さよならは冗長に


(前篇)


「あぅあぅあぅ、圭一。こっちには誰もいないのですよ」
「了解だ羽入。あの電信柱まで突っ切るぞ!」
冬にしては暖かなある日の夕方。俺と羽入は帰路の途中にあった。
慎重に周りを見渡して人が居ない事を確認し、物陰から物陰へ一気に突っ切る。まるで秘密基地に潜入したダンボール・マニアのおっさんのようにッ・・・!
「よし、神社まであと少しだな」
傍らの羽入に告げたとおり、古手神社の石段はもう百メートルもない。しかし門前の商店には、夕食を買うために集まった主婦の方々が屯している。
強行突破を図るか?いや、それではこちらの損害が大きくなる。特に俺たちのこの格好では致命的だ!
「この人数での被害を考えると・・・。あぅあぅあぅッ!明日から外を出歩けないのですよっ!」
頭を抱えて羽入が悶える。それもそのはずだ。今の俺たちは旅を続ける三本指の方々のように、人に姿を見せられぬのだ・・・!
そりゃそうだろ。羽入の姿はカーキ色の制服に巻きゲートルといった旧日本軍の格好そのものなのだ。
しかもその頭には、右から「神風」と書かれた鉢巻きに挟まれた懐中電灯が二本、角に寄り添うような感じで天を突くように聳え立っている。
片手にはレナから借りた大鉈。もう片方には、やけに重そうな小銃が握られている。
このご時世にこんな格好。さすがは魅音、空気の読めなさは天下一品だぜ・・・。
ちなみに、かくいう俺は禁酒法時代のようなフロックコートを羽織っている。・・・その下には下着一つ付けてないけどな!!

発端は今日の部活に遡る。久々にやる推理ゲームだということで、その罰ゲームは推理にちなみ『探偵の格好をして帰宅する』と魅音が宣言したのだった。
途中で人に遭った場合その探偵の決め台詞を言うというルールが追加されたので、その羞恥心は果てしなく倍増されるというオマケ付きだ。
結果は魅音の一人勝ち。絶対にイカサマが仕込まれているのだが、「バレなきゃ関係ねぇ!ハイ(以下略」と言うのが俺たちの部活だ。敗者である俺達は、潔く罰ゲームに服すしかない。
「梨花はまだ良いのです。お釜帽におんぼろの和服姿なんて、土曜の夜八時に時々やってますから」
「しかし、決め台詞が『じっちゃんの名にかけて!』とはな、俺はてっきり『しまったー!』か、意味なく逆立ちするとばかり思っていたけど」
「あぅあぅ、沙都子は定番の鹿撃ち帽にインバネス・コートなのです。決め台詞も『初歩だよ○○君』なのですから」
「あいつは二位だったから、一番甘かったのかな。しかし、あいつの場合一・五倍増しで嫌味に聞こえるだろうな。」
「レナのは良く分からないのです。何で子供の礼服に赤い蝶ネクタイとメガネなのですか?何で『真実はたった一つ』が決め台詞なのですか?」
「さあな・・・。鉄人のショタ郎君で少年探偵なんじゃないか・・・?」
「もっと分からないのが詩ぃの格好です。あれは何なのですか?拘束衣に、防声マスクって訳がわからないのですよ~」
「何でも、まだ邦訳されていない作品に出てくる名探偵らしい。大量殺人鬼にして名探偵って言っていたがなぁ・・・」
「魅ぃと黒服の人が担いで帰ってましたです。あれじゃ決め台詞がなくても恥ずかしいです・・・。」
本当に探偵なのか怪しい連中が入っているが、魅音のセレクトだから間違いはないだろう。しかし羽入の格好は・・・。
「あぅあぅ、魅ぃは梨花とボクか沙都子でこのネタをやらせたかったようなのです。名探偵と殺人鬼との対決とでもいうのでしょうか」
「原作にはない夢の対決か。まぁ、十中八九探偵側がやられるだろうな。台詞の迫力も違うし」
なぜか分からないが、羽入が『祟りじゃぁ~』と言うと、重みが違う気がする。
