くのは、一体どれほど先なのだろう。
「行きましょう、圭ちゃん」
自然明るくなった声で私は扉を開ける。
右手で握った圭ちゃんの温かさを感じて、私は小走り気味に駆けだした。

数十分車に揺られて、自然の度合いが増すごとに記憶にある道になっていく。
別に幾多の道に分かれている訳ではないが、周りが木で囲われている分、どうしてもすべてが似通った風景となり覚えるのが難しい。
それでありながら記憶にある道とはどういう事だろう。
こんな遠くまで遊びに来たことはないはずだ。
だが既視感のような感覚がある。ふわふわとして少し気持ちが悪い。
「既視感か……」
ならばこれは梨花ちゃんの言う別の世界で体験したことなのだろうか。
どれも同じに見える木々を、俺が『一度見た』と特別にするのはそんな理由なのか。
視線を窓から前方の助手席に座る詩音へと移す。
詩音も俺のような感覚を沙都子の時に感じたようだ。
恐らくは俺のように種明かしはされていない。
いや、たとえされていたとしても、俺でさえ半信半疑なのだから、詩音だったら冗句と片づけるかもしれない。
だが確かに感じる既視感――おかしな表現だとは自分でも思う――で、詩音は何かしら行動を修正している。
本人が語る沙都子の件だけかもしれない。
しかしもし俺を好いているのもその既視感の影響があるなら……。
やはり俺は心から詩音に愛を与えられない。
そんなあやふやで人の気持ちは背負えない。
無駄に頑固だと、冗長に理想論だと分かっているけど、やはり俺は俺に逆らえなかった。
既視感の霧の記憶から、確固な実体を持つ記憶になっていく。
この道を進めば、すぐ通学路に出るはずだ。
時間はさすがに帰宅時間と重なってはいなかった。
教室の掃除を終えて、そこらを駆けながら帰ってもずいぶんお釣りが来る頃合いだ。
魅音と待ち合わせをする水車小屋が見えてきた。
ここを通り過ぎれば後少し……と、車は減速し、葛西さんはハンドルを左に切る。
この道の先には一つしか建物はない。
「園崎家に寄るんですか?」
魅音の家とは言わず、あえて他人事のように言う自分に驚いた。
「私がちょっと……。圭ちゃんも付いてきてもらえますか?」
「ん。お、おう」
魅音と喧嘩別れして丸一日が経っている。本当なら朝仲直りしておきたかったのだが、それが叶わなかったのである意味機会となるかもしれない。
詩音の用が気になる所だが、あまり魅音と関係ないことなのだったら、俺は彼女の部屋に行き解決するのも一つの案か。
どちらにしろ腹はある程度括った方が良いだろう。
詩音の後ろを付いていくと詩音が茂みの中へと入っていく。
玄関とは方向が反対だったのだが、恐らく別の入り口があるのだろう。
青々と色づいた茂みを払いながら、俺は奥へと進んで行く。

