トラップバスター




秋の夕日に照る山もみじ・・・。
日本の自然は、特に秋のそれは美しい。
夏の盛りに青々と茂っていた木の葉が、寒さの訪れと共に色褪せ、やがて地面に落ちて土に還る。
自然のサイクルの中で、木の葉に現れる色合いの変化。緑から黄色、そして紅に染まるその様子は、少女が着物を着せ替えしている姿に例えて良いのかもしれない。

『ちょ、ちょっとアンタ!何見てんのよっ、このヘンタイ!!』

だとすると、秋の山を訪れて紅葉を楽しむ旅人は、皆すべて少女の着替えをのぞきに来るヘンタイとも言える。
突然の来訪者に戸惑い、慌てて身を隠し、モノを投げつけるその様子は、まさにツンデレ。時折落ちてくる木の葉や木の実も、このように考えると趣があるものだ。
だが膨らんだ妄想を愉しむ余裕は無かった。
俺は今、古手神社の裏山を歩いている。獣道という言葉が相応しい、細く傾斜のついた道を。
只でさえ息の上がる山道に、今日に限って夏を思い出したかのような真昼の熱気。しかも俺の背中には、どデカいリュックサックが負ぶさっている。
終戦直後の買い出しみたく、丸々と太ったその中身は、これでも減ったほうだ。
だが、これまでの疲れのせいで、最初よりも重く感じてしまう。俺は手頃な木の枝を杖の代わりにして、歩みを進めていた。
そんな俺とは対照的に、軽やかに先を進む人影があった。
俺よりも頭二つ分ほど小柄で、黒いカチューシャが乗った短髪を小刻みに揺らし、鼻歌まで歌っている。
桃色の袖無しシャツに紺色の半ズボンを身に纏ったその人影は、まるで踊るかのように華麗なターンを決め、俺に向き直った。
「あら、圭一さん。お疲れでして?」
すました様子で八重歯を見せて、北条沙都子が笑いかける。
「へっ、馬鹿野郎。俺を誰だと思ってるんだ?天下の前原圭一様だぜ・・・」
挑発的な瞳に、こちらも空元気で答えてやろうと思ったが、やはり最後は息が切れそうになる。
言い終えると、自然に肩で息する。思ったよりも体力の消費は激しいようだ。
「をーっほっほっほ。圭一さん、最近なまっているではありませんこと~♪」
沙都子の笑い声が聞こえる。顔を地面に向けていても、片手を腰に、もう一つの手を口元に当てて高笑いしている姿が目に浮かんだ。
「て、てめぇ、沙都子・・・。俺にだけ荷物を背負わせて、どの口がそういうこと言ってやがるんだ・・・。」
重装備の俺とは違い、沙都子は手荷物一つ持っていない。そりゃあ、疲れ具合も違うというものだ。
「やれやれですわ。不甲斐なさを荷物のせいにするのは、男らしくありませんわよ」
「・・・その荷物を背負わせてんのはどこのどいつだよ」
「言い訳はもっと男を下げましてよ~♪」
この外道め。日曜日の朝っぱらから俺を呼び出して言う台詞がそれかい。
俺は激しく後悔した。あぁ、あの時沙都子の口車に乗らなければ・・・。

