の 刺 青



夏の日差しが照りつける部屋の中で、俺たちは卓袱台を挟んで向かい合っていた。
卓袱台の上には、筆記用具に参考書とノート、そして俺が運んできた麦茶が雑然と置かれている。
進学のために勉強を見てもらいたいと言ってきた魅音の面倒をみてしばらく経つ。最初は興宮の図書館で教えていたが、移動にかかる時間が勿体無いということで、最近はもっぱらこの俺の部屋が教室となっている。
「あ~、圭ちゃ~ん」
参考書を覗き込んでいた魅音が、ぐしゃぐしゃと頭を掻いて首をかしげる。
「どうしてもおじさんにはわかんないよ~。おしえてぇ~」
机に座って十分も経たないうちに音を上げやがった・・・。俺はやれやれだぜと呟いて、渡されたそのページを眺めた。
「げっ、魅音。ここって、一年の時に勉強していれば理解できているはずだぞ・・・」
魅音の知識は偏っているというかなんと言うか、興味のある部分についてはスラスラと解けるが、ない分野に関しては全くの無知であると言ってよい。
そのギャップの激しさに、俺はいつも苦労している。
「ええぇ~嘘だぁぁー。そんなの知らない~」
「レナの台詞をパクるなよ・・・。ここが分かってねえと、それからの勉強が成り立たないんだぞ。よくこれで進級できたなぁ」
「うぅ、おじさんを馬鹿みたいにいうなぁ~。圭ちゃんのいぢわる~」
気落ちした魅音が、がくりと机の上に突っ伏した。
「別にいじめているわけじゃないんだが・・・」
俺もやる気をなくして参考書を閉じた。早くも今日の勉強はお開きのようだった。
二人ともノビてしまうと、途端に部屋の中が暑くなったように感じた。扇風機は入れてあるが、油蝉の声が夏の日差しを引き立てるせいか、妙に熱気がある。
俺は暑さに表面が濡れたグラスを手にして、冷えた麦茶を口に含んだ。
「ぷはー」
思わず、オヤジのようなため息が漏れる。それを目ざとく魅音が聞きつけていた。
「あー、圭ちゃんおやぢ臭~い」
机の上体を伏せたまま、顔を上げて悪戯っぽく笑う。
自然と上目遣いになって俺を見上げる仕草となり、それが妙に可愛い。
だから俺は、思わず魅音の頭に右手をのばした。
「あ・・・」
艶やかなその髪に指を広げて、手のひらで頭を包み込む。そして優しく、わしわしと頭を撫でてやる。
瞬時に魅音の顔が赤くなった。
妹の詩音と同じく、魅音も頭を撫でられることに弱い。何度か撫でるうちに心地良さそうに目を閉じて、俺のされるがままになっていた。
「ほれほれ、愛い奴じゃ。かぁ~いぃの~ぅ」
俺に全てを委ねきり、安心しているその顔がとても愛らしくて、俺も撫でるたびに幸せを感じてしまう。
手のひらに柔らかい髪の感触と、暖かな魅音の体温が伝わり、こちらも心地良い。
「・・・」
十分に魅音の髪を堪能した後、俺は手を魅音の耳元へと持っていった。頬に沿わせて包み込むよう、肌に触れる。
感触の変化に気づいて、魅音の目がうっすらと開く。瞳が潤い、まるで夢の世界を楽しんでいるようだった。
俺は左手でも頬を包むと、身を乗り出した。上体を上げさせ、掌で顎を持ち上げる。
そして俺は、魅音の唇にキスをした。

夏休みに入り、こうして二人きりで勉強を見るようになってから、俺と魅音の仲は急速に深まっていった。
休みの中でも、俺たちは部活のために学校やそれぞれの家で遊んでいたがそれも毎日ではなく、誰かと二人きりという時間はありえなかった。
しかしほぼ毎日、部活で費やすのとは明らかに違う密度の濃い空間を、俺と魅音は過ごしていたのだ。
元々憎からず思っていた俺たちの仲が深まるのは当然といえば当然のことだった。
山狗と戦う時以上の勇気を出して告白してからはや一月になる。八月も終わりに近づいた今では、何度かキスも経験していた。