所々が朽ちている木製の戸を開く。
手入れがされていない茂みがまた現れ、二人は身をかがめて進んでいった。
軽快に進んでいく詩音に対し、圭一は肌が露出している部分を中心に傷を負いながら付いていく。
枝の先やらで引っかかれた皮膚が痛い。
慣れている詩音には造作ないことだったが、圭一は悪戦苦闘を強いられたのだった。
「ストップ、圭ちゃん」
前を歩いていた詩音が止まる。差し込む光の量から出口が近いことを直感した。
目を凝らして誰かが居ないかを確認する。
次いで顔を出して最終確認してから茂みの外へと出た。
何もない縁側の所で靴を脱ぎ、その下へと靴を隠す。
「見つかったら面倒なんで、慎重にお願いしますよ」
圭一へ釘を刺しておいて、詩音は再び歩き出した。
広い園崎家で居るのはお魎、魅音、使用人は今日居ないはずなのでその二人である。
半分は当たりであるし見つかる可能性はごく僅かだが、あの人は勘が恐ろしく鋭いので油断をしないのが当然だろう。
圭一はと言えば場違いにもただ広い家に口を開けて眺めているだけだった。
この先起こる修羅場など想像せず、一応足音だけ気を付けながら付いていく。
「ここです」
旅館のようにひたすら続くふすまのパレードの中、詩音は一つのふすまの前で圭一へと振り返る。表情は落ち着いていていて、むしろ精悍ともとれた。
「詩音です、入ります」
礼儀正しく詩音が正座をしてふすまを開く。圭一は中から死角となる位置から、状況を見守る。
ふすまの先には一式の布団があった。
圭一の言ったことのある魅音の部屋とは比べる必要もないほど広い。
宴会さえも楽に出来るような部屋だった。
その空間に生活をするための物としてあるのはその布団だけ。
中で上体を起こして存在する人物。白髪に覆われているものの、目が彼女を園崎の者であることを証明する。
その側で和服姿の凛とした女性が座っていた。彼女もまた園崎の人物であるのが一目で分かる。

「どうしたんだいアンタ、こんな所に来て」
絹肌の顔の中で、園崎の目、紅に塗られた唇が動く。
圭一は一度この女性を見たことがあった。
思いを馳せる。梨花ちゃんの件で雄弁を振るったあの時。あぁ、もしかしたらその時と同じ部屋かもしれない。
梨花ちゃんが山狗の元から抜け出し沙都子の救出を嘆願した際、あの梨花ちゃん臆することなく説教し、かつ魅音へと日本刀を振るった暴力団側の人。
魅音との会話から、彼女が魅音、詩音の母親であることがあの時分かった。
つまりこの場に園崎の三世代が集結したわけだ。
普段あれほど大きくーー畏怖ともとれるーー見える詩音がいかに小さく見るか。
雰囲気よりも一つ上の、オーラともとれるものが二人にはあった。
「お隣は……、ふふ、雛見沢のヒーローかい」
急に話を振られて、圭一は一歩足を退いた。
表情は微笑そのものなのに、なぜ自分はこれほどびびっているのだろう。
威圧、を初めて感じる圭一。我夢舎羅だった時ではなく、理性が繋がっているとこの人はこんなに怖いのか。
「なーにしにきたんね」
一喝。冷めていた空気が一層凍る。
雛見沢で一番の発言権を持ち――――否、雛見沢の発言権を掌握している者の声。
口調が『感情』を表し、視線が『対象』を表しているのだろう。
詩音――もちろんその先には圭一も含まれているのだが――に対する感情が隠されることなく伝わってくる。
「話しておきたい人がいるので」
そう言い、詩音は圭一へと顔を向ける。慌てて圭一が姿勢を正して正座した。
「……っと、前原圭一と言います」
辞儀をして、ちらりと視線をお魎へと移す。視線は既にこちらにはなかったが、代わりに茜の目が圭一をえぐっていた。
そして再び圭一は頭を下げる。
「圭ちゃんには私が雛見沢に来た時いつも可愛がってもらっています。過去、北条悟史についての一件がありますので、こちらから来させて頂きました」
過去愛した男と、現在(いま)愛する男の名を詩音は出す。
「勘当されているとは言え私も園崎の者です。母さんの時と似通った道だと思いますが、こう言った『関係』は報告した方が良いかと思いました」
「必要ないね」
声は予想に反し後方からした。
詩音は畳を見続けたまま。圭一は声の主へ振り返る。
青に近いパンツと黄色のシャツ。肩からモデルガンを入れるホールダーを羽織っている。
一蹴するような声は、詩音も含めて一番若く聞こえた。だが詩音には無い雰囲気を彼女は纏っていた。
「お姉、なかなか良いタイミングで来ましたね」
視線は畳へと一点に注がれる。魅音と目を合わせようとは毛頭もないらしい。
「ずっと傍観してたからね。暴走しそうだったから止めさせてもらったよ」
と言う姉。
「気付きませんでしたね、じゃあ庭から入った所からお見通しですか」
と問う妹。
「部屋にいたらそれぐらいは分かるよ、物騒だからね今は」
と答えた姉。
まるで姉妹の会話とは思えない憎悪めいたものがぶつかる。
圭一がすぐに魅音を特定できなかったのは、声色ではなくやはり目だった。
他の雛見沢の住人を見ても分かる。自分が住んでいた都会と、雛見沢とでは一番目が違う。
普段なら気にならないことでも、状況が変調すると途端視線に力がこもる。
当然それらを束ねる彼女らの眼力は、圭一からすればただ恐怖の一言だった。
「姉妹喧嘩なら余所でやってくれるかい。私たちの前でするような話じゃないだろう?」
母親が娘たちを叱る一般的な光景。圭一はそれさえにも身震いをする。
しかし状況だけ考えるなら茜の一言は助け船だった。
私たちの前から消えろ、と言うのだから少なくともこの二人からは離れることが出来る。
精神力が消える前に、少しでも消耗を減らした方が圭一のためになっているに決まっている。
「圭ちゃん、行こう」
声を掛けたのは連れてきた詩音ではなく魅音だった。
詩音は動かない。未だ正座で上体を下ろしたまま硬直している。
反論もなにも詩音から出ないのを見計らい、圭一が腰を上げる。
「じゃあ詩音。またな」
一声掛けてから、既に先を行った魅音の後を追う。ここで初めて自身が汗を吹き出していたのを圭一は知った。

