翌日。魅音が登校すると、教室から自分の席が消えていた。
 確かに昨日はレナの席の隣にあったはずの魅音の机と椅子が、今日はどこにもない。
 圭一が片付けてしまったのだろうか。魅音は注意深く辺りを見回す。
 そこで魅音は、生徒たちが魅音と目を合わさないようにしていることに気付いた。皆いつものように仲のいい友だちと喋ったりはしゃいだりしているが、その表情はいずれもどこかぎこちない。
 朝の教室の穏やかな空気の内側で、どこか緊迫した空気が薄い膜を張っている。魅音は悲しみに胸が痛むのを感じながら、下唇を噛んで教室を出た。
 机と椅子を探さなくては。とりあえず知恵先生を当たってみようと思い、職員室までの短い道のりを踏みしめるように歩く。
 今までのことを反芻してみる。
 突然性格が変わった圭一。それを当然のように許容しているクラスメイトたちや先生。ありえない状況。
 一体皆どうしてしまったんだろう。あんな横暴を見過ごすなんて、ちっとも我が部活メンバーらしくない。いや、それよりも。
 圭一だ。魅音はぎゅっと右手を握り締める。強く力を込めすぎたせいで、爪が掌に食い込んで痛い。
「圭ちゃん、どうして……」
 自然と唇から苦しげな言葉が漏れる。
 どうして圭一は、あんなにも変わってしまったのだろう。
 前はあんなひどい人間ではなかった。明るくてお調子者で、たまに無神経だけど、それでも根本的な優しさや誠実さは持ち続けている人だった。
 それとも、あの優しい姿は全て圭一の演技だったのだろうか。ずっと猫を被って周囲を油断させていたのだろうか。今の非人道的な姿こそが、圭一の本性なのだろうか。
 魅音は深く息を吐き、苦く笑った。
 だとしたら圭一は役者になれる。あの演技で全世界を魅了することだって不可能ではない。
 なぜならその演技は、この自分を本気で惚れさせたほどの出来だったのだから。

 職員室には校長はおらず、知恵だけがいた。
 魅音は知恵に事情を説明した。
「机と椅子ですか?」
「はい。多分圭ちゃんが隠したんだと思うんですけど、あれじゃ授業が受けられないので……」
「そうですか。しょうがないですね……」
 それじゃあ倉庫にしまってある予備の机と椅子を使いなさい。魅音は知恵がそう言うと思っていた。
 しかし違った。知恵はひとつ息を吐いて、
「それじゃあ今日は園崎さんは立って授業を受けてください」
 と、にこやかに言い放ったのだ。
「……はあ!?」
 魅音は困惑した。思わず知恵に詰め寄る。
「どういう意味ですか!?」
「言葉通りです。園崎さんは今日一日……いいえ、前原くんが席に座っていいと許可するまで、ずっと教室に立って授業を受けてください。足腰にいい運動になりますよ、きっと」
 知恵の表情には迷いがまるでない。魅音は圭一に嫌がらせを受けたというのに、知恵は圭一を叱るどころか、圭一の行為を全面的に肯定している。
 いつもとまるで変わりのない爽やかな知恵の笑顔。それが普段通りであればあるほど、魅音は異常性を感じ取った。背中がひやりと冷たくなる。
 心なしか昨日より悪化している気がした。昨日はまだ、圭一の行動に逆らうことは出来なくても、少なくとも圭一の行動に怯えたり憤ったりする正常な感情はしっかり持っているように見えた。けれど今日は違う。本来ならば抱くはずの感情が完全に抜け落ちている。圭一の行動に対して盲目になっている。
 一体この状況は何なのだろう。日に日に異常性が高まり、人々が圭一に服従してゆく、この世界は一体……

 なおも知恵に抗議しようとしたその時、職員室のドアがガラッと開いた。
 そこには圭一が立っていた。普段と何の変わりもない笑みを浮かべている。
「くっ……!」
 魅音はその涼しい顔をした男を憎々しげに睨み付けた。
 圭一はそんな魅音の視線を気にする様子もなく、平然と知恵に声をかける。
「先生、もう授業が始まる時間ですよね?生徒はもうみんな席に座って待ってますよ」
「あら……ごめんなさい。それじゃあ早く行かなくちゃね」
 知恵が慌てて出席簿を手にして立ち上がる。魅音はとっさに知恵を呼び止めた。
「待ってください先生!まだ話は終わっていません」
「早くしないと授業に遅れますよ園崎さん。そんな話はどうでもいいから、さっさと教室に行きなさい」
「どうでも……いい……?」
 目を見開く。知恵の冷酷な言葉に、魅音は胸を抉られるような思いをした。
「どうでもいいって……何でですかっ!?どうでもいいわけないでしょっ!!」
 魅音は知恵に向かって手を伸ばす。知恵の腕に触れる寸前、それは知恵の手によって強く振り払われた。
「……早く前原くんに謝った方がいいですよ。立ったままじゃ授業に集中するのは難しいでしょう。ただでさえあなたは成績が悪いんですから」
 知恵の冷たい横顔にはっきりと浮かぶ拒絶が、魅音の心を痛めつける。知恵から自分の足元に視線を落として、魅音は行き場の無くなった手を下ろした。
 知恵はもう魅音が何か言う気が無いのを知ると、静かに職員室を出て行った。廊下の向こう、教室に向かってに歩いてゆく知恵の背中を見ながら、魅音は下唇を強く噛む。