「『祟りじゃぁ~』と『じっちゃんの名にかけて』ですか。しかしどちらも探偵本人の台詞ではないと思うのです。あぅあぅ」
「しかし、そういえば圭一も台詞を言わないといけないのですよ。覚えているですか?」
「ううん・・・。良く分かんねえんだよな。俺、この探偵よく知らないし」
「レナや詩ぃよりは有名とは思うのですよ。えっと、何だったですか・・・?」
「う~ん。『俺はタバコに火を付けた』か?」
「それは歌舞伎町に居て、いつまでたっても美人助手をモノにしない私立探偵だと思うのです。」
「それじゃ、『抵抗するかっ!』だったっけ」
「それは新宿署の一匹狼な警部さんだと思うのです。しかも、決め台詞というよりも掛け声のようなものだと思うのです」
「んじゃ、『君の瞳に乾杯』ってやつか?」
「・・・ボキーはボギーで惜しいのですが、作品が違うと思うのです」
う~む。ハードボイルドという方向性は合っていると思うのだが・・・。
「あ、思い出した。『さよならをいうことは、わずかな間死ぬことだ』だったよな」
羽入の反応を伺う。外れているならさっきと同じ冷たいツッコミが返ってくるはずだが、それはまだ返ってこない。
数秒間の沈黙。正解なのだろうかと思い、俺は羽入の顔を覗き込んだ。どこか遠くを見ているか、俺を見ても焦点の合わない瞳は反応を示さない。
その瞳からすっ、と一筋の涙が零れた。柔らかそうな羽入の頬に、輝く跡が糸を引く。
「羽入・・・?」
何か悪いことでも言ってしまったのだろうか?俺は羽入へ静かに声をかけた。
「あっ、ご、ごめんなさいです。圭一ッ!」
瞬時に羽入が正気に戻り、頭を下げる。その拍子で角の懐中電灯が、丁度俺の鳩尾に入った。
「げ、げほっ・・・!」
「あっ、あぅあぅあぅあぅっ!ごめんなさい、ごめんなさいなのですっ!!」
「ぐ、ぐえぇ・・・。謝るのはいいから、頭は下げないでくれぇ・・・」
下げないでぇ、お願いだから頭を下げないでぇ・・・。って、こりゃ療養中の鷹野さんか。
何とか羽入を止めると、俺は先ほどの質問を繰り返した。
「う~ん。惜しいのです。正解は『助かりたければ三つ数えろ』なのです。第一作目の邦題にも使われているのですよ、あぅあぅあぅ」
ああ、そうだったっけ・・・。って、何でそこまで知っているんだ、羽入侮り難し。
「『祟りじゃあ~』に『助かりたければ三つ数えろ』か、何かシュールな光景だな」
大鉈と銃を振り回して暴れる羽入に逃げ出す村人、逃げ込んだ民家で待ち伏せる俺。必死に命乞いするその村人に、俺は銃口を向けて「助かりたければ三つ数えろよ」と冷たく言い放ち、引き金を引く・・・。
どこのホラー映画なのかと考えてしまう、しかも失敗作の匂いがぷんぷんする。
「あっ、そうだ。俺が言った台詞は台詞として合ってはいるよな?」
さっきの反応が気になり、俺は羽入に同じような質問をしてみた。羽入が転校してきて半年近くなるが、あんな反応を見たのは初めてだったからだ。
「はい、あれは確か第五作目に使われている台詞なのです。題は『長い』・・・」
題名を言いかけて、羽入は突如俺の後ろに視線を移した。俺もつられて背後を振り返る。
見ると、向こうの商店から出てきたおばちゃん二人組みがこちらを見てひそひそ話をしている。
ああ、口の動きだけで、俺達を不審者扱いしているのが分かる。俺は軽く絶望を覚えながら今後の対応を決めることを強いられた。
「畜生、見つかっちまったか。羽入、退却ルートはあるのか?」
「あぅあぅ・・・。このまま引き返すと、買い物帰りの人達が沢山通ってくるのです」
「ちっ、それじゃあ強行突破しかないわけか・・・」
俺は覚悟を決めた。おたおたしている羽入の手を取り、タイミングを伺う・・・。
「あぅ。圭一・・・」
