古手さんのことは、はっきり言って好きじゃなかった。それどころか、嫌いの部類に入るぐらい、私は古手さんとは仲良くなかった。
いつもお姫様みたいにちやほやされて、憎たらしくなるほど愛らしい笑顔を浮かべながら、富田さんや岡村さんをまるで家来のように扱って。
ずるい子。いやな子。私はそう思っていた。
だから彼女をちやほやもてはやしていた男子どもが雛見沢の学校から転校していったときは、胸がすっとした。ざまあみろと思った。
だから私は、彼女に意地悪をするようになった。
お昼ご飯を一緒に食べる相手がいなくなってしまった彼女を、私とにーにー、それから他の友だちがいるグループに誘うようなことはもちろんしなかったし、今まで古手さんのことを良く思っていなかった子たちと一緒になって、友だちがいなくなった古手さんをからかってはやしたてた。
体育でのペアでやる準備体操は古手さんだけが余るように。ドッジボールのときはもちろん集中攻撃。古手さんの教科書やノートを取り上げて、返してあげなかったりもした。
にーにーや竜宮さんは、皆の先頭を切って彼女に意地悪する私を止めようとしていたが、そんなのは大したことじゃない。
だから私は彼女に意地悪し続けていた。


違和感があったのは、ぼんやりとひとりぼっちで校庭の脇を歩いている古手さんに、ボールをぶつけたときだ。
そんなに強く投げたつもりじゃない。ただ、彼女の、歪んだ表情が見たくて投げただけだ。いつも私に意地悪をされると、彼女は怒りと軽蔑の眼差しで私を睨んだ。
だから彼女が、まるで糸の切れた操り人形のように、ぱたん、と倒れたとき、私はぎょっとした。本当に、そんな強い球ではなかったのだ。
事を大袈裟にするために、わざと倒れたのかと疑ったほどだ。
だから、彼女が目覚めたとき、私に向けた視線に、私はさらに驚いた。
ボールをわざとぶつけた私を先生に訴えるどころか、彼女はきょとんと、私を見つめたのだ。
その私を見る目には、いつもの怒りとか、憎しみとか、そういうものが一切なかった。
何だか、気味が悪かった。


そしてその気味の悪さは、次の日の昼休みにも起こった。
お昼を私とにーにーたちが一緒に食べているとき、彼女は私をじっと見つめていた。
それは怒りや憎しみからではない、まるで自分を誘ってくることを待つかのような、まっさらな期待と親しみ、そして悲しみがあった。
妙な気分だった。頭の中が、変にスースーして、身体中の血液が、まるでそのまっさらな視線を求めて逆流するかのような、自分じゃない自分が叫び出す、そんな違和感。
私はそれから逃れるかのように、彼女に言い放った。
「ジロジロ見ないでよ」
すると彼女はひどく傷ついたかのように瞳を揺らがせて、謝罪の言葉を口にした。
私はもう二、三言、きつい言葉を投げ付けた。けれどその違和感は、膨らむばかりで、落ち着く気配などまるでなかった。