深夜番組を愉しんで昼前まで寝るつもりだった俺を、お袋が起こしに来たのは午前の七時過ぎ。沙都子からの電話を取り次ぎに来たのだった。
寝ぼけ眼のまま電話口に出た俺の耳に聞こえたのは、「圭一さんっ、助けて下さいましッ!!」という沙都子の悲痛な叫び声だった。
「どうしたんだよ、一体!?」
「圭一さん、緊急事態ですわ!今すぐ私たちの、梨花の家に来て下さいましッ!」
「だからどうしたんだよ沙都子。説明してくれないと分かんねぇぞ。」
「あ~、う~。口で説明するには難しいですわね。ともかく来て頂ければお分かりになりますわッ!」
「う、う~ん。いきなり言われてもな・・・」
正直、乗り気になれなかった。学校でのトラップ攻撃に慣れ親しんでしまったせいか、どうしても沙都子からの誘いには裏があるように感じてしまう。具体的な内容が説明出来ないとなると尚更だ。
しかし、次に沙都子が発した台詞により、俺の顔色は一変した。
「お願いですの、梨花が、梨花がぁ・・・」
「えっ、梨花ちゃんがどうかしたのか?」
現在、沙都子と梨花ちゃんは二人で共同生活をしているはずだ。時折羽入や詩音が遊びに来るものの、お泊まりでもしてない限り、こんな時間帯に留守であるはずがない。
嫌な予感がした。
鷹野さん率いる山狗との戦いは終わったものの、「東京」の過激派が未だ梨花ちゃんを狙っている可能性が無いとは言えない。
いや、仮面ライ○ーでもよくあるパターンじゃないか。倒した組織の残党が新たな敵として現れ、平穏だった日常に終わりが告げられる・・・。
「レナさんや、魅音さん。詩音さんにも相談出来なくて・・・。圭一さんにしか頼める人が思いつきませんの。お願いです、圭一さん。助けて・・・!」
電話口の沙都子の声は、何時しか涙声になっていた。
くそぅ、何てことだ。まさか特撮やアニメのような展開がこの雛見沢に降りかかってくるとは!
「わかったぜ、沙都子。今からそちらに向かう!」
「・・・!本当ですの!?」
「あぁ、待っていろ、1500秒、いや1000秒も掛からずに辿り着いて見せる!だから俺を信じて待っていてくれ!」
「圭一さぁん・・・。圭一さんならそう言ってくれると信じていましたわ・・・」
沙都子の声が終わるのを待たずに、俺は受話器を置いて駆け出した。部屋着から着替えると、お袋に外出を告げ、食卓の上から食パン一枚を掴んでくわえる。
靴を履き、玄関の傘立てに置かれている傘から手頃な一本を取り出して背中に挿し込む。金属バットやゴルフクラブには及ばないが、獲物の代わりにはなるだろう。
自転車に跨りスタンドを蹴飛ばすと、全速力で古手神社へと向かった。
もの凄い勢いでショートカットを繰り返す。漕ぎ過ぎで腿が痛くなるが、お構いなしだ。
・・・何か、前にも同じような事をしていたような気がするが、今はそんなことを考えている暇はない。
その甲斐あってか、普段よりも三分の二は早い時間に神社へと辿り着く。放り投げるように自転車を石段の下に停め、石段を駆け上がる。神社の境内を過ぎれば、二人の住処である物置小屋はもうすぐだッ!
「沙都子ぉぉぉっ!」
小屋の前に沙都子の姿を見かけ、俺は叫んだ。
敵は何処だ?いや、それよりも梨花ちゃんはどうなったんだ!?いやいやいやいや、沙都子の無事を確認するのが先決だ!
「あっ、圭一さん」
俺に気づき、沙都子が振り向く。
が、俺を見るとぎょっとした表情を浮かべ、一瞬怯えたような表情になった。畜生、間に合わなかったか?
「大丈夫かぁっ!」
刀を抜くようにして傘を背中から取り出し、横に構える。ほんの少し格好を付けた形だ。
覚悟完了。さぁ、「山狗」の残党か、「番犬」の別働隊か、それとも北の国からの工作員か・・・。
この前原圭一の輝きを恐れぬならば、かかってこい!!

