一体どこでどう間違ってしまったのか。
 たとえばあの世界では梨花が奴隷にされたように。
 その世界ではレナが奴隷にされたように。
 沙都子が奴隷にされたように。詩音が奴隷にされたように。
 みんなが奴隷にされたように。
 そんなふうにして魅音が奴隷にされた。
 これは無数に存在する世界のうちのひとつ。
 たとえるならば、見慣れた悪夢のようなカケラ。

 最初に異変を感じたのは、体育でクラス全員でゾンビ鬼をやったあとのことだった。
 一時間走り回ったせいで相当息が上がっていた。正直着替えるのが億劫なぐらいだったが、体操着のままで授業を受けようものなら、たちまち知恵のチョークが飛んでくる。だから急いで着替えた。
 更衣室から出て教室に戻ってくると、そこには体操着のまま机に座る圭一がいた。もちろん他の男子たちは皆着替えている。
「圭ちゃん何やってんのー?早く着替えないと知恵先生に怒られるよ」
 魅音が笑いながらそう言うと、圭一は少し驚いたように目を見開いて魅音を見た。
「魅音、お前……分かるのか?」
「は?何言ってんの圭ちゃん」
 そう返した瞬間、教室に知恵が入ってきた。子どもたちは慌ただしく自分の席に座る。魅音はからかうように声をかけた。
「あーあ、先生来ちゃった。怒られるよぉ圭ちゃん」
「……」
 圭一はゆっくりと魅音から視線を外して前を向いた。ふてくされたのかと思い、魅音も自分の席に着く。
 日直が授業の号令をかける。全員が音を立てて立ち上がり、知恵はそれをゆったりと見渡し、そしてただひとり体操着姿の圭一に目を止めた。
「あら?前原君」
 ほら、来た。
 魅音は自分が声をかけられたわけでもないのに、なぜか肩をすくめてその様子を見守る。
「着替えてないんですか?体育の後、休み時間は十分にあったはずですが……」
「体育で疲れて着替えるのが面倒だったので」
 知恵のその言葉に圭一は涼しい顔であっさりと言った。魅音は目を丸くして圭一を見る。
 何を言っているのか。ごまかすのならもっと他に言いようがあるだろうに。そんな馬鹿正直に理由を話したら、大目玉を食らうこと間違いなしだ。
 しかし、次に知恵が発した言葉に魅音はさらに驚愕することになる。
「そうですか。それでは仕方ありませんね」
 知恵は微笑みさえ浮かべながら、涼やかにそう言ったのだ。
 魅音はぽかんと口を開けて知恵を見つめた。あの厳しい知恵先生が、こんなわがままを許すなんて。普段なら絶対にありえないことだった。
 思わず同意を求めたくなって、隣のレナの顔を窺う。しかしレナは普段と特に変わらない穏やかな表情でそのやりとりを見ていた。
 レナだけではない。沙都子も梨花ちゃんも、クラス全員がまるで当たり前のような顔をして、そのやり取りを受け容れている。
 この空気は一体何?
 魅音は穏やかな、しかし明らかに異常なその光景に、ひとり背中が寒くなるのを感じていた。

 そしてその日を境に、圭一を取り巻く異常は濃度を増すようになった。
 まずお昼のお弁当の時間が変わった。部活メンバーで机を寄せ合っていたのはそのままだが、おかずの取り合いは行われなくなった。
 レナも沙都子も梨花も、お弁当を開けるとそれを自分の机の上に置く。そこまではいい。異常なのはそれからだ。

