「先生、さよーならー。」
「また来週~。歯ぁ、磨けよ~。」

最後まで残っていた生徒を見送り、知恵は職員室へと戻っていった。
今日は半ドンの土曜日ということもあって、子供たちの帰宅も早い。
職員室に戻ると、知恵は出席簿を机に置き、椅子に座った。
校長の海江田は、昨日から教育委員会の会合のため出張しており、来週まで留守をしている。
久々に一人で過ごす昼の職員室であった。
知恵は鞄の中から、今日も作っておいた弁当箱を取り出すと、待ちかねたように包みを解き、蓋を開けた。
とろみを帯びた赤茶色の液体の中に、刻んだニンジン・ジャガイモ・タマネギ・鶏肉が彩りを与え、心地よい刺激臭が、鼻を包む。
その隣には白いご飯が仕切りで分けられ、隅に薄赤の福神漬けがちょこんと、かしこまった様に乗せられていた。
カレーライス。
知恵留美子にとってそれを食べる時が、人生でもっとも幸福な瞬間であった。
仕切りをとり、白米とカレーが交わり始める。それをスプーンで交わらせて、口に運ぶ。
何度食べても、この一口がたまらない。
自分の顔がほころんでいるのがわかる。
その時、開け放たれていた窓からふわりと、涼しい風が流れた。
8月も終わりに近づき、最近は大分熱気も収まっている。
雛見沢は夏の訪れも早いが、その分、秋の訪れも早い。
「もうすぐ、秋ですね。」
誰に言うでもなく、知恵はつぶやいた。
(いけない、また思い出してしまう)
心では思っていても、秋になればいつもあの日々のことを思い出す。
「彼」と過ごしたあの日々のことを。

ここよりも都会のとある街で、知恵は「彼」に出逢った。
眼鏡のよく似合う、捨てられた子猫のような雰囲気をもつ「彼」とは、学校で大工の真似事をしている時に初めて逢ったのだ。
「先輩」と優しく声をかけてくれた彼に、知恵は徐々に惹かれていった。
まるで泥棒のように、人の心にずかずかと入り込み、大胆にも自分の全てを奪ってしまった「彼」。
時には殺し合いといってもいい争いを行い、文字通り自分のせいで死ぬ目にも遭った。
それでも、自分を選んでくれた。
自分の背負う十字架を知った上でも、愛してくれた。
自分も誰よりも愛し、身も心も全て捧げた。

「彼」の残り時間がほんのわずかだと言うことを知っていても。愛さずにはいられなかった-。

「・・・くん。」
久しぶりに、「彼」の名前を口に出した。
本当に最後だという時に、何も出来なかった自分に、
「うん、俺、やっぱり先輩が、・・・が好きだよ。」
と言って遠くへ言ってしまった彼の名前を。
「・・・くん!」
もう一度、今度は強く呼んだ。
「どうして、どうして私を一人にしてしまったのですか!また、私を一人に・・・!」
「彼」がいなくなった後、知恵は荒んでいた。
生きる目標もなくなり、所属していた組織からも抜け、ただ彼の思い出だけを胸に、引きこもりのようにして生きていた。
そんな時、偶然流れていたニュースに目が留まった。
『村が沈んでしまうんです!』
『学校がなくなったら、私たちは遠くの学校にいかなくちゃいけないの!』
それは、遠い雛見沢という村落でのダム建設反対運動を特集した番組だった。
反対運動中心派のインタビューに加えて、村民の意見を年齢ごとに聞いていく場面があったのだが、その中で元気のよい女の子が叫んでいたのだ。
『お願い、もう、先生がいないの、誰か、誰か私たちの学校を守って-!』
その村には見覚えがあった。
もう、体調が悪化して、寝たきりになってしまった「彼」は、良く旅行雑誌を見ていた。
「元気になったら、今までの分、先輩を連れてってやるから!」
それが自分を元気付けるための嘘でも、知恵は「彼」が楽しそうに、見たことのない世界への夢を語ることが嬉しかった。
その中で
「こんなところもいいよな。ほら、こういう日本的っていうか、のどかで。先輩と、二人でさ、畑を耕しながら暮らすのもいいな。」
「彼」が一番目を輝かせた場所が、雛見沢のページだった。
「彼」が愛した風景が消えてなくなる。
知恵にとってそれは「彼」を彩るものの一つが失われてしまうような感覚があっ。
「彼」がいなくなってしまった後、その遺品は家族と、知恵をはじめとする友人達に分けられた。とはいうものの、物持ちの少なかった「彼」の形見は、古びた折りたたみナイフ一本だけだった。
「彼」の妹が
『認めたくありませんが、兄さんは貴女を誰よりも愛していましたからね。兄さんが一番大事にしていたこのナイフを、貴女に差し上げます。』
と涙ながらに渡してくれた物だった。
だから、「彼」が行きたいの願っていた雛見沢は彼の形見のように感じられた。
(それが、無くなる・・・?)

