最初は、俺が振り向いた顔があまりにも恐ろしかったので、沙都子が驚いたのだと思った。
そりゃあ、橋の上で突然背中に触れられたら誰だって驚いた顔をするだろう。
しかし、沙都子の様子を見ると、その様子は俺の顔だけに驚いたものではないのだと、すぐに分かった。
「さ、沙都子・・・?」
俺は両手で顔を覆った沙都子の肩に手を置いた。その瞬間
「ご、ごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさい圭一さんっ!!」
俺の手が、強く打ち払われた。数秒遅れで痺れるような痛みが掌に伝わる。
「ど、どうしたんだよ。いきなり?」
沙都子の気に障ることでもしたのだろうか?俺は努めて優しく声をかけた。
しかし、沙都子は俺を見据えたまま首を振るだけで、徐々に後退りを始めていた。あの、ごめんなさいという謝罪の言葉を繰り返しながら。
「おい、沙都子。一体どうしたんだよ?俺、何かしたのか?」
「け、圭一さん。近づかないで、私に近づかないで下さいましッ!」
「ご、ごめんよ。気に障ったことをしちまったのか?」
「違いますの、圭一さんは何も悪くございませんの・・・。悪いのは私なんですのッ!!」
話が噛み合わない。俺は沙都子に何が起こったのか理解できず、戸惑うことしか出来なかった。しかし、次に発した言葉は、俺の混乱を更に加速させるものだった。
「ごめんなさい、ごめんなさい圭一さん。圭一さんを殺した私を、どうか許して下さいましッ!!!」
はぁ?沙都子は何を言っているんだ。俺を、殺して、ごめんなさいだと・・・?
「ば、馬鹿言うなよっ!俺は生きてここにいるだろっ!?訳が分かんねぇよっ!!」
本当に訳が分からない。何かの拍子で、沙都子は錯乱してしまったのだろうか。
俺は沙都子に駆け寄り、その肩を強く掴んだ。「しっかりしろ!」と声をかけたかったのだが、その前に沙都子の叫び声が、俺の言葉を遮った。
「い、嫌あぁあぁぁあぁぁぁッッ!!」
想像以上の力で、沙都子は俺の手を振りほどく。あまりに勢いが付いたため、それが腿に当たって激しく音を建てた。
「だ、駄目です圭一さん。私に近づくと、私はあなたに酷いことをする!だから私に近づかないで!!」
「お、おい。俺は何もしない。何もしないんだ。だから落ち着いてくれよ」
「私がするのですッ!このままでは私はもう一度圭一さんを殺してしまうッ!いや、みんなを殺してしまうんだ。梨花も、詩音さんも、魅音さんもレナさんも羽入さんも、お義父様とお母様を殺した時のようにィッ!!」
一際大きく叫んで沙都子が踵を返し、全速力で元来た方向へ掛けだす。
「おいッ!待てよ沙都子!!」
あまりにも一瞬のことで、伸ばした俺の手は空を切った。急な動きに橋が揺れ、バランスを崩した俺と沙都子との距離が開く。
橋を渡り終えた時には、沙都子の姿がようやく見えるような状況だった。
「沙都子、沙都子ぉーっ!」
山道を全速力で追いかける。俺と沙都子との距離は、橋からわずかに縮まっていた。
しかし、この場所は沙都子の庭みたいな場所であり、おまけに自衛隊お墨付きのトラップがあちこちに仕掛けられている。
言うなればここは地雷原。文字通り「地雷を踏んだらさよなら、さよなら、さよなら・・・」だ。
だが、地雷の炸裂は意外に早くなってきた。それも、前を走る沙都子の身に。
「あッ!」
叫び声を上げて、沙都子が地面に激しく叩き付けられた。ほんの少し道を外れた所に仕掛けられたロープに足を取られたのだった。
「お、おい。大丈夫か!?」
「ひッ、圭一さん!・・・あああ、ごめんなさい。ごめんなさい!!」
助けようと駆け寄った俺を見ると、沙都子はもつれる足で立ち上がり、さらに走り出した。衝撃のせいで血が滲み出ている膝小僧が痛々しい。
だが俺は、沙都子が自分で作ったトラップに引っかかった事に衝撃を覚えていた。
この地雷原を誰よりも理解しているはずの沙都子が、混乱のために恰好の餌食となっている。普段言っていたじゃないかよ『相手が混乱すればするほど、トラップは華麗に決まるものですわ~♪』って!
沙都子、お前が混乱しちゃ駄目だろ・・・!
俺の心配をよそに、沙都子は次々とトラップに引っかかっていった。
丸太落としのロープに足を引っかけて下敷きになりそうになるわ、落とし穴に寸手の所で落ちそうになるわ、胡椒入りの袋の直撃を受けるわ・・・。
竹林に偽装した武者返しのトラップに掛かりかけた時は、流石に肝を潰した。誰だよ、あんな竹の槍襖みたいなモンを教えたヤツは!刺されば下手すりゃ死ぬぞ!!
幸か不幸か、トラップのおかげで沙都子の足が遅くなってきた。かつて山狗のリーダーと魅音が一騎打ちをしたあの小屋の近くで、俺は沙都子に近づくと、ラグビーのタックルをするような感じでその腰に飛びついた。
ザッ、と音を立てて、二人の体が地面に倒れ込む。庇うように沙都子の体を抱え込むと、埃を吸い込まないよう、背中を地面に付けるようにした。
「いっ、嫌あぁぁっ!!離して、離してェッ圭一さんッッ!!」
戒めから逃れようと、沙都子は手足と体を必死で動かした。それを押さえるため俺は沙都子の手首を掴み、足を膝で押さえて馬乗りの形になった。
「くうっ!」
それでも、沙都子の爪が俺の手首辺りに食い込む。激しく立てられた爪が肌を抉る嫌な感触がした。
しかし離すわけには、これ以上沙都子をトラップの海に放つわけにはいかない。俺は痛みに耐えながら沙都子を正気に戻すべく、声を掛けた。
「へへっ、捕まえたぜ。もう、逃げられねぇぞ・・・」
落ち着かせるために、努めて普段通りを装う。その甲斐あってか、沙都子の焦点が俺の目に合わさった。