「しかも監督ってば、メイド服を取り出して、今すぐ着てください~なんておっしゃるんですのよ!」
「それでどうしたのですか?」
「もちろんトラップをお見舞いしてやりましたわ!あの診療所にはありとあらゆるトラップが張り巡らされているのですもの。私がほんの指を鳴らしただけで、あちこちからタライや槍や水が標的めがけて襲いかかる仕掛けですのよ!」
「入江は沙都子にけちょんけちょんにされてかわいそかわいそなのです」
「はう~、患者さんたちに迷惑がかからないといいかな、かな……」
「全くだぜ沙都子!お前はちょっと限度と言うものを知らなさ過ぎる!あ、レナこれもらうぜ」
「圭一さんにはおっしゃられたくありませんのことよ!ちゃんと飴と鞭は使い分けてますし、ご心配はいりませんわっ」
「沙都子ちゃん、ちょっと言葉の使い方違う~……」
 会話だけでは分からないだろう。おかしいのはその動きだ。
 皆がお弁当を開けると、圭一だけが箸を伸ばしてひょいひょいと自分の好きなおかずを取っていく。まるでバイキングでもしているかのように。
 そして皆、和やかな雑談をしながら、当然のようにそれを受け容れている。自分のお弁当をつつきながら、けれど圭一が箸を伸ばしてきたら、圭一が取りやすいようにお弁当を傾けてやったりしながら、お昼の時間は流れていく。
 圭一がひとりのお弁当を気に入ってそれに箸を集中させることもある。そうなるとそのお弁当の持ち主が食べる分は無くなる。そういう時も、彼女たちは文句一つ言わないのだ。
 もちろん圭一もお弁当を持って来ている。けれど圭一はそれを、お昼が始まる前の授業中や休み時間に完食してしまう。

 そう、授業での圭一の自分勝手な行動も段々とエスカレートしていた。
 授業中の居眠りは当たり前。時には机をふたつ寄せて、その上に堂々と寝転がったりする。
 靴を脱いで両足を机に乗せて、ふんぞり返って漫画を読んでいる時もあった。
 早弁はもちろん、レナに「腹減ったからレナの弁当もくれ」と言って奪い取り、授業中にガツガツとレナの可愛いおかずを食い荒らしていた時は、本当にぶん殴ってやりたくなった。
 だから、とうとう我慢が出来なくなった魅音は、爆発した。
 授業中、がたんと椅子を蹴って。圭一の前に仁王立ちになって、わなわなと身体を怒りで震わせながら、怒鳴った。
「いい加減にしなよ、圭ちゃんっ!!」
 圭一は頬にレナのお弁当のご飯粒を付けた顔で、魅音を見上げた。
 教室の空気が強張る。禁句を口にした魅音を、クラス中が息を殺して見つめる。知恵さえも、口をつぐんで魅音を見た。その張り詰めた緊張を痛いほどに肌に感じながら、それでも魅音は渾身の力を込めて圭一をキッと睨み付けた。
「いい加減にって、何が?」
 圭一は悪びれた様子はまるでなく、口元に薄ら笑いさえ浮かべながらそう言う。
「決まってんでしょ!ここんとこずっと、自分勝手に横暴ばっかり通して!誰の弱味を握ってクラス全員言いなりにしてるのか知らないけど、いくらなんでもやっていいことと悪いことが…」
「自分勝手?横暴?誰が?」
「圭ちゃんだよ!今だってレナのお弁当を無理やり取って勝手に食べて…」
「なあレナ!俺は横暴だと思うか?正直に言ってみろ!」
 不意に話を振られて、今までその様子を呆然と見つめていたレナがびくっと肩を震わせる。
「俺はレナのお弁当を無理やり取ったか?勝手に食べたか?なあ?」
 圭一の下卑た声が矛先となってレナに向かう。
「え……あ……えっと……」
 かつてのあの勇ましいレナとは思えないほどに、今のレナはひどく弱々しかった。
 青い顔でうつむきがちに、口をもごもごと動かす。
「なあどうなんだよ。お前も魅音と同じ意見か?言ってみろよ、ほら!」
「ちょっと圭ちゃん、やめなよ!今あんたに話しかけてんのは私でしょ!」
 魅音がたまらずにそう言うと、圭一は底意地悪く笑う。
「止めるなよ。お前が言ったことを辿れば、俺がレナに横暴を働いたって話になる。それなら当事者のレナに聞いてみるのは当たり前じゃないか。俺が本当にレナの弁当を無理やり奪ったのか、どうか」
 そう言われては手も足も出ない。圭一はレナに向かってまっすぐ歩いていく。レナは怯えた目でそれを見つめる。
 圭一はレナに手が触れるほど近くまで来るやいなや、手を強く振り下ろした。レナを含めた皆がはっと息を呑む。
 ガシャン、という音と共に、レナの机が横倒しになった。
 レナの教科書やノートやペンケースが床に落ちて散らばる。目の前から自分の机が消えたレナは、椅子に座ったままカタカタと小さく震え出した。そんなレナを圭一は冷え切った瞳で見下ろす。
 やがてゆっくりと手を伸ばし、レナの細い肩をがしっと掴んだ。
「ほら、言ってみろよ……俺はお前に意地悪だったか?」
 腕に力を込めながら、レナの耳元に声をこすり付けるようにして問う。
「なあ、黙ってないで言えよ。言えってば……声を出せ、竜宮レナっ!!」
 圭一の怒号に恐怖で硬直しそうになりながらも、レナはぶんぶんと頭を横に振った。
「ち……ちがうよ……圭一くんは、レナに、意地悪なんか……してないよ……」
 か細い声でそう言うレナに、圭一はにっこり笑った。
「そうだよなあ?俺、意地悪なんかしてないよな?」
 レナはこくんと頷く。
「レナの弁当を無理やり奪ったりしてないよな?」
 こくん。
「レナが自ら自分のお弁当を、食べてくださいって、俺に差し出したんだよなあ?」
 ……こくん。
「俺はレナのために、レナのお弁当をわざわざ食べてやったんだもんなあ?」
 ……こくん。
「だからぜーんぶ、思い込みの激しい魅音の勘違いなんだよな?」
 …………こくん。