「んん・・・」
何度目かのキスの後、魅音は俺から体を離した。
畳の上に寝転がった俺たちは、お互いを抱きしめあい、唇を求め合った。
勝気で元気良動く彼女とは思えないほど、彼女の体は柔らかく、強く抱きしめすぎると、壊れそうな感じさえ覚える。
だからあまり負担をかけないよう、もどかしくなるほど軽く体に触れている。
魅音も恥ずかしいのか、両手を俺の胸元に預けて縮こまっている。その様子が普段の燐とした姿からは程遠くて可愛らしい。
「可愛いぜ、魅音」
つぶやいて頬にキスをする。すると魅音は首をすくめ、はにかむ様に
「・・・嬉しいよ、圭ちゃん」
とか細い声でつぶやいた。

くうぅぅぅぅぅぅぅっっっっ!!

たまらない。萌え死ぬというのはこういうことなのか!
数多の先人達が心を振るわせた萌えという感情が、俺を心の奥まで打ち振るわせるッ!
俺は魅音の顔中にキスの雨を降らせた。
「あ、あん。圭ちゃん・・・」
その一つ一つに、魅音は初々しい反応を見せてくれる。
いかん、そんなにいい反応だと、俺、止まらなくなってしまうじゃないか・・・!
手加減していた手に力がこもる。俺は欲望に身を委ね、ためらいを捨てた。
魅音の全てが欲しくて、俺はその体を強く抱きしめ、手を胸元に伸ばした。
「え?あ、圭ちゃん!?」
びくりと魅音が体を震わせるが、俺はかまわずに胸元をまさぐった。
服越しにも分かる豊かなふくらみが手のひらに伝わる。下着のせいでごわごわとした感触だが、柔らかい中身が、俺の指とともに形を変える。
「す、すげえ・・・」
感動だ。思わずもう一つの手を胸にやり、両手で揉みしだく。
ふよふよ、ふよふょ・・・。
面白いように形が変わった。
「あ、強くしちゃ、痛いよ・・・」
調子に乗りすぎていたのか、魅音の顔が苦痛にゆがむ。俺は手の力を弱め、撫でることに切り替えた。
二·三度撫でるたびに、魅音は口から切なそうにため息を漏らした。
感じているのだろうか・・・。俺は直にその胸に触れるべく、上着の下から手を入れた。
吸い付くような肌の感触と共に、下着のレースが触れた。これが、ブラジャーというものだろうか。
俺は魅音の顔を覗き込み、目で合図した。
(先に、進むぜ・・・)
恍惚により焦点が定まらない瞳で、魅音が頷く。俺は次のステップへ至るべく、下着のホックがあるだろう、背中に手を伸ばした。

その瞬間。

「い、嫌っ!!」
何が起こったのか一瞬理解出来なかった。
気が付けば、俺はものすごい力で吹き飛ばされ、部屋の襖にぶち当たっていた。
魅音が俺を突き飛ばしたのだった。
「え・・・?」
呆然とする俺。その俺を見て正気に戻ったのか、魅音が叫んだ。
「ご、ごめん。ごめん、圭ちゃんっ!!」
すぐに俺に駆け寄り、謝罪の言葉を繰り返す。
甘い雰囲気は一瞬にして掻き消え、後には気だるい油蝉の鳴き声のみが響いていた・・・。



