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 私が詩音という名を捨て、再び魅音を名乗ってからもう数年が経ちました。昭和58年の6月のあの日から私を取り巻いていた世界は劇的に表情を変えていきました。
 その当日、私は自宅で惰眠に耽っている所でした。夢を見ていました。燃え上がっていく、真っ赤な炎に自分の身を焼かれるという恐ろしい夢だったのを憶えています。私ははっとして目を覚ましました。まるで自分の体が本当に焼かれたように熱くなっていました。何か嫌な感じが私の体を包んでいました。どういうわけか額が割れるように痛んでいました。その感じを振りほどこうとベッドから身を起こしたときでした。
 電話のベルが鳴っていました。人間には第六感というのが存在していると聞いた事があります。それをはっきりと実感した初めての瞬間でした。今思えば、それは虫の知らせと言うものだったのでしょうか。
「詩音さん……魅音さんが……」 私の側近の一人の葛西からの電話でした。

 雛見沢分校篭城事件は大体的に報道された事件ですので、記憶に残っている方もいるでしょう。お姉はその事件に巻き込まれました。お姉だけではありません。私の大切な仲間たちが全員、巻き込まれて死んだのです。
 雛見沢に到着し、直後にお姉の遺体の検分に私は立ち会いました。大規模な爆発が起きたと聞かされていたので、凄惨な有様を覚悟していました。灰色を基調とした霊安室だったのを微かに記憶しています。お姉は眠っていました。綺麗なものでした。あれだけの爆発に巻き込まれたのにも関わらず、お姉の体にほとんど傷は付いていなかったのです。警察の方が珍しいとも言う程でした。少しだけ煤を被って服や肌が黒色にくすんでいただけでした。
「どうしちゃったんですか、お姉。まだ眠り足りないんですか?」
 私はそのような感じで問いかけていました。死んでいるとは到底思えずに、本当に眠っているだけに見えたからです。それほどおhは綺麗な顔でした。前髪に手をかけると額に縦一文字に傷が走っていました。
「ははっ。お姉、かっこいい傷できちゃいましたね。早く起きて、診療所で診て貰いましょう?」
 何も言ってはくれませんでした。ただ隣で、お母さんのすすり泣く声が代わりに聞こえてくるだけです。この時、お母さんが泣くのを初めて見たような気がします。

 お葬式は大体的に行われました。大勢の弔問客が全国から訪れてきました。私の生まれた園崎家は表筋も極道と人が呼ぶような裏の世界にも名の知れた一家です。その次期頭首が死んだのですから当然といえば当然でしょう。お姉の背負っていた頭首というものが
重いものかと実感させられた瞬間でした。しかしながら、そのような実感が湧いても悲しいという感情が全く起きては来ませんでした。悲し過ぎると人は涙を流さないと聞いた事があります。まさに聞いたその通りでした。ぽっかりと穴が抜けたような感覚だけが私にはあったのです。

 お葬式が済んだ後、即座に親族会議が開かれました。なにしろ、古手家の頭首と園崎の次期頭首が倒れたのです。御三家の崩壊を防ぐため、大人たちは躍起になっていました。筆頭頭首の園崎の血を継いでいる存在は婆様とお母さんと私だけです。私に次期頭首の白羽の矢が立ちました。その日から、私は詩音という名を捨てる事になったのです。

 魅音を名乗ってから、しばらくは私の仲間達との思い出がまざまざと浮かんでいました。悟史君の事も例外ではありません。昭和57年の、まだ詩音だった頃の話です。私にとって悟史君は太陽のような存在でした。あの柔らかな微笑や気丈でいて、不器用な所、仲間思いの優しい性格、全てが私を優しく包んでくれる光でした。彼が窮地の陥ったときも私は身を挺して救いました。恋人同士だった言うわけではありませんが、私の操はあの人に捧げました。
 当時、精神的に苦しんでいた悟史君の心労を少しでも和らげたい、忘れてもらいたいという想いが私を突き動かしていました。人から見れば盲目的な恋の慕情だと思うでしょう。それでも良かったのです。彼が優しい笑顔を見せてくれるなら良かったのです。
「……いくよ……魅音」
 悟史君は悲愴を忘れるかのように私の中に突き入れてきました。ろくな前戯も知らなかった頃ですから痛みは激しいものでした。でも悟史君が満足できるなら、心の安寧と静謐が一瞬でも得られるのなら、寧ろその痛みは快感へと昇華していきました。
「はっ……はぁ……来て……悟史……」
 そのまま私の体の中は悟史君の精液に満たされました。熱くて粘度のある流動が私の中から感じ取れました。
「はぁ……あぁ、ごめんよ、魅音……」
「いい、の……悟史……」
 中に出されてしまったから妊娠してしまう事も考えました。でも、悟史君のなら孕んでも良いと思える位でした。残念と言うか幸運だったのか、授かる事は無かったのですが。
 そんな悟史君との邂逅も私一人の手では得られる事は不可能でした。当時の家柄の都合上、私は詩音という名を隠して接しなければならなかったのです。だからお姉の力を借りる事にしました。魅音という名を借りて私は悟史君と過ごしました。悟史君は疑う事なく私をお姉として見ていました。あの時、悟史君に抱かれたときにも私は魅音として抱かれていたのです。
 一度だけ詩音という名を打ち明けた事はあります。良い名前だねと言ってくれました。本来は忌むべき詩という名前を褒めてくれました。嬉しさで心が満たされました。
 こんな幸福も長くは続きませんでした。悟史君は57年の綿流しの祭りの日からどこかへと失踪してしまったのです。


