気がつくとレナが部屋の入り口に立っていた。
「圭一くん……」
「おわ!?」
一瞬体が固まって、その一瞬の間に名前を呼ばれた。
金縛りが解けると俺は素っ頓狂な叫び声を上げてしまった。
「れ、レナ!?」
もう夜の十時を過ぎている。親父とお袋は不在のため家には誰もいない。しかし今日は自炊をしたのだ。
誰の助けも借りていない。いや、借りたとしてもこんな時間まで部活メンバーの誰かがいたことはなかった。
そこに至って初めて、どうして今家に居るのかという疑問が頭を擡げてきた。
「どどどうしたんだよ、こんな夜中に」
「うん……」
レナの服はパジャマでより一層の違和感を抱かずにはいられなかった。
しおらしく俯く様子が琴線に触れないこともなかったがそれより大事な問題があった。
「というか、どうやって入ったんだよ」
「これ……」
呟いて右手を差し出す。掌には鍵が載っていた。
「俺ん家の鍵……?」
恐るおそるレナに確かめてみた。
「うん、落ちてたの」
「え、あ……」
そういえば帰ってきたとき鍵がないことに気づいて慌てて探したんだっけ。当然、玄関は閉まっていたのだが、窓が開いていたので助かったのだ。田舎だからか外への警戒心が低くなっている気がする。それ にしても。何だ、レナが持っていたのか。俺はほっと一安心する。鍵が見つかったことにではなかった。
「どこにあったんだ?」
「帰り道だよ」
 そうか。今日はレナより先に下校したんだった。というのも部活の罰ゲームでメイドの格好をさせられていたからだ。畑仕事をしていたばあさんと目が合ったときと同じ乾いた笑いがこぼれた。
「サンキュ。レナにも聞きに家まで行ったんだけどな。居なかったよな」
「お買い物に行ってたの」
満面の笑顔できっぱり答える。あれ? と何でだか分からないが俺は思い、一頻り会話が終わったこともあって、レナのことを考えた。インターフォンは鳴らなかった。俺はひとり読書をしていたが、家中に響くあのチャイムを聞き逃すほどに、その暇つぶしには熱中しない。
すると、何だ? レナは勝手に扉の鍵を開け、下から声をかけることもなくここまで来たというのか? 
無作法だなんだと考える前に寒気が走った。
「鍵閉め忘れてたよ、圭一くん」
「え? ……そ、そうだったか?」
顔を上げようとしたところに強い口調で声がかかる。いや、単に俺の言葉が弱々しいだけなのかもしれない。確実に動揺している。なぜなら、施錠の不手際が黙って俺の部屋までやってくる理由になりえないからだ。
「あの、さ……」
「なにかな、かな?」
言いかけたが淀んで言葉にならない。追及を許してくれない重い声色だった。
レナは立ったままだった。か細い足首が目に入る。このとき、俺はなぜだかレナと宝探しに向かったことを思い出し、そして、レナが鉈を持っていなくてよかった、と、そう、思ってしまった。
……ばかばかしい。
なにをこんなに怯えているというのだろう。きっとレナは、家の安全管理をしっかりとしていなかった俺を戒めるつもりでこっそり上がってきたんだ。ついでに、鍵まで届けてくれたんだ。こんな夜遅く。そう、雛見沢じゃ誰も外を出歩かないような時間帯に……。
「はは……」
笑い声が喉をでかかったところで唾液に堰きとめられた。掌の鍵が、汗でべったりとした熱を持っているのがわかる。……あれ?
