ある、六月の日の事だった。ぱあっと広がった青空には一点の曇りもなく、今が梅雨の時期であるという事を忘れるほどの快晴が、じとじとした空気を開放してくれる。
 それは人の心にとっても同じ事であり、つい、その思考さえもカビを生やしてしまいそうな鬱蒼とした気分から、雛見沢の人々も開放されて気持ちのよい一日を満喫していた。

 それが感情表現のストレートな子供達となれば、なお、はしゃぎ回るのも無理のない事だ。休み時間ともなれば、久々の校庭遊びに興じる子たちで学校は大いに活気づいていたのだった。

 そんな中でただ一人、子供達が不注意で事故などを起こさないかどうか気が気でならないのは、雛見沢分校唯一の教師、知恵留美子であった。
 いかに一クラスしか無いとは言え、それぞれが勝手に動き回る数十人の子供たちを逐一監視していなければならないのだから、その気苦労たるや相当のものである事に違いない。

 だから、返って自分に対しては注意が及ばなかったのかもしれない。下校時間となり、廊下を物凄い勢いで駆けていく子供たちを注意すべく、知恵が追いかけようと教室を飛び出した、その時だった。

「あ、あぁぁっ……」

 今朝、沙都子の仕掛けたバケツトラップで撒かれた水によっていくらか湿っていた木の廊下にずるりと足を滑らせると、仰向けに弧を描くように空を舞ってそのままの勢いで落下していく……それも運悪く、後頭部を直撃するような形で。
 知恵は目の前が真っ暗になっていくのを感じながら、どうっと激しく廊下に叩きつけられると、頭に火花が散る感覚を最後に気を失ってしまった。
 そんな光景に場が静寂に包まれると、一瞬の間をおいて蜂の巣を突付いたかのように生徒たち騒ぎ始める。

「せっ先生っ……!」
「大変だ、知恵先生が倒れたぞ!」
「どどどどうしようどうしよう」
「沙都子ー! お前が悪いんだぞぉ!」
「わ……私のせいじゃありませんわっ」

 しかし低年齢層の生徒たちは倒れた人間を救助する所まで意識が回らず、ただ、その非日常の風景に騒ぎあう。
 そんな中、部活を始めようと居残っていた魅音が、ばっと席を立ち上がって騒ぐ生徒たちを除けると知恵の元へ駆けつけて、辺りに指揮を飛ばし始める。

「あんたら騒ぐな! 監督が来てるでしょ、誰か知らせに行って! ……ああもう、梨花ちゃん頼むよ。あ、圭ちゃんだめっ、担いだら! たぶん脳震盪起こしてるから……レナ、沙都子、担架を用意して来てもらえる?」

 まだ幼いとは言え、いずれは極道の道にはつきものの荒事をも指揮せねばならないであろう、園崎家次期頭首としての修行をこなしている魅音の指示はすばやく、そして的確だった。
 たとえば圭一を止めた事だ。脳震盪を起こしている人間に新たな振動を与えるのは御法度である。なぜなら弱った脳細胞に、とどめを刺してしまう可能性があるからだ。
 そうなれば、人間など簡単に死に至ってしまう、絶対安静にしなくてはならないのだ。

 しかし、年端もゆかぬ、普通の子供がそういう事を理解した上で救助にあたるのは無理がある。だから魅音という存在が生徒だったことは、知恵にとって幸いだったと言えよう。

 ……ややあって、入江が駆けつけてきた。

「知恵先生が倒れたですって!? ……これはいけない。脳震盪を起こしていますね、どなたか、担架を……」

「持ってきました!」
「知恵先生をお願いしますわ……ごめんなさい、知恵先生……」

「は、早いですね! ありがとう……ともかく、保健室へ運びましょう。ゆっくりですよ、ゆっくり……」

 入江の指揮で知恵は担架に乗せられると、極力振動が加わらない様に保健室へと運ばれていくのだった。




 その後、駆けつけた救急車によって保健室から診療所へと運ばれた知恵は、入江によって診察を受けていた。
 ここでも知恵が幸運だった事は診療所がCT等、当時として村の規模に合わぬほど高価な設備を整えていた事と、なにより入江その人が天才的な外科医で、それも精神外科、今日で言う所の脳神経外科を主とする医師であった事だった。