「はぁ・・・」
興宮にあるエンジェル·モートには、真の「萌え」を追求する二次元戦士達が集まり、今日も議論を繰り返している。
いつもならばその様子を微笑ましく見つめ、時には熱弁を振るって参加するのが俺の日常なのだが、とてもではないが今日はその気になれなかった。
俺の部屋での一件から早一週間。もう夏休みも終わるというのに、あれから魅音とは音沙汰なしだ。
恋人同士だと思っていた魅音の突然の拒絶。あの後気まずくなったのか、魅音は早々に帰宅してしまい。以来、顔を見ていない。
電話をかけても無視しているのか、繋がる気配もない。
何度か園崎家にも足を運んだが、いつもお手伝いさんが出てきて外出中とか両親の所にいるとか気まずそうに答えるだけだった。
つまり居留守を使われているということで・・・。俺は魅音に完全に拒否されていたのである。
なんでだよ、俺達、恋人同士じゃなかったのかよ・・・。
俺だけが舞い上がっていたのだけかもしれない。告白したのは俺だから、魅音がOKしてくれた時点でカップル成立とばかり思っていた。
しかし、当の魅音はそれを友達の延長線上としか考えていなかったとしたら、俺はなんと早まったことをしてしまったんだと思う。
俺達の年でああいう行為は確かに早い。不純異性交遊そのものだと言われても何の文句もない。
魅音も俺を好きでいてくれるから、何でも許してもらえるんだと思っていた。
あぁぁぁあ、俺は、何ということを・・・。
馬鹿野郎、馬鹿野郎、馬鹿野郎!大馬鹿野郎・・・!魅音の気持ちを考えずに何が恋人だ!
俺は頭を抱えて机の上に肘を付き、懺悔した。その時。
「はろろ~ん、圭ちゃ~ん。どうしたんですか~?」
明るく、人を小馬鹿にしたような甘い声。見ると、エンジェル·モートの制服に身を包んだ魅音の妹、園崎詩音がチーズケーキを持ってそばに居た。
そうだった。俺はもうどうしようもなくて・・・。詩音に電話をかけたのだ。
一通りの事を説明すると、詩音はこの時間帯に店に来るよう指示していたのである。
「もうすぐRなんで、時間はあります。だから詳しく説明してもらえません?」
ボックス席の正面に座って、詩音はケーキを自分と俺の前に並べた。「話をきいてあげますから、おごってくださいね~☆」とのことだ。
双子ということもあり、詩音と魅音は外見上ほとんど区別が付かない。髪形を変えれば入れ変わることも可能で、俺も何度かそのトリックに引っかかったことがある。
だから、詩音に経緯を話している時はまるで魅音と話しているようで、とても不思議な感触だった。
「ふ~ん、そういうわけですか」
一通り話をおえると、詩音はいつもの笑いを浮かべて残りのチーズケーキを口に含んだ。
「おのオクテなお姉がここまできたか・・・。妹としては嬉しいですねえ、うんうん」
本当に嬉しいらしく、何度も何度も含み笑いをする。まるで魅音がそこで笑っているようで、どきりと心が鳴った。
「その、詩音。魅音はやっぱり、怒っているのか・・・?」
おそるおそる尋ねる。すると詩音は意外といったような表情で答えた。
「え、お姉が?何を?」
「俺が、その、迫ってきた事を・・・」
恥ずかしさに、自分の顔が赤くなってくるのが分かる。恋人の妹に自分達の痴話喧嘩を話すというのは、これほど恥ずかしいとは・・・。
「く、くけけけけけけけけけけけ」
一瞬、詩音が発狂したのではないのかと思うくらいに奇声を上げて笑った。周りの客達も何事かと俺達の席を覗き込む。
「あー、可笑しい。圭ちゃん、私を笑い死にさせる気ですか?」
ひとしきり笑うと、詩音は正気に戻り笑い涙を拭った。
「そんなことでお姉は怒りませんよ、むしろ喜んでいるくらいです。『圭ちゃんがあたしを・・・』って、電話がかかってきましたからねぇ~☆」
「へ・・・?」
「一週間前でしたっけ、その日の内でしたよ。お姉、よっぽど嬉しかったんでしょうね」
あっけらかんとした詩音の表情に、俺は一抹の安堵を覚えた。良かった、嫌われてはいなかったんだ···。
しかし、疑問は残る。それならば何故魅音は俺を避けるのだろうか。
「お姉が圭ちゃんを避けているのは、別の理由なんです」
俺の表情を読み取ったのか、詩音が真剣な表情になる。それまでの飄々とした態度から一転、両手の指を組んで、俺を正面から見据えた。
