今でも時々、夢を見る。
ジロウさん、あなたが「こんなことはやめるんだ」と言って。
私は悩んで、でも結局は頷いて、「そうね、やめましょう」と答える。
それで何もかもが終わりになる、そんな夢。

でも、そうはならなかったからこそ、今の私がある。
あそこでジロウさんの言葉に頷いていたら、
私は「東京」の手で亡き者にされていただろう。
彼らにとっては、あの事件は「起きなければならなかった」のだから。

それでも時々、私は夢を見る。
何も起こらず、何もかもが平穏に過ぎていく夢を。


「これで、終わりですね」
 入江は最後の資料をファイルに綴じると、それを私に差し出した。
「日付は鷹野さんが書き込んでください。それはあなたの役目だと思います」
「……ありがとう」
 私はファイルの表紙に、今日の日付を書き入れる。昭和61年3月31日。ファイルのタイトルは、
「雛見沢症候群の研究と治療に関する最終報告書」。これで本当に、入江機関の……いえ、おじいちゃんの研究は全て終わったのだ。
「終わりね」
「終わりましたね」
 私と入江は、どちらからともなく同じ台詞を繰り返し、頷きあった。
 明日には地下施設への注水が行われる。入江は自衛隊を退官し、その退職金で地上の診療所を買い取ることが決まっている。今度こそ一人の医者として、この村に骨を埋めるのだそうだ。
 私もこの村に残ることにした。もう何年も住み慣れた村だし、入江にも「医者としてでも看護士としてでも構わないから、ぜひ診療所に残って欲しい」と言われている。
 選択する自由はあった。
 昭和58年6月の事件の後、私は高度な政治的取引と、ジロウさんの奔走のお陰で極刑を免れた。監視付きの身分ではあるが、牢獄に繋がれることもなかった。
 これには、私が雛見沢症候群研究の第一人者だったということも有利に働いたらしい。
 雛見沢症候群の危険さは、皮肉なことに私自身が身をもって表した。それを目の当たりにした政府は、何としてでもこの危険な病を早急に撲滅しなければと判断したのだ。
 それで、懲罰委員会は私への厳罰を諦めた。下された判決は呆れるほどに軽く、しかも執行猶予付き。ただし、条件は雛見沢症候群の研究・治療に従事すること――つまり、牢屋で項垂れている暇があったら、1日でも早く雛見沢症候群を撲滅しろという命令だ。
 それはつまり、以前と何も変わらない暮らしだった。診療所に訪れる患者たちからこっそりとサンプルを集め、既に発症している患者には治療を施し、地下の研究室で予防薬と治療薬を開発する。変わったのは、自分自身が症候群の感染者として、サンプルを提供することもあったぐらいか。
 それから3年。私と入江は、文字通り寝食を惜しんでこの病と闘い続けたかいあって、雛見沢症候群の予防薬を完成させることに至った。完全ではないが、治療薬も形になっている。北条悟史・沙都子兄妹の経過を見る限りは、たとえ過去にLV5を発症した患者でも、予防薬との併用で問題なく生活していける。
 これで私に科せられた条件はクリアした。私は自由で、もう雛見沢に残る理由はない。幸いにも医師の資格は剥奪されなかったから、どこか知らない街で暮らして行くことも容易かった。
 でも、私はこの村に残ることを選んだ。
 この村は「おじいちゃんの村」だ。おじいちゃんが研究し、おじいちゃんの研究のお陰で平穏を保たれた村だ。そしておじいちゃんへの思慕を超えた妄執のために、私が滅ぼそうとした村だ。
 この村にいる限り、私は私の罪を忘れない。私のするべき罪の償いを忘れない。残る理由は、それで充分だった。
 結局のところ、研究所が閉鎖されても、私の暮らしは以前とほとんど変わらずに続くというわけだ。あんな事件を起こしたにも関わらず、まるであんな事件などなかったかのように。