「レナね……眠れないの……」
「は?」
「圭一くん、一緒に寝てくれないかな、かな……?」
真意の分からなかった訪問。レナ自身の口からその理由が明かされる。眠れない……。その原因は色々考えられるが、レナの様子を見ているとどうも寂しいからといった感じに見える。
「それで俺のところに?」
「うん……」
そう言って俺が陣取る布団の脇に腰を下ろした。
正座をして、駄目かな……? という遠慮がちな視線を寄越してくる。悪い、と思っている心情が瞳を通して伝わってきた。何も心を動かされるようなことはなかった。俺はただただ自分の考えを世間の常識に当てはめ、何度も反芻していたからだ。
確かに俺の家はレナの家から近い。訪ね訪ねられは数え切れないほどあった。しかし、眠れないからという理由でわざわざ人の家にくるものだろうか。散歩の途中に寄ったとしても、レナの雰囲気は最初からそのためだけにここに来たという印象を持たせる。
おかしいだろ……。それが俺の結論だった。
最初から考えていたことだった。おかしい、と。
この鍵もそうだ。俺の鍵には、手作りのキーホルダーが付いていたはずだ。ところが手の上のそれはまるきり裸の状態だ。制服のポケットに入れていたときの煩わしい重みとも一致しない。さらにだ。所々傷はついているようだが全体的に新しく見えるのだ。それは傷自体も含めて。
かちっかちっ。
心臓が跳ねる。
部屋の電気が急に消えたのだ。慌てて電灯を見上げると、レナが紐を摘んだ状態でじっと立っていた。橙色の電球が部屋を薄ら明るくして、影が覆いかぶさる。それを避けるように俺は後ずさった。
「未来ってこんな風に小さな明かりも見えないよね。希望が持てないって意味じゃなくてね。今、レナ幸せだもん。大好きな圭一くんと毎日を過ごせてるから。……分からないから、誰にも先のことは予想できないから、真っ暗なんだよ」
言葉を切ってもう一度紐を引く。その直前のレナの笑みが瞼に焼き付いた。いつもの、無邪気で見るものを安らげてくれるようなものではなかった。時々レナはそんな風に笑うのだ。見覚えがある。そう、有無を言わさせない時だ。向かい合っている相手の心臓を鷲づかみにし、呼吸を止める。そいつは空気を吸いたくて喘ぐんだ。結果、頷く。レナは満足したように笑う。そのときは天真爛漫な笑顔に戻っているのだ。
俺もレナの言ったこととは一切関係なくただ頷くことだけをした。
「暗闇の中で感じるのって、自分だけなんだ。見えないもの触れないもの聞けないものを信じることなんて、できっこないよね? 圭一くんのこと、大好きなのに。どうすればいいと思う? 自分だけしか感じられない。そんな真っ暗な中で、それでもレナは圭一くんと繋がっていたいんだよ。ずっとずっと」
腰をゆっくりと下ろして、俺に迫ってくる。
「幸せな夢を見るんだ。今も十分幸せだけどね。レナの傍に圭一くんがいる。楽しく笑って過ごしてる。とても現実的で日常的な事しか起こらない夢だけど、レナは満たされる。……そこにはね、いつも子どもが居るの。勿論レナと圭一くんの子どもだよ? 元気で手を焼いちゃう男の子と女の子」
ふふっと笑った後俺の肩に手をかける。驚くほど冷えていた。冷えすぎていてむしろ熱いと思った。その手が流れるような動作でゆっくりと首筋に持っていかれると、俺は息を吐けなくなった。
「ねえ圭一くん……。圭一くんの赤ちゃん、欲しいな……」
一切物音がしない中で何か状況が変わってくれることを期待した。俺にはなす術もなかったから。翌朝に設定した目覚まし時計が今鳴ってくれないかと思った。通りすがりの誰かが訪ねてきてくれないかと思った。しかしどれも尽くレナに打ち消された。
