ネオンサインが輝く深夜の歓楽街。
その歓楽街から程近い、沿線沿いの古いアパートの一室に、俺は潜んでいる。
フォークソング全盛期のような、四畳半の一室。下宿していた学生達の落書きだろうか、「造反有理!」「日帝粉砕!」の文字が、煤けた壁に残っている。
俺は近場の商店で買っていたアンパンを、油紙の包みから取り出して、口に放る。随分前に蓋を開けた牛乳瓶は、既に生温かった。
腕時計を見て時間を確認する。もうじき日が変わる時刻だ。
そろそろかと思い、例の道具の点検を行う。懐中電灯を取り出し、か細い光でテープが巻き戻っているのかを確認すると、俺はふぅっと溜め息を付いた。 
それと同時に、アパートの外階段の辺りから人の話し声が聞こえた。
若干甲高い女性の声と、酔っているのであろうか、妙に上機嫌な中年男性の声。
俺は目標が帰ってきたことを悟ると、すぐに引いてある黒電話のダイヤルを回した。
二・三回のコール音とともに、相手が出る。
「はい、二課本田屋」
「△△荘、熊谷です。マルタイ(対象者)帰宅、男と一緒です」
「現時刻、マルタイ帰宅。二課了解」
「只今から録音開始します。以上、熊谷」
連絡を終え、静かに受話器を置くと、俺は集音用の吸盤を壁に当て、録音機のテープレコーダーを回した。

「もぉ~、パパ。飲みすぎだよ~」
「ご、ごめん。ごめんよリナぁ。ちょっと、無理しちゃったよ・・・」
集音機械を通さなくても聞こえる声。それほどまでにこのボロアパートの作りは酷い。耐震強度といった観点では、まず間違いなく建築基準を満たさないだろう。
しかも深夜ということで、周りはとても静か。二人の声が響いてしまうのは当然だった。
動向を観察する身としては、むしろその方がありがたい。

「いらっしゃ~ぃ。ここがアタシのお家だよ~♪」
鍵の開く音がすると同時に、ドサリと重たいものが崩れ落ちるような音がした。
「あっ、パパぁ~。こんなところで寝ちゃダメよぉ~。」
音の主は、酔い潰れてしまった男性のようだった。俺も新任の頃の飲み会では、こうしてよく潰されたっけ・・・。
「ごめんよ、リナぁ・・・」
男性が甘えるような声で、女性に謝る。
苗字は竜宮。雛見沢にすむ無職の男性で、今回の内偵捜査の対象者だった。
北条鉄平を主犯とする、恐喝事件の捜査会議が実施されたのは一週間前のことだった。
尊敬する先輩、刑事一課の大石さんが雛見沢から得た情報により、刑事課長が捜査員に召集をかけたのである。
これまでも北条鉄平は暴行・傷害の粗暴犯として要注意人物とされており、恐喝行為もしているのではないかとの噂はあった。
しかし、恐喝は対象を恐怖に陥れて金品を奪うことにより成立する犯罪であるため、弱みを握られた対象が訴えることが少ないのも事実だ。
噂はあるが尻尾は掴めない。暴力団や詐欺などの知能犯対策をしている二課の本田屋さんが「みんな口を閉ざすんだよなぁ・・・」と愚痴を溢すことが何度あったことか。
そんな中、大石さんが縄張りである雛見沢で、北条鉄平による美人局の情報を得たのは僥倖と言えた。
「んっふっふ~。そういうわけで、北条鉄平が愛人である間宮律子と共に、カモを嵌める算段を進めているようです」
会議上、大石さんは情報の出元がカモとされている竜宮氏の娘、竜宮礼奈さんによるものであること、既に父親が多額の現金を貢いでいることを、いつもの調子で説明した。
そして、話の最後をこう結んだ。
「この竜宮さんは、父親の恥を私に相談してくれました。年頃の娘さんにとって、それはとても勇気の要るものだったことでしょう」
確かに、親の色恋沙汰を思春期の少年少女が他人に打ち明けることは、大いに抵抗があるだろう。両親の情事を目撃して欝になった自分には良くわかる。
「その勇気に答えなきゃぁ、何のために給料を貰って警察官をやっているんですか。何も出来きゃ『給料いくらだ?』って、本庁の警察官に笑われちゃいますよぉ~」
口調こそいつものおどけた調子だったが、その目には真剣さが宿っていた。警察官魂に燃えた、凄く良い目だった。
捜査は、竜宮家の周辺と間宮律子、源氏名で間宮リナの住所であるこのアパートでの張り込みを主としたものとなった。
ローテーションを組んで警戒し、やがて来るであろう破滅の時、北条鉄平による闖入の現場を押さえ、恐喝の現行犯として逮捕する。
脅迫の証拠とするために、現場の状況を録音し言動を確保する。この録音機はそのための機械だった。