 ……いいえ、違う。変わったこともある。どうしようもなく変わってしまったことも。
 ジロウさん。私は胸の中で、その名前を呼ぶ。私をあの闇の中から救い出してくれたひとの名を呼ぶ。それは、一番近くて遠いひとの名前だ。
 あの後、ジロウさんは私を助けるために奔走し、そのために私との接触を避けなければならなかった。罪人と証言者、あるいは監査対象と被対象者があまりに親密では、証言の信憑性が揺らいでしまう。
 だからジロウさんは、私と特別な関係であったことをひた隠しにした。監査のために雛見沢を訪れることがあっても、2人で過ごせる時間はいつもほんの僅かだった。
 症候群の発作が起きて、世界がみんな私を拒んでいるような気持ちになって、誰かに抱きとめていて欲しいと願う夜。そんな時でも、電話をかけることさえできなかった。せめて声だけでも聞けたらいいのに。そう思いながら、あのひとの優しい声だけでも思い浮かべようとする。そんな夜を何度繰り返しただろう。
 これからも、それは変わらない。少なくともあと10年、事件のほとぼりが冷める頃までは、私とジロウさんは今の距離を保つしかないだろう。
 いつまでそんな不安定な関係が続くだろう。それはとても怖い想像だ。ジロウさんは不器用だけど優しい人で、彼自身が思っているよりはずっと、女性にとっては魅力的な男性だと思う。
 そんな彼の前に、私より綺麗で若くて、いつでも彼の傍にいられる女性が現れたとして……それでもジロウさんは、私を好きでいてくれるかしら?
 それはとても怖い想像。いえ、怖くて現実的な予想。
 たぶん、これこそが私への本当の罰なのだと思う。本当に大切で欲しかったものに気付かず、どうすることもできずそれを失う。そして永遠に1人で歩いていくしかない……
「……さん?……鷹野さん?」
 そんな暗い思考の闇に落ちそうになっていた私を引き戻したのは、入江の声だった。
「大丈夫ですか、鷹野さん?」
 急に体調を崩したとでも思ったのだろうか。それともほとんど完治したはずの症候群が、ここでまた発作を起こしたのかと思ったのだろうか。入江の声は不安げだ。
 私は首を振り、少し無理に笑顔を作って、そうではないと否定する。
「大丈夫よ。これで終わりだと思ったら、ちょっといろいろ思い出してしまって……柄じゃないわね」
「いえ、私の方こそすみませんでした。鷹野さんの気持ちも考えず……」
 入江は面目ない、という顔で何度か頭を掻いて、それからふと思いついたように立ち上がった。
「鷹野さん」
「はい?」
「最後です。研究所の見納めをしましょうか」
「……そうね」
 それはあまり入江らしくない提案だとは思ったが、私は素直にその誘いに乗ることにした。私の罪の象徴のような場所。そこを最後に目に焼き付けておくのも悪くない。
 階段を下り、ひとつひとつ部屋を巡る。その全てに私の罪の記憶がある。消えない過去に想いを馳せれば、歩みは自然と遅くなり、最後の部屋を出る頃には小1時間も経っていた。
 そこで、入江の表情が急に変わった。言葉にするなら、それは「にんまり」。もっと具体的に言うなら……それは、誰かにメイド服を着せる算段が整った時のような顔。
「うん、ちょうどいい時間ですね。そろそろ頃合です」
「こ、頃合って……?」
「行きましょう鷹野さん。みんなが主役を待ってますよ」
 入江は私の返事も聞かず、私の手を引いて階段を上っていく。わけがわからず、私はされるがままに入江の後を追う。
 そこには、予想外の人物が待ち構えていた。
「ナイスです。ちょうどいいタイミングです」
「うん、監督にしては上出来だね! おじさん感心しちゃったよー」
 園崎の……双子姉妹? なんで彼女たちがここに……!?
「監督。向こうの準備の方、お手伝い頼んじゃってもいいですか?」
「もちろんですよ。それでは鷹野さんをよろしくお願いします」
「え!? ちょっと、入江先生!? 園崎さん!?」
 まだ入江に掴まれたままだった手は、そのまま園崎姉妹に引き渡された。
左右を姉妹にがっちりと掴まれ、私は一番手前の処置室に引きずりこまれてしまう。
 そしてそこに準備されていたものを見て、私は今度こそ絶句した。