その日から、その妙な感覚は、私の中に住み着いた。
古手さんの寂しげな姿が目に入る度に、自分じゃない自分が、身体の内側で叫びだす、今まで味わったことのない感覚。
ある日、古手さんが本を読んでいた。まるで縋りつくかのように、本のページをめくっている。それは見ていて気味が悪かった。
彼女を見つけるたびに反射的に湧き出すようになったあの感覚を振り払うべく、私は彼女の本を取り上げた。
「ネクラな顔して何読んでんの」
そして、その本を汚い、やだー、と叫んで他の子にパスする。その子もまた私と同じようにきゃあきゃあと声を上げて、それを別の子にパスする。
古手さんは返して、返して、と叫びながら、皆の手の上で好き勝手にパスされている本に向かって手を伸ばす。届くはずもないのに。
きゃはははは。あはははは。
皆が笑う。みじめでかわいそうな古手さんは、手が届かないことを悟ったのか、呆然と立ち尽くす。
竜宮さんがやめなよ、と言っている。かまうもんか。
私は愉快な気分で、他の子たちの手の上を一周してきた本を受け取る。
古手さんが、私の方へ向かってくる。私はもちろん、古手さんが来る前に他の子にパスする。そして笑う。
あれ、様子がおかしい。もう本は私の手にないのだから、こちらに来る必要は無いはずなのに。
なのに古手さんは、私の方に向けて歩く足を止めない。あれ…?
古手さんの、白く細い華奢な腕が、軽やかな動きで私に向かって伸びて、古手さんのきれいな顔が、息がかかるぐらいに近く、あれ?
一瞬、何が起こったのか分からなかった。
顔の前で、とても痛いものが、ぱあん、とはじけて。殴られた、と気付く頃には、すでに彼女は私の髪の毛を掴んでいて。
いたいいたい、ちぎれる、髪が抜ける、痛い。そう叫ぼうとしたら、そのままひきずって、倒されて。
ばしっ、ばしっ、と何度も叩かれて、何かを投げられて、いた、いたいよ、やだやめてよ!
いつの間にか椅子が私の上にある。そして、古手さんが、見たことのない、無機質な、それはまるで冷え切った怒り、ううん憎しみ?とにかく訳の分からない、けどとても恐ろしい表情を浮かべている。こいつ、こんな奴だったっけ?
お人形さんのような大きな瞳が、じいっと私を見つめる。何か呟く。親友?顔を借りてる?なにそれ…
やだ、いたい!痛いってば!冷たい、凍るような恐怖が脳みそを支配する。身体が反抗するのを忘れる。声も出ない。
古手さんは容赦無く、私に暴行を加え続ける。
ううん、違う。こいつは古手さんじゃない。
じゃあ、誰。この恐い顔をしたこいつは、一体誰。こんな奴知らない。こんな恐くて強い奴、私は知らない!


やがて、竜宮さんが間に入って、本を古手さんに返させた。
古手さんは本を取り戻すと、ようやく私を解放した。
恐怖に硬直して、されるがままだった身体の緊張が、徐々に解けていく。
次の瞬間、私は爆発したかのように大声で泣き出した。
顔や、腕や、脚、身体のあちこちが、じんじんと痛んでいる。それは私のみじめさをいっそう引き立てた。
悔しくて、悲しくて、恐くて、古手さんに当てつけるように、私はにーにーの名を呼んでわんわんと泣いた。
にーにーがすぐに来て、私を保健室に運んでくれた。教室を出る前に、一瞬ちらっと古手さんが見えた。
彼女は席に座って、既に本の続きを読み出していた。それは私の神経をさらに逆撫でした。


保健室で手当てをされていると、途中で古手さんがやって来た。そして、先生が私たちふたりに謝れと言う。
私は納得がいかなかった。確かにちょっかいを出したのは私だが、散々傷だらけにされたのも私の方だ。
ちょっとからかっただけでこんなことされるなんて、割に合わない。
もちろん先に謝る気など無く、私は敵意を発しながら、黙って古手さんを睨んだ。
すると彼女は、まるで謝ることを渋る私を馬鹿にするかのように、さらりと謝罪の言葉を口にしてみせた。
もちろん心など込められていない、棒読みの言葉だ。私も同じように返した。それだけだ。
保健室の、消毒液に浸した脱脂綿が、私の血が滲んだ傷を、ちょいちょい、と刺激する。
傷はその度に痛み、私にあの殴られたときの感覚を思い出させた。
あんなふうに、容赦なく、叩き潰されたのは初めてだった。にーにーも、お父さんもお母さんも、私を大切にしてくれたからだ。
そりゃあ小突かれたことぐらいならあるけど、まるで配慮の感じられない、純粋な暴力はあれが初めてだ。
痛かった。恐かった。思い出すたびに、ぞっと背筋が寒くなる。悔しさや苛立ちよりも、恐怖の方が強いのだ。
あの子は、古手さんじゃない。古手さんはあんなに恐くもないし、強くもない。だから今まで意地悪してきたんだ。
じゃあ、あの子は誰。


