古手梨花は疲弊しきっていた。
ぼんやりとしか灯らない瞳の光。それは、刷毛で粗雑に描かれたように境界線が判然としていなかった。
常にゆらゆらと動いているようにも見え、梨花がその瞳で何を捉えているのかも全く分からなかった。さらに、多種多様な色が混ざりすぎていて、もう光と呼べるのかも疑わしかった。
高く蒼い空を見上げれば日光により瞳から暗さが抜けたようにもなったが、感じ取れるのは恨めしげな感情だけ。それもごくわずかだった。地面を見れば、より影を落とし、どうかすると空を見上げたときよりずっと遠くに焦点を当てている風にも見えた。
そして今、その瞳をじっと天井へと向けていた。歪に区切られた升目の一つ一つを、人差し指で辿っていきながら呟く。
いち、いち、いち……。

昭和五十八年六月、暦の上では夏至の日が近い。昼は、まだその日に至っていなかったのかと嘆息するような暑さだが、夜については全くの正反対で指折り数えてみてその少なさに少し驚くといった涼しさだった。
暗闇の中で色を持たないカーテンが微風に波を立てる。梨花の隣で寝ている北条沙都子が掛け布団を首元へ手繰り寄せた。布地の擦れる音、さらりとした部屋の空気に一瞬だけ摩擦を起こして、また冷え冷えと静かな空間に戻る。
むくり、と梨花が起き上がった。窓に近づいていき、そっと閉める。そうして窓枠に手をかけたまましばらく立ち尽くしていた。
部屋に響く時計の針音が幾百かを刻んだ後、その正確な間隔が両脚に覚えこまされたかのように感じられる足取りでトイレへと向かった。
明かりは点けずに中に入った。そこは、梨花と沙都子の寝る六畳の部屋より一段と暗かったが、梨花は一遍の躊躇もなく便座に座ると、小さな窓から差し込む月明かりなどを頼りにするまでもなく白い腕を股の間に伸ばした。
ズボンの皺が上へ下へと交互に寄っていく。中指が規則的に動いてパジャマとショーツに隠された梨花の秘部へと刺激を与え続けていた。
しかし梨花の表情に変化はなく、ただ自分の手の動きをまるで別の生き物を見るかのように凝視していた。いや、別の生き物を見るよりもずっと冷めた色をしていた。
下半身を素のまま空気にさらした。
ぴったりと重なり合って一筋の線をつくる性器からじわりと漏れる液。梨花の体に沿って跡を作り、一粒の水滴となって梨花の体を離れようとしていた。小刻みに揺れたその粒を梨花の指先がそっと掬い取る。てらてらとした指先だけが、滑った表面に月の明かりを絡めとろうとしているようだった。
その指先ですーっと性器をなぞり、潤わせる。中指を取り残した左右の指で性器を押し広げると、小さな膣口とそれよりもさらに小さな尿道があらわになった。
無表情は変わらないが、梨花の息がかすかに荒れ始めた。左右に寄って膨らみを増した肉の周囲を、中指でなぞる。指の可動域を考えても届かない箇所があり、梨花は空いた手を自慰行為の新たな手助けとした。
清閑な雰囲気に溶け込もうとせず、広がりも見せず、梨花の中だけで少しずつ少しずつ荒さを増していく行為。俯き、微動する黒髪に閉じ込められる吐息がひどく大きな音となって聞こえた。
やがて、ひくつき始めた膣へと指を入れる。第二関節までが飲み込まれ、それだけで梨花の中は十分に満たされた。隙間は全くなかったが、身動きがとれないというわけではなく、回したり押したりして膣壁を擦っているようだ。ほぐれてきたのか、指の動きが滑らかになっていく。
そうしているうちに、体を縮こませてぶるぶると震え始めた。絶頂が近いことがわかる。達するときには体をくの字型に折り曲げて、大きな音を出さないようにしていた。
ふーふー、と荒めの息を吐きながらじっと体が落ち着くのを待っていた。
少しして、梨花も含む全ての世界に静けさが戻った。
再び床につく。
午前零時を回ろうとする頃。梨花は世界に思いを馳せる。この世界で初めて、梨花が自慰行為をしたこの日。 雛見沢分校で、圭一が金属バットを持ち歩き始めた日だった。