「あ、監督だ! うまく行ったのかな? かな?」
「ばっちりだよレナちゃん。今、詩音さんと魅音さんにお願いしてきた」
「そりゃばっちりだぜ監督! なあ、どれぐらいで準備できるかな?」
「魅音と詩音の2人がかりなら、30分もかからないと思うのですよ、にぱー☆」
「で、でもああいうのって、すごく時間がかかるんじゃないかな? 大丈夫かなあ……むう」
「ねーねーが付いているんですのよ? 心配しなくても大丈夫ですわ。それより監督、
こちらはいいですから早く着替えて来てくださいまし。白衣じゃ締まりませんことよ!」
「ええ、わかりました。それじゃあみなさん、こちらの仕上げをよろしくお願いします」
「おお、任せとけ! 部活メンバーの総力を挙げて仕上げてやるぜ!」
「おーーーーー!!」


今でも時々、夢を見る。
これも夢だと思った。
だってこんな優しい現実が、私に訪れるはずがない。
これはきっと、孤独な私が私自身に見せた夢。
私の都合の良い夢。


 待合室までの廊下には、どこから持ってきたのか、赤い絨毯が引かれていた。少し汚れている。もしかしたらレナちゃんが、ゴミ山から探してきたのかもしれない。重かったでしょうに。
 シンプルなデザインのドレスは、園崎姉妹のお手製。「いやあ、興宮のおじさんのお店はもっと豪華なのあったんだけどねえ。やっぱそういうお店のお古じゃまずいでしょ?」「おねえにしては空気を読んだ、いい判断ですよね。褒めてあげます」「な、何よ詩音ー!」なんて、2人して大騒ぎしながら着せてくれた。
 白いハイヒールは、前原くんのお母さんのもの。「借りてきたものがあると、縁起がいいんだろ?」……そんなお伽噺、男の子がどこで聞いたのかしら。
 ブーケは造花だった。春の遅い雛見沢では、まだ野の花も咲いていない。作ったのは北条兄妹だと聞いたけれど、たぶん沙都子ちゃんがほとんど作ったのよね。だって悟史君はあんまり手先が器用じゃないもの。華麗なトラップをいくらでも生み出す沙都子ちゃんの器用さが、悟史くんにも少しはあれば良かったのに。
 同じ造花を手にとって、絨毯に撒き散らしながら私を先導していくのは梨花ちゃん。「オヤシロの巫女である僕が祝福するんだから、幸せ間違いなしですよ、にぱー☆」と彼女はは笑う。

夢だ。これは夢だ。全部ただの夢なんだ。
だってありえない。
なんで彼らが私にこんな準備をしてくれるの?
純白のドレス。青いリボンを結んだブーケ。赤い絨毯。
その先……造花やら紙テープやらで飾り付けられた診療所の待合室に、
なんであなたがいるの? ここにいないはずのあなたが、なんでそこで待っているの?
ねえ教えて、ジロウさん――!