その日の夕方、予想外のことが起こった。
家に帰ってきたにーにーが、部活を作るかもしれないと言ったのだ。
何でも、クラスで浮いてる古手さんをクラスに馴染ませたいらしく、園崎さんの妹さんが持ってる色んなゲームを使って遊ぶ部活を作りたいらしい。
そしてその部活には沙都子も入って欲しい、と言うのだ。
私はもちろんそっぽを向いた。
「そんなの、古手さんが嫌だって言うでしょ。それに私はあの子の顔見るよりも、他の子と校庭で遊ぶ方がいいもん」
すると、にーにーが内緒の話を打ち明けるかのように、にこにこ笑いながら言った。
「あのね、実はこれ、秘密なんだけど……梨花ちゃんね、山本先生に、元の世界に戻りたいって言ってたんだよ」
「元の世界?」
私が怪訝そうに聞き返すと、にーにーは頷いた。
「そう。ほら、富田くんと岡村くんっていたろ?引っ越していっちゃった子たち。あの子たちがいる前の世界、ってことらしいんだけど」
「ああ、あいつらのこと」
私は苦い表情でそれを聞いた。
本当は昔、古手さんよりも、あいつらは私と仲が良かったのだ。
というより、もっと小さい頃、富田さんと岡村さんは私を好きだった。
皆のリーダー的存在だった私を崇拝して、私の言うことをよく聞いた。まるで私の家来みたいに。
私たちは、よく外で一緒に遊んでいた。それがある日、ぱったりと、遊びに来なくなった。
どういうことかと聞くと、あいつらはおどおどして答えた。
古手神社の梨花ちゃんと遊ぶようになったんだ。ぼくたち、あの子が好きなんだ。
次の日、私はこっそりと古手神社の梨花ちゃんとやらを見に行った。神社の境内に、その子はいた。
お人形さんのように可愛らしい子だった。長い黒髪がとてもきれいで、肌がミルクみたいに白くて、華奢な身体をしていて。
笑うとまるで、花がぱっと開くみたいで、私と同じくらい、もしくは私よりも、可愛かった。
そしてそこには富田さんと岡村さんもいて、今まで私に向けていた、うっとりしたような表情を、その子に向けて、まるで家来のようにその子をちやほやしていた。
その子は当然のように、お姫様みたいに、ゆったりと構えていた。
腹が立った。屈辱だった。本当はあそこにいるのは私のはずなのに、と、私は古手梨花を憎んだ。
だから私は古手梨花が嫌いなのだ。昔からずっと。


私はそのことを考えていて、にーにーの話を聞き流していた。だから、その言葉を耳にしたとき、私は驚いた。
「沙都子は梨花ちゃんにとって、親友なんだって」
「……はあ?」
私は目を見開いてにーにーを見た。にーにーはくすくすと笑って、繰り返す。
「その元の世界ではね、沙都子は梨花ちゃんにとって、大切な親友なんだって。
 そう梨花ちゃんが言ったんだよ」
そんなこと、ありえない。私はうわずった声で言う。
「嘘でしょ?だって私、あんなに意地悪して……」
「本当だよ。つまり梨花ちゃんは、沙都子と友だちになりたいんだよ」
胸の中で、ふわ、と温かいものが広がる。
だって私、いつもあの子に意地悪した。無視したし、仲間外れにした。だからあの子も私を嫌いなはず。
でも、にーにーは嘘をつかない。だから、本当なのだ。
私は頭の中で、今までの彼女の行動を思い返す。
ボールをぶつけられて、気絶して、そして起きたときのあの表情。
古手さんを除け者にして、ご飯を食べたときの、あの視線。
それに、朝。そうだ、いつだったか、彼女は私に「おはよう」と言っていた。聞こえないフリをしたけど、確かに聞いた。
そうだ、古手さんはずっと、ずっと前から、私を見ていたじゃないか。
悲しそうな、それでいて温かい、優しい眼差しで。
とたんに、あの感覚が蘇る。身体中の血液が逆流する、自分じゃない自分が騒ぎ出す、そんな感覚。
それは私を不快にさせるものではない。むしろ、私はその感覚と仲良くできる気さえしていた。
「私と、古手さんが友だち……」
そっと口に出してみると、それは驚くほど甘い響きを持った言葉だった。