認められるはずはなかった。

意地悪な主は私に地獄を与え、愛した人までも奪い、その上数少ない形見まで奪うというのか-!
知恵の行動は素早かった。
直ぐさま鹿骨市へ向かって教育委員会に駆け込み、現役時代に培った催眠術で担当者を騙し、「教師・知恵留美子」の肩書きを手にいれた。
教師を選んだのは、昔その真似事をした自分を「彼」が喜んでくれた思い出があったことと、テレビで見た少女の顔が、「彼」に出逢うまでの自分に重なって見え、その願いを叶えてみせたかったからだった。

身分を手に入れた後は簡単だった。
本来なら時間がかかるはずの審査会も、催眠術を使えば満場一致での結果であった。
『募集は村が勝手にやっていることですからな。』
と、最初は余計な事をしてくれたという顔の審査員が、
『こちらは問題ありません。海江田校長次第ですな。』
という結論を出した時には、知恵も苦笑を禁じえなかった。

翌日、知恵は雛見沢行きのバスに乗っていた。
審査会の後で海江田の連絡先を聞いて電話したところ、海江田は
「お志、ありがとうございます。お会いして結論を出したいと思います。」
と野太い声で返答したので、早速雛見沢へ行く運びになったのだ。
もうじき廃止になるという路線バスの中には、知恵の他にいかつい男が一人座っているだけであった。
年の頃は中年というところだろうか、纏っているスーツが筋肉ではちきれそうになっていた。
「村の方ではないようですが、雛見沢へはどのような用で?」
いつのまにか、通路を挟んだ向かいの席に男が座っていた。
こちらを見る目は鋭いが、深く、穏やかな光を湛えており、巌のような雰囲気がある。
「ええ、私は教師なんです。この村が教師を募集していると聞いたもので。」
「ほお、それはそれは。前の学校を辞められたのですか?」
「いえ、私は就職浪人でして、これまで教壇に立ったことはありません。」
心の中で、「遊びではありますが」と付け加えて、知恵は答えた。
すると、男は一言唸って腕を組んだ。
「そうですか。いえ、この村が教師を募集していると聞いて、これまでも貴女のような方が教師になりたいとやってきたことが何度かあるのですよ。」
そういえば審査員の誰かが、言っていた気がする。
審査会がOKサインを出しても、肝心の海江田校長が断った教師が何人もいると。
村が教師を渇望しているのに、肝心の校長が首を縦に振らないのだった。
不思議でならない。学校の存続に最も熱心なのは、教育委員会の勧告を幾度となく無視して残り続ける校長自身ではないか・・・。
「校長先生が断られたという話ですね。私もそれは聞いたことがあります。」
「ご存知でしたか。」
「教師を求めているのは校長先生自身なのに、不思議な話ですね。」
「ええ、確かに。しかし、私には海江田高校の考えがわかる気がします。」
男の雰囲気が変わった。
こちらを見る目に、相手をどれほどのものか見定めようとする光が宿ったことを、知恵は感じていた。
「雛見沢は、確かに教師を求めています。それこそ教師として来てくれる人がいれば、村中総出で歓迎するでしょう。」
「では、なぜ?」
「誰だって歓迎するということは、翻せば誰でも教師に成ることが出来るということです。たとえ、その資格がないとしても。」
知恵の背中に冷たいものが走った。
この男、私の正体を知っている?
「ああ、失礼。私のいう資格というのは『教師としての資格』ということです。教員免許などではない、人にものを教えるに足りる人物であるかということです。」
「教師の、資格?」
「ええ。教師になりたいがなれないという人物は数多くいます。それこそ、玉石混合です。本来資格はあるのに、発揮する機会がない者、そして」
一旦言葉を区切って、男は続けた。
「資格もないのに、発揮する機会を求めている者です。」
知恵はこの男の言いたいことを理解した。
この男は自分が雛見沢の教師に相応しい人物であるかを、見定めようとしているのだ。
「生徒の人生は、学校という場で大きく変わってきます。良い教師に巡り会えば、素晴らしい若者に成長するでしょうし、悪い教師に当たれば・・・。」
「はい、そのことはよくわかります。」
知恵のその返答を待っていたかのように、男は腕組みをやめ、その手を膝の上に置いた。
そして知恵に自らの顔を近づけて、尋ねた。