「無様だなあ、魅音」
 圭一が嗤う。全ての諸悪の根源である男が、気持ち良さそうに魅音を嘲笑っている。
 魅音はゆっくりと圭一を見た。圭一に向かって一歩踏み出す。
 そして力を込めてこぶしを振り上げる。
 圭一の顔に向かって振り下ろそう。この悪魔のような男をぶん殴ってやろう。
 そう思って実行しようとした瞬間、それは起こった。

「え……?」
 身体が動かない。
 まるで石化したかのように、腕が硬直してぴくりとも動かない。
 圭一を殴る、たったそれだけのことが出来ないのだ。
「何で……」
 圭一が自分の身体に何かしたのだろうか。
 いや、というよりもこれは……
 まるで自分の身体が圭一に危害を加えることを拒否しているかのような……
「魅音」
 圭一はゆったりと微笑んで魅音に優しい声音で言った。
「早く教室に行くぞ。授業遅れちゃまずいだろ?」
 圭一は魅音の腰にスッと手を回す。そして腰骨の下、太腿の辺りをいやらしく撫でさすりながら、魅音の耳に口を寄せた。
 魅音は顔から血の気が引くのを感じた。
「やだ!離してっ!」
 当然、そう叫んで抵抗しようとした。
 しかし出来ない。身体が言うことを聞かない。
 圭一は相変わらず魅音の太腿をスリスリと撫でている。ひどく楽しそうに。
「魅音は結構むちむちした身体つきしてるよなあ。さっすが園崎家頭首サマ。お家はもちろん、コッチもとってもご立派ってか~?」
「や……やだ……」
 身体の自由が利かないことで、魅音は途端に気弱になる自分を感じた。
 どうしてかは分からないが自分は圭一に抵抗出来ない。圭一は自分を好きなように扱えるのだ。
 たとえば圭一がこの職員室のど真ん中で魅音を犯したって、誰も圭一を咎めないだろう。圭一に逆らえる人間は、この学校のどこにもいないのだから……
「圭ちゃん、やめて……」
「おお?どうした、突然声が弱っちくなってるぜえ?もしかして俺に惚れちゃったかあ?」
 圭一は腰から手を離すと、魅音の後ろにサッと回って、今度はピンクのスカートの覆われたお尻を片手でぐにぐにと揉み出した。
「ここもなかなかプリンプリンだぜえ~?ほんっといい身体してんなあお前」
 もう片方の手も加えて今度は両手で、左右両方のお尻を一斉に掴んで、ぐいっと外側に開くようにする。魅音は「ヒッ」と小さく悲鳴を上げた。
「どうだ?今、魅音のケツの穴は広がってるか?ウンコする時みたいに、ちゃんとおっきく広がってますかあ~?」
 圭一は魅音の耳元に声を擦りつけるようにして、下卑た言葉を吐く。
「あ……ううっ……」
 魅音はいやいやをするように首を振る。涙が滲む。嫌だ。こんなのは嫌だ……!!
 圭一は満足そうに笑いながら、魅音の目元の涙をべろりと舐めた。
 魅音は信じられないものを見る目で圭一を見る。
「しょっぺえ」
 そう言いながら圭一は顔をしかめて舌を出し、ゆっくりとお尻から手を離す。
 圭一が自分から離れたことで、魅音はへなへなとその場に座り込んだ。
 このまま、犯されるかと思った。
 安堵のあまり身体中から力が抜ける。
「本当はもっとプリンプリンなところ、他にもあるんだけどな」
 その言葉に、魅音は圭一を見上げた。
 圭一は魅音を見下ろしている。その視線が自分の胸元に注がれていることに気付いて、魅音は身体を強張らせた。
「授業行こうぜ。みんな待ってるんだからさ」
 普段通りの圭一の明るい声。けれどその言葉の裏に恐ろしい真意が含まれていることを魅音は知っていた。
 待っているはずがない。圭一に逆らった魅音を心待ちにする人間が、教室にいるはずがない。
「ほら、立てよ魅音」
 それでも圭一は笑う。笑って魅音に教室に行くことを促す。
 本当は今すぐ帰りたい。今すぐ自分の家に走って帰りたい。
 けれど魅音に圭一に逆らう気力は、既に無かった。
「まだ一時間目だぜ。これからもっともっと楽しいこと、いっぱいしてやるからな」
 圭一は魅音に手を差し伸べる。
 魅音は絶望しながら、その手を取った。


 続く

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最終更新:2008年03月03日 22:11