「理由を話す前に、圭ちゃんに聞きたいことがあります」
「何だ、詩音」
「圭ちゃんには、お姉と添い遂げる覚悟はありますか」
曖昧な答えは許さない。詩音の背中には一種の妖気さえ漂っていた。 
「ある」
俺は即答した。自然と背筋が伸び、詩音の気迫に負けないよう、その瞳を見据えた。
「俺は園崎魅音を愛している」
「へーぇ、即答ですか。口だけなら何とでもいえますからねぇ」
俺を値踏みしているのか、詩音の口調が再び意地悪なものに変わる。
「お姉の家、極道ってことを知っていますよね?」
「ああ」
魅音の両親が仕切る園崎組。このあたりの顔役として、県内でも知らないものがいない存在だ。
「しかも、園崎家の当主はほとんど女性が勤めます。その意味も分かりますか?」
俺は無言で頷いた。その反応が面白くないのか、詩音は核心を持ち出してきた。
「それに、知ってましたか?お姉の背中にはあるんですよ。立派な刺青が」
刺青。言うまでもなく現在の社会では一般人とその筋の人間を分ける名札のようなものだ。出自は住処を変えることでも誤魔化すことができるが、体に刻み込まれた印は隠し通すことが出来ない。
俺が魅音と一緒になれば、嫌でも魅音の背中に刻み込まれた園崎家当主の印と向き合うことになるのだ。
刺青という印を前にしては、並みの人間であれば怯えて逃げ出してしまうかもしれない。
「お姉が圭ちゃんを拒んで、避けた理由はその刺青にあります。愛しい人に、自分がその人の住む世界の住人ではないことを知らせる刺青を見せたくなかったからです」
「そうか、だから俺が背中に触った時に・・・」
「見れば圭ちゃんは自分に幻滅するかもしれない。だから、どうしても背中を見せたくなかった。圭ちゃんも、そんなお姉の気持ち分かりますよね」
愛しい人を自分達の住む世界の住人に引き込みたくない。魅音の悲しいほどに俺を思う気持ちが良く分かった。
自分は闇の世界の人間。だから自分に近づけばその人まで闇に染めてしまう。それは優しい魅音に耐え切れないことなのだろう。
しかし、詩音、そして魅音。俺は前原圭一だぜ・・・。
「それでも、お姉と一緒になれますか?日の当たる世界を捨てて、園崎家という闇の世界の仲間入りをするんですよ。その覚悟がなかったら-」
「もういいぜ、詩音」
俺は熱のこもってきた詩音の話を遮ると、力強くその両肩をつかんだ。
「詩音がどれだけ魅音のことを大事に思っているのかも、魅音と一緒になることがどれだけ大変なのかも分かった。だがなぁ・・・」
俺は詩音の瞳を見て言った。
「でもなあ、園崎家の話も、刺青の話も、魅音には全然関係のない話だ。俺が好きなのは園崎魅音であって、園崎家の魅音じゃあない」
「でも、お姉と一緒になるってことは・・・」
「園崎家の慣習?しきたり?知らなぇなぁ。俺は前原圭一だぜ。そんなくだらねえモンで俺を止められるもんか。詩音だって、沙都子の件で俺がくだらねえ『オヤシロ様の祟り』をぶち壊してやったのを覚えているだろう?」
「うん、あれは本当にすごかったですからね」
「園崎家もそれと同じさ、凄く硬そうに思える物でも、叩いてみればあっけなく壊れてしまうモンだぜ。金魚すくいの網と同じで、簡単にぶち破ってやるよ!」
本当は簡単にいかないことだとは分かっている。それでも、俺は自分に降りかかる不安を打ち消すかのように熱弁を振るっていた。
詩音はしばらく俺の顔を見ていたが、今度は非常に嬉しそうな顔で微笑んだ。
「な~んだ。こんなところでノロケを聞くとは思いませんでした」
「へっ。そんな奴がお義兄さんになるんだから、光栄に思うがいいぜ」
「全く、そこまで覚悟完了とは恐れ入りました。下手に戸惑ったらこのスタン・・・げふん、げふん」
後ろでに何かを掴んで咳き込む詩音。おい、何を持っているんだおのれは・・・。
「そろそろRが終わりますね。それじゃあ圭ちゃん。今夜お姉に電話しときますねぇ」
時間が着たのか、詩音が席から離れる。
「ああ、魅音に下らねえ事で悩むなって伝えといてくれよ!」
「はいはい、分かりましたよお義兄さん☆」
離れ際に(悟史君もこんなに積極的だったら・・・)という呟きを聞きつつ、俺はその背中を頼もしく見ていた。