俺は握り続けていた鍵を机の下に追いやった。
レナの顔が無駄だよ、と物語っているように見えた。
そのとき何故かあの女の子らしい可愛い部屋で、同じ鍵を嬉しそうに束ねるレナの姿が思い浮かんだ。無駄なんだな、と俺が答えた瞬間だった。
抵抗は、できなかった。



日付はとっくに跨いでいるはずだった。ここには日などまだまだ息づかない。誰もが家の中で休んでいる。そして雛見沢はひっそりと目を伏せ、全てが動き出す朝を待っている。
俺たちは、いや、レナは一体なにをしているのだろうか。どれだけこうしているのか分からない。
暗闇に慣れた視界一杯にレナの顔がある。掻き乱れた髪の毛が頬を突き、大粒の汗がまばらに落ちていた。また口がふさがれる。指先でちょいと押さえるようにレナの舌が唇の端から端までを行き来する。それが終わると上唇を押し上げて唾液のたっぷり乗った舌を勢いよく挿入してくる。得体の知れない何かにズブズブと飲み込まれていくような柔らかさだった。あっという間に、言葉と意思とが奪われていく感覚に陥った。
俺はレナの機械人形だった。頭の中で早く解放されたい、してくれとまだ思えたのは、口内を蹂躙する舌が異様に冷えていると感じたかもしれない。
顔を一時も離さないまま、レナは腰を激しく振っている。幾度も風船が破裂したかのような音が響き渡り、六畳の部屋を覆いつくす。最初は、獣としか思えない欲望の匂いが充満するのに耐え切れないものがあった。
今は麻痺しているのだろう、そんなことは欠片も思わなかった。俺の発した白濁液は、それを遥かにしのぐ大量のレナの愛液によって存在を奪われている。ちゃんとして、在るとすればおそらくレナの子宮内だけだろう。しかしそれすらも
また、俺の自由を奪っていく楔に他ならなかった。
始めのうちは愛されているのだと思った。ただただ俺を喜ばせたいと思っている様子がひしと感じられたからだ。赤ん坊をあやすような声で何度も俺に気持ちいいかと聞いては、満足そうな笑みを絶やさなかった。たとえ俺が答えていなかったとしてもだ。もっと気持ちよくしてあげるねと言ったレナの腰は上下に動くだけでは留まらなかった。
陰茎の先を子宮口でぐりぐりとこねくり回し、根元からをぎゅっと絞り上げた。あらゆる角度に陰茎の行き先
を作ってはそこに導いていった。俺が射精するのなんてあっという間だった。
それで終わりだと思った。しかし違った。だらしなく崩れた表情を見てレナもイッたのだと思ったが、そ
れでも腰を振るレナの気色はおかしかった。ここから、嬌声も奇声となって聞こえ始めた。
しばらくして、何度も何度も絶頂を迎えているのだと悟った。掻き抱かれる肩が何度傷ついただろうか。しかも無意識じゃない。なぜなら途中で、幾度も血のついた爪を舐めていたからだ。俺は恐怖から全てをなすがなされるがままになった。
その行為が終わったのは階下からコール音が聞こえたときだった。レナがそこではっとした顔で悦楽を手放し、俺から離れたのだ。
間違いか悪戯か、どちらにしても掛けてきてくれた影も知らない誰かに心から感謝をした。また、このとき部屋が暗くてよかったとも思った。電話に向けられたレナの据わった眼を、まともに見ることができなかったからだった。
俺が意識的にとった距離に気づいたのか、表情と声色を誰もが知るレナのものに戻して言った。中出しされちゃった、と俺でない者が見たならば無邪気としか思えない微笑で。
そして安全日だから赤ちゃんはできないかな、とも言った。至極残念そうに。
俺はその言葉に引っかかるものを感じた。いや、気にならないほうがおかしい。レナは性行為に移る前になん
と言った?