 これならば輿宮の病院に入らなくとも、十分に対処が可能である。診察はすばやく進み、とりえあずのところ脳に異常は無しと判断された知恵は現在、個室の病室に寝かされているのだった。

 彼女が気を失ってから、一時間ほど経過しただろうか。その間にも入江は他の患者に手を回さなければなかったが、しかし、知恵の容態が気に掛かり、少しでも側にいようとして職員にあれこれと代理の指示を飛ばす。
 特に鷹野は看護婦の格好などをしているが、医師免許を持ったまぎれもない医者であったので、緊急の代理として存分に活躍してくれた。もっとも、本人は気が進まない様子ではあったが。

 そして入江がじっと知恵の様子を伺っていると、やがて、覚醒の兆しが見えてきた。

「んん……ん。あ……ここ、は……」

 ぼんやりと目をあける知恵。その視界に、自分を見つめる細めの男性の顔が飛び込んでくる……。

「よかった、気が付きましたか」

 おぼつかない思考で、それが誰だったかを探り当てようと記憶を辿る。ほんのわずかの間をおいて、それが入江だった事を思い出すと、うわごとの様な声でつぶやいた。

「あ、入江先生……私は一体、何を……」

 しかし知恵は、入江の事は思い出せても、どうして自分がベッドの上に倒れているかは解らない様子だった。記憶のごくわずかな断片的喪失であろう、脳震盪の障害として起きうる症状である。

 そんな知恵を混乱させないように、入江は要点だけをかいつまんで状況を説明しはじめる。

「知恵先生、廊下で滑ったんですよ、脳震盪を起こされたみたいで……ええ、園崎さんが的確な指示をしてくれたみたいです。大事にならなくて本当に良かった」

「そうですか……ご迷惑をおかけしました」

「いえ、これが医師の仕事ですから。それよりも、最低一週間は大事になさってください。その間、激しい運動や、乗り物の運転などは絶対に避けてくださいよ」

「はい……あの」

 そう入江に諭される知恵は、脳震盪を起こした後である事を差し引いても、だいぶ弱弱しかった。
 そんな様子に入江はどこか気分が悪いのかと、また心配そうな表情に戻って彼女の側に寄る。すると知恵から、

「ずっと見ていてくださったんですか……?」

 と、思いがけない質問をされる。頭痛がするとか、寒気がするといった言葉を予測していた入江は想定外の台詞に対して、

「あ、え、えぇ……」

 と、単純な肯定の言葉を返すだけで精一杯だった。

 というのも、彼は論文的な予定調和の会話は得手であっても、瞬時のボキャブラリを要する状況は非情に不得手であり、むしろ口下手の部類だった。入江京介とはそういう男なのだ。
 もちろんメイド論はのぞいて、だが。

 だから本来は医師と言うよりも学者的な人間なのだろう、しかし知恵はそんな入江に構わず一方的に微笑むと、素直な想いを口にする。

「お優しいんですね……」
「え、いや、はあ、あははは」

 メイド論となると理性のタガが外れる入江ではあったが、素の彼は穏やかな性格であり、異性に対しては奥手でもある。
 だから笑ってごまかしてはいるが、それまで真面目な教師だという程度の認識しか持っていなかった知恵の突然の豹変(と、入江は感じた)に少しばかり、たじろぐ。

(いやいやクールになれ、入江京介。知恵先生は確かに魅力的な女性だが、今の言葉は単なる礼の様なものだぞ)

 入江は、女には男にない特有のリップサービス的な応対が存在している事を熟知していたが、それを妄信しすぎるあまり、知恵留美子という人物をよく吟味した上で、その言葉を考えようともせずに女性の親切は単なるお礼だ、の一念で理解しようとしてしまう。

 それは彼の基本の女性像が鷹野の様なタイプの女である事に原因があったのだが、ちょっと気を抜けば足を引っ張られているといった政治の舞台にも似た医療界で、入江の様な善人が勝ち抜いて行くには仕方の無い事でもあったのかもしれない。

 だが、知恵は理想と現実のギャップに悩む苦労人ではあっても、陰謀渦巻く世界とは無縁の人間であり、入江がもつ女性像のそれとはかけ離れた存在でもあった。
 むしろ、真面目すぎるほどに会話に際しては言葉を選ぶタイプである。だから鷹野を陰とするならば知恵は陽の存在であり、鷹野の様に冗談で色目を使うような真似など、逆立ちしても出来はしないはずなのだ。