コツ、コツ・・・。
日付が変わって間もなく。寝付けずに居た俺は窓から聞こえてくる小さな音を耳にした。
石か何かがぶつかるような音。俺ははたと気づいて窓を開け放った。
街灯の薄明かりの下に浮かんだのは、黄色いシャツとポニーテール。待ちわびた魅音の姿だった。
俺は魅音に手で合図すると、ゆっくり階段を下り、両親を起こさないようにして家を出た。
「あ、あはは、圭ちゃん・・・」
バツの悪そうな顔をして、魅音が俺の元に近づいてきた。
魅音、魅音、魅音!
俺は今にも駆け寄ってその体を抱きしめようと思った。しかし、魅音はある程度まで近づくと、そこから一歩も動かなかった。
駆け寄れば3秒もかからない距離。しかし、その距離が今の俺達の距離を表しているようで、とてももどかしかった。
「魅音、心配していたんだぜ。連絡、取れないから・・・」
「ごめん。おじさん、忙しくて・・・」
俺の顔を見ないようにして、魅音が答える。そんな顔をしてほしくなかった。そんな、悲しい顔は・・・。
「詩音から電話があって、圭ちゃんが来たって言ってた。私のこと心配してくれたんだって」
当然じゃないか、魅音。一番愛しい人のことを心配しない奴なんていないぜ。
「だからね、おじさん。これじゃ駄目かなーって、圭ちゃんに心配かけたままだと駄目だから、はっきりしないといけないかなって」
街灯の明かりが薄暗いので良く見えないが、魅音の顔が悲しそうに歪んでいるのは分かった。
だから、魅音が次に告げるであろう言葉が何となく予想できてしまった。
「圭ちゃん、私達、友達に戻ろう」
「魅音・・・」
ガツン、と鉈で頭を叩き割られるような衝撃。一週間俺を避けて導き出した答えがそれだったのかよ・・・。
「ごめん、もう恋人じゃいられない。これから私を見かけても、ただの友達と思っていてほしいの。この間までの私はもういない。この間までの私は、そう、鬼隠しにでも遭ったとでも思って」
「つまり、別れようってことか」
オブラートに包んだはずの結論を俺に言われて、魅音が息を呑んだ。
「え、あの、えっと・・・」
「結論はそういうことだろ」
「そうじゃなくて、その・・・」
やっぱり。俺は確信した。
魅音にこんな馬鹿な結論を選ばせたのは、魅音の心の中にある「園崎家当主」といった重し。
この一週間、魅音はその重しによる苦しみの中に居たのだろう。仲間にも相談できず、詩音から後押しされても一歩を踏み出せなかった。
分かったぜ、魅音。俺が助けてやるよ。その馬鹿らしい「園崎家当主」の重しってやつから!
俺は魅音との距離を縮めるべく、足を一歩踏み出した。
思わず逃げようとする魅音を捕まえて、こちらを向かせる。
「へへっ、捕まえたぜ、お姫様」
「駄目だよ、圭ちゃん・・・」
「おっと、余所見はナシだぜ」
顔を背けようとするのを、ぐい、と振り向かせる。魅音の顔は涙で濡れていた。
「駄目だよ、私、私、やっと圭ちゃんと別れる勇気がでたんだから、そんなにされると・・・」
「じゃあ、別れなきゃいいだろ。簡単なことじゃねえか」
「それじゃ、駄目なの。私、圭ちゃんに嫌われたくないから」
「何で俺が魅音を嫌うんだよ。そりゃあ魅音にはガサツなところもあるし、結構腹黒いところもあるって知ってるけど、それ全部ひっくるめて好きだといっているんだぜ」
「嬉しいよ、圭ちゃん。でも、違うの。それを知ったら、多分圭ちゃんだって私を嫌いになる・・・」
「背中の、刺青のことか?」
「!!」
魅音の目が見開かれる。そして絶望に沈んだ。
私が傷モノだということを知っていたのか、という濁った瞳。
「知って、いたんだ・・・」
「ああ、詩音から聞いた」
「・・・詩音、喋っちゃったんだ」
捨て鉢な台詞を魅音が放つ。もう、どう嫌われても良い。そんな表情だった。
「だったら、話は早いよね。こんな刺青女、嫌だよね。裸になったらいつも見なきゃいけないし、子供が出来ても一緒に銭湯にも行けない。何より、その、えっちする時に嫌でしょ、こんなの」
かなり話が飛躍しているような気もするが、魅音にとってはこの刺青がかなりのコンプレックスらしい。
それが無くならない限り、魅音には何を言っても届かないだろう。
そして、魅音は俺と別れ、そのまま孤独な人生を歩むのだろう。おそらく、俺との甘酸っぱい青春の思い出だけを胸に。
馬鹿野郎。そんな悲しい結末を、雛見沢の最悪な結末を阻止した俺が許すものか!
OK。ならばそのコンプレックスってやつを打ち砕いてやろうじゃないか。
鉄をも打ち砕く、まさに徹甲弾の様に! 
「いいか、魅音」
俺は身音の両肩を優しく抱いた。
「お前は分かっていない。ちっとも分かっていない。そもそも刺青をコンプレックスと思う必要は無いんだ」
きょとんとした瞳で魅音が俺を見る。くくく、かかった!
「刺青は日本のれっきとした文化なんだよ。証拠に『魏志倭人伝』って本には、倭人が男女共に刺青をしていたって記述がある。ちなみに『魏志倭人伝』って、あの漫画の鉄人、横山光輝先生が連載している『三国志』の一節なんだぜ」
「その文化は、脈々と受け継がれてなぁ、江戸時代には彫師って職業が確立したんだ。タイムマシンで江戸に行ったら、それこそ職人さんのほとんどは綺麗な彫り物を背負っていたって話だぜ。遠山の金さんや、弁天小僧のお話は、主役が刺青をしていなければ始まらないんだ!」
「戦後の本格派推理小説の旗手となった高木彬光のデビュー作に『刺青殺人事件』ってあるのは知ってるか?知らないならまだ甘いな。あれには(ネタバレになるので以下略)って刺青にまつわるトリックがあるんだが、刺青に関してアツい語りがあるんだよぉぉぉ!!」
「極めつけは、戦前の浜口内閣で逓信大臣を務めた、小泉又次郎って政治家がいたんだがなぁ。それが全身に昇り竜の刺青をしていたんだってよ!何でも時の天皇にみせて(はぁと)と言われるほどだったらしいぜ。予断だけど、その人の孫も政治家やってるんだよな、これが」
口八丁手八丁で、仕入れた知識を存分に語りつくす。これがおれの『固有結界』!
ほ~ら見てみろ。聞く耳を持たないといった顔をしていた魅音が、今となっては熱を帯びた表情で、俺の話に聞き入っておるわ・・・!
「魅音はまだ見ていないのかな?夏目雅子、そうあの三蔵法師だ。彼女が主演した『鬼龍院花子の生涯』、あの濡れ場で輝く刺青に魂を震わせない奴は男として終わっているんだぁぁっ!!」
一際大きな声で演説を終えると、俺は強く魅音を抱きしめた。
「こんなにも刺青ってやつは素晴らしい。だから魅音、刺青を気にすることなんて無いんだ」
「圭ちゃん・・・」
「魅音に刺青があっても、エニシング・オーケー。むしろ俺は大歓迎だ」
「う、嘘だよ、だって、こんな・・・」
口では否定するが、明らかに魅音の意思は揺らいでいた。もう、一押しだ。
「じゃあ、見せてみろよ。背中」
「えっ、ええっ!駄目駄目駄目駄目!それだけはだめぇっ!」
「そんなに否定されるとますます見たくなっちまうなぁ~。どうせ俺と別れたいんだろ?そしたら刺青を見せて白黒つけた方が良いんじゃないか?」
「・・・」
魅音は逡巡していたが、最後には小さく首を縦に振った。
これでよし。魅音を土俵に乗せることには成功した。後は俺が鬼の刺青を見て、そのいらない心配を吹き飛ばしてやることだ。
「・・・後悔、すると思うよ」
闇の中に浮かぶ魅音が、背中越しに最後の念を押した。
俺は沈黙を答えとして返す。しばらく経って、観念したかのように、魅音がシャツの縁に手をかけた。
深夜の俺の部屋。魅音のリクエストにより、電気はつけていない。
両親を起こさないようにして静かに俺の部屋に入ると、俺は魅音の刺青を見るべく、彼女にシャツを脱ぐよう促した。
静かな衣擦れの音と共に、シャツが畳の上に落ち、続いて、薄緑のブラジャーが落ちた。
「脱いだよ・・・」
裁きを待つ罪人のように、震えた声で魅音が俺を呼ぶ。俺は魅音の背中に近づいて、そこに描かれた鬼の刺青を見ようとした。
薄暗い中で目をこらす。月明かりに映えたその鬼を見た瞬間。俺は

