※途中からです。

前編はこちら



これは勝機だと、沙都子は考えた。
雛見沢大災害が人為的なもので、入江がそれに関与しているとなれば、
彼は重大な犯罪者だ。
入江を牢獄行きにして、悟史と沙都子を保護してもらう。
…あきらめていた未来への希望が生き返るのを感じた。

山に紅葉が広がった頃だった。
「ご主人様。」
三時のお茶の時間。
沙都子は、できる限り自然に聞こえるように祈りながら、入江に声をかけた。
「今日のお買い物に、私も連れていってくださいまし。」
甘えるように、でも不自然に媚びる気配は含ませないように。
さんざん練習した声音で本番に挑む。
入江が少し不思議そうに沙都子を見た。彼が口を開くまでの数秒が、沙都子には
ひどく長く感じられた。
「…構いませんが、どうして?」
「たまにはお出かけしたいですわ。ご主人様の側からは離れませんから…。」
緊張で背中に汗がにじんでくる。
「…でも、沙都子ちゃんの服は、それ以外はありませんよ。」
メイド服。
こんな服を着た沙都子を連れていたら、目立って仕方がない。
「大丈夫ですわ。ヘッドドレスとエプロンを脱いだら、普通のワンピースですもの。」
それでも、黒スーツの入江と並んだら、まるで葬式帰りの父娘のようではあろうけど。
「そうですね、では、お茶が済んだら出かけましょうか。」
「ええ。」
最悪、今回は成果を出せなくても良かった。
連れ歩いても平気だと思わせたら、今後の買い出しに付いてくのが容易になる。

カップを洗って、エプロンとヘッドドレスを外す。
軽く髪を整えて出て行くと、入江は車の前で待っていた。
真っ黒なスーツにサングラス、と、どう見ても明るい職業の風体ではなかった。
「お