捕まってしまった。
私は必死に圭一さんの手に爪を立て、この場を何とか逃げようとした。
だって、そうしないと私は圭一さんを殺してしまうのだ。今は良くても私という存在がある限り、私に関わった人は不幸になる。
両親も!にーにーも!梨花も!みんなも!そして圭一さんも!!
私は狂ってしまって、いずれみんなを殺してしまうんだぁぁ!
「へへっ、捕まえたぜ。もう、逃げられねぇぞ・・・」
そんな私に、普段と変わらぬ圭一さんの声が聞こえた。何故?私に抵抗されて、爪を立てられて痛くてたまらないはずなのに、どうして?
私は圭一さんの顔を覗き込んだ。遊んでいる時と同じ、悪戯っぽくて優しい顔。
だが、口元が歪んでいる。耐えているのだ。私によって与えられている痛みに、耐えているのだ・・・!
「けい、いちさん」
指から力を抜く。爪の間に圭一さんの血肉がこびり付いた感触がある。
「いきなり、どうしたんだよ。闇雲に走っちゃ危ねぇぞ」
言われてみて初めて、体のあちこちに鈍痛があるのを感じる。覚えているはずのトラップの位置が思い浮かばず、引っかかってしまった時に出来た傷の痛みだ。
「だ、駄目ですわッ。私に近づいては!私は圭一さんを殺したくないんですのッ!!」
「いい加減にしろ沙都子ッッ!俺を殺すとか、近づけば不幸になるとか何言ってんだよ!!」
「・・・私は覚えているんですの。ここではない、でもここに良く似た世界で、私は圭一さんを殺してしまった!この手で、お義父様とお母様にしたように、突き飛ばしてッ!!」
「え?何だって・・・!?」
圭一さんの目が驚きに見開く。
何という、失言。私が一生抱え続ければならない罪が、圭一さんに知られてしまった。
人類最大の罪悪、親殺しの罪。
「嫌ああああああああああっっっ!!!」
私は思い切り体を動かす。思いもよらない言葉に衝撃を受けたのか、圭一さんの膝からは力が抜けており、案外簡単に足が外れた。
その足が、正確には膝が偶然にも圭一さんの鳩尾に入る。
「ぐふっ!」
圭一さんの両手から力が抜ける。私はその手を振り解くと崩れ落ちる圭一さんを尻目に、元来た道へと駆け出した。
もう、終わりだ。
私が一番秘すべき罪を、一番知られたくない人に知られてしまった。それはこれまでの関係の終わり、「友人としての沙都子」から「罪人としての沙都子」への変化を圭一さんに強いること。
ごめんなさい、圭一さん。私はこれから罪を償いに行きます。
関わった人間を不幸にする、本当の「オヤシロさまの使い」は消えるべきなのです。
もう一度あなたを不幸にする前に、私は自分自身に決着を付けます。
にーにー。もう一人の私のにーにーを守るために、私に力を貸して・・・。  