(羽入!?)

と、一瞬叫ぼうとしてしまった。
魅音の背中には、確かに角の生えた鬼の、女の鬼の姿があった。
巫女服のような衣に身を包み、髪を振り乱して舞をしているかのように体をよじらせている。
長く伸びた爪は人を殺める武器なのか、血が煙っており、衣にも赤い返り血がこびりついていた。
では残酷な鬼なのかと言えば、その表情には何ともいえない憂いがあり、真一文字に結んだ口と伏した瞳には明らかな悲しみがあった。
紫色をした髪の間から伸びる角の片方からは出血しているようで、返り血とは違う色合いの紅が使われている。
『園崎家は、かつて鬼と戦った古手の巫女を迫害した村人のリーダーを務めていたようね。その罪を悔いた園崎の当主は、自らに鬼の刺青を刻むことで、永遠にその咎を忘れないようにしたの』
かつて、鷹野三四と会ったとき、彼女がそんなことを言っていたはずだ。そうか、この刺青はそのまま園崎家の罪の証なのだ。
何故、この鬼が羽入の姿をしているのかは分からない。しかし、その鬼は無言のまま舞っていた。
その姿がとても綺麗で、思わず俺はその鬼の顔にキスをしていた。
「ひゃっ、圭ちゃん!?」
突然のことに、魅音が声を上げる。だが、俺はなおも背中にキスをし続けた。
「綺麗だぜ、魅音。こんな綺麗な鬼を独り占めしていたなんてなぁ。ほんとに悪いネコさんだなぁ、みぃ~☆」
照れ隠しに梨花ちゃんの言葉を借りる。
「あ、あんっ。う、うそ。本当に・・・?」
「ああ、本当に綺麗だぜ。全く、何を気にしていたんだか」
魅音の体をこちらに向かせ、キスを唇にする。戸惑いながらも魅音は俺のキスを受け入れ、自分から俺の頭を包み込んだ。
「う、嬉しいっ!圭ちゃん、圭ちゃあぁん!」
最後は涙声。しかし今度は嬉し涙だ。俺達は固く抱き合ってキスを何度も繰り返した。
そのたびに、裸になった魅音の胸が、俺の胸板に当たって・・・。
「あ、圭ちゃん。これって・・・」
その部分の変化を感じた魅音が、恥ずかしげに呟いた。
「魅音のせいだぜ」
俺は意地悪く魅音に微笑むと、そのまま彼女の体を押し倒した・・・。