そう、赤ちゃんが欲しい、と。俺は当然、今日が一番子どものできやすい日なのだと信じて疑わなかった。そう考えて諦めた。しかし違った。本人がそう言うのだから本当なのだろう。様子を見ると嘘だとも思えない。そもそも偽る意味などない。
……つまり、一連のレナの行動は、計画的ではなかったということだ。直情的あるいは突発的に家までや
ってきた。そもそも俺が鍵を落としたのだって偶然だったじゃないか。昨日まではレナも普通だった。俺が頭を撫でるのに大仰に照れたり怒ったりもしていた。ならば、まだレナを元に戻せる可能性はあるということだ。このレナはいつものレナじゃない。それははっきりと言える。
何か……何かあったのだ。俺と別れてここに来るまでの間に。……いや、何もなかったのかもしれない。しかしそう思うと俺は戦慄を抑えきれなくなる。この状況に対する突破口でも何でもない。ただの逃げ道だ。だがそれも、本当に子どもができていたとしたなら意味がない。
安全日とはいえ百パーセント受精しないというわけではない。そうなってしまえば、もうレナと元の関係に戻れる自信はない。俺はレナと気兼ねなく笑い合える関係が好きだった。こんなこと……望んでいない。

その後、レナは帰ると言った。俺は深夜だからといって特に引きとめもしなかった。足腰が立たなかったから、レナを見送ることもしなかった。それに反してレナは来たときと同じようにきびきびと歩いて下りていった。レナに何かあった、そう思うことで平静を保つことができた俺だったが、玄関のドアが施錠される音を聞いて、大きく鳴り止まぬ鼓動に冷や汗を垂らした。



次の日は気だるさを隠して登校した。そうしてしまえば普段と全く変わらない風景だった。それは勿論レナも。俺たちは普通に会話し、弁当を食べ、部活をした。訝る気持ちがなかったわけではない。だがいつもの待ち合わせ場所で元気よく手を振っていた姿を見て無駄だと分かっただけだ。何を聞いたところで軽くいなされるだろう、そう判断した。
しかし魅音たちは俺の体調が悪そうなことに気づいた。それはそうだ。毎日飽きるほど一緒に遊んでいるのだから。
『圭ちゃん、調子悪い?』
その言葉がありがたく、真実を言ってしまおうかと一瞬だけ思った。結局、それはレナの声が割り込んできたことによって叶わなかったのだ。
『夜更かしでもしたんだよ』
そう決め付けた笑顔を俺は憮然とした表情で見返し、そうだと答えておいた。レナのおかしさに気づきながらどうして反抗する風に言ってしまったのか。後先を考えない行動だったと言っていい。
けれど後悔はしなかった。仲間としての魅音の厚意を踏みにじった行為を、俺は受け入れることができなかったからだ。そう態度を示すと、それまで秘密を共有していることに嬉しさを感じているようだったレナは、一変して何も映さない目をじっと向けてきた。
ああ、これは絶望だ。そう思った。こんな簡単に、人は希望を無くした目をするのだろうか。まだ甘かったのだ、俺は。俺が異常だと思っていたレナは、馬鹿な大人が明日の生を疑わないのと同じくらい、自然だったのだ。



「お夕飯作りにきたよ。圭一くん」
花開くような笑顔で、レナは現れた。陽は山の向こうに沈み始めている。その山はレナの真後ろにあった。逆光で翳る肢体。レナの心の裏を見せ付けられているような気がして、俺は早くドアを閉めたかった。
「悪いけどさ。間に合ってんだ。最近自炊を覚えた俺は偉いと思うだろ?」
「うん、えらいと思うな。でもね、やっぱりレナの方がお料理上手だと思うんだよ?」
「そりゃあそうだろう。長年の経験がものをいうからな。料理ってやつは」
「本当だ。圭一くんお料理のこと分かってきてるね。何だか複雑だな」
「だろ? そのうちレナに、美味いっつって転げまわるようなやつご馳走してやるぜ」
「本当にっ?」