迂闊だった。俺ともあろうものが、あんな事でショックを受けるなんて・・・。
リュックを捨て、痛む腹を押さえながら、俺は沙都子の追跡を再開していた。
沙都子は元来た道を戻っている。その歩みは遅いが俺も先程の一撃で力が出ず、追い掛ける速度は沙都子とさほど変わらない。

『ここに良く似た世界で私は圭一さんを殺してしまった!』
『お義父様とお母様にしたように突き飛ばしてッ!』

さっき沙都子が言った言葉が蘇る。
ここと良く似た世界・・・。前に梨花ちゃんが言っていた別世界での出来事ということか?
今、俺達の目の前にあるように、本来世界というものは一つしかないものだ。この世界での出来事は歴史となり、この世界での死はそのまま存在の永遠の喪失となる。
しかし梨花ちゃんによれば、世界というものは一種のゲームにおける選択の内、最終的に選択されたものの積み重ねなのらしい。
親父の持っている『信長の野○』(今年の四月に発売)というゲームに例えてみよう。あのゲームはプレイヤーの選択と、コンピューターがランダムに選択した行動により展開が様々に変化する。
それでいて途中経過を記録することができ、結果に満足のいかないプレイヤーは保存した記録から世界のやり直しが可能となるのだ。
ここで問題となるのは、プレイヤーが記録しなかった世界はゲームの登場人物にとって存在しない世界となるが、当のプレイヤーにとっては、かつて存在した世界として記憶に残っているのだということである。
梨花ちゃん(もしくはその上の存在)をプレイヤーとするならば、俺達のようなゲームの世界の登場人物が、起こりえなかった世界の記憶を持つことは本来ありえない話なのだ。
そのありえないことが、沙都子に起こっているということなのか・・・。
もしもそれが幸せな世界の記憶だったら、沙都子にとって幸福だったのだろう。しかし、蘇ってしまったのは俺を殺したという悪夢のような世界の記憶。
胸が痛んだ。俺にも忘れたい、思い出したくもない忌まわしい記憶がある。
無力な幼女達を狙った連続襲撃事件。その記憶を無理やり蘇らされる羽目になるなんて、考えたくもない。
加えて、別の世界での記憶は両親を突き飛ばして死に追いやったという、封印されていた記憶まで揺り起こしてしまった。
二年目の綿流しの祟りと言われるあの出来事について、俺は断片的な情報しか知らない。しかし、梨花ちゃんや大石さん、監督に赤坂さん達の話を総合して考えると理解できる。
その真相は、雛見沢症候群による疑心暗鬼が引き起こした悲しく、残酷な事件。
沙都子は自分の身を守ろうとしただけのことだった。しかしその目的は、両親を死に追いやるという最悪の形で敢行されてしまったのだ。
気づけば、俺の目に涙が浮かんでいた。
遠い、うっすらとしか覚えていない記憶。
俺にもそういうことがあったのかもしれない。殺されると思って、俺を救おうとした仲間を逆に殺してしまった喜劇にも似た悲劇。
思い出せないが、知っている。俺はその悲しみを!辛さを!苦しみを知っている!!
「そうなんだよな、お前が一番、辛いんだよな。沙都子・・・」
多分、沙都子の悲しみを癒せるのは俺しかいない。いや、俺が癒す、救う、絶対に助け出して見せるッ!!
沙都子に殺されたという世界の俺も、同じことを考えるはずだろう。例えもう一度殺されるのだとしても、あいつの笑顔を守るためならば、惜しむものはないッ!!

吊り橋に戻った頃には、俺と沙都子の距離は大分縮まっていた。しかしあと一歩のところで、橋桁への進入を許してしまう。
橋の真ん中に至った所で沙都子はこちらに向き直り、脇のロープを握り締めた。俺との距離はあと三歩といったところか。
「圭一さん。もう来なくてようございましたのに・・・」
沙都子が力なく笑った。その笑顔には全く精気が無くて、まるで人形のような瞳をしている。
「でも、最期の最期で、圭一さんのお顔が見れて幸せでしたわ。本当に、良かった」
目を閉じて、すっ、と沙都子がジャンプする。その動作はまるで垣根を乗り越えるようで、本当にあっけなかった。
「さよなら、にーにー」
消える間際の沙都子の声が、俺がお前のにーにーだと認めてくれたその声が、幸せそうに響いた。