ひぐらしの声がそこここで盛んに鳴いており、吹きすさぶ風とともに梨花を包む。
赤く染まる雛見沢。血のようにと表現するならば、西の空はもう血塊になりつつあるような空色だった。
剥がすのには痛みが伴い、時間もかかるだろう。それがどれだけなのか。
梨花は圭一の家の前に立っていた。制服姿のままだったが、手には何も持っていない。見ると、十メートルほど離れた草むらの中に梨花のものらしき荷物が無造作に置いてあった。
白い壁に、ドアへと向かう梨花の影が映し出される。まだ明るいのに家中カーテンが閉められていて、中でも梨花は二階の窓を虚ろな目で見ながら呼び鈴を鳴らした。誰かの来訪を告げる音。軽快な印象を受けるが、いつもいつもそのベル音に見合った来客があるわけではないだろう。
ドアが開く。隙間からじゃりと姿を出したチェーンが、夕日に禍々しく光る。
「梨花……ちゃん……?」
梨花は緊張と警戒心で少し硬い表情が見え隠れする圭一を見上げる。
「何か……用?」
圭一はチェーンを外そうとしなかった。梨花は何も答えない。
影が位置を変え、ドアの隙間に入り込むまでの時間――実際には十分ほど――じっとしていた梨花は、
その間の圭一の質問に答えようとしなかった。
「用がないんならドア……閉めるからな……」
呆れ顔にわずかの安堵を滲ませてドアをゆっくりと引く。
同時に、梨花が制服を脱ぎ始めた。スカートを下ろすために肩にかかる紐をずらし、ファスナーを開ける。ぱさりと地面の上に落ちた。白いショーツの下半分だけがはっきりと見えていた。
「なっ、何してんだよ梨花ちゃんっ」
梨花の行動を理解できずうろたえる圭一。声を荒げるが、梨花はそれを意に介さない。
一片も恥じらいの表情を浮かべることなく、淡々と衣服を脱ぎ捨てていく。下着姿になった。視線を圭一の顔に固定している。
「そ、外だぞ……! 誰かに見られたらどうするんだよっ……」
圭一は顔を背けて言う。わずかに非難の色が含まれていた。
梨花はなおも止まらない。ついに下着にまで手をかける。
「おいっ…!」
白い肌が、背中から橙色の光に飲み込まれる。発達の途上にも至っていない身体は圭一の方からは逆光でいささか見えづらくもあったが、そもそも距離が近かった。
「……っ」
焦燥の感を隠そうとするかのように、圭一はドアを閉める。
「なんなんだよっ……」
ドアに寄りかかり、拳を軽く叩きつける。学校から帰ってきてまだ着替えもしていなかった圭一は、ボタンも外さずカッターシャツを乱暴に脱ぐ。
チェーンを外してドアを開けた。
梨花は一糸も纏わぬ生まれたままの姿で、じっと立ち尽くしていた。表情は変わらずにいたが、夕方になると風の冷たさを感じずにはいられない時節。かすかに開いた口を小刻みに震わせながら、完全に開いたドアにほんの少しだけ安心したような表情になる。
圭一が脱いだシャツをばさりと頭から被せた。
そこからぷは、と顔を出した梨花を見下ろして、
「中……入れよ」
落ちた服を持って、玄関へと足を踏み入れる。
「で……どうしたんだよ……梨花ちゃん」
無残にひしゃげた靴箱を横目に見た梨花だったが、それに関しては何も言わない。
「ああ…それは、その、気にしないでくれ。こけたんだ……」
圭一を見上げる梨花。次の動きに躊躇いはなかった。
「梨花っ…ちゃん…っ?」
圭一は梨花に抱きつかれていた。何をと思う間もなく、梨花がズボンのチャックを下ろしたので、圭一は慌てた。
「なっ! りっ……」
トランクスから自分の性器が取り出されるのを見て圭一は赤くなった。戻そうと手をゴムの部分にかけるが、その前に脳を突いた刺激によって目的は果たされなかった。
「ぐっ!?」
梨花が、剥き出た亀頭に舌を這わせていたのだ。圭一に何も言わせず、口に含み、舌でべろりとなぞり、息を吹きかける。次第に硬さと大きさを増していった圭一の性器は、最後に梨花の喉奥まで飲み込まれたことによって、反り返るほどの興奮を得た。
「梨花ちゃんっ、なんでっ……」