「では、問いましょう。教師とは、何か?」

知恵は目を閉じた。
教師とは何か?
本来教師ではない自分にわかるはずはないではないか!
それでも、この人の言いたいことはよくわかる。
ここならば簡単に教師になれると思うような人間に、自分の子供たちを任せたくないのだ。
だから、こうやって私を試しているのだ。
その気持ちには一点の曇りもない。
ならば私はどう答えることが出来るのだろうか。
教師でない、私には-。

「御免なさい。私、本当は教師じゃないんです。」
答えは簡単だった。こんなに全力で向かってくる人に、嘘は付けない。
「彼」も嘘が嫌いな人だった。
もし「彼」がそこにいたならば、『しょうがないよ、先輩』と正直な知恵を求めるだろう。
「どういうことですか?」
意外な返答にも、男は眉ひとつ動かさなかった。
ただ、こちらの真意を測ろうと、眼光が一層鋭くなった。
「色々と誤魔化して、教師になったんです。悪いことは、出来ないものですね・・・。」
「なぜ、教師に?」
「雛見沢を守りたかったからです。」
「・・・失礼ですが、貴女はこの村と何の関係もない方だ。その貴女が、何故、こんな博打のような真似を。」
「あはは、それはですね。」


大好きな人の愛した風景を守りたかったから


しばらくの間、沈黙が流れた。
ガタゴトというバスの立てる音のみが社内に響く。
「ははは、ははははは!」
沈黙を破ったのは男のほうだった。
心底、嬉しそうな顔をして笑っている。
「好きな男が愛した風景を守るため、そのためだけにこんな危険な博打を打ったのですか!これは驚いた!」
「いけませんか。」
知恵の眼光が怒りに燃えた。
「彼」との思い出すら馬鹿にされたようで、目の前の男を視線で殺してしまいそうなほど、睨んだ。
その視線に気づき、男は笑うのを止めて知恵を見据える。
再びの沈黙は長くは続かなかった。
「気に入りましたよ。」
男の言葉に、知恵は目を丸くした。てっきり罵倒の言葉でも浴びせられるかと思っていたのに、意外だった。
「貴女は正直で、そして胆の据わった人だ。十分に、教師の資格がある。」
「え、それって・・・。」
「ようこそ雛見沢へ、知恵先生。貴女を歓迎します。」
ふーっと、力が抜ける感覚がして、知恵は肩を落とした。
どうやら、この人は自分を認めてくれたようだった。
ふと、気がつくと、目の前の男が自分に握手を求めていた。
「こちらこそよろしくお願いします、海江田校長。」
しっかりと、その手を握った。
これはテストだったのだ。
なるほど、校長が断っていたというのはこのバスでやってくる人間を見定めていたからだったのか。
校長も人が悪い。しかし人間の奥底を見るためには、このような奇襲が有効なのだろう。
それでもこのような状況で自分が認められたということに対して、喜びがこみ上げてくるのだった。
「ああ、私は・・・。おっと、付いたようですよ。」
気が付くと、「雛見沢」と書かれたバス停がすぐ側にあった。
照れくさそうに男が先に降りる。そして知恵もタラップを下った。
6月というのに真夏のような日差しが、目を刺す。
「おお、知恵先生ですかな?お待ちしていましたよ!」
声がする方向に目を向けると、古びた待合所の中に、ほぼ丸坊主の巨漢がいた。
身長も2メートル近くあろうか、伸びた髭が印象的な中年男性だった。
「私が校長の海江田です、いや、雛見沢へようこそ!」
え?
ええ?
えええっ?
知恵の頭に疑問符が付く。
この人が校長?海江田校長?それでは、今まで話していた人は!?
「校長、この人はとても良い人ですよ。立派な『先生』だ。」
「おお、園崎さんがそういってくれるなら心強い!」
「その証拠に、今までやってきたモヤシどもは、バスの中から降りてこなかったでしょう?」
「ええ。これまでに来た方は、全てそのまま町へ行く便で帰ってしまいましたからなぁ・・・。」
園崎と呼ばれ、これまで私と話していた男性は、しれっと海江田校長と話すと知恵の方を向き
(私もニセモノなんですよ、校長の)
と囁いてから私の元を離れた。
だ、だまされた!
一瞬、何かをいってやろうと思ったが、止めた。
男が去っていった先には黒色のベンツがあり、その側に和服の女性と、元気そうな少女が並んでいたのだ。
「あんた、またでしゃばって。若い衆や葛西にでもさせればいいじゃないの。」
「悪い悪い、一足先に魅音達の先生ってやつを見てみたかったんだ。」
少女を抱えて、園崎さんは一瞬だけ私に振り向いて、ウインクをくれた。
「魅音、お前たちの先生は良い先生だぞ。詩音の先生もあんな先生だといいんだがな・・・。」
彼がベンツに乗り込んで去っていくまで、知恵はその姿を見送っていた。
彼が園崎組という暴力団の組長であり、町の顔役であることを知恵が知ったのはしばらく経ってのことだった。