次の日、私はぎくしゃくしながら学校に行った。
もちろん古手さんも教室にいた。席に座っている。いつも読んでいる本は無い。
古手さんは、私を見ると、微かに瞳を揺らがせて、言った。
「おはよう」
一瞬、身体が緊張した。その挨拶が聞こえなかったフリをするか、それとも挨拶に応えるか、迷う。
けれど私は口を開いていた。そしてその言葉を、声にしようとした瞬間、
「おっはよー沙都子!」
「沙都子ちゃん、おはよう」
ばしん、と背中を叩かれる。振り返るとそこには園崎さんと竜宮さんがいた。
「お、おはよう」
「悟史もおはよ。今日もいい天気だねー」
「おはよう、魅音、それから礼奈」
「おはよ」
ふたりは明るい笑い声を上げながら、通り過ぎていく。
もう一度古手さんの方を見たとき、すでに古手さんは黒板の方を見つめて、じっと座っていた。
「しょうがないよ、沙都子。挨拶はいつでもできる」
にーにーが私の頭を撫でる。どうやら私の失敗を分かってくれたようだった。
だから私もそのにーにーの優しさを受け取って、また挨拶をする機会を待つことにした。


その日の昼休み、ご飯を皆で広げていると、古手さんがお弁当箱を持ってやって来た。そして言った。
「ボクも仲間に入れてほしいのです」
それは、一生懸命さに溢れた、とても健気な申し出だった。顔が少し赤い。
他の子たちは嫌そうな顔をした。けれど私は言った。
「別にいいよ。椅子持ってきて座れば?」
我ながら、素直じゃない、意地っ張りな言葉だ。
けれど古手さんはとても嬉しそうに、ぱっと笑顔になった。
「ありがとうなのです。椅子持ってくるのです」
こうして、初めて私は古手さんと一緒にご飯を食べた。
普段なら昼休みは饒舌になるはずだったけれど、やはり私は緊張して上手く話せなかった。
しょうがない。まだ最初だから。隣でご飯を食べるにーにーが、そう言うかのように微笑んだ。
落ち込みかけたそのとき、古手さんが言った。
「沙都子のクリームコロッケ、美味しそうなのです」
それはお母さんが作った、こんがりと揚がったきつね色のクリームコロッケだった。
思わず私は、食べる?と聞いていた。
古手さんは驚いたように目を見開いて、そして笑顔で頷いた。
私はそれが大好物だったのだけれど、でもそのときばかりは、惜しいとは思わなかった。
だって、クリームコロッケを食べる古手さんの笑顔は、本当に幸せそうだったから。
だから、何だか私まで嬉しくなってしまったのだ。それはどこか懐かしい感覚だった。
そして古手さんは言った。
「沙都子のお母さんのご飯を食べるのは、初めてなのです」
妙な言い方だった。


その日の帰り、古手さんがにーにーと園崎さんと竜宮さんに、何か言っていた。
三人は少し残念そうな表情をしてから、頷いていた。そしてその後、にーにーが私の方にやって来て言った。
「今日は梨花ちゃんとふたりで帰ってくれるかな。話したいことがあるんだって」
私は頷いた。