 つまり入江の解釈と違い、さきほどの知恵の言葉には多分の好意が含まれているという事だった。


 知恵が同年代の人間など、ほとんど居もしないこの村に女独り、使命に燃えてやってきて数年。

 その間、プライベートの事など棚上げで仕事を続けてきた彼女は、ダム戦争も終わって多少の疲れを感じ始めていた……慣れが意志力を削り取る。それは、どれだけ強靭な心を持った人間でも避けられない惰性だった。
 だから歳若い彼女が、遊ぶ事も恋をする事からも遠ざかっていた時に、校医として唯一学校でも顔をあわせる事のできた若い男性である入江は嫌でも目にとまった。

 話してみれば医師らしく知的であり、独自のメイド論さえ除けば下品な事を好まない性格で、美形ではないが整った顔立ちに安心したくなる様な、優しげな印象をたたえた人。
 しかも、本業とは何も関係のない少年野球チームの監督までこなして子供たちと付き合おうとする姿勢は、教職に誇りを持つ知恵の理想の男性像に近いものであった。
 ゆえに、そんな入江に知恵が心奪われていたとしても、まったく不思議はない。

 知恵にしてみれば、そんな意中の人に付きっ切りで看病してもらったとなれば、内心で踊りたくなるような心境になるのも自然の流れといえよう。


 だから、恥ずかしいのを我慢してモーションをかけても素っ気ない入江にやきもきした知恵は、この気持ちに気づいてくれ、と言わんばかりに腕を延ばすと、彼の手を取って優しく握る。
 するとその行為は効果があったようで、手を握られた入江は「な、なにを……」と、急にしどろもどろになって顔を赤くしてしまう。その反応に拒否の色が見られない事に一安心した知恵は、さらに次のステップを踏む。

「こうすると、安心できませんか? スキンシップって……ふふ、入江先生には説明不要ですね」
「いや、その……」

 妙に積極的な知恵につい、熱をあげてしまいそうになる入江は「ダメだダメだ、クールになれ」と想像の中で己の頭をガンガンと叩き回して冷静を得ようとするが、視線の先に微笑を浮かべる知恵の姿が入ってしまうと、そんな妄想もかき消されてしまう。

 ガラにもなく心臓の鼓動が早くなる……ばくばくと音が鳴っているのではないかと錯覚してしまうほどに。入江はきっと、今の自分の顔は真っ赤なんだろうなと思いながらも、どうしようもできずに知恵に手を握られたまま固まる。

(誰か助けてくれぇ)

 情けない悲鳴を心の中であげる。
 すると、その願いが神にでも聞き届けられたのか、語尻が跳ね上がった妙なイントネーションの言葉が背中へぶつかって来たのだった。

「あぁら、お邪魔でしたかしらぁ……?」

「た、鷹野さん……いや、これはですね」

 見れば、胸の下で腕を組んだ鷹野がにやにやと、あからさまに小馬鹿にした様な目つきで病室の入り口に寄りかかっていた。鷹野は髪を掻き揚げるような仕草をすると、入江に背を向けて言う。

「患者さんの容態が安定したなら、通常業務に戻って頂きたい所ですわね」
「そ、そうですね。すみませんでした。じゃあ知恵先生、私はこの辺りで……ともかく安静になさっててくださいね」

 あわあわと逃げるようにして病室を後にする入江。鷹野もまた、それに続いて病室を出ようとするが、ドアに手を掛けた際に首だけ後ろに振り向いて、

「逢引はまた元気になってからお願いしますわ。興奮されて脳細胞が破裂しちゃったら、困りますもの……くすくすくす」

 と楽しそうに言う。
 しかし、当の知恵は名残惜しそうに自らの手を見つめながら、「そうですね」と答えるだけ。期待した反応が返ってこなかったからか、鷹野もそれ以上は何も言わずに病室を後にする。

 そして後に一人、残された知恵はベッドに倒れたまま物思いに耽るのだった……。





 それからしばらくして、脳震盪によるダメージも回復した知恵は授業に復帰していた。教師が自分一人しか居ないため、早く仕事に戻らねばという焦りはあったが入江に絶対安静を厳命されていたので、無理には逆らわずに休みを取ったのだった。
 その間は校長が代理に立ってくれていたようで、知恵は脱帽して感謝すると同時にその姿勢に感じ入り、やはりこの学校に来たのは間違いではなかったと再確認をする次第であった。