押し寄せる快感の波に抵抗する気を削がれたのか、梨花の一連の動作を見つめるだけになっている。
腰が抜けて壁に背を預ける格好になったのは、避けようと後ろに引いたのを梨花が追い込んだからだった。
卑猥な水音と圭一の悶える声だけが、家の廊下に響いていく。梨花の小さな口では全部を口に含めるはずもなく、竿の余った部分を右手で包んで擦りながら、圭一の絶頂を誘おうとしていた。
しごくスピードが上がっていく。
梨花の頭を押さえて、声を荒げる圭一。
「あっ、くあぁっ!」
一つ腰がびくついて、ぱんぱんに膨らんだ性器から白濁液が飛び出た。
あまりの勢いに梨花の口から飛び出た性器は、それをところかまわず撒き散らす。圭一のカッターシャツを着た梨花の体に、脚に、顔に。ようやく吐き出し終わったときには、茫然自失とした表情の圭一と、火照った顔に無表情を貼り付けた梨花の姿があった。梨花は体の至るところに付着した精液をふらりふらりと見回す。袖と頬の分だけを指でとり、見つめ、舐めた。
それを眺めていた圭一の頭がぐらつき、後頭部が壁に当たる。
次の瞬間、梨花の体を押し倒した。白く小さな肢体が圭一の体で完全に隠れる。
「り、梨花ちゃんが……っ! 悪いんだからなっ!」
シャツを捲り上げて首元に押しやると、膨らみのない胸の硬くなった乳首を舐める。舐め上げる。下げる。
梨花がふぅっと息を吐く。圭一の頭を触ろうとして、やめた。真上にある壁を押し上げるようにして、耐えている。
不意に、梨花の体が浮いた。背の下に圭一の手が差し込まれ、抱えられたのだ。もう片方の腕でお尻を支えられ、抱っこのような格好になる。その体勢のまま、圭一は梨花の胸に唇を当て続ける。さらに、圭一は梨花の両脚を肩の上に乗せ、壁に押し付けた。
ひんやりとした感触が背をじわりと漂い、熱い刺激が胸から脳へ駆け上がる。その差に意識を奪われそうになりながらも、声は漏らさず、普段の倍以上に近くなった天井に視線を向けていた。
そんな梨花がひとしお大きく反応した瞬間があった。圭一が、頭を股の間に無理やりねじ込んで、今度は梨花の秘部を舐めようとしたからだった。
しかし、相当きつい格好になっていたので、圭一の舌は陰核付近までしか届かず、もどかしいようだった。
それに気づいた梨花は、肩に乗せるのを膝裏ではなく足にする。圭一の顔がさらに梨花の性器に近づく。
圭一が行為をしやすいようにと考えたようだった。
筋を舐められて、指で広げられる。あふれ出る蜜に圭一の舌が絡み、膣に入ってくる。膣の肉がざらざら とした感触に犯され、熱が頭を昇る。胸も両手で揉みしだかれている。あまりの刺激に体が過剰に反応するが、今の不安定な体勢ではバランスを崩しかねないので我慢しなければならなかった。
ぶるぶると震える膝。断続的に吐き出された息は天井に届くのではと思うほど長く、荒かった。
やがて、梨花の膣から潮が吹き出た。圭一の顔を濡らす。
力が抜け、ずり落ちそうになったところを圭一が支えた。その目に梨花を気遣う色はなかった。ただただ猛り狂った欲望をどうにかしたいという思いと惑い、不信。そういった感情があったからだろう。
圭一はへたり込んだ梨花のお尻を持ち上げ、膣に自分の性器をあてがった。後背位の姿勢。一気に、貫いた。
梨花の声にならない叫びが、仰け反る体に一本の線を通したような鋭さで発せられる。
破爪の血が圭一の性器を恨めしそうに濡らしたが、行為は続く。むしろこれからが本番だとでもいうように腰の動きは激しさを増していった。
「はっ、はっ、はっ! なんでだよっ…!」
腰を打ち付けながら、自然に漏れたのか、誰に言うまでもない圭一の呟き。
「俺が、何かっ、したっていうのかよっ……!」
腰を打ち付けられながら、痛みに耐えようと腕を噛んでいる梨花。
「ぐぁあっ! あっ、射精る……っ!」
二度目とは思えない量を梨花の子宮へと注いだ。奥の奥まで。圭一の熱が、体の中の空洞を全て満たす。肉棒で、そこから出た精液で。その過程、結果