「あれが新しい恋人かい?」
二人が去り部屋にはお魎と茜、詩音が在った。表情は崩れ、一家族の何ら変わらない会話である。
「新しい……とはやめてください」
悟史を少しでも否定するのを許さない詩音は言う。
だが『恋人』の箇所は否定しなかった。
「予定……ですけどね」
正座の脚を崩して詩音が続けた。
その表情はコミカルで、金魚を逃した後のような少女の顔だった。
「ふふっ、魅音の奴も入れ込んでるようだし……。前原の坊っちゃんもご苦労なこったね」
「あんのボンズのどこが良いと言うんじゃ」
お魎が唸るも声はどこか軽い。茜のように状況を楽しんでいるだけかもしれない。
「詩音が恋する男だ。そりゃあとんでもない大物に決まってるさ」
表情が笑顔となる。お魎も「くっ」と笑いを吹き出した。
「お願いだから魅音とポン刀で斬り合う真似だけはよしてくれよ? これ以上この刀に血を吸わせたくないからね」
魅音が頭首としての覚悟を見せた場面が茜の頭に浮かぶ。
だが当の場に居なかった詩音は、抗争で母さんが使ったのだろうと誤った方向に考えた。
「保証できませんね、圭ちゃんの為ならそれぐらいはするかもしれません」
豪快に詩音が茜の意見を吹き飛ばした。お魎の笑い声がまた漏れる。
「血じゃろぅか」
ひとつ鼻で笑い、同じく園崎家を勘当された茜を移す。お互いに名に鬼は入っていない。
だが血にはやはり『園崎』が脈々と流れているようだ。
「私と違って、圭一くんはカタギだよ? さすがに母さんも認めてあげんなきゃあね」
「分―かっとるわ、じゃかぁしぃ……。あの小僧を相手にする元気は残っとらんわ」
「圭ちゃんばかりは何をするか分かりませんからね。だけど敵に回さなければからかい甲斐のある人ですよ」
三者三様に圭一の評価を下す三人。
秘密の組織など言う少年漫画よろしくの展開を、迷うことなく信念を貫き通し救った中学生。
茜の例もあり、他が見えなくなるぐらい人情に熱い男を、園崎は好む傾向があるらしい。
「母親としてはどっちも応援したいけどね。私としては魅音と繋がって欲しいものだよ」
怒り混じりに出て行った少女の名前を出し、茜が呟く。
自分が応援されないことに詩音は肩を竦めて応えた。
「アンタは悟史くんのことがあったけど、あの娘が積極的になったのは圭一くんが初めてだからね。初恋ってのは本当実って欲しいわ」
これ以上自分に挫折をさせたいのか、と異議を唱えたいのを堪えつつ、詩音は生返事で会話を終わらせた。
お姉こと園崎魅音には様々な面でハンデを抱えていることを詩音は自覚していた。
確かに魅音は性別を意識させないような仕方で圭一と接してきたが、友好が恋愛に転するのは本当に小さなきっかけだ。
いつ圭一が魅音を女と意識し始めるかによるが、そこまで達すればあとは一気に魅音へと傾いてしまう。
築き上げたものが違う。なぜなら魅音は詩音よりもはるか前に自身の恋慕に気付き、鈍感な圭一へとアピールしてたのだから。
「それで諦める園崎詩音じゃないんですよ」
シニカルな笑いに確固たる信念が宿る。
笑い話であっても、詩音は冗談を一度もこの場で発していない。
それぐらい圭一が好き。例え姉――――、いや妹であっても取られたくは――――ない。
「葛西を待たせているので帰りますね。次会う時は、またさっきと同じ人連れてきますよ」
「じゃかぁしぃわ」
最後にお魎が笑い飛ばし、詩音はふすまの外に出た。
ひぐらしの声が少しだけ強くなった気がする。蝉の声も混じるようになってきた。
初夏の陽を浴びながら、今度は堂々と正門へと向かう。圭一が魅音と何をしているのか、考えようとはしなかった。



