いつもの強気な態度が嘘のように、詩音は落ち着きなく座っていた。
ちらり、と葛西の手の中の物に目をやっては、はじかれたようにそっぽを向いてしまう。
「あ、あの…。」
「はい。」
「私、手で触ってみようかな…って。」
視線を宙にさまよわせたまま、詩音が申し出た。
葛西が苦笑する。
「いえ、詩音さんにはまだ無理のようで…。」
「む、無理じゃありません! 私だってそのくらいなら!」
ムキになって反論する様が、葛西の目にはとても可愛らしく映る。
(そういうところ、茜さんにそっくりですね)
そう指摘されたら詩音は怒るだろうから、彼は口にしない。
「…気付いてませんか? さっきから、手が震えてますよ?」
「え? あ…やだな、もう。」
詩音は震えを止めようと、腕を強く抱きしめた。
「大丈夫ですよ、詩音さんはそこで見ていて下さい。少しずつ慣れたらいいんです。」
「はい…。」
怯えを含んだ視線が、まっすぐに葛西の手元に注がれる。
彼の手の動きを全て目に焼き付けようとするように、詩音は瞬きもしない。
「…あ、にじんできた…?」
「詩音さん、あまり近づきすぎると!…くっ。」
「きゃっ!」
勢いのついていた葛西の手は止まらず、うっすらと黄色を帯びた白濁が詩音の顔に
飛び散った。

詩音はしばし呆然としていたが、やがて、頬に散らされた液体を指ですくいとった。
「大丈夫ですか? 今、拭く物を…。」
「…待って。」
彼女はつぶやき、恐る恐る濡れた指先をくわえた。
「し、詩音さん?」
いつになく慌てた様子の葛西に、詩音が少し照れた笑顔を浮かべる。
「…美味しい、かも。えへへ、私、一歩前進ですね。」
「大躍進です。」
どさっ、と廊下で何かが落ちる音がした。

葛西と詩音が、音の方向に顔を向ける。
「ちょっと…あんたたち、何やってんのよ…。」
眼前の光景が信じられなと言いたげに、魅音が立っていた。


==========================================


テーブルの上には、開缶された缶詰が30個近く並んでいた。
「何って…缶詰に慣れるための特訓ですよ?」
調理用の素材缶から、すぐに食べられるおかずの缶詰まで、被災でもしたのかという勢いだ。
「悟史くんにツナサラダを作ってあげようと思ったら、恐くて缶が開けられなかったんです。」
「…で、葛西に缶きりの使い方を習ってたってわけ?」
落とした買い物袋を拾い上げ、魅音が台所に入ってきた。
「って、詩音、なんで顔にコンデンスミルク付けてるの?」
「開けるの近くで見てたら、ぷしゅっと。…あんなに飛ぶとは思わなかったんですよ。」
ウエットティッシュでフキフキ始めた魅音の手から逃れようと、詩音がいやいやをする。

「だいたい、こんなに開けさせてどうするの? あんた缶詰食べられないんでしょ?」
「葛西が食べます。」
詩音はティッシュから逃げようと首を振りながら、彼を示した。
「…苦労かけるね。」
「…いえ。」
魅音のいたわるような声音に、しかし忠臣は首を振る。
「この件に関しましては、私にも責任がありますので。」
「そうですよー、そもそも葛西が人肉缶詰の話なんてしたのがいけないんです。」
「こら、動かない。ちゃんと拭けないでしょ。」
魅音はテーブルの上を眺めて、小さくため息をついた。
「でも、コーン缶や鯖缶はともかく、コンデンスミルクなんて葛西も困るでしょう。」
「いえ、1本なら飲める範囲内ですので。」
「…は? 飲む?」

「はい、こう…。」
葛西はコンデンスミルクの缶に口を付け、抹茶茶碗のように傾けた。
ちゅー…。
「ひぃ!」
ありえない光景に、魅音は見ているだけで喉まで甘ったるくなるような違和感を覚える。
「やめて、やめて、やめてー!」
ある種の恐怖に顔を背けることもできず、ただ制止の声を上げた。
「あはは。慣れてないお姉には、ちょっと刺激が強かったみたいですねー。」
詩音がいたずらっぽく笑って、魅音の耳元でささやいた。
「葛西はね、小さめのチューブなら蜂蜜の一気飲みが出来るんですよ?」
「いやーーー!!」
マンションに魅音の悲鳴が響いた。

<終れ>

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2007年03月16日 22:10