 しかし、ひとつ以前と変わった事がある。


「なぁ。ところで最近、先生がやたらと保健室に入り浸ってないか?」
「そういえばそうですわね。もしや、頭を打ったのがまだ残っていますんじゃあ……」

 ふと、終業後の部活の最中に圭一が発した言葉に、部活メンバーたちが食いついた。中でも沙都子は、間接的にではあるが怪我の原因を作ってしまったことに内心で責任を感じて、表情が暗い。
 しかしそんな二人を尻目に、こういう事にはやたらと鋭い三人がにやにやと笑うと、お互いを見合う。

「いやぁ~おじさんはそんなんじゃ無いと思うなぁ」
「レナもそうだと思うな。……思うなっ☆」
「猫さんが、犬さんを大好きになってしまったのですよ」

「あん、なんだそりゃあ? おいおい、隠してないで俺にも教えてくれよ~」
「ど、どういう事なんでございましょう……」

「つまりだねぇ、こういう事だよ。鈍感組諸君」

 魅音がひときわニヤリとすると、下品にも机の上にあがって一人、演技を始めるのだった。





 先日とうってかわり、しとしとと雨の降りそぼる、梅雨らしい空気に包まれた雛見沢。その分校の保健室で、木製の椅子に腰掛けた入江が、机の上で無数に散らばる書類を相手に格闘していた。

 入江診療所の所長である彼が雛見沢分校の校医を兼任しているのは周知の通りだが、生徒数が非情に少ないため、本来の業務に従事にする時間は短かった。
 とはいえ勤務を抜け出す訳にもいかない。そこで入江は、空いた時間を有効に使うため、診療所で扱う秘匿性の薄い書類の処理などに当てていたのだった。

 そんな書類たちを片付けながら、ふと入江は窓の外を眺める。薄暗く曇った空が、いっそう光を失っているのに気づいて時計を眺める。

 すると、とっくに生徒の下校時間は過ぎていた。普通の学校であれば、教師達が会話でもしながら後処理や明日の準備などに取り掛かっている頃であろうが、何せ教職員は校長と教師の二人しか居ない。
 知恵が一人で頑張っているのだろう……入江は先週、学校に復帰したばかりの彼女の事に思考を移すと、あの診療所での光景を思い起こす。

(知恵先生の手、やわらかかったな……すべすべで)

 診察以外で異性の肌に触れるのは久しぶりだったため、ついその感触を思い出して己が手を握ったり開いたりしていると、突然がらり、と戸が開かれる。
 少々恥ずかしい想像をしていた最中だったので、びくっと反応すると座ったまま振り返る。
 すると、そこには知恵の姿が認められたのだった。

「お疲れ様です」

 どこから仕入れてきたのか、缶コーヒーを二つ手にする彼女は入江に片割れを差し出して、ぱっと笑う。
 その仕草に入江もつられて笑みを返すと「ありがとうございます」と、差し入れを受け取ってプルタブを引き抜き、吸いはしないが用意されていた灰皿に捨てて、その細長い缶に口をつける……甘ったるい味覚が口いっぱいに広がった。

 入江は一息おくと、缶を机の上に置いて知恵に向かう。

「もう大丈夫そうですね。良かった」
「はい。おかげさまで」
「いえ……と、ところで……何か御用でしょうか?」

 入江はあれから先日の件の意味を考えた結果、知恵が自分に好意を持ってくれている、という事には気づいてはいたが、しかしそれを認める勇気が出せずにいた。
 だから、あえて気づかないフリを装って知恵から言葉を引き出そうとしてそんな台詞を吐いたのだが、吐いてしまってからすぐに後悔する。知恵がむくれた様な顔になったからだ。

(それは、そうだよな……この後に及んでも私は意気地の無い男だ)