「こんなことがあったんですよ、覚えていますか。」
昼食を終えて弁当箱を片付けてから、知恵は手にしたナイフに向けて語りかけた。
「彼」の形見の折りたたみナイフ。
木製の柄に織り込まれた名前も、受け取ったときからは大分薄くなり、少なくない年月が経っていることを嫌でも感じてしまう。
「本当にみんな良い子達で、見せてあげたいくらいです。でも、見せてしまったら私がつかまってしまいますね、あはは。」
ナイフを愛しそうに見つめて、知恵はため息を付いた。
自分が雛見沢の教師として認められた後、ダム建設計画は撤回され、「彼」の愛した風景は守られた。
その後、「オヤシロ様の祟り」と呼ばれる連続不審死・行方不明事件が発生したものの、村は平穏を保っている。
懸案だった自分の生徒、北条沙都子に対する村の人々の偏見も、生徒である前原圭一の活躍で払拭できた。
「でも、・・・君は居ないんですね。」
平和で、穏やかな雛見沢。
しかし、そこには最も大切な人が居ない。
最も、側にいてほしい人が居ない。
悲しくて、もう一度「彼」の名を呼び、形見のナイフに口付けた。
「彼」の唇を、匂いを、そそりたつあの分身を思い出し、何度も、強く吸う。
舌で転がし、優しく噛み、万感の思いを込めて息を吐く。
「ん、ん・・・。あぁ・・・。」
寝台の上で優しく、そして強く抱かれ、荒々しく貫かれた事を思い出し、没頭する。
「彼」との全ての夜が走馬灯のように駆け巡る。
足りないのは「彼」だけだった。
「くっ、う、うああぁぁぁ・・・。」
いつの間にか泣いていた。何度も、何度も、名前を呼び、泣いた。
どうして、「彼」だけが居ないのだろう。
そのことが悲しくて、泣いた。

「わたくしともあろうものが不覚ですわ、学校帰りで、こんな、罰ゲームなんて・・・。」
「仕方ないのです。ふぁいと、おーなのです☆」
「簡単に言ってくれますわね。知恵先生に、カレーのごにょごにょを言うことが、どれだけ大変か・・・!」

生徒の声だ。
知恵は涙を拭いて、ナイフを机の中に閉まった。
「彼」が愛した場所で、自分がが教師として教え、子供たちを育てる。
ああ、そうだ。彼はいなくても、この子供たちの父親なのだ。
雛見沢という種を蒔いたのは彼。耕し、育てるのは自分。
そして咲いたのが彼らという花なのだ。
ならば、自分は母親としての責務を果たそう・・・。

「子供を愛せぬ母はなし、そうでしたね、・・・君。」

いつまでもめぐる日々と季節。
この繰り返される季節の中で、自分と「彼」の育てた花は、どのように咲き誇るのだろうか。
知恵はもうじき開くであろう職員室の扉を見つめ、知恵は微笑みながら、花たちを待つのであった。

終わり

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最終更新:2007年10月05日 21:34