羽入の顔がほんの少し紅くなったようだが、気にしている暇はない。
「三つ数えたら行くぜ、一気に突き抜けてゲームを終わりにするんだ。・・・叫びながらな」
「あ、あぅあぅあぅっ!それは恥ずかしいのです!」
「幸い、突破したほうが被害が少ない。覚悟を決めるんだ。いくぜ、一、二の・・・」
三。で弾かれたように飛び出した。右の人スタイルの羽入と、露出狂スタイルの俺。目の前のおばさん達は目を白黒させている。
「あぅあぅあぅあぅ~~っ!祟りなのです~っ!!」
「オラオラぁ~っ!助かりたければ三つ数えろやぁ~っ!!」
やけになった二人の声が、夕暮れの雛見沢に響く。俺の悪名がまた広まるのか。そう思うと心が涙を流すのを、止める事が出来なかった・・・。



楽しい。本当に毎日が楽しい。
梨花達のクラスメートになって運命を乗り越えてから過ごしたこの半年は、一日一日が掛け替えのないもので、尊い。
観客ではなく俳優として舞台に立つことがこんなに素晴らしいなんて、オヤシロさまという傍観者の立場では永遠に味わえない感情だった。
だから、失うのが惜しい。そして惜しむ気持ちが本当に強いから、自分がこの演劇に立つ時間があまり残されていないことを痛感させられてしまう。
本来、私はこの星の生き物ではない。この星から遙か離れた場所で生まれた存在であり、その組成分子も人間のそれとはかなり異なる。
よくは覚えていないが、私達はこの世界よりも高次元の存在であるため、本来はこの世界の人間に覚知出来ないということらしい。漫画の登場人物が、自分達の世界を読んでいる読者という神様的な存在を理解出来ないのと同じことだ。
それを覚知させるとなるとこの世界に合うように組成分子を再構築する必要があり、それにより膨大なエネルギーが消費されてしまうのだ。
人間からすれば遙かに長命な存在である私達にも、それは大きな負担となる。だから私は綿流しで『死んだ』後本来の存在に戻り、千年の間孤独な時間を過ごしてきたのだ。
「だから、『死ぬ』とか『別れ』なんて言葉は聞きたくないのです」
冬空に向かって呟く。深夜も零時を回った家の中では、梨花と沙都子が仲良く寝息を立てている。
昼間の圭一との出来事を思い出していた。『さよならを言うことはわずかな間死ぬこと』という台詞が、私の心に引っかかっていたのだ。
死を前にした者は、どうしても死を連想させる言葉や別離に対して敏感になる。
私の場合、エネルギーが無くなってこの世界での姿を保てなくなることを差すが、それは梨花以外の人間との死別を意味する。
見えなくなり、話せなくなり、気配だけがわずかに感じられる存在への変化。それは幽霊となることに等しい。
だから圭一の話を途中で遮ったのだ。『別れ』という台詞を少しでも聞きたくなかったから。
寝息を立てる梨花を見て思う。もうすぐ私は梨花の背後にしか居なくなる存在になってしまうのだ。その時に、梨花は私を哀れんでくれるのだろうか・・・。
「くすくす、気づいているのね・・・」
聞き慣れた声に、私は方向へと振り向いた。
そこには制服姿の梨花が居た。オレンジジュースの混じっていない、紅の液体で満たされたワイングラスを片手にして、窓枠に座っている。
だが、そんなはずはなかった。だって梨花は安らかな寝息を立てて眠っている。
傍らにいるこの梨花を梨花だとすれば、あの、私の目の前にいる梨花は一体・・・?
「なぁに、その顔?私にとっては久しぶりの再会。涙が出そうなくらい嬉しいのにつまらない反応ね」
不敵に笑い、梨花がワイングラスを口に運んだ。唇を縁に滑らせ液体を口に含むその姿は、まるで妖艶な魔女のようである。
違う、この感触は梨花じゃない。
この感触は、この気配は、私自身から発する気配そのもの・・・!