「・・・って、戦う覚悟だったんだぞ俺は」
「それは圭一さんが勝手に勘違いしただけの話ですわよ。全く、どこをどう聞けばそんな話になるんですの。」
「おい。あの言い草なら、誰が聞いても異常事態だと思うぞ」
先程の場所からほど近い場所にある木陰で、俺達はシートを広げて座っていた。
業務用の二畳シートの上には、俺と沙都子の姿と、リュックから取り出された弁当包みがあった。
「まぁ、私の説明不足もほんの少しありましたけど・・・」
「ほんの少しかぃ!」
何事もなかったかのように、すました顔で包みから弁当箱を取り出していく沙都子を見ていると、怒りよりも呆れてしまう。
こっちがどんな思いで飛ばしてきたのか分かっているのかよ・・・。
「お前ぇが『梨花がぁ、梨花がぁ』って言うから、俺はてっきり・・・。まさか『梨花がお出かけだから、トラップ作りを手伝ってほしいのですの』って言われるとは思わなかったからなぁ!」
沙都子が俺を呼び出した理由。それはトラップ作りの手伝いだった。
何でも、今日は梨花ちゃんが羽入と興宮へ買い物へ行ったので、休日の日課であるトラップ作りの手伝いがいなかったらしい。
「ごめんあそばせ。圭一さんならば、そのくらい察して頂けると思っていましたから~♪」
「くそ、絶対ワザとだろ」
「あらあら。男が細かいことを気にしていては、器が問われますわよ~」
ぐぐぐぐぐ・・・。
言いたいことは山ほどあるが、ここで言い争いをしても不毛なだけだ。俺は松○梅のCMに出てくる七曲警察署刑事課長のように、ぐいと、注いでおいた水筒のお茶を飲み干した。
「ほらほら、これでも召し上がって機嫌を直して下さいませ」
不機嫌な俺の表情を見て取ったのか、沙都子が蓋を開けた弁当箱をこちらに差し出す。
「おっ、こいつは・・・」
弁当箱からは柔らかいクリームソースの匂いがした。表面に狐色が混ざった白色の絨毯が箱の表面を覆い、その間から肌色をした細い管がひょっこりと顔を出している。
芸術の国フランスの家庭料理と情熱の国イタリアの魂の融合!その名もマカロニ・グラタンだッ!!
「この程度で驚くのは、早ぅございましてよー!」
次々と開けられていく弁当箱の蓋。それと共に中身が姿を顕す。
「をほほほほ、こちらは特製の和風ハンバーグ。あちらはポテトサラダでございますわよ~☆」
こ、こいつはすげェ!普段みんなと学校で突っつきあうそれよりもレベルが高いんじゃないか!?
あまりの眩しさに、俺は仰け反らざるを得なかった。
「お、おい、沙都子。この弁当、どうしたんだ・・・?」 
「虚弱体質の圭一さんにはこのくらい召し上がって頂かないと働いてくれそうにないですから、ほんの少しだけ奮発したんでございますことよ~♪」
普段は嫌味に聞こえる沙都子の謙遜だが、このお弁当に関しては謙遜のし過ぎだろう。
形こそいびつではあるが、丁寧に丸められたハンバーグ。野菜分は少ないものの、彩りのあるポテトサラダ。流行りの冷凍食品やレトルト食品には絶対に出せない「まごころ」ってやつが込められている。
「これ、自分で全部作ったのか?」
「ま、まぁ・・・。ちょっとだけ梨花に手伝ってもらったくらいですわ」
なるほど、梨花ちゃんも絡んでいるならこの完成度も理解できる。だが、それ以上に心の込もった料理を作ってきてくれた沙都子の心遣いが嬉しかった。
「ありがとな、沙都子」
俺は笑顔を作って沙都子の頭に手を伸ばす。ぽむ、ぽむと軽く触れた後、優しく撫で回した。
「あ・・・」
悪戯心に満ちていた沙都子の瞳が急に細くなり、嬉しさに満ちた光を湛える。
俺の手が肌を揺らす間、沙都子は両手を胸元に置いてうっとりとした表情をしていた。指が何度目かの往復を終えた時、桜色をしたその唇がかすかに動いた気がした。
「そ、それよりも、せっかく作ったので召し上がっては頂けませんこと?冷めてしまいますわよ」
一段落したところで急に沙都子が頭をどけ、慌てて箸を持ち出す。
弁当はとっくに冷めているのにと茶化そうとしたが、その仕草があまりに愛らしいので、俺は箸を受け取ると「いっただききまぁ~す!」と大きな声で手を合わせた。
全く、俺も単純だ。他のヤツがすれば嫌なことも、沙都子が同じ事をするならばそれを許してしまう。
いなくなった聡史の替わりにこいつの面倒を見ている内、情が移ったのだろうか。それとも、一人っ子の俺が欲しかった妹ってやつを沙都子に投影しているのだろうか。
厳密に言えば、違う。
沙都子とこう一緒にいると、ほんの少し心音が上がってしまう。こいつの前で本当の自分を晒け出すのが恥ずかしくて、憎まれ口が先に出てしまうのだ。
幼稚園のころ、同じ組で一番仲の良かった女の子に抱いていた感情。それに似ている。
自分にかまって欲しくて、誰よりも自分を見て欲しくて、色々な悪戯をした。不器用だったから、素直に「僕と仲良くして下さい」という言葉が言えなかったんだ。
悪戯が過ぎて、その子が泣いて先生に告げ口して怒られて、それで終わっちまったんだよな。
おいおいおいおい、前原圭一。つまりそれってことは、俺、沙都子の事を・・・?
あぁ、くそ。沙都子はあくまで部活の仲間だろうが。それに生意気この上ないし、偏食家でおこちゃまで、腹黒で、スタイルだってレナや魅音にも劣るし。
でも、それでいて甘えん坊で家庭的で、素直じゃないけど誰よりも気の置けなくて、あの膨らみかけの胸やちょこんと突き出たお尻も可愛くて・・・。
うをををを。何を言ってるんだ俺はァッー!
ええぃ、考えるのが面倒になってきた。とりあえずこの飯を食べよう。そうすれば、混乱した俺の頭も少しはKOOLになるはずだ。
頭の中に浮かんだこの妙な感情を忘れるべく、俺はがつがつと音を立て、沙都子の弁当を頬張り続けた。