ほんの少しの浮遊感。あとは自然落下に任せてはい、おしまいのはずだった。
しかし、最後までロープを掴んでいた左手が離れるのが一瞬遅くて、その手首が強い力で引っ張られた。
「に、にーにーッ!!」
死ぬまで開くことがないと思っていた私の目に映ったのは、信じられない光景だった。
脇のロープを右手で掴み、圭一さんが私の手首を堅く握り締めている。身を乗り出すという段階ではない、私と同じように全身がロープの外にあったのだ。
「くっ、間一髪ってとこかな・・・」
手を伸ばしただけでは届かないと思ったのだろうか、圭一さんはロープの隙間から飛び込んだのだ。一歩間違えば自分が飛び降りる羽目になるというのにッ!
「駄目です、手を離して下さいましッ!このままではにーにーが・・・」
「い~や、駄目だ。上がる時は沙都子、お前と一緒だぜ」
重いわけではないが、私の体重は圭一さんの半分近くはある。この状況が長く続くわけが無かった。
私は圭一さんの手を振り解こうとした。私が落ちることで、圭一さんの負担を軽くする必要があった。
しかし、圭一さんの手は堅く握られており、放す気配も無い。逆に私が暴れることで圭一さんが力尽き、巻き込む恐れがあった。
やむなく、私は抵抗を止めて圭一さんに身を任せた。
「どうして、どうしてッ!私みたいな疫病神、死んだ方が良いのですわッ!!」
「馬鹿野郎。沙都子が死んだらなぁ、みんなが悲しむんだよ。何より一番、俺が悲しい」
「駄目ですわ、私が生き残ったら圭一さんに、にーにーに不幸が降りかかる。そんなのは嫌なんですのッッ!」
「沙都子。お前ぇ、勘違いしてねぇか・・・」
「え?」
「お前がいなくなること以上の不幸なんて、俺にはないんだよォッ!!」
咆哮と共に、私は物凄い力で圭一さんに引っ張り上げられた。徐々に私の体が持ち上がっていき、圭一さんの胸元まで引き上げられる。
「つ、掴まれ、沙都子・・・」
圭一さんの言葉に、思わず手を圭一さんの首に回す。厚いとはいえない圭一さんの胸元に顔を沈めると、柔らかな香りがした。
「けっ、これ以上上げるのは、無理みてぇだ。『火事場のクソ力』って訳にはいかねぇなぁ・・・」
「も、もう充分でございますわ、にーにー。私をお離し下さいまし!それなら、にーにーだけは助かりますわ!」
「ば~か。俺は欲張りなんだよ。俺も沙都子も助からねぇと、満足出来ねぇんだよ」
そこまで言うと、圭一さんは顎で橋桁を指して私に昇るよう促した。
死ぬのは構わないが、圭一さんを巻き込む訳にはいかない。仕方なく私は圭一さんの体をよじ登ると、ロープを潜って橋桁に辿り着いた。
「さっ、圭一さん。手を・・・」
すぐに圭一さんに振り返る。圭一さんは両手でロープを握っていたが、その手が既に震えていた。残された時間は少ないのだ。
手を伸ばした時、私は圭一さんが微笑んでいるのに気づく。諦観の入ったその笑みに、私は不吉な感触を覚えずにはいられなかった。
「沙都子、お前じゃ支えきれねぇだろ。それにもぅ、手の感覚が無ぇんだ」
残酷な宣告だった。私を支えるのにすら苦労した圭一さんだからこそ分かる冷静な分析。
「そ、そんなッ!圭一さん!何とかならないのですのッ!?」
「無茶言うなよ。これでも、無理してるんだぜ・・・」
苦しげな圭一さんの声、伸ばしても決して受け取ろうとはしない、頑なに閉じられたその両手。全てが私の心を突き刺す。
「あああああっ!私のせいで、私のせいでこんなぁ・・・」
「泣くなよ、沙都子。俺が消えても、笑っててくれ。新しい生活を迎えて、笑ってくれ。それだけは、約束してくれ・・・」
思い出す。最期の、あの時の圭一さんの言葉を。私に突き落とされて、殺される直前にも私のことを思ってくれていた圭一さんの言葉を。
私の心がこれ以上傷つかないように、怖がらせないように、落ちる時まで笑っていた圭一さんの顔を。
繰り返すのか、私は。圭一さんを目の前で失うことを。両親を失うことを繰り返すのか!?
もう嫌だ!もう、自分の目の前で人が死んでいく様を見ることは、もう嫌だぁぁぁぁっ!!
「うわあぁぁぁぁぁぁっ!!」
圭一さんの手が離れた瞬間。私はロープに足を絡め、圭一さんの右手をしっかりと掴んだ。
圭一さんが私に離すよう叫ぶが、聞こえない。離すもんか、絶対に離すもんか。
「もうにーにーを殺すものかぁぁッ!二度と、私は二度と失わないんだああっ!!」
どんなことがあってもこの手を離さない。疑うのならば試してみろ、この北条沙都子の覚悟を試してみろォォッ!!



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最終更新:2007年10月26日 23:14