「えへへ・・・」
朝日が昇ろうとする中。俺達は裸のまま寝転んで向かい合っていた。
目が合うと、魅音は照れくさそうに笑った。
お互い初めてだというのに、調子に乗って何回も求め合ったものだから、さすがにだるい。
このまま眠りこけていたいが、もうしばらくすればお袋が起きる時間だ。さすがにこの状況は刺激が強すぎるだろう。
「もう、朝なんだね」
「ああ。あっという間だったな」
もう一度キスをする。あと少しで、別れなければならないと思うと、胸が痛んだ。
「痛く、ないか・・・?」
俺はそれほどでもないが、女の子は初めての時、ひどく痛むらしい。お互いを求めるのに夢中で、気にしている余裕がなかった。
「うん、ちょっとだけ。でも、爪をはぐよりは痛くないよ」
魅音がはにかむ。無理しやがって・・・。
「それに、嬉しかったし。私、てっきり圭ちゃんが引いちゃって、嫌われると思っていたから」
「馬鹿だな。俺がそんな刺青一つにびびるチキンと思うか?」
「うん、そうだよね。圭ちゃんは大婆様に一歩も引かないくらい強い人だったんだよね」
俺は魅音に背中を向けさせると、そのまま抱きしめた。丁度鬼の顔が俺の胸元に来て、見上げるようになる。