嬉しかった。
圭一さんが私のお弁当を喜んで食べてくれている。それはもうもの凄い勢いで、次々に口に運んでいる。
私の分が無くなってしまうのではないかと心配になってしまう程だ。
でも何よりも嬉しかったことは、圭一さんが私のお弁当を褒めた時に、優しく頭を撫でてくれたことだ。
こう、まるでにーにーのように優しく、その温かい手で私の頭をよしよしと。
思わず泣きそうになってしまった。そして久しぶりに「にーにー」と呟いてしまった。

にーにーがいなくなって一年と数ヶ月。私を取り巻く環境が大いに変わった日々であった。
にーにーの家出と共に叔母が惨殺死体で発見され、叔父も祟りを恐れたのか興宮へと逃げ去ると、一人残された私は梨花と共に生活を営むこととなったのである。
子供二人の生活というものは経済的な負担を想像以上に強いられるものだったが、私たちの窮状を見かねた監督、入江先生の新薬試験に協力することでお金をもらい、何とか日々の生活を送れるようになった。
叔父、北条鉄平によって身も心もボロボロにされていた私だったが、梨花やこれまでも部活で面倒を見てくれていた魅音さんやレナさんに助けられ、どうにか叔父夫婦に引き取られる前までの生活に戻れたのだと思う。
知恵先生を始めとするクラスのみんなや、にーにーを慕っているという園崎詩音さんに梨花の親戚という羽入さん・・・。
みんながいなければ、私はこうまで笑顔になることは出来なかっただろう。
そして、圭一さん。
転校して日が浅いはずなのに、いつの間にかみんなの中心に居て、人を引きつける力強さ、いわゆるカリスマというものを持っている人だ。
これまでに私の周りには居なかったタイプの人間でもある。
私は基本的に男という人種を嫌っている。
お母さんをセックスの対象としか見て無くて、弄んで捨てて、与し易いと思えば擦り寄ってくる。
物心付いた時から襖の向こうでにーにーと身を寄せ合い、母親の喘ぎ声を終わるのを待っている生活を送れば、男というものがどんなに汚らわしい存在か、自然と理解できてしまうだろう。
それを言えば圭一さんも同類に入る。だから、私は都会から男の子が転校してくると聞いた時に、軽い拒否感を覚えた。
転校初日にトラップを仕掛け、痛めつけてやろうと思った。そうすればこのクラスに溶け込もうとは思わなくなるだろうし、少なくとも私を敵と認識し、近づいては来なくなるはずだった。
転校の挨拶の前に襲いかかるトラップに、為す術無く圭一さんは沈んだ。
これで良し。度肝を抜かれて、私たちには関わり合いになりたくないと思うはずだ。私の世界をかき乱そうとは思わないはずだ。
「な、なんだこりゃぁ・・・」
「をーっほっほっほっ。ざまーありませんこと~♪」
あっけに取られている圭一さんに、私はトラップの仕掛け主として正体を現した。
さあ私を憎んで、嫌って、そして私に近づかないで-。
そんな覚悟だった。どんな罵声も覚悟していた。しかし
「こいつは、てめぇの仕業か~」
つかつかと近づいてきた圭一さんに、私は身構えた。一瞬、鉄平の醜悪な顔が重なって見えたのだ。
しかし、圭一さんは目の前で顔を近づけると
「へへっ、面白ぇじゃねぇか。こんな歓迎、初めてだぜ」
と、言って、満面の笑顔を作ってくれたのだ。