「待てよ、魅音」
一度も目を合わせられないまま呼びかけられ、連れてこられた俺は魅音の肩に手を掛けた。
その手を振り向きもせず払われ、魅音は構わず歩き出す。
どうなっちまったんだ、本当に。魅音はまだ俺のことを許してくれないのだろうか。
俺の方から行動を起こしたいのは山々なのだが、相変わらず俺は問題そのものが分かっていないのだ。あくまでも魅音に何らかの行為で傷つけてしまった、その程度の自覚しかない。
塾で学んだ知識は問題用紙が配られて初めて役に立つ。
俺は解答用紙に番号と名前を書いて、まだテストがどんなものか想像するにすぎない。
それでいて問題用紙は一向に配ってくれる気配がない。
刻一刻と試験時間は終わりに近づいているのに。
時間さえ分からない俺は、鉛筆を回して遊んでいろとでも言うのか。
ふざけるな。そんなことをするために、俺たちは綿流しを乗り越えたわけではない。
今度は肩ではなく手首を掴む。
それをも払おうとしたのか、魅音は掴まれた側の腕を大きく振り上げた。
そんなに俺の顔を見るのが嫌だったら、無理矢理にでも向かせてやる。
振り上げられた手を俺は大きく引いた。
独楽の原理で魅音は回転して、自然俺と視線が合うようになる。
魅音の顔は俺の想像とは違っていた。
今にも泣き出してしまいそうな、涙腺を必死に抑え込んでいる悲愴な顔。
歯を食いしばり、目の周りを赤らめて、瞳の中のこみ上げる液体が揺れている。
「離してよっ、圭ちゃん!」
拒絶をやめない魅音は、顔を背けて俺が掴んだ手を引きはがそうとする。
「私のことはもういいからっ。もう帰っていいよ!」
お前が連れてきたのだろう。と言うのは今はナシだ。
火に天ぷら油入れたら、いかに料理下手の俺――料理下手だからこそかもしれないが――でも大変なことになることは分かる。
魅音は今倒錯している。精神的に病んでいる状態かもしれない。
だから俺がこいつを守ってやらなければいけない。
雛見沢をこれから背負っていく使命のある彼女に、男として接せられるのは俺しかいない。

「もういいわけないだろ! お前は俺の――――――」

俺――――――の…………?