「誰ですか、あなたは!?」
「誰って、くすくす。もう見忘れたの?私の顔を」
「あなたは梨花じゃない。梨花に限りなく近いけど別の、ボクに近い存在・・・」
私の指摘に、梨花に似た存在はもう一度笑うと、再びワイングラスに口づけした。
「ふふ、半分は正解・・・。だけど半分は違うわ。私は梨花よ、正確には『梨花』だった存在」
「な・・・!それはどういうことなのですか!?」
「命の無駄遣いに気づいて、私が罪を背負うことを選んだ世界。その世界で生まれた存在とでも言うのかしら、『梨花』であって『梨花』を越える存在、それが私」
賽殺し。梨花が罪を背負いながらも乗り越えたあの世界のことだ。
残念ながら、あの世界のことについては私も断片的にしか知り得ない。梨花から聞いた話以外に、あの世界の事は分からないのだ。
そんな私の動揺に気づいたのか、『梨花』は窓枠から降り、まるでお芝居をする役者のようにスカートの裾を持ち上げた。
「初めまして、そしてお久しぶりね羽入。私はフレデリカ・ベルンカステル。百年の魔女として梨花から生まれ、そして梨花そのものだった者よ・・・」
「フ、フレデリカ・・・?」
ベルンカステルという名前には聞き覚えがある、確か梨花が隠れて飲んでいるお酒の銘柄だ。しかし梨花の名前をほんの少し変えるだけで、こうも西洋風の名前に聞こえるとは思わなかった。
「なぁに、その目にBB弾を打ち込まれたような顔は?『あぅあぅあぅっ!赤坂からの便りがないから、梨花がおかしくなってしまったのです!!』とでも言いたいの?」
「そんなつもりはないのです、でも・・・」
俄には信じられなかった。私の知らない世界で梨花が人間という存在から昇華し、私と同じく世界を外側から見ることの出来る存在になっていたとは・・・。
しかし、オヤシロさまの生まれ変わりとして私の血を色濃く受け継ぎ、子孫の中で唯一私の存在を覚知することの出来た梨花であれば、私に近い存在になっても不思議ではないのかもしれない。
「まぁ、信じられないのは分かるけどね。私もこうやって、あなたに会うことは二度と無いと思っていたから。」
梨花、いやベルンカステルが皮肉な笑みを浮かべた。繰り返される時の中で、時折見せていた自嘲気味な笑み。
それは彼女がもはや私の知っている梨花ではなくなってしまったことに対する悲しみなのか、それとも私に対する哀れみなのかは分からない。
「ねぇ、あなたは残された時間をどう過ごすつもりなの?」
ぽつりと、呟く様にベルンカステルは私に問いかけた。
「あなたが気づいているように、残された時間は少ない。その時間をどう過ごしたいと思っているの?」
「わ、私は・・・」
考えていなかったというのが本音だ。いや、正確には考えたくなかったというべきか。
梨花がそうだったように刻々と迫りくる自身の最期というものは、考えるだけで気が狂いそうになるものだ。
正直、梨花は蘇る度にこの恐怖を味わっていたと思うと、ぞっとする。
「なあに、震えているの・・・?くすくす、羽入の怖がり・・・」
思わず両手を組んでいた私をあざ笑うかのように、ベルンカステルは私に近づき、その顔を近づけた。私は息を呑んで、思わず仰け反る・・・。
「ふふふ、まあ、早すぎるのだけどね」
私の頬を両手で包み込んだ梨花が、窓際のワイングラスを目で指す。
ワイングラスの中には、月光を浴びて透き通った液体が静かに佇んでいる。水面に写った月も寒いのか、静かに震えていた。
「この場合はなんと言うのかしら、あのお話ではカクテルだったけれども、あれは純粋なワイン。そうねぇ、産地を冠して『ベルンカステルには早すぎる』とでも言おうかしら」
どこかで聞いたことのあるような台詞を口にして、梨花は私から手を離すと、くるりと背を向けた。
「どういう、意味ですか・・・?」
「ふふっ!あなたも小説くらいは、ジャンルの有名どころくらいは読んでおいた方が良いわよ」