すべてを感じていた梨花。事後も感じている。圭一の性器は収まっていなかった。
膣をゆっくりと行き来し始めた。再び激しくなっていき、あふれ出る精液があわ立つ。梨花の体がひねられ片足が上方に向く。さらに強く子宮口を突かれて、ぱしん、と一瞬頭が真っ白になった。
「俺は、みんなの仲間じゃなかったのかっ……!」
深い深い井戸に世界を遮られ、外のものに何一つ信用など置けないように。
「俺は、雛見沢に来ちゃいけなかったのかっ……!」
何が悪いかを考えに考え抜いて、最期には自分を疑わなければならないように。
「どうしたらいいんだよぉおっ!」
圭一の叫びが射精となって梨花の中へと再び流れ込んでいく。
梨花は泣いた。顔をぐしゃぐしゃにして髪の毛を振り乱し、嗚咽も隠すことなく。
圭一の性器が抜かれて支えを失い、倒れこむ。そのまま、体を抱え込んで目元を圭一のシャツで覆い隠しながら泣いた。
「……あ……り、か、ちゃん……」
梨花の隣に疲れた体を横たえる圭一が初めて、いや、みんなが楽しんでいた頃のように名前を呼んだ。
仲間を誰よりも信頼し、心配し、熱くなる圭一の心。自分自身で傷つけてしまったと考えているだろう梨花への罪悪感の強さは想像に難くない。
「ご、ごめん……俺……」
「ちがう、ちがうのです……圭一っ!」
「梨花ちゃん……?」
「ボクは、ボクは、ボクはっ、圭一のこと何も分かっていなくてっ…、うぅっあぁああ!」
泣きじゃくる梨花に戸惑う圭一。
「け、圭一は、ひっ必死でっ…誰よりも、怖がってっえったっ助けを求めているのにっ…!ぼ、ボクは何もしないで、諦めて、きょ、今日だってっ何も考えないでこ、ここに来たっ…!」
次々に涙と嗚咽を流していく梨花に、圭一は控えめに手を伸ばす。頬に触れる。
「梨花ちゃんは……悪くない……。仲間だもんな……。うん……俺、きっともう大丈夫だよ……」
その言葉で安らいだのか、徐々に悲しみが引いていくようだった。
「ごめんなさいなのです、圭一……」
「いや……悪いのは俺で……」
「違うのです……ボクが……」
押し問答になりそうだった。梨花は涙を拭って、今更のように裸だった体を隠す。顔を赤らめて圭一を見た。
「あ、ご、ごめん、本当に……。シャワー浴びていいから……」
こくりと頷いて起き上がる梨花。
同じく体を起こした圭一に、
「明日、また学校でみんなで会いましょうなのです」
と言った。
「……。……! ああ…ああ……! ありがとう……梨花ちゃん……」
年甲斐もなくぼろぼろと涙を流す圭一と。
「にぱー☆」
最高の笑顔と泣き顔がごちゃ混ぜになった梨花がいた。



翌日の雛見沢分校、放課後。
「圭ちゃん、今日も部活欠席するわけー……?」
魅音が口を尖らせて不満を漏らした。
「ああ。今日まで、その、悪いな」
「え、明日からは大丈夫なの!?」
嬉々として圭一に駆け寄る。そばで聞いていたレナと沙都子も同様だった。
「ああ、今まで悪かったな、つっても二日くらいじゃねぇか」
「何言ってんのー圭ちゃん! 我が部活を甘く見てもらっては困るなー。『男子三日会わざれば括目すべし』ってね!あ、これ圭ちゃんのことじゃないよ? 部活のことだからねー、しっしっし。明日にはどんなルールやゲームが追加されているかわかんないよー?」
愉快そうに笑う魅音。
「はぅ。が、頑張らないとね、圭一くんっ。レナ応援するからねっ」
「応援だけかよ。あ、レナ。昨日夕飯ありがとな。助かったよ」
「気にしなくていいんだよ、だよ! いつでも言ってね」
「レナさん甘いですわよー!職務怠慢とでもいうべき圭一さんの部活休み、万死に値しましてよー!明日が楽しみでございますわねー!をーほっほっほっ」
「職務ってなんだ」
「勿論、部活に負けて罰ゲームを受けることですわー!」
「てめえ沙都子っ!」
教室中が圭一を取り囲んだ笑い声に包まれる。
そんな光景を嬉しそうに、目端にじわりと浮かぶ涙をこらえて見つめる梨花。沙都子を追いかける圭一と目が合って、思わず逸らしてしまった。