『魅音。俺とお前は仲間だろ? なんか困ったことがあったら話してくれよ』

飛び散った俺の弁当箱。転げ回った椅子。静まりかえった教室。何も言えない周りの面々。一人立ち上がり少年を突き飛ばした少女。

何を思い何を感じ何を痛み少女は少年を拒絶したのだろう。
何を厭と思い何を否と感じ何を真と痛み拒絶したのだろう。
『仲間』と言うのは素晴らしい言葉だ。支え合い、助け合い、励まし合う最高の繋がりだ。
だけど自らが支えられないなら『仲間』はどれほど重荷に感じる?
今自分がすることができないのに、今はただ救って欲しいだけの人に、『仲間』を強制することがどれほど鋭い刃となる?
正しいことが当然の委員長と言う役職。引っ張ることを前提の部長と言う立場。強いことが強制される頭首と言う運命。
俺はそんな彼女に、まだ「がんばれ」と促すのか?
それが『俺を好いてくれた彼女』へ掛ける言葉なの……か?



「大事な……お前は、俺にとって今一番大事な奴だから! 放っておけないだろっ」



魅音を俺の体へと寄せる。前の晩こいつの妹を抱いた俺が吐ける台詞じゃない。
だが資格だの出来る出来ないだの、『俺についての問題』を考えるべきでないと判断した。
嘘偽りない言葉を吐け。素直になってみろ。そう脳が命令しただけの話。
こんな奴が女たらしになるのかな、とふと思った。
一時の感情に流されてその場しのぎの戯言を言って生きる。俺が一番恥じた人種なのだが。
だが今は考えないようにしよう。今はこいつのことだけを考えよう。
俺の胸で涙を流す緑髪の少女にとって理想の犬となろうじゃないか。

温もりが残った自らの手を眺める。
あれほど詩音や婆っちゃの前で萎縮していた圭ちゃんが、大胆にここまでするとは思わなかった。
鏡に映った私の顔は未だ目元が赤い。
ここ最近涙腺のダムが決壊しているとしか思えないほど泣いてばかりなので、この顔も見飽きてしまった。
このトイレを出れば、私は圭ちゃんの元に行かなくてはならない。
勿論嫌なはずがない。今すぐにでも走っていき、抱きつきたい気持ちでいっぱいだ。
ただ少しでも紙を潰したような私の表情を整えてから行きたいだけだった。
洗面台に手を置いて、鏡へと大きく前に乗り出す。
何度か顔の角度を変えて、確認を何度も実行し終わった私は、トイレの扉を開けた。
数メーター歩けば私の部屋。同時に私を圭ちゃんへと晒す行為でもある。
晒す……か。余程私は諧謔的になっているのか、自らを貶す発言が目立つようになってきた。
レナへと気持ちを吐露していなければ、果たしてこのレベルで済んでいたのだろうか。
まるで一度体験したことがあるかのように、私は悲惨な結末を鮮明に思い浮かべることが出来た。
思い出そうと脳が勝手に作動するとこめかみの辺りが痛くなる。
記憶と言うよりは躰に刻まれた記録のような文字列が、私にそれ以上の思考を妨げる。
それよりも圭ちゃんへと今すぐに足を動かせ、と信号が走る。

ドアノブを視認しろ。
ドアノブをつかめ。
ドアノブを時計回りへと回せ。
一歩右足を後退させろ。
右腕を引きドアを開けろ。
ドアノブを離せ。
前原圭一を視認しろ。
足を部屋へと動かせ。
動かせ。動かせ。動かせ。