そしてその数分後、私は他の子たちとの遊びの約束を断り、古手さんと帰路を共にしていた。
のどかな田んぼに囲まれた道を、てくてくとふたりで歩く。いつも一緒に歩くにーにーとは違う、古手さんの軽い足音が、耳に心地よい。
あの感覚がますます強くなる。こういうの、何て言うんだっけ。そうだ、デジャヴ。
「沙都子、わざわざごめんなさいなのです」
気付くと、古手さんに声をかけられていた。
「別にいいよ。話したいことって何?」
古手さんは首を振った。長い髪が、さらさらと揺れる。それは陽の光を受けてきらめいていた。
「ただ、沙都子とこうやって、一緒にいたかっただけなのです。いけませんか?」
「そんなことないけど」
私はぶっきらぼうに答えた。セミの声が遠くで聞こえる。
古手さんはそのセミの声に、思いを馳せるかのように目を細めた。そして、彼女の唇が、震えるように動く。
「昨日は、暴力をふるってごめんなさい」
「……うん」
私も、ずっと意地悪してごめん。そう言おうと口を開く。
けれどそれは、古手さんの言葉によって遮られた。
「部活の話、悟史から聞きましたか?」
「え、あ、うん」
「多分その話は、なかったことになると思います」
思いがけない言葉に私は驚く。てっきり、彼女は部活の創設を喜んでいるかと思っていた。
「もっとも、私がやり遂げることができたら、の話ですけど」
「何言ってるの?全然分かんない」
彼女の言葉の意味がよく理解できない。私は強い口調で彼女の言葉を遮る。


彼女は足を止めた。私も足を止めた。私たちは丁度、分かれ道に差し掛かっていた。片方の道は古手神社の方向に通じ、もう片方は私の家の方向に通じている。
ああ、お別れだ。彼女がふっと呟いた。その瞬間、強い風がざあっと吹いて、セミの声が止まった。
古手さんの長い髪と、黒いスカートが、ふわりと風に舞い上がり、彼女の姿を大きく見せた。
古手さんは、無表情だった。
「でも、こうやって最後に、この世界でも沙都子と一緒に帰ることができてよかった。
 この世界はあまりにも、不思議なことが多すぎたから」
「え……」
最後?この世界?何を言ってるんだろう。
訳が分からず、私は彼女を見つめた。すると彼女はゆっくりと、手を伸ばした。
白い華奢な手。かつてこの手は私を殴った。けれど不思議と、私は怯えなかった。
当然のように私は、その手が私の頬に触れるのを受け入れた。
「殴っちゃって、本当にごめんね、沙都子」
それは、今にも泣き出しそうな、細い声だった。
古手さんのきれいな顔が、息がかかるぐらいに近くなる。自然と私は目を閉じる。
柔らかい感触が、唇に降りる。キスと呼んでもいいのか戸惑う、それは本当にささやかな温もりだった。
それはとても心地よい感覚。自分じゃない自分が、自分に重なる。
久々に自分がひとつになったかのような、優しい感覚を、そのとき私は感じた。


次に目を開けたときには、すでに古手さんは顔を離していた。
そしてふわりと、風のように微笑んで、彼女はぱっと駆け出した。古手神社の方に向かって、一目散に。
私は思わず叫んだ。
「ねえ、明日も学校来るんでしょ!?」
あの感覚が強くなる。彼女を求めて、身体中の血液が騒ぎ出す。
そうだ、古手さんは学校に来る。おはよう、って言い合って、お昼は一緒にご飯を食べて、放課後は部活をして。
いっぱい話して、いっぱい笑って、いっぱい遊んで、そしてその後は、バイバイ、また明日って言い合って。
まだまだしたことのないことを、いっぱいするんだ。だって私たち、友だちになるんでしょ?親友になるんでしょ?
けれど彼女は答えない。黙って走り続ける。私から遠のく。黒い髪が揺れているのが微かに分かる。
やがて彼女の背中は、道の向こうに消えた。私はそれをずっと見ていた。
いつの間にか、セミに代わって、ひぐらしが合唱を始めている。
カナカナカナ、と、それはひどく懐かしく、心地よく、そして寂しい旋律だった。