これまでにトラップを喰らった人間とは、全く違う反応。私にとっても、こんな経験は初めてだった。
ほんの少し、ちくりと。今までに無い感情が私の心に灯った瞬間だった。

「ん?どうしたんだ、沙都子?」
物思いに耽っていた私は、圭一さんの声で我に返った。
圭一さんはお弁当を半分ほど平らげ、水筒の蓋に注いだお茶を飲み干したところだった。
「な、何でもございませんわ、おほほほ・・・」
見つめられてしまっているのに気づくと、自然と頬が紅くなる。いけない、いけない。またその優しい瞳に引き込まれるところだった。
照れ隠しに、おかずに箸を伸ばす。梨花から教えてもらった和風ハンバーグを一つ摘んで、口に運んだ。
「しっかし、いつもこんな事してんのか?トラップ作り・・・」
「えぇ。モグ・・・。特に、ング・・・。こないだ・・・ハグ。使ってしまいましたから」
「食い終わってから喋れよ」
この間と言ってもしばらく経つが、私が山に仕掛けていたトラップは、鷹野さん率いる「山狗」との戦いでそのほとんどを失っていた。
数年がかりで作り上げた私の作品が、半日足らずで役目を終えたというのは皮肉だが、自衛隊を相手にして私たちの命を救ってくれたのだから充分すぎる働きをしてくれたものである。
「でもすげえよな、本物の軍隊を翻弄してたし。『番犬』の人も、外国の戦場でしかお目にかかれないシロモノだって言っていたからな」
「をほほ、それは私が作り上げた作品ですから。そこんじょそこらのものと一緒にしては、困りますわぁ~♪」
本職の軍人すら手玉に取る私のトラップ。
2年前、私が叔父夫婦に引き取られて虐待を受けていた時期、偶然出会った人に教えてもらったものだ。
名前は何と言っていたのだろうか・・・。
ゴウ?ゴウジ?確か名前のどこかにGの付く人で、外国人のような名前をしていたと思うが、詳しくは思い出せない。
その人はこの山で組木をアスレチックのようにして、黙々と訓練をしていた。何でも次の仕事のために、ナマった体を鍛えていたらしい。
無口で人を寄せ付けない雰囲気のある人だったが、私が地元の抜け道などを教えると気を許し、ほんの少し身の上話もしあう仲になった。 
話の中で、私が叔父夫婦に虐待されていることをしった彼は、私に簡単なトラップ作りの方法と、その心得を教えてくれた。私の持論である「トラップは心理の裏の裏をかく」というのも、彼の言葉だ。
予定が急に繰り上がり、彼がこの山から姿を消したのは、その翌日のことだった。
「ふ~ごちそうさま。美味かったぜ」
いつの間にか、圭一さんが食事を平らげていた。綺麗にご飯粒一つ残していない。
ご飯を作る側としては、こんなに嬉しいことはない。最近、都会では食事を少し残すのがエレガントだという風潮らしいが、作りすぎ不味すぎならばいざ知らず、作り手に対する冒涜としか思えない。
「あらあら、がっつかれまして。もう少しエレガントに食べられないものですかね?」
それでも、つい憎まれ口が出てしまう。いけないとは分かっているが、圭一さんの前ではどうしても言葉が意地悪なものになる。
「美味いんだからしかたねぇだろ。あ~。食った食った・・・」
満足げにお腹を抱える圭一さんを見ると、こちらまで幸せな気分になってしまう。
私は笑い出してしまいたくなる気持ちを押し隠し、すっかり空になった弁当箱の片づけを始めた。