「ああ。でもそれまでは我慢してくれ。じゃな」
「うん、楽しみにしてるよ。頑張ってね、圭一くん」
ドアを閉める。もう世界は闇に包まれていた。少し切り上げるのが遅かった。なぜだか俺は、光の残るうちに外との隔絶した空間を作りたかったのだ。玄関で空間をつなぎたくはなかった。
こわごわと息を吐く。レナが扉越しにこちらを見ている気配を感じたがすぐに踵を返したようだ。
佇んでいた時間に不自然さはない。俺は部屋へ戻ろうとした。そのとき。
『きゃっ』
外からそんな声が聞こえた。明らかにレナの声で、俺は咄嗟に振り向いてしまった。
『痛いよぅ』
扉の隙間を通り抜けてくる囁き。四辺が切り取られたような錯覚に陥る。下手に壁を無視する声よりもよほどたちが悪かった。正体の知れない繭の中に居るレナ。紡ぎだされる糸はこうして俺の手足を絡めとる。このままいけば、いずれレナの全てが露になるときもくるのかもしれない。本人はそれを理解しているのだろうか。
俺はドアノブを回した。
「レナ?」
「はぅ。圭一くん」
ほっとした顔を見せる。しかしその右顔面を真っ赤な血が伝っていた。
「――ッ」
手足が痺れるほどに大きな鼓動が、二度三度脈を走り抜けた。血。赤。もっとも暴力的に瞳を焼くそいつは、誰もが体内に飼っているものだ。一度あふれ出せば、見るものは怯え身を縮ませる。自分の中で、呼応するように粟立つそいつを抑えるため必死なのだ。俺も、無意識にシャツを強く握り締めていた。
「どうした、んだよ」
「帰ろうとしたらつまづいちゃって……。落ちてた石で頭を打っちゃった」
傷口に手を添えブーツを履いた両脚はこちらに、蹲った姿勢のまま首だけを動かして俺に笑いかけるレナ。すぐ横に血のついた拳大の石が転がっていた。じわじわ垂れていた血は土の覆った箇所に到達しようとしたところで乾ききってしまったようだ。ちょうど時間が止まったようにも感じた。
「手当て、するからさ。入れよ」
「うんっ、ありがとう」
嬉しそうに立ち上がったレナの白いスカート、まばらに血痕の灯った裾のばさりと翻った向こうに踵がすっぽり収まるくらいの凹みが目に入った。
「あいたたた……」
ガーゼを傷口に固定する間、レナは大人しく俺に従っていた。会話がないのも変なので色々と話しかけていたら、結局レナが夕食を作ることになってしまった。手当てのお礼だと言われれば、始めこそ渋ったものの断ることはできなかった。レナにとっては譲る必要のない大義名分ができたということになる。
「圭一くん優しいね」
「普通だろ。怪我したら誰だって手当ては受けるもんさ」
「そうかな?」
「そうだ。それとも、レナの怪我は普通じゃないっていうのか?」
「……」
傷口を綺麗にするため、何度かガーゼを使って血をふき取っていた。不思議なことに血痕は一センチほどの間をとって二箇所にあり、吸い込んだ量もそれぞれに違った。転んだときに傷ついたことを前提に考えるなら、傷口の大小とずれは少し不自然だ。まさか二度転んだわけでもないだろう。そもそもにして……レナは受身をとることさえしなかったのか? 右前頭部を打つなんてこと、普通に意識がある状態で倒れてそうそうあることじゃない。
「お夕飯作るね!」
「……」
何の邪気も感じられないことが、ますます俺の疑心を煽る。脳裏に浮かんだのは昼間見たような虚ろな目で歩みを進めるレナ。つまづいて、重心が崩れることを気にもせず頭を打つ。わずかに滲む血。そこに埋まっていた石を手にとり、自ら……。
頭を振ってその想像を追い出す。ぱたぱたとキッチンに駆けていくレナの後姿からも視線を切り、ソファーに腰を下ろした。少しするとレナが鼻歌交じりにあちこち動き回る様子を目で追っていた。カーテンを閉めない窓にそれがはっきりと映る。テレビも脇の新聞も、俺は全く気にしていなかった。そのうちまな板を軽快に叩く音が聞こえたかと思うと。