 しかし知恵はすぐにその表情を引っ込めると、つかつかと迫って、座っていた入江の頭と同じ高さにしゃがみ込む。彼が尻ごむが、意に介さず問いかける。

「単刀直入にお聞きします……入江先生は恋人とか、いらっしゃいますか?」

 他意は無いのだろうが、彼女もまた緊張しているのであろう。色恋事に長けている女性ではないがゆえに、詰問するような口調になってしまう。
 しかし、先ほどの言葉で自身の意気地の無さに嫌気の差していた入江を奮い立たせるには適した言葉だった。
 入江が決心したような顔になると、彼ははっきりとした声のつもりで、しかし実際には少し聞きとり難いような声で知恵の問いを返す。

「い、いえ……恥ずかしながら、一人身です」

 その言葉に知恵は表情こそ変えなかったものの、ぱっと花が咲いた様に明るむ。そして、今度は知恵が勇気を出す番だった。少し息を吸い、真顔になって口を開く。

「では……ええっと、その……よ、宜しければ……」

 しかし、知恵はもじもじしてしまい言葉に詰まる。先日は脳震盪の後という事もあって少しハイになっていたから大胆になれたが、本来は彼女も奥手な人間なのだ。それでも勇気を出そうと口を開きかけた時だった。

「知恵先生、私とその、つ、付き合ってくださいっ……ませんか」

 入江が知恵の言葉を遮るようにして、早口でまくしたてる。それは、この先の言葉を彼女に喋らせてしまう様では男として立つ瀬がないと彼が思ったからだ。
 しかし、勢いに任せて喋ったので世界が見えているようで見えていなかった入江は、一呼吸ついたところでようやく、知恵がこれから言おうとしていた事を先に言われてしまい、目を白黒させていた事に気づく。
 もしかして嫌な思いをさせてしまったかと思い、あわててフォローに入る。

「その……先日もとても嬉しかったんですが、からかわれているんじゃないかと思ってしまって……はは、は」

 フォローになっていなかった。
 しかし、彼が知恵よりも先に勇気を出した事は間違いではなかったようだ。しどろもどろになって取り乱す入江に、知恵は張り詰めていた糸が切れたかのように噴き出すと、ころころと笑う。

「私も入江先生の事、ずっと見ていたんですよ……でも私じゃあ、釣り合わないと思っていて」
「そ、そんな事はありません! 私など知恵先生が思うほどの人間では……」
「もしかしたら疎まれてるんじゃないかって……でも、診療所でずっと見ていてくださったのが、とても嬉しくて……」
「いやぁその、なんと言えばいいのか」

 お互いの気持ちを吐露しあった以上は隠す事など無いとばかりに、思いのたけをぶつけ合う二人。だが、比すと知恵の方が感情が高ぶっている様で、話すうちにだんだんと、その言葉に熱が帯びていく。

「そしたら……もう、その日から先生のことばっかり頭に浮かんで、我慢できなくなって……入江先生っ……!」

 言葉通り、自制を失った知恵は椅子に座ったまま固まっていた入江にのしかかる様にして抱きつくと、鼻と鼻がぶつりそうな距離まで顔を近づける。熱がお互いに伝わり、知恵の少し荒い呼吸が入江のめがねを曇らせた。

 二人は薄く口を開いて、そのまま唇を重ね合わせる……。

 お互いに、しばし目を瞑ったまま口付けの時を過ごす。
 だが、いい加減に呼吸も苦しくなってきて顔を離すと放心したかのようにぼおっとする。知恵の方はいつもの精悍な目つきはどこへやら、とろんとした表情で入江を見つめていた。

 入江はそんな知恵を今すぐにでも押し倒してしまいたい衝動に駆られて、ごくり、とつばを飲み込む。しかしその行為に、ここが学校であるという事を思い出させられると、混乱する頭脳を必死に抑えて言った。

「ち、知恵先生……ここは、学校です。さすがに、ちょっとまずいですよ……」

「あっ、そ、そうでした」

 そう言われて知恵もはっと我に返ると、開け放たれたままだった入り口に振り返る。幸い、誰にも見られてはいないようであったが、それまでの行為がフラッシュバックして、かぁっと赤面してしまう。
 慌てて入り口の戸を閉めにいくと、そのまま戸にもたれ掛かって、はぁっと深呼吸をする。だが、こみ上げてくる想いを押し留める事ができず、再び、ふらふらと入江に近づいて切なげな声をあげる。