背中越しに向けられる小悪魔的な笑み。まるで彼女の手の平に乗せられてしまったかのような気分だ。
「杯を空にすると言うことは、それまでの終わりとこれからの始まりの意味。そして、あなたの杯にあるものは、もう残り少ないわ」
分かりきった事をちくちくと・・・。私は口を噤むと、ベルンカステルから顔を背けた。
「どうすれば良いのかは、あなたが一番分かっているわよね・・・」
「・・・言われるまでも、ないのです」
「じゃあ、時間は有効に使わないといけないわね。ねぇ、あなたの残された時間の過ごし方、つまりあなたの願いは何?」
「私の、願い・・・」
問われてみて、改めて考える。これまでの私の願いは、梨花と共に昭和58年の6月を乗り越えることだった。
その願いが叶った今、私の望みは他にあるのだろうか。
・・・正直に言えば、ある。私に残ったただ一つの望み、いや、未練。
だが、その未練を叶えるということは、私という飛び入り参加の素人が、演劇の主役を張ってしまうことを意味してしまう。
口にすることがどうしても躊躇われてしまう願い。梨花を、部活のみんなを差し置いた分不相応な願い。
そんな私の内心を見抜いたように、ベルンカステルは再び不敵に笑い、私の言葉を待った。
ああ、やはりこの魔女は梨花なのだ。私のをからかうことに悦びを覚える意地悪な、梨花なのだ・・・。



「どうしたんだよ、羽入。こんなところに呼び出して」
散々な目に遭って帰宅した翌日の放課後、部活を終えて帰ろうとした俺は下駄箱で羽入に呼び止められた。体育用具室の辺りまで連れてこられ、そこでくるりと向き直られる。
気のせいか、羽入の顔色は優れないようだった。
「ごめんなさい、圭一。こちらに来てもらう用があったのです」
梨花ちゃんのように手を後ろ手に組んで、俺の目を覗き込む。
「よ、用って・・・?」
急に顔を近づけられて、俺は思わず仰け反った。沙都子や梨花ちゃんと同じ年頃のはずだが、羽入には二人にはない色気というか、大人びた魅力がある。
まあ、わかりやすく言えば体が大人っぽいというか、胸元が二人よりも出ているというか・・・。
「実は圭一だけにお話ししたいことがあるのです。」
そんな俺の内心を知って知らずか、羽入は目を伏せて衝撃的な内容を告げた。
「ボクは、もうすぐ転校することになるのです・・・」
「えっ・・・!?」
確か羽入が転校してきたのは半年前じゃないか。それがまた転校だって!?
「う、嘘だろ。だって・・・」
「残念ですけど、もう、決まっていることなのですよ。都合が出来て、今度はとても遠いところへ行くことになったのです」
羽入は「遠く」という言葉に微妙なアクセントを付けた。それは俺達ともう二度と会うことの出来ないという、永遠の別れを告げるかのようだった。
「そんな、そんな。嘘だろッ!」
今居る羽入がそのまま消え失せてしまう気がして、俺は羽入の両腕を掴んでいた。
仲間が急にいなくなる。それは死刑宣告を受けたようで、急には受け入れがたい事だった。
「ごめんなさい、圭一。子供の居ない親戚のおじ様が、ボクを養子にしたいと言ってくれたのですよ。話が急に進んだので、みんなに伝える暇が無かったのです」
「でも、だからって転校なんて・・・。その来年の春とかには出来ないのか?」
「向こうにも都合があるのですよ。もらわれていく立場のボクが文句を言う訳にはいかないのです。あぅ・・・」
「で、でもっ!羽入は今までも梨花ちゃんと暮らしてきているじゃないか。それなら-」
「圭一」
何とか羽入から翻意を引き出そうと、俺は言葉をかけ続けていた。しかし羽入は俺の唇に指を当て、先程言った台詞をもう一度強く告げた。
「もう、決まっていることなのです」
その台詞にはとても強い悲しみが込められていて、俺はそれ以上転校について話すことが出来なかった。