「痛いっ!」
「レナ?」
「はぅ。指切っちゃったよ~。圭一くん、助けて」
半泣きになって血に染められた人差し指を差し出してくる。俺は二度目の手当てをしなければならなくなった。次々に零れる赤い液体に嫌悪感だけが募り、ティッシュを二枚渡す。
「しばらく押さえてろ」
「うん」
泣き笑いの表情は俺に縋っているようにも感じられる。たったそれだけの傷で。
俺は引き出しから絆創膏を探す。
「やっぱり優しい。怪我をしたからかな?」
「……」
その考え方は……危険だ。
人は多かれ少なかれ誰かにかまってもらいたいと思う。悪戯をして怒られたり、怪我をして心配されたり……。程度の差こそあれ、どちらも自分を気にかけてくれていると確認するために有効になりうる手段であり、特定の誰かの自分に対する愛情の欠如を原因として表に出てくるものだ。それは人の弱さを容易に露呈する。レナの場合も、つまりはそういうことなのだろうか。
しかし……。
レナの手の中で、そうそうと血染めのティッシュが出来上がっていくのを見る。
……痛みを凌駕する感情はどれだけあるものだろうか。相手の気持ちを確かめたいとする欲求、それはとりもなおさず相手を試すことであるが、その行為に対して痛む良心を押さえつけることはさほど難しいことでもない。むしろ押さえつける必要もないくらいだ。自分の欲求がはるかに勝るだろうから。翻って、痛み……。……正直想像もつかない。
さっきからずっと、絆創膏を持つ背中に突き刺さる視線。
俺はレナを正さなければならないのだろう。そのために何か言葉をかける必要がある。沈黙は肯定の意に他ならない。早く、早く。そう思っても、全ての動作は無言で行われた。
『違う、怪我をすれば誰でも心配する』そんな普通のことを言えばいいだけなのに。それがなぜなのか、一挙手一投足に遅れる思考の中で、俺は理解していた。このやり取りに儀式めいたものを感じたからだ。
きっとレナは、頭を手当てしたときの会話を心に留めている。そしてそれが本人の納得した形で終わっていないことも。
「レナもたまに失敗しちゃうんだよ。えへへ」
否定をすればおそらく、『そうだよね、普通だよね』という答えが返ってくる。そうすることで一度目のやり取りに上書きをする。ミスで、自分の意志ではない過失で指を切ったときと同じように、頭の怪我もなんら不自然なことはない。俺の指摘したことは間違っている、と遠まわしに言うつもりなのだ。
しかしレナの言葉にかかわらず、俺は指の切り傷を故意だとする認識を拭い去ることができない。結局、肯定も否定もしようがなかった。ゆえに、沈黙。
しかしここまで考えて、黙する即肯定、ということにはならないことに気づいた。いうなればレナにとっては、俺から何の言葉もないことが一番のプレッシャーなのではないだろうか。肯定も否定もおそらくレナの悪いようにはならない。
絆創膏を渡すとき、俺はまっすぐにレナを見た。
レナは無言で受け取ってから。
「ありがとう」
そう返した。血が止まったのを確認して再びキッチンへと戻っていく。
「指……料理しづらいんなら、無理しなくていいぞ」
「ううん、大丈夫だよ……」
肩にのしかかるようだった空気をふっ、と下ろす。怪我にかこつけて帰りを促すこともできた。さすがにその通りにはならなかったがこれで、今まで迫ってくるだけだったレナを押し留め、一定の距離をとれるようになった。俺はレナの思い通りにはならない。小さな達成感をもって、調理を再開したレナに頭の中で語りかけた。しかしその自信は一瞬で粉々になる。
『トゥルルルル――』
空気が、変わった。 