「ふぅ。ここを、こうすればいいのか?」
「えぇ、こちらの柏の幹にロープを仕掛けて頂ければ、今日は終わりですわ」
思ったよりも早く、今日のトラップ作りは終わった。重い物を運ぶという点においては男の子だけあって、私や梨花よりも遙かに能率が良い。
私は圭一さんがロープをしっかりと張るのを見届けると、切り株に立て掛けておいたリュックからタオルを取り出し、圭一さんに手渡した。
「おっ、サンキュな」
「帰りも背負って頂くのですから、お駄賃代わりですわ」
「もう弁当箱の空しか入ってねぇから、自分で持てよ・・・」
「をーっほっほっほ。私、箸よりも重たい物は持ったことがありませんことよ~♪」
「さっき丸太ん棒抱えていたのはどこのどいつだよ」
愚痴を言いながらも、リュックを背負ってくれるあたり、圭一さんは本当に人が良い。
本当に、口の悪ささえ無ければにーにーそのものなのに。いや、これは言い過ぎか。
「さてと、帰るとするか。誰かさんのせいで汗だくだから、早くウチでひとっ風呂浴びたい気分だぜ。」
「それには私も同感でしてよ。ベタ付いて仕方ありませんもの」
秋の半ばとはいえ、重労働をしていた私たちの体は汗にまみれていた。確かに、帰宅して早めのお風呂に浸かるのも良いだろう。
「よっと・・・。忘れ物はないか。おや?」
辺りを見回していた圭一さんが、何かを見つけて立ち止まった。
目を凝らさなければ分からないと思うが、木立の合間からうっすらと、朱色をした二本の柱が見える。裏山から奧に連なる山脈へと続く、古びた吊り橋であった。
「へー、こんな橋があったのか。トラップ作りに夢中で気づかなかったぜ」
「あら、圭一さんはご存じありませんでしたの?確か県境へと続いていたはずですわよ」
「面白そうだな。ちょっと見に行ってみようか?」
私は何度か渡ったことがありますけど、仕方ありませんわねぇ」
先程までの疲れ切った顔はどこへやら、圭一さんは目を輝かせて吊り橋へと向かっていった。男の子というものは、どうしてこう吊り橋とか断崖とか危険な場所が好きなのだろう。
私は呆れた顔をして、走り去る圭一さんの後を追いかけた。