「もぅ、お水持ってくるからね」
ドアを閉める音と共に、軽い足音が聞こえ、次いで蛇口を捻る音がした。
キュキュッという錆びた金属音により水音が収まると同時に、再び足音がし、それは玄関先で停まった。
「ほら、口を開けて・・・」
わずかな呻き声。どうやらリナは竜宮氏に水を飲ませようとしているらしい。
「えっ、本当に!?」
と、突如リナの声の調子が変わる。本当に小さな声で、竜宮氏がもぞもぞと何かを喋ったので良く聞こえない。
「もう、仕方ないわね。んんっ・・・」
猫の泣き声のように甘く、リナがくぐもった声を漏らす。
数秒後に粘着質の音が聞こえた。くちゅ、くちゅと唇を鳴らす音、これは・・・。
「あ、あんっ。がっつかないでよ。ほら、まだあるんだから・・・」
もう一度、肉と肉が絡みつくような粘着音。間違いない、こいつら口移しで水を飲ませてやがるッ!! 
「んっ、ふあっ。やぁんっ・・・」
粘着音が強くなり、リナの声が益々甘さを増していった。ごそごそと体が壁や物に当たる音がそれに続く。
「リナ、リナっ。リナあっ!」
竜宮氏がリナを呼ぶ声が強くなった。壁に体が密着しているのだろうか、先ほどよりも鮮明に声が聞こえる。
「好きだ。愛している。リナぁ・・・」
「んっ、パパぁ。私もよ・・・」
壁一枚を通じて、二人の吐息が直ぐそばにあった。
俺は思わず、息を呑んだ。自分の喉が唾を飲み込む音がはっきりと聞こえる。
駄目だ。俺は警察官なんだ。正義の心に燃え、悪を許さないためにこの仕事に就いたんじゃあないかッ!!
だが、期待してしまう。警察官である以前に、俺は男性という罪深い生き物だ。
この先に期待して、欲望がもたげてしまう熊谷勝也という男が、確かにここにいるんだッッ!!

「駄目だ。もう、我慢出来ないよ。リナぁ」
ジーっというジッパーを下げる音。竜宮氏も自分と同じ心境にあるのだろう。
目の前に抱くことの出来る女がいる。だから、今すぐにでも挿れたい!欲望を吐き出したいッ!
「あん、そんな、脱がしちゃダメぇ」
誘っているくせに、声に艶が混じっているくせに、まだ女というものはお預けを喰らわせようとする。
まるで男を生殺しにするのが楽しいかのように。
「い、いくよ。いれるよ。う・・・。おぉ・・・」
「んっ、あ、はァっ!もっと、優しくぅ・・・」
どんっ、と壁が爆ぜた。一瞬声を出しそうになるが、必死で抑える。本来空いているはずのこの部屋に人が入ることだけは悟られてはならない。
高まる鼓動を落ち着かせようと、声にならない声で呟く。
(落ち着け、熊谷勝也。そう、クールだ。KOOLになれ・・・)
そんな自分と対照的に、壁の向こうの二人は激しく燃え上がっていた。
「くあっ、リナ、リナぁっ!良いよ・・・絡み付いて、ああっ!」
「ふぅぅぁっ!パ、パパぁ・・・。お、おっきぃ。おっきいよお・・・」
「あうぅぅっ、おおぉぉっ!こ、こすれてっ!ううぁぁぁっ!!」
「ひゃぁっ!そんなに強く!?」
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ・・・!」
「あんっ!胸、弱いの、弱いのぉっ!!」