苦しい。体の全てが締め付けられていくように、四方八方から強い圧力がかかっている。空気の質は昨日の夜と同じだ。より禍々しく感じるのは、レナが包丁を手にしたまま動きを止めているからだろうか。どこまでも鋭い視線を廊下に向けている。昨日感じたことだ。光をもたない瞳なのに、暗闇の中で体の何よりもその存在感を放つ。昼間のレナを思い出した。深い深い絶望はただレナ自身のみに向けられていた。だから、絶望と呼べたのかもしれない。今は、その逆だ。全て外に向かっている。もっと限定するなら鳴り響くコール音に。
「圭一くん、お風呂入ってきたらどうかな?」
「なっ……?」
声だけが俺を捉えている。そのときの俺は電話に出ようなどとは欠片も考えなかった。
お風呂……? 確かにもうそんな時間だがなぜ今それを言うのか。そう思ってまごついていると、深海に沈む水より暗いと思わせるレナの黒目が、ゆっくりとじわりと、こちらに……――ッ。
足から頭まで全てが震える。まるで自分の体でないかのように。吐き出した息はなぜか血の匂いがした。まだ鳴り止まない電話のけたたましさがやけに遠い。胸の奥でとぐろを巻くように反響している。レナの中に広がる闇を垣間見た気がした。
「お風呂」
「わ、わかった」
気がつけば俺から視線が外れていた。風呂場へ向かおうとしたとき電話も静かになった。ほっとすると同時、怒りもわいた。電話機を睨みつつ横を通り過ぎる。しかし風呂場の扉に手をかけた瞬間、再びそれは空気を凍りつかせた。三コールほど鳴ってから、レナが角から姿を現す。手には包丁が握られている。
廊下はリビングより暗い。一番奥まで行けば、電気をつけないと足元もはっきりしないほどだ。一方たった今まで俺がいた場所は明るすぎるほど明るい。だから、だろうか。レナの異様さがより際立つ。確信する。やはりおかしい。もしかしたら、と考えたこともあった。異常なのは俺のほうでレナはいつも通りなのではないかと。だが違う。狂気がひしひしと皮膚に感じられる。
レナの視点は電話機のみに定まっている。その間に俺は、風呂場に身を入れた。レナは受話器をとったようだ。何かをぼそぼそと言い始める。一体誰なのだろうか。低い声が廊下を這うその様子から、もしかしたらレナの知っている相手ではないのかもしれない。おふくろや魅音たちであったなら普段のように振舞うだろう。……そう思いたい。
ふと、静かになった。聞こえやすいようにと作った隙間から、今度は足音が響いてくる。レナだ。電話機があるところからそのまま俺の方に向かってきている。そのとき、頭に鈍い閃光が走った。包丁は? 持ったまま近づいてくるのか? どうして。
俺は完全に扉を閉めた。背でおさえるようにして立ち尽くす。混乱してどうするべきなのかも分からずにいたが、防衛本能だけは確実に働いている。己の身のために研ぎ澄まされた感覚が、壁一枚隔てたレナの姿を、影まではっきりと浮かび上がらせる。
『圭一くん』
「な、なんだ?」
『電話、間違いだったんだけど一応知らせておくね』
「間違い?」
『うん。誰か、知らない女の人』
「そ、そうか」
風呂場と廊下との間には小さくない段差がある。勿論俺の居るほうが高くて、レナは低い位置から話しかけているのだがそう感じさせない。肩口から発せられる声は妙な威圧感を持っており、扉を押さえる手がかすかに震え始めた。
『やっぱり、お湯張ったほうがいいかな?』
「いや、いいよ。シャワー、浴びるから……」
『そう。シャワーだとすぐ上がっちゃうかな。それまでにお夕飯できたらいいけど』
「ならなるべくゆっくり入るよ。出来上がる頃に上がる」
もともと長く居るつもりだった。何も考えなくて済むから。
『うん、そうして。でないとレナ、困るから』
曖昧な言い方だった。だから俺も漠然とその意味を考えた。
――包丁が、置けないから。俺がその思考に至ったのを理解したかのように、足音がさっと遠ざかっていった。



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最終更新:2008年05月04日 23:39