無念と、未練が同居した断末魔のような言葉。指を通じて羽入の悲しみが俺に伝わってくるような気がする。
「だから、圭一」
俺の反応に満足したのか、羽入は俺の唇から指を離した。
「最後に、本当に最期に圭一にお礼がしたいのです。ボクと梨花を誰よりも親身になって助けてくれた圭一に」
「羽入・・・」
潤んでいる羽入の瞳を、俺は見つめることしか出来なかった。
そんな俺の耳元に、羽入が顔を寄せてぽつりと呟く。内容に一瞬固まった時、羽入の体が俺の手を離れて校舎の方へと戻っていった。
『今夜、古手神社で待っているのです・・・』



お袋に外出を告げ、古手神社の石段の脇に自転車を停めたのは夜の八時ごろだった。
冬の寒空の前では、ダウンジャケットもあまり用を成さない。そんな寒空の中、鳥居の前にコート姿の人影が俺を待っていた。
「羽入!」
白い息を吐き出しながら駆け寄ると、羽入はほっとしたような顔で俺に向かって歩んできた。俺のように白い息は漏れていない、この寒さの中で随分待っていた証だ。
「ご、ごめん。随分待っただろ!」
「あぅあぅ。ほんの少しだから心配いらないのですよ」
羽入はいつもの困ったような笑みを見せ、早く家に入ろうと、俺の腕を引っ張った。
こんな寒空の下には一刻も痛くなかったので、羽入のされるがままにする。物置小屋までの道のりを、俺達は他愛のない話をしながら歩いた。
「ふ~っ、あったけぇ。生き返るぜ・・・」
部屋に入ると、学校で使われるような石油ストーブが煌々と輝いており、先程までの寒さが嘘だったかのように感じる。俺は羽入に勧められるまま部屋に入り、蜜柑笊が乗った炬燵へと向かった。
「生姜湯なのです。とても暖まるのですよ」
「ん、サンキュ」
炬燵に入り、羽入が持ってきた生姜湯を飲む。羽入は俺のジャケットを掛けてくると言い、隣の部屋へと向かっていた。
いつもなら沙都子や梨花ちゃんがいるはずなのだが、どういう訳か姿が見あたらない。
「あぅあぅ。二人は詩ぃの家にお泊まりなのですよ」
「へぇ、そうか・・・って、羽入!?」
俺の疑問を先読みしたのか、部屋から出てきた羽入が二人の不在の理由を告げた。まぁ、最近二人が詩音の家にお泊りしているという話は良く聞くから分かる。
しかし、今の羽入の姿は初めて見るものだった。その姿は綿流しの時に梨花ちゃんがしていた格好。つまり巫女さんの服をしている。
「ここではいつもこの格好なのですよ~。あぅあぅあぅ」
羽入は向かいに座り、えへ☆と小さくポーズを決める。
見ると袖のうち二の腕の部分が無く、むき出しになった二の腕と胸の部分が強調されている作りであった。
「そ、そうなのか。にしても似合うな、まるで本物の巫女さんみたいだぜ」
どうしても、その、豊かな胸に目がいってしまう。同い年であるはずの梨花ちゃんや沙都子はともかく、レナのものにも引けは取らない。
襟元から除く膨らみはとても柔らかそうで、俺は唾を飲み込んでしまった。
「そんなに見られては恥ずかしいのです」 
俺の邪な視線に気づいたのか、羽入は袂で口元を覆い笑った。同じ笑うことでも普通の洋服とは違い、和服での仕草には色気がある。
オヤヂ達の浴衣好きに通じるものがあるなと思いつつ、俺は視線をそらして本題を切り出した。
「・・・やっぱり、転校するのか?」
「・・・はい、残念ですけど、仕方がない事なのです」
寂しそうに笑って、羽入は昼間と同じ答えを返した。
改めて言われて、胸が詰まる。転校という事実が覆すことのできない現実として、俺の目の前に立ちはだかった感触を覚えた。
「それで、どうして俺を呼んだんだ・・・?」
「それはですね、圭一にボクのお願いを聞いてもらおうと思ったからなのです」
「お願い?って、うわっ!!」
突然俺の胸元に、羽入が飛び込んできた。胸板と、羽入のふくよかな胸がぶつかり合って、背中に両手が回される。