「うおっ、こりゃ結構高いな・・・」
谷河内から興宮に流れるこの川の渓谷は、驚くほどに深い。
高所恐怖症の人でなくても、切り立った岩壁や清流に所々顔を出している岩を見ると、恐ろしさを感じるに違いないだろう。
おまけに、予算不足か計算ミスか、この橋は良く揺れるし脇のロープの縛りも甘い。そのためか、向こう岸に渡る数十メートルの間が非常に遠く感じられた。
「あらあら、流石の圭一さんも怖じ気付いてしまいましたこと?」
欄干に手を掛けて下を眺める圭一さんを、いつもの癖で挑発してしまう。
「へっ、橋があれば渡りたくなるのが男ってモンだぜ。噂じゃあ、来年公開されるあの考古学者の冒険映画の続編にも、吊り橋のシーンがあるって話だしな」
それに乗る形で、圭一さんが吊り橋に足を踏み出す。ぎしり、と綱が軋む音がして橋桁が揺れた。
「へぇ、意外に揺れるな・・・」
中程まで来ると、圭一さんはロープに手をかけ下を覗き込んでいた。静かに後を付いてきていた私の心に、ふと悪戯心が宿る。そっと圭一さんの背後に近づき、無防備な背中に向けて手を伸ばそうとした。
わっ、とでも言って驚かすつもりだった。驚いた圭一さんの顔を見たいと思っただけだったのだ。
だから私の手が、圭一さんの背中に触れた瞬間。あの忌まわしい記憶が蘇るとは、想像だにしなかったのである。

『死んじゃえぇぇ!!人殺しぃぃぃぃっっっ!!!!』

え、え、え?
何これ?
こんなこと私はしていない。圭一さんを橋の上から突き飛ばすなんて、そんなこと・・・。

(何をおっしゃっているのですか北条沙都子ッ!)
(忘れてしまいましたの!?あなたが圭一さんに何をしたのかを!!)

あああああああああ!
やめて、やめてっ!思い出させないでぇッ!!
圭一さんはここに居るんだ。だからするはずない、私が圭一さんを殺すなんてするはずがないぃぃッ!!

(あは、あははははははは。本当にお目出度い人ですわね、あなたは)
(覚えていないのでいらっしゃいますこと?ここではない、どこか、しかし現実にあった世界のことを)
(いいこと?あなたは圭一さんを橋の上から突き飛ばして、殺した)
(地獄を見せられていたあなたのために誰よりも尽くし、励まし、鉄平を殺すことまでした圭一さんを)
(疑って、恨んで、最後には自分自身が生き残るために、殺した)
(本当は覚えているんでおいででしょう?自分が勘違いによって圭一さんを殺してしまったことを)

いやああああああああああああああ!!!
覚えている。私は覚えているッ!
圭一さんに殺されると思った。「自分が呪った人間が死んでいる」との言葉を真に受けて、そして梨花が腹を割かれて殺されているのを見て。
だからこの橋に誘い出した。背中を向けさせて橋から突き落とした。
最後まで呪いの言葉を浴びせかけて。

(それだけじゃありませんことよねぇ。あなたは三年前も殺していたんでしたわねぇ)
(お義父様とお母様を、展望台の上から突き飛ばして、殺した)
(あなたと仲良くなりたいために、家族旅行に連れて行ってくれたのですのよねぇ)
(あなたに嘘を付かれてから、あなたに好かれようと、懸命に自分を変えようとしていたお義父様を)
(自分を殺そうと思っている?を~っほっほっほ。そんな馬鹿げた妄想で殺されてしまったのですねぇ。可哀想なお義父様とお母様)

うあ、うあ、うあぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!
殺した、私が殺したッ!
無防備な両親を、背中から、無慈悲に突き飛ばして、殺したッッ!!
私がお義父様に意地悪したから、仲良くしようとして遠くに連れて行ったことを、私を殺す算段をしているのだと思って、先手を打った!!

(ああ、そうだ。にーにーもあなたのせいでいなくなったんですっけ)
(そうそう、叔母様のイジメからあなたを守るために庇ったから、疲れ果てて)
(酷い人ですわね、あなたは。この人殺し)
(何が死んじゃえ、人殺しですの?あなたこそが、人殺しではなくて!?)

えぁ、おぅ、を、をををををを。
あああああああああああああっっ!!!



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最終更新:2007年10月26日 23:09