「梨花ちゃん、ちょっといいか」
教室の外へと連れ出される。他の三人がきょとんとした顔で二人の背を見ていた。
「ど、どうしたのですか? 圭一」
「あ、その、な……これ」 
差し出した手にぶら下がる紙袋を見て梨花が頭にハテナマークを浮かべる。
「昨日は本当にごめん、おわびってわけじゃないんだけど……」
中にはたくさんのお菓子が入っていた。
「これ、みんなと食べてくれ」
「わー、ありがとうなのです。みんなもきっと喜ぶのですよ。にぱー☆」
ふ、と優しく笑う圭一がいる。また、いる。
「それでな、昨日のことは……ちゃんと責任とるつもりだからさ……」
「え……あ……」
かあっと真っ赤にした顔を見られまいと俯く。
「そ、それは、その、なんていっていいのかわかりませんですが、う、嬉しいのです……」
「あ、ああ」
気まずい沈黙。破ろうとしたのは梨花だった。
「そそそれより今日はどうして部活に出られないのですかっ?」
「ああ。親父たちが今日の夜にでも帰ってくるからな。色々めちゃくちゃにしたところを直さなきゃいけないんだよ。せめて言い訳できる程度には、さ。昨日少しやったんだけど、まだ完全じゃなくてな」
「そ、そうなのですか。それではしょうがないのです」
「ああ、また明日な」
「はいなのです」
「それじゃ、俺は帰るから」
そういって、圭一は教室にいるみんなへと手を振った。
「圭ちゃん、明日覚悟しといてよー!」
「圭一くん、また明日ねー!」
「また明日ですわー!」
各々が手を振り、ここ数日外れていた圭一が再び加わる明日を楽しみに待つ。
梨花も。望んでいた日常へと足を踏み入れることができるのだと。グラウンド、笑顔で元気に手を振る圭一の姿を見て、そう確信していた。
しかしそれが、梨花がこの世界で生きている圭一を見た最後の姿だった。雛見沢独特の、ひぐらしと夕日の混合奏に後姿を紛れ込ませていく圭一。みんなが楽しくお菓子を食べている中、梨花は見えなくなるまでその背を追いかけていた。



夢はいつも残酷だった。
夢の内容自体よりも、その夢をいつも現実のものとする特徴のことだ。夢として教えてくれるなら、覚醒したときにもっとはっきり覚えていてもいいものだろう。後に訪れる夢と同じ出来事を経験したときになって初めて、自分の愚かさに気づくのだから。なら、自分の過ちばかり思い起こさせる夢は、残酷というほかはなかった。
「梨花っ、梨花っ!」
「……ん、みぃ?」
「お夕飯、できましてよ。どうしたんですの? 居眠りなんて。梨花には珍しいですわね」
「みぃ。ちょっと疲れていただけなのです」
「そうなんですの。少しうなされていたようでしたけど……」
「……え?」
沙都子の言葉を聞いて夢の映像が頭を過ぎった。途切れ途切れに、端々が切れて、浮かんでくる。よくあることだ。知覚できる情報だけを一つずつ、脳に固定させていく。
汗がどっと流れた。背筋が凍り、歯がかちかちと鳴った。
「ぅあ…あ……あ……あ……!」
「ど、どうしたんですのっ? 顔が真っ青ですわよっ」
「さ、沙都子は先にご飯を食べていてなのですっ」
「え、ちょっ、ちょっと梨花ぁ!?」
梨花は裸足で家を飛び出した。
西の空にはまだぼんやりと明るい光が残っているけれど、辺りはすっかり暗い。土と水と草の匂い。息を吸い込むたびに鼻孔を漂ってくる。時にどこかの家の夕飯のにおい。
「はぁっはぁっ。嘘よね、そうよね、圭一っ!」
夢は、おそらく昨日梨花が圭一の家を訪れていなかったら至っていたであろう結末だった。血、血、血。映像のあちこちにその色と、倒れる圭一の姿。電話ボックス。
息を切らして走る、走る。これだけ吸い込んでも余りある空気に感謝した。まだまだ肺は元気で脚も動かせた。
一直線に電話ボックスを目指した。
「はぁっはぁっはぁっ……」
じゃりっ……。
歩み寄る。
数メートル先に、冷めた電灯に照らされた圭一と血溜まりが見えた。粉々に砕かれた電話ボックスのガラス。定位置を確保したままの取っ手の一部分だけが凹んだ受話器。