心臓が全速力で走ったかのように脈打ち、息をするのにも苦しい。それでも、思った以上に女の子の胸というものは柔らかくて、俺は羽入を引き剥がせずにいた。
シャンプーのせいだろうか、軽くウェーブのかかった髪からは良い香りがする。それがとても心地よくて、深く息を吸わずにはいられなかった。
「圭一」
喉元の先で、羽入が俺を見上げる。潤んだ強い意志を持った瞳が、俺を捕らえて離さない。
「ボクに、思い出をください・・・」
女の子が欲しがる男の子の思い出という意味くらい、俺でも知っている。それは軽々しく与えてはいけない、一生ものの思い出。
しかも、俺達の年ではまだ早い、早すぎると言われるくらいの思い出だ。『断るべきだ』『まだ早い』という心の声が聞こえてくる。
だけど、俺を見詰める羽入の目があまりにも綺麗だったから、近づいてきた唇を拒むことは出来なかった・・・。



唇が離れるまでには長い時間を要した。
奪うという言葉が相応しい私からの口付けを、圭一は最初震えるようにして受け止めていたが、しばらくすると自分から求めるようになっていた。
私がするように、角度を、強さを変えて相手を求める。ぎこちないことこの上ないのだろうけど、快感を求めて慣れない動きに戸惑う圭一の姿に愛しさを感じてしまう。

圭一と結ばれる。

それが私に残された最後の望みだった。
百年の間、見詰め続けてきた男の子。まるで息子のようでもあり、友人のようでもあり、・・・時にはエロオヤジのようにもなるが、魅力的な男の子だった。
だから、圭一が発症した時には、誰よりも早く謝りに行った。彼が兇行に走ってしまった時には、その側で悲しんだ。
ずっと近くにいても、話す事も、触れる事も出来なかった、まるで物語の中の主人公のような存在。
それが、私もこの世界に受肉することによって、これまで肌で感じることが出来なかった圭一と接することになった。楽しく、愛しい日々の中で、私は既に忘れかけていた感情を取り戻していったのである。
超越した存在から蘇った一人の女性としての感情。愛しい人に抱かれるという女性としての宿業を・・・。
「あ・・・」
名残惜しそうに、圭一が呟く。唇と唇の間に銀の糸が生まれ、ほどなく消えた。
舌で唇を舐め取り、流し目で圭一を見る。男の心を溶ろけさせる女としての仕草。
求めようとする男を焦らし、受け流してその扇情を更に強いものとさせる雌の本能が、私の動きをまるで娼婦のように艶めかしいものにしている。
「ふふ・・・」
目を細めて笑うと、私は両手で圭一の鬢を掻き分け、そのまま耳を包んだ。聴覚を塞いで触覚を鋭敏にさせ、私の感触を刻み込むために口づけをする。
柔肉同士の触れ合いでは飽き足らず、圭一の歯に舌を這わせて口腔を犯す。それはまるでもう一本の指が温もりを求めて肉体に入り込むよう。
しばらく動かしていると圭一のそれも絡みつき、お互いを味わうために動きが激しくなる。いつの間にか私は畳の上に仰向けになっていた。
「・・・っ、羽入ぅ」
圭一の唇が私の顔中に降り注ぎ、それと同時に手が私の胸を、腰を、太腿を這う。加減が分からないのか、その愛撫には時折痛みが伴った。
しかし、しかし遙かな時を孤独という牢獄の中に過ごした私にとっては、痛みすら自分がここに居る証明のように思える。
「あ、ごめん。痛かったか・・・?」
だが、表情を押さえることは出来なかったようだ。圭一の愛撫が止み、私の顔を心配そうな顔で覗き込んでいる。
「大丈夫なのですよ。・・・圭一は優しいのですね」
「でも、俺、女の子にこうするの初めてだから、加減分からなくて・・・」
「ふふ、最初は誰でもそうなのですよ。ボクだって緊張しているのですから・・・」
嘘ではなかった。経験があるというもののそれははるか昔のこと、あの頃の記憶を必死に辿り、圭一を導こうとしているのだから、私にも若干の緊張はあった。