起点もない。脈絡もない。その中で私は圭ちゃんの元へ走り寄り、そして抱きついた。
冷めてしまった体温を再び温めるように、私は強く彼を抱きしめる。
圭ちゃんは最初こそ戸惑っていたようだったが、ゆっくり私の背へと腕を回し慰めるように包み込む。
華奢だと思っていた圭ちゃんの躰が、厚く大きく力強い。
ベッドに座っていた体勢をそのまま押し倒し、私は全体重を圭ちゃんに預ける形となった。
重いかな、と一瞬頭をよぎったが、ここは女性としての沽券に関わるので、何も言わず甘えさせて貰う。
男子の汗ばんだ匂いや、シャツに付着したのだろう土の匂いが鼻腔を刺激するが、不快感はあまりしない。
匂いの元が圭ちゃんと言う情報だけで、脳が勝手に不快の信号を出していないのかもしれない。
それは妙に科学的でありながら、御伽噺のような可愛らしさを備えている話だ。
「温かい……」
体温の共有以上に私の体が熱を帯びる。
恥ずかしさから来るものなのかどうかは分からないが、血流が顔へとどんどん集まる。
好きな異性との接触がこれほど情熱的な感情を生み出すとは。
その感覚を楽しみながら、私は何度も体勢を変えて圭ちゃんに甘えた。



嫉妬。私はあまり雑学に詳しい方ではないし、ましてや漢字の起源だとか熟語の構成をとやかく語れる知識を持っていない。
だがこの『嫉妬』と言う単語は、私のような中学生にでも至極簡単にルーツを知れるのではないかと思う。
まさに読んで如く。嫉は女が疾風のように奔走する様。妬は『女友達に妬く』のように訓読みできる。
勿論この文字が作られた当時、女と言う偏が文字通り女性を意味していたのかと聞かれれば、私のレトロ脳みそが答を導き出してくれるわけじゃない。
だが充分それで意味をぶち通すことができる、とのことだけである。
魅いちゃんの行動はまさに嫉妬から来るのだろう。
詩いちゃんの予想外だった圭一くんとの接近に妬き、奔走しているのだ。
私自身魅いちゃんの恋慕には、かなり初期の状態から気付いているつもりだ。
伊達に常日頃から彼女と行動を共にしていた訳じゃないし、勘が鋭い私の事情もある。
しかし詩いちゃんがまさか圭一くんへと恋をすると思わなかった。
どうしても詩いちゃんイコール悟史くんの等式が頭にあり、無意識に圭一くんへと結びつけるのを拒否していた。
それを気付けず、魅いちゃんを混乱させたのは私の責任だろう。
私も、竜宮レナも前原圭一は好きだ。
だがその好きは、魅いちゃんと詩いちゃんのモノとは一線を画する。
私がその感情に気付いたのは本当にごく最近だ。
それまではそれこそ魅いちゃん達のように、男女としての、恋愛の好きだと錯覚していた。
だが違う。恋愛とは独占欲の派生であり、結局はエゴイズムから生まれる感情だ。
私は違う。魅いちゃんのように詩いちゃんが圭一くんを好き、と聞いただけで取り乱すような想いはない。
むしろ応援したい、叶って欲しい、と願う立場だ。
友愛、と言う単語は今の私にぴったりだろう。側にいたいと思うが、一緒に寝たいとは思わないのだ。
「それは恋愛と友愛を別個と前提した話だけど」
無音の部屋に私の生気のない声が響く。
友愛が恋愛のなり損ねとでも表現するなら、圭一くんを独占することを諦めた結果とするなら、また話は変わってくる。
しかし充分今私は満足している。抱きしめたい。キスをしたい。と言う色話に私は関係ない。
ただ傍観者として、時には助言者としてこの三角関係を見守るだけ。
止まらなさそうな暴走にいち早く気付き、歯止めを掛けるのが私に出来る仕事なのだろう。
大丈夫だ。それで私は満足しているのだから。
「うぅ……ひっく……、……っ」
だからこの涙も偽物だ。シーツを濡らすこれも贋物に決まっている。
満足している。満足している。私は満足している。
「うわああああぁぁぁぁん」
そう。私は満足しているのだから。



Miwotsukushi5へ続く

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最終更新:2008年06月02日 14:52