「鷹野さん……いや三四さん」
 ジロウさんが、困ったように微笑む。
「実はね、僕がみんなに頼んだんだ。もし……もし三四さんのことを許してくれるなら……僕と三四さんが幸せになることを許してくれるなら、僕のプロポーズに協力してくれないか、って」
 そう言うジロウさんの顔は真っ赤だ。ううん、たぶん私の顔も真っ赤だと思う。なんだか恥ずかしくて、まともにジロウさんの顔が見られない。
「ほ、ほら、僕たち当分、籍も入れられないし、式なんか挙げられそうにないだろう? でも、やっぱりその……
ちゃんとしておきたかったんだ、こういうことは。内々だけでもいいからその、披露宴っていうのかな。そういうものをしておきたかった。
だって僕はその……鷹野さんのことを、あ、愛してるし、いつも傍にいることはできなくても、ずっと一緒に歩いていきたいと思ってて、その……」
「ジロウさん……」
「い、いやだった、かな?」
 ジロウさんの顔が、今度は見る見るうちに青くなる。2人して相手の顔も見られずにいるのに、手に取るようにそれがわかった。
「いやだったらいいんだ! 三四さんがいやなら、このことは一切なかったことに! そ、そうだ。ちょっとした仮装パーティだったと思ってくれれば!! そう、雛見沢症候群の研究終了のパーティってことで――」
「ま、待ってくれよ富竹さん! ちょっと落ち着いて!」
 なんだか雲行きが怪しくなってきたのを見かねたようで、慌てて前原くんが割って入る。同時に梨花ちゃんと沙都子ちゃんの2人も割り込んできた。
「富竹、そんな風にまくし立てたら、鷹野だって答えられないのです」
「そうですわ。それにおじさま、鷹野さんだってこの服を着ることの意味ぐらいはわかっていらっしゃると思いますのよ? ですから答えなんて半分は出てるも同じなんでございます! 落ち着いてくださいませ!」
「でも、レナは富竹さんの気持ちもわからなくはないかな」
「偶然ですね。私もわかりますよ」
 顔を合わせて頷いたのは、レナちゃんと詩音さん。
「だって、レナはやっぱり、ちゃんと言葉が欲しいんだよ、だよ?」
「そうですよ。やっぱり好きな人には、それを言葉でも態度でも示して欲しいものですから」
 そう言いながら、詩音さんは横目で悟史君を見た。いきなり視線を振られた悟史君が、むうと呻きながら頭をかくのが見える。
 そんなことに気付くぐらいには、私は落ち着いたらしい。
私はひとつ深呼吸すると、さっきから頭を混乱させていた疑問のひとつを、思い切ってぶつけてみることにした。
「ねえ、梨花ちゃん。ひとつ訊いてもいいかしら?」
「なんです? 鷹野」
「さっき、ジロウさんが『もし私を許してくれるのなら協力して欲しい』とお願いした、と言っていたわよね」
「はい、間違いないのです」
「……許せるの? 私を」
「もちろんなのですよ」
 即答だった。こちらが息を飲むほどの。
「雛見沢症候群が怖い病気じゃなくなったのは、鷹野たちのおかげなのです。悟史を治したのも、沙都子を治したのも鷹野たちなのです――鷹野。考えても見なさい」
 梨花ちゃんの声が、途中でその雰囲気を変えていく。
「罪のない人間なんていないわ。私にも罪がある。沙都子にも罪がある。圭一にもレナにも悟史にも、魅音にも詩音にも入江にも罪がある。私が知らないだけで、富竹にだってきっと罪はある」
 ああ、この声は忘れもしない。オヤシロ様の巫女の声、神託の声だ。だとしたら、これは人の罪を裁く神の声?
 でも、その声が告げたのは断罪ではなかった。
「でもみんな、その罪と向き合って、償って、そしてそれを許されながら生きて来た。鷹野。あなたはこの村で、自分の罪を償い、罪と向き合って生きて行くことを選んだ。鷹野。私はあなたの罪を許します。そして鷹野――」
 そこで梨花ちゃんは笑った。まるで祝福の花のような笑顔で。
「鷹野はもう、僕たちの大事な仲間なのですよ。だから、僕らはみんなで鷹野の幸せをお祝いしたいのですよ」

夢だ。こんなのは夢だ。
罪が許されて、祝われて。
そんなことがあるはずがない。

でも、だとしたら、頬を伝う涙がなんでこんなに熱いんだろう?

「……ありがとう、梨花ちゃん」
 私がそう言うと、梨花ちゃんはにっこりと頷いた。
 その向こうでは、ジロウさんが入江と前原くんになだめられたり励まされたり、大騒ぎが続いていた。
 私はもう1度、深呼吸する。ねえ、オヤシロ様。もし貴方への祈りが許されるのだとしたら、少しだけ勇気を頂戴。
「あうあう、心配しなくても大丈夫なのですよ。僕は縁結びの神様なのです☆」
 ……そんな声がどこからか、返ってきたような気がした。

「ねえ、ジロウさん」
「な、な、何かな、三四さん」
「あの……もう一度、最初から……ちゃんと言ってくださる?」
「ちゃ、ちゃんとって……」
「だから、私とどうしたいのか。これからどうして行きたいのか、もう1度。そうしたら私……今度こそ頷くわ」


今でも時々、夢を見る。
ジロウさん、あなたが「こんなことはやめるんだ」と言って。
私は悩んで、でも結局は頷いて、「そうね、やめましょう」と答える。
それで何もかもが終わりになる、そんな夢。

それは今となっては夢でしかないけれど、私はもう、間違えない。
今度こそちゃんと頷いて、貴方の手を取るわ。
ねえおじいちゃん、見ていてくれる?
三四が好きになった人はこんなにも素敵なのよ。
おじいちゃんが救った村は、こんなにも素敵なのよ。
ねえ、おじいちゃん――


もう醒めない夢の中、仲間たちの祝福の声が上がる。

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最終更新:2007年11月02日 20:53