「け、い、いち……」
じわじわと広がりつつある赤。うつ伏せになっている圭一の首元が源泉のようだった。白いシャツと、手に硬く握られたバットを染めていた。
梨花はがくがくと脚を震わせていた。信じられないものを見る目に涙が滲んでいく。
「どう、して?」
ついに、膝をついた。わななく唇が不自然に笑顔を作っていく。四つんばいになって血の海に横たわる圭一に近づいていった。
ぴちゃり……。
梨花の手が呑みこまれる。手を上げればぽたぽたと流れ落ちる。
「また、明日って約束したのです……」
血に埋もれる圭一の右手を取って、横顔に語りかける。
「魅音が、明日はジジ抜きだって言っていたのです……圭一の初めての部活……」
手はまだ温かかったが、圭一のものではなかった。圭一はもっと、誰をも焦がす熱さを持っている。これは冷えていく過程。
梨花の心臓の鼓動を加速させた。
それでも語りかける。涙の中に、昨日見せたこの世界で一番の笑顔を浮かべようとして。
「レナは、特製お弁当を作ってくるって言っていたのです……」
肩に手をかけて体を仰向けさせようとする。
「沙都子は、とびっきりのトラップを作るって張り切っていたのです……」
力を入れて。
「だから、圭一……。明日は……大変なのですよ? ボクの慰めがきっと必要なのです……。なのに、いつまで、寝ているのですか? 睡眠はとりすぎても駄目なのですよ……?」
ごろん。ぱっくり開いた首の傷口が空中に向けられる。
「あっ……あぁっ……!」
完全に生気を失った圭一の顔が目の前に現れた。涙の跡が血に塗れていて、薄く開いた瞳からは何も読み取ることができなかった。
「圭一っ! 圭一ぃっ!」
感情を溢れさせる梨花。圭一を抱きしめて何度も何度も理由を問う。
ただ誰も答えることなく闇に溶けていくだけだった。
「お願いだからぁっ……!」
かすかに鳴いているひぐらしに連れ去られていくように。
「圭一ぃっっっ!」
梨花の、悲痛な叫び。



『事件報告』

昭和五十八年六月某県鹿骨市の寒村雛見沢で、男子生徒死亡事件が発生した。
遺体となって発見されたのは前原圭一さん(1X歳)。
直前まで一緒にいたというクラスメート二名(竜宮礼奈・園崎魅音)から聴取したところによると、両名が帰宅途中道端で倒れている前原さんを発見。
家まで運び、介抱していたという。
目覚めた前原さんは両名を見て急に錯乱しだした。
机に立てかけてあった金属バットを手にとり、意味もなく振り回していた。
その際、両名を守るような旨の言葉を発していたという。
このとき、部屋には前原さんとクラスメート二名の三名しかいなかったことから、幻覚症状があったのではないかと思われる。
ただし、原因は不明。
部屋は無残に破壊しつくされたが、両名に怪我はなかった。
その後前原さんは金属バットを振り回しながら外へと出る。
わざわざ裏口を使った真意は不明。
前原さんが通ったと思われる廊下にはバットの跡が無数に残っていた。
遺体発見現場では以下のような顛末だったと思われる。
電話ボックスを金属バットで徹底的に破壊。
それまでの運動量から酸欠を起こし、意識を失う。
倒れる際に散らばるガラスの破片が喉元から頚動脈を切り出血。
現場に落ちていた破片と傷口が一致した。
発見時には意識不明の重体。二十四時間後に死亡した。
当初事件性はないと考えられていたがいくつか不審な点があった。
前原さんの腹部に何者かによる打撲痕があったこと。
真意のわからない電話ボックスの破壊。
何より事件性があると決定された根拠は前原さん死亡の数日後にあった古手梨花殺害事件である。
その事件の被害者古手梨花が前原さんの遺体の第一発見者であることから、二つの事件には何らかの繋がりがあるものと見て捜査を継続している――。


<了>

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最終更新:2007年11月12日 15:31