(あ・・・)

その時、鬼の顔が微笑んだ。しかも一瞬ではなく、この体勢になることで。
刺青の勉強をした時に読んだことがある。見る方向により刺青の姿が変わる伝説の技術。
呼び方は忘れたが、その技術が魅音の背中には使われているのだ。
そうか、これは祝福。
罪深い園崎家の娘を愛し、抱きしめたものだけが見ることの出来る鬼の真の姿。
(あぅあぅ。偉いのですよ。あなたは姿に惑わされず、本当の愛をこの娘にくれたのですね)
どういうわけか、羽入の舌足らずな声が聞こえたような気がした。
「どうしたの、圭ちゃん。嬉しそう・・・」
俺の笑いを感じたのか、魅音が背中越しに微笑んだ。
二人の鬼姫様の微笑み。
俺はこの微笑みを守るためのナイトになることを、後朝(きぬぎぬ)の光の中で誓った。



終わり



蛇足

あぅあぅ、後朝(きぬぎぬ)というのは愛を交わして共臥しした男女が翌朝、めいめいの服を着て別れることをいうのです。男は家に帰ると文をしたためて、使いの者に持たせて女の許に届けるのが礼儀なのですよ。これを『後朝の使い』というのです。僕がまだヒトと共に生きていた頃にあった、とっても雅な風習なのですよ。あぅあぅ。この文が届けられないと、女は男に嫌われたものと思い、嘆き悲しむのです。
圭一、ちゃんと文をしたためて魅音に届けるのですよ、あぅあぅあぅ。

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最終更新:2007年12月25日 09:34