背にする壁を叩く音が徐々に強まっていく。いつしか俺の鼓動も、耳に聞こえるくらい高鳴っていた。
最近電話口で情事の真似事をする、テレフォンセックスというものがあると聞くが、このようなものだろうか・・・。
思わず自分の股間を押さえてみる。スーツズボンの中で自己主張をしているそれは、とても硬く反り返っていた。
そういえば、最近仕事にかまけて妻を抱く暇も無かった。
先輩に薦められた見合いで結婚した妻は、器量こそ並だが、自分には勿体無いくらいに家庭的な女性だ。
最初は見知らぬ女性との夫婦生活が上手くいくのか不安であったが、今では恋愛中のアベックとも変わらないくらいに妻を愛している。
だから、仕事が重なって抱くことが出来ない今が寂しい。
その寂しさがつのって、俺はこんなにも欲望を溜めてしまっているのだから・・・!!

「ねぇ、パパ。愛してるって言って・・・」
「あぁ、愛しているよ。リナ。うっ!」
「あん。もう、いっちゃうの?もう少し、もう少し我慢して・・・」
「ああぁっ、駄目だ。リナ、リナっ!!」
壁の振動が一層激しくなった。終わりを迎えようと、竜宮氏が最後の律動を始めているのだと理解する。
この桃色の空間が終わりを告げることを意味しているのだ。
俺は罪悪感と共に自分のジッパーを下ろし、そそり立つ自分の欲望を、握り締めた。
「うはっ、パパっ!パパっ!!すっごい、すっごいよォ!!」
「くっ、うっ、おおおっ・・・」
「だから胸は弱・・・っ、ひゃうぅぅん!そこは、ダメぇ。そこをつまんじゃダメぇぇっ!!」
竜宮氏とシンクロするかのように、俺は目を閉じて会話と物音のみに集中する。
右手で扱きあげた欲望は硬さを増し、発射までの時間を刻々と縮めてゆく。
「もうダメ、もうダメっ!アタシ、死んじゃうぅぅぅ!!」
「くぁぁっ!リナ!!で、出そうだ・・・!」
「あぅぅぅっ!はぅぅぅんっ!!」
「い、いいかい!?このまま、中に・・・」
「はぁぁっ!ちょうだい。パパの白いの、アタシの中にちょうだいぃぃっ!!」
限界を迎えようとしているのはこちらも同じだった。
先端から出る透明な液が自分の指を濡らし、潤滑油となる。
「おおおおおっ!!リナぁぁぁぁぁっ!!!」
「ひゃうぅぅぅ!!パパぁっ!!!」
絶頂を告げる声と共に、俺も自分の欲望を吐き出した。
驚くほどに飛び跳ねた飛沫が畳を汚す。幸いにも機械にはかかっていないことに、俺はわずかな安堵を覚えた。
「くすっ、いっぱい出たね。パパ・・・」
荒い呼吸音と共に、リナの猫撫で声が聞こえる。竜宮氏は答えることも出来ないほど、息も絶え絶えのようだ。
俺も、全速力で走ったかのように肩で息をする。しかし、若さのためか、竜宮氏よりも回復は早いようだった。

備え付けのティッシュを箱からつまみ出し、やや硬さの取れた自分の欲望を拭き清める。
そして飛び散った欲望の残滓を拭き取ろうと体を伸ばして気が付いた。
電灯を消しておいたアパートに、わずかな月の光が差し込んでいた。ここは窓が東側なので、月光が差し込むにはドアを開ける必要がある。  
その時に俺は思い出した。
ローテーションを組んでいる大石さんが「今日はジジイ達と一局囲んできます。終わったら何か差し入れをしてあげますよ。んっふっふっ~」と言っていたことを。
大石さんはまだ来ていなかった。こんな深夜に来るはずはないと思っていたのだ。
しかし、大石さんたちの麻雀は平気で深夜に及ぶ。午前様なんてザラじゃあないかッ!!
俺の失策だった。笑いたければ笑うがいい。欲望に負けた俺の自己責任だ。
くそ、振り向くことが出来ない。背中越しに感じる視線が痛いからだ。
振り向いた瞬間に聞こえるはずだ。あの、人を小馬鹿にしたような笑い声が。
恥ずかしい格好でティッシュを握り締めたまま、俺は深い絶望感に襲われていた。

「んっふっふっ~♪」

終わり

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最終更新:2007年10月18日 13:39