「でも……あぁ、もう鎮まりそうにないんです。入江先生……だ、抱いてくださいっ……」

 ふるふると身を震わせて、懇願する知恵。
 顔を上気させて男を欲しがる姿に、さしもの入江も理性が崩壊していくのを感じ取る……。

(だめだ。もう、どうにでもなれ)

 欲に負けた入江はが椅子を蹴って立つと知恵を包んで、そのパサついた唇を動かして誘いの言葉をかける。

「……どうぞ、こちらへ」

 入江は知恵を連れ添い、カーテンで覆われた簡易寝室に潜り込んでいく。そこには、入江診療所のものと比べるとだいぶ貧相に見えた真っ白の医療用スチールベッドがあった。
 そこへ知恵を寝かせると、彼女の上に覆い被さっていく。そんな入江を潤んだ瞳で見つめる知恵が、いつになく妖しい雰囲気を声に乗せてささやく。

「生徒たちはもう、ほとんど下校しています……だぁれにも……邪魔されませんわ」

 入江に組み敷かれながら言う彼女の言葉は、戸を閉めて簡易寝室に入っただけの状況を見れば、何の根拠も無い事が分かる。しかし、理性が崩壊しかかっていた彼に火をつけるには十分すぎた言葉だった。

「知恵先生……ッ」 

 入江は再び知恵の唇を奪うと、右の手でサマードレスの下からでも存在を主張する乳房をじわじわとマッサージをかけるようにして揉みしだく。

「んっ、ふぁっ……はぁっ、入江っ先生っ……」

 乳房を優しくマッサージされる感覚に、知恵が吐息を漏らす。……入江の女性経験は殆ど無いと言っていいほどに少なかったのだが、職業柄、人体の知識にかけては一日の長があった。
 だから、どの程度の刺激までなら痛みに変わらないのか、個人差はあるものの、おおよその見当は付くため知恵に我慢を強いる事はなかった。

 そして、もう一つ空いた左の手は彼女の下半身へと向かい、汗で張り付いたドレスの上に浮かび上がる土手の下を指がなぞっていく。
 知恵はその上と下から両方の攻撃にぴくんぴくんと反応を示しながら、切ない声を幾度もあげて悦ぶ。

 やがて、涎を垂らす知恵の唇から入江が離れる頃になると、巧みに動く指にずっとなぞられていた下半身に汗とは違う液体が溢れ出始め、じっとりとドレスのスカート部を濡らしていく……。
 それと同時に、知恵のあげる声がだんだんと嬌声じみたものへと変化する。

「……感じていらっしゃるんですか?」
「だっ、だってぇっ、気持ちいいんです……ものっ」

 入江に敏感なところを弄られ続けて、彼と同じくして経験の薄い知恵はすっかり出来上がってしまった。与えられる快感を享受するたびに、ひときわ大きな反応を示す。
 知恵のあられもない声に興奮してきた入江は、ふと独り言の様につぶやいた。

「ああ。服、邪魔ですね……」

 しかしそれを聞き逃さなかった知恵は、その言葉を待っていたと言わんばかりに入江の首に手を回すと、

「脱がして、下さいますか……」

 と求める。常に人をリードする立場にあるからか、床の上ではむしろリードされる事を好む傾向にあるようだった。
 その言葉に、入江の喉がごくりと鳴る。

(この薄いサマードレスを一枚剥げば、清楚で通る知恵先生に男の欲情を掻きたてる、淫らな肉体が現れるのだ……)

 そう思うと、なぜか服を脱がす行為が異様に背徳感のある行為に見えてきて、手が震える。
 それでも、とろんとした表情で見つめられると入江はまるで操られるかのように知恵のサマードレスを留めるペンダントに手を掛けると、たどたどしくその結びを解いていく。
 興奮しているせいか、ヒトの手術すら行う外科医とは思えないほど時間をかけてペンダントを取り去っていく。

 その間、知恵は入江にされるがままになって「脱がされていく」感覚に酔いしれる。

(いまから私は、清楚の仮面を脱ぎ捨ててケダモノの様になるのね。気に入った男に貪られて喜ぶ、ケダモノに……)

 ぺろりとサマードレスが脱がされると、ドレスからは想像もつかないような過激なデザインで構成されたベージュ色のブラとガーターストッキングに飾られた肉体が露わになる。
 その姿はただ裸身をさらすよりも淫靡さを醸し出しており、普段の姿との激しいギャップに再び入江は喉を鳴らす。
 今度はブラを外そうとホックに手を掛ける……しかし、人体ではない下着になると経験不足が露出し、うまくホックを外す事ができない。