 まるで操り人形のようになってしまったレナから手を離すと、圭一はゆっくりと魅音の方に振り向いた。
 魅音は絶望的な気分でそれを見た。

 誰も咎めない。当の被害者のレナさえも。この学校の教師である知恵さえも。クラス全体が圭一の横暴を容認している。クラス全体が狂気に包まれている。
 いや、違う。その圭一の横暴が許せない、教室の容認の空気に馴染めない魅音こそが、異端なのだ。
 この教室では圭一が正義だった。圭一が法律だった。いつの間にかそうなっていた。
 だからこの教室の法律である圭一に逆らう魅音こそが、あってはならない存在だった。
 魅音はそれに、今ようやく気付いた。
 けれどもう遅い。

「なあ魅音」
 圭一の腕が、魅音にゆっくりと伸びる。
「いくら魅音が委員長だって言ってもさ、やっぱりこうやって罪の無い生徒をいじめの犯人扱いするのは、いけないことだと思うんだ」
 圭一の手が、魅音の肩をシャツ越しに撫でる。まるで自分の手に付いているものを、魅音の肌に染み込ませようとするかのように、執拗に。
「前から魅音の態度は、目に余ると思ってたところだし」
 圭一の唇が、魅音の耳元に近付く。
「いい機会だから、これからじっくり躾けてやるよ」
「ぐっ……!!」
 そう圭一が猫撫で声で囁いた瞬間、頭皮に鋭い痛みを感じる。髪を引っ張られたのだ。
 圭一は容赦無く、魅音のつやつやとしたポニーテールを鷲掴んで、ぐいっと引き上げる。
「こう見えて俺、結構厳しいんだよ。泣きたくなるかもしれないけど我慢しないと駄目だぞ」
「うあっ……くっ……!」
 ぎりぎりと髪を引っ張られ、むちゃくちゃな方向に頭を動かされ、強い痛みに襲われながらも、魅音は気丈に圭一を睨み続ける。
 圭一はそんな魅音に向かって、まるでカモシカを目の前に舌なめずりをするハイエナのように暴力的な笑顔で、言葉を続けた。
「泣いても絶対にやめないからさ」


 続く

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最終更新:2008年03月03日 22:23