私は信じていた。必ず彼女は学校に来ると。そう信じることで、不安を打ち消そうとしていた。
次の日私は学校にいつもより早く行った。
私に付き合って早く来たにーにーは、不思議そうにしていたが、私が「ちゃんと挨拶したいから」と言うと、どうやら納得してくれたようだった。
私はじっと教室のドアをうかがっていた。古手さんが来たら、真っ先におはようと言うと決めたからだ。
今か今かと待ち焦がれる。けれど、古手さんはなかなか来ない。いつもなら来ているはずの時間を時計の針が回っても、まだ来ない。
これじゃあ、遅刻しちゃうじゃない。私ははらはらしながら、時計と教室のドアを交互に見つめた。
来ない。来ない。まだ来ない。
不安が胸の中で広がる。何でよりによって、今日、遅いのか。昨日の「最後」という言葉が頭の中に残っている。
まさか。ありえない。私は不安を打ち消す。そして古手さんが来ることを信じる。というより、もはや私は願っていた。
時計の針がどんどん進む。もうクラスメイトは古手さん以外全員来た。
めったに遅刻なんかしないのにね、と竜宮さんが園崎さんに言っている。
園崎さんは、どこか固い表情で頷く。まるで、何か知っているかのような表情だ。不安が増す。まさか本当に、古手さんに何かあったのだろうか。
そのとき、ガラッとドアが開く音がした。ああ、よかった、やっと来た、と思ってドアの方を見る。けれどそれは違った。入ってきたのは、知恵先生だった。
落胆して、知恵先生を見つめる。けれど、私は気付いた。知恵先生の顔が青ざめている。ただならない様子だ。
先生が教壇に立つ。園崎さんが号令をかける。皆が挨拶をして、座るのを確認すると、先生は俯きながら口を開いた。
「もう、知っている人も何人かいるかもしれないけど……昨日の夜、古手さんと、古手さんのお母さんが亡くなりました」
……え?
耳を疑った。何?古手さんが、どうしたって?
誰かが囁いているのが聞こえた。
「古手さんが、お母さんを包丁で刺して殺したんだって。部屋が血だらけだったらしいよ」
「やだ、こわい……」
「前からちょっと変だったもんね、古手さん。誰ともあんまり話さないしさ…」
何?何それ?知らない、知らないよ。
だって、私まだ、何もしてないよ。古手さんと、何も話してないよ。
「沙都子、沙都子、大丈夫?」
にーにーが私の肩を揺さぶる。心配そうな、焦った声が耳を素通りする。
そしてその代わりに、古手さんの、私を呼ぶ声が蘇る。
『沙都子のお母さんのご飯を食べるのは、初めてなのです』
『沙都子、わざわざごめんなさいなのです』
『沙都子と一緒に帰ることができてよかった』
『殴っちゃって、本当にごめんね、沙都子』
私は悲鳴を上げていた。
身体中の細胞が泣き叫ぶ。ぐるぐると頭の中が回りだす。
私はまだ何もしていない。おはようも言ってないし、さよならも言ってない。ああ、ごめんねも言っていなかった。
後悔が悲しみに変わって、胸の中に溢れ出す。止めることができない。涙がぼたぼたと零れる。
ああ、どうして。どうして忘れてたんだろう。
あの感覚が、今まで以上に、はっきりと私に訴える。
私と梨花は友だちだった。親友だった。お互いが大切な存在だった。確かに私たちが助け合って生きていた、その世界は存在していたのに。
梨花は覚えていたんだ。けれど私は忘れていた。大好きだったのに忘れていた。けれど梨花は、大好きのままでいてくれていた。
私は梨花に何をしたの。最後の瞬間、一体何を言ったの。梨花は私にごめんねと言った。けれど私は、分からないと言ったのだ。
「いやああああああああああああああああ」
梨花、梨花。私は絶叫する。喉が張り裂けそうなほどに。いっそ張り裂けろと思う。
周りの子たちが、驚いた目で私を見つめる。にーにーが何か言いながら私を抱き締める。
私はにーにーのシャツを握り締めながら、叫び続ける。もう二度と会うことのできない大好きな親友を思って、叫び続ける。
忘れてしまってごめんなさいと、何もかも手遅れの謝罪を繰り返すように、ただ叫び続ける。
かつて、私が梨花に意地悪したとき、梨花は取り上げられた本に向かって、届くはずもないのに手を伸ばした。
今度は私が手を伸ばす。ごめんなさい、ごめんなさい。
久々に知る我が身の罪を泣き叫んで詫びながら、私の手は空を掻き毟る。
そこには手は届かないと知っていても、それでも。




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最終更新:2023年10月29日 19:48