 普通なら、この時点で女性の側から脱いでしまうか、もしくは脱がせ方を教える、というものがパターンだと言えたが、何かに取り憑かれたかのように陶酔していた知恵は、あるひとつの提案を入江にもちかけた。

「入江先生……私の下着、破り捨ててみませんか」

 それは、自身の下着を破り去れというものだった。あまりにも露骨で乱暴さを伴う要求に、入江は戸惑う。

「なっ……いやしかし、そんな、大事な下着を」
「下着なんて買えば済むものですから。ね、破って……」

 わずかの間、良心が葛藤するが結局、知恵の誘惑にたやすく陥落してしまうのだった。入江は「あぁ、自分はだめだな」と思いながらもビリビリと、彼女を守る最後の砦を力任せに破り捨てていく。
 繊維が断絶していく音を聞いて、まるで乱暴を働いているかの様な錯覚に陥った入江は罪悪感と加虐心がごちゃまぜになった興奮に身を任せて、やがて下着のほとんどを知恵から奪った。

 知恵も同時に、自分が提案しながらも男に下着を破り取られるという異常なシチュエーションに、さらに陶酔の度合を深めていく……そして下着のほとんどを毟り取られて裸身となると、欲情しきった表情で入江に組み付いて、囁く。

「ふふふ。すっごい、興奮しちゃいました……。でも、入江先生がまだ服を着たまま。だから、今度は私が脱がしてさしあげます」

 そう言う知恵は、入江のネクタイに手を掛けるとしゅるりとその戒めを解き、そのまま連なるようにワイシャツからズボンまでを一つずつ剥ぎ取っていく。
 そして最後にブリーフをずり下ろすと、ぱんぱんに張った肉棒が姿を現した。思ったよりも巨大なそれに知恵はおもわず、ほぅっと息を漏らす。

「入江先生、素敵……」
「知恵先生こそ、と、とても美しいですよ。本当に……」

 二人は生まれたままの姿となって、改めて向き合う。

「ふふ、私が言うと変ですけれど。綺麗な肌ですね、入江先生」
「……ハハハ、確かに、それは本来私が言うべきセリフですねえ」
「くすくす……」

 そして裸のままで笑いあうと、知恵はするりと入江に抱きついてその胸を彼の胸板に押し付ける。そして先ほど入江がそうしたように、左の手で彼の股間を優しく触りながら潤んだ瞳でおねだりする。

「お願い……私を、留美子を入江先生のモノで満たして……」

 ねっとりと絡みつくような声色で生殖のおねだりをすると、無言で彼女は押し倒された。安いスチールベッドがギシリと鳴ると、注射針を押し込む様にして、入江はそのいきり立つ肉棒を知恵の中へと注入していく。

「ひぃっ、ひぃやっ、いぁぁっ、あゃあぁぁ……」
「う……うぅぅ」

 お互いに脳天が痺れるような感覚を得つつ、ゆっくりとグラインドが開始された。押して引くたびに、知恵の喘ぎが効果音となって交尾を演出する。
 はじめはゆっくりと……グラデーションを描くように、それはだんだんと緩やかなものから、運動と呼べる速度へ変わっていく。
 それにじゅぷじゅぷと粘液が混ざってはじける音と、ぱつんぱつんと下半身の肉と肉がぶつかる音が加わり、そして速度に呼応するスチールの軋む音が二人の喘ぎ声と合わさって、淫らなセッションとなる。

 そうして興奮は高まって行き、やがて知恵の喘ぎが押し殺した悲鳴の様な音へと変わる頃、そのボルテージは最高潮へと達していく。

「い、いりえせんせえぇぇっ……!」
「知恵、先生……ッ」

 こんな時でも役職で呼び合う二人は、しかしその悲鳴と共に絶頂に導かれていき、体が弓ぞりに反り返る。入江は暴発する直前に肉棒を引き抜くと、知恵にうめく。

「胸に……かけていいですか……っ」
「どこでもっ、汚してっ、くださいぃぃっ……あぁっ、ぁぁあっ!」

 ゴムもつけずに結合してしまった以上、今更外に精液を出した所でそれが予防になるかどうか、あてにならないのは入江自身がよくわかっていた。
 それでも膣内で出してしまうのだけは避けたかった彼は、暴発寸前の肉棒を彼女の腹に滑らせると豊満な胸にむけて、黄ばんだ生暖かい液をどりゅどりゅと放出する。
 絶頂を向かえてびくびくと痙攣する知恵の肉体に、次々と降りかかっていくそれは本来の目的を違い、結合の最後に彼女へ淫らな化粧を施す事でその役目を終える。