「だから圭一。圭一はボクに何をしても良いのですよ・・・」
その緊張を断ち切るため、私は精一杯の強がりで圭一に全てを委ねる言葉を告げた。



私に何をしてもよい。
男ならば誰もが夢見る台詞。どこかの怪盗ならば三秒で服を脱ぎ捨ててダイブするような魔法の言葉だ。
俺は今、その言葉を眼下に組み敷いている女の子から告げられている。年下だが気心も知れ、充分魅力的な体型をした美少女からのお誘いだ。
だが、急激な展開の早さに戸惑っている自分がいるのも事実だった。
普通、俺達くらいの男女の付き合いというものは、告白して、デートして、それで段々と親密になっていってからキスに辿り着くようなものじゃないのだろうか。
いま羽入が告げたのは、交際の最終段階へのGOサイン。つまり、セックスをしようということだ。
俺も年頃の男だから、部活メンバーを夜のオカズにして愉しむということもしていた。正直俺は、部活メンバーなら誰とでも付き合うことができると思う。
しかし、こんなに急に、予想も付かない形で羽入が俺を求めて来るなんて思いもしなかった。
いや、今でも信じられない。羽入の目はどこか思い詰めたようでいて、正気なのだろうかと疑いすらしてしまう。
本当に俺のことが好きで、だから俺とセックスしたいと言うのならこんなに嬉しいことはない。だけど、こんな、最後の思い出だからという形でして良いのだろうか?
『据え膳食わぬは男の恥』だという言葉が何度も、何度も頭をよぎる。それをかろうじて残った俺の理性が押さえていた。
肉体は今にも羽入を犯そうと自己主張をしている。息も獣のように荒々しく乱れている。
でも、こんな気持ちがあやふやなままで結ばれて良いのかよッ・・・!
俺にとっては本当に美味しい話。夢見ていた女の子とのセックスができ、しかも彼女は転校していなくなるから後腐れも何もない、夢のようなシチュエーションだ。
だけど!女の子を抱くと言うことを欲望だけでしちゃ駄目なんだ!俺が初体験の相手を忘れられなくなるように、羽入だって相手の事を一生忘れられなくなるに決まっている。
そんな一生ごとを、もうじきいなくなる俺なんかがすれば、将来本当に好きな人が出来た羽入が全てを捧げようとした時に、後悔するかもしれないんだ・・・。

「・・・本当に、どこまでも優しい人。」
いつの間にか俺の左頬に羽入の手が優しく添えられていた。俺がここに居ることを確かめるかのように、撫でる指先が肌を擽る。
「こんな時にでもボクを心配してくれるのですね。そんな圭一だから、ボクは圭一が好きなのですよ」
俺の逡巡を察しているのか、羽入の言葉にはそんな俺でも包み込んでくれる不思議な響きがあった。羽入の年は俺よりも少し下のはずだ。しかし、目の前の彼女はまるで母親、いやそれ以上に強い包容力を持つ存在のように思える。
「ずっと見ていたのですよ、圭一を。仲間の危機に立ち上がる圭一、運命を変えようと懸命にあがく圭一。そして恐怖を前に醜く怯える圭一の姿も」
列挙された自分の挙動だが、俺自身にはその記憶が無かった。しかし、何故か涙が一筋頬に流れる。
言葉に呼応するかのように俺の魂が癒されてゆく、今自分に起こっている感情を例えるとするならば、そう表現するしかない。
「みんなには敵わないかもしれないけれど、ボクだって圭一を見ていたのです。だから、後悔なんてしないのですよ」
「・・・本当に、俺なんかでいいのか?」
「はい、圭一でないと駄目なのです。圭一はボクじゃ駄目なのですか?」
「い、いやっ!!俺も、羽入となら・・・」
俺の言葉を待っていたかのように、羽入が再び俺にキスをする。欲望を抑えていた最後の鎖が、音を立てて砕けていくのが分かった。


<続く>

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最終更新:2007年11月21日 21:55