 頭首代行の座についた私は魅音の重みを身をもって知る事になりました。礼儀や品行を叩き込まれ、園崎家の関係を熟知し、親族会にも漏れなく足を運ばなくてはなりませんでした。お姉がこんなに重いものを背負っているとは考えた事もありません。
 なのに、私は自分の都合だけでお姉にわがままを言っていたのです。悟史君と過ごしたい一心だけで、迷惑をかけていたのです。姉は一つも嫌な顔をせずに承諾してくれました。学校の事も頭首としての仕事も気にしなかった日など無かったでしょう。それなのに私は、私欲だけで動いてしまったのです。
 悟史君がいなくなってしまった時、私は自棄になりお姉にひどく当たりました。私のために爪まで剥いでくれた、ただ自分のために力を尽くしてくれた唯一の姉なのに……お姉の気持ちなんて微塵も考えていなかったのです。愚かな妹でした。
 頭首代行を務めてそれを痛いほど実感しました。
「お姉……どうして……いなく……なったの……?」
 初めてお姉の大きさに触れ、私は心苦しさで涙が止まりませんでした。

 数年たった今、私はがむしゃらに頭首として励んでいます。それはお姉への懺悔の気持ちがあったからなのかもしれません。感じていた心痛をお姉たちの記憶ごと打ち消すように尽力して努めました。
 私の務めや側近たちの協力のおかげで園崎はさらなる発展を遂げました。園崎のために、対抗勢力や反乱分子を力ずくで押さえ込んだ事もあります。私の生まれ持った激しい気質もそれに拍車を掛けました。末端の構成員の家族に手を掛けた事も何度だってあります。悪魔だと鬼だと罵られた事もありました。それで良いのです。お姉たちの記憶をかき消す事が出来たから。結局私は、記憶を消すために奔走していたのです。

「葛西、私を抱いてください」
 側近の葛西に体を求めた事もあります。葛西は何も言わずに抱いてくれました。快感が圧し込める僅かな時間、お姉の記憶を忘れる事が出来たのです。葛西が理由を聞いてくる事は一切ありませんでした。無骨な人間です、葛西は。公私共に彼にはどれだけ感謝しても仕切れないでしょう。 

 しかしお姉との記憶が消えないのです。どんなに頭首の仕事に傾倒しようと体を快楽に溺れさせようとも、それが思い返されてきました。毎日のように夢枕にお姉が立ってくるのです。あの変わらないお姉の優しい顔を携えてくるのです。
「お姉!!」
 毎晩はっとして目が覚めるのです。お姉を夢で見る度に涙が自然と溢れました。顔を洗いに洗面台に立ってようやく気が付きました。私はお姉と同じ顔をしている事、お姉が名乗っていた魅音を継いでいる事をです。
「ううっ……お姉……どうして……」

 お姉との記憶が私を苦しめるのです。仲間達との思い出が残像となって私の心に入り込んで来るのです。雛見沢でのあの57年と58年の記憶が私の心を締め上げて離してくれないのです。

 引き裂かれそうな心と体を震わせながら私は懸命に生きています。いなくなってしまったお姉たちにとっては運命に翻弄された灰色の世界なのかもしれません。でも、その中で残された人達は必死に生きようと、もがいているのです。過去を顧みながら、生の充足を得ようとしています。

 宙空に一人取り残された私にまた6月が訪れようとしています。後何回、毎年訪れる6月を過ごせばお姉たちとの記憶は消えてくれるのでしょうか。
 足の付かない地面を懸命に疾走し続けていれば、その答えを見つける事ができるのでしょうか。

fin

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最終更新:2008年01月10日 03:22