 そして激しく放出した入江はそのまま自分の出した精液に塗れるのもかまわず、知恵の胸の中へと倒れこむ。汗から精液まで、汁という汁に塗れたぬるぬるの身体で抱き合う二人は、そのまましばしの間、絶頂の後の余韻に浸る。

「ふふ、いっぱい出ましたね……」
「知恵先生……いやらしすぎます……止まりませんよ」
「嬉しい。あぁ、もっとキスしてください……ん」

 そうして荒い息の中に、愛の言葉を睦みあうのだった……。




 一人、四つに隣あわせた机の上で魅音が大立ち回りを演じている。


「入江先生……お慕い申し上げておりました。どうぞ、このメイド知恵をお好きになさってくださいませ……」

「先生、ではありませんよ? ごしゅじんさま、とお呼びなさいっ」

「は、はい。ごしゅじんさまぁ……」

「ふっふっふっふ、だいぶ知恵先生もメイドの心意気が解ってきたようですねぇ」

「あ、あ、私も先生でなくて下の名前で呼んでくださいませんか」

「口答えしていいと誰が言いましたかっ!? よろしい、まだおしおきが足らない様ですねぇ。お注射をぉしなければぁ」

「あぁ、嫌っ、堪忍してくださいまし。お注射だけは~」

「さぁぁ、早くその可愛いお尻を差し出しなさいっ、さぁっ早く!」


 悦にいった魅音が、聞いている方が恥ずかしくなってしまう様な、どこから仕入れてきた知識から出るのかも解らないセリフをだらだらと垂れ流す。
 それを受けて耐性の無い圭一はちょっと前かがみになり、レナや沙都子などはすっかり上気してしまっていた。唯一、しれっとしていられるのは梨花のみだった。

「わかったかなぁ……アルェー? ……くっくっく! ちょーっとお子様には刺激が強すぎたかなぁ」

 そんな仲間の様子に調子づいた魅音はさらに危ない領域へ突入しようとするが、しかし背後に近づく怒気に気づかなかったのは、その空気の読めなさゆえか。
 気配に感づいた他の四人は、すでに蜘蛛の子を散らす様にして各々の席へ戻っている。

「机の上に登っていいと誰が言いましたか、園崎さん?」

「んひぃっ!?」

 そぉっと後ろを振り向く魅音の目に、白いサマードレスさえも黒く染め上げるオーラを身にまとった知恵が幽鬼の様に佇んでいた。その菩薩の様な微笑は返って見る者の恐怖をあおり、カレーを捧げよ、カレーを捧げよと、悪魔の儀式に哀れな子羊を誘う。

「私が倒れた時の働きぶりに多少は目を瞑るつもりでしたが、これ以上は容赦できませんね」
「は、はぎゃーーーーッッッ!」


 久しぶりに校舎中に怒号が鳴り響く。魅音を存分に締め上げた知恵は、他のメンバーにも風紀を乱すような言動は慎むように、とだけ厳命すると教室を出ていくのだった。

 しかし、そうして職員室に戻るかたわら、先ほどの魅音の大演技を思い起こす。そうすると、まだ自分には見せていないが入江の性癖におかしなまでのメイドへのこだわりがある事を思い出す。

(ああいう事をしたら、入江先生は喜ぶのかしら……)

 そんな事を考えていると、保健室の前でその歩みがくっと止まる。閉まっている戸を見つめて、確か今日はまだ入江がいるはずだ――と考えると、自然とその手が戸に掛かってしまう。
 本当のところ一番風紀を乱しているのは私だろうな、と思いながらも、しかし手を戸に掛ける事を止められない。

 そして知恵は、あの時と同じようにがらがらと戸を引いて、ひょっこりと頭を覗かせると、中の入江にまた微笑むのだった。


END

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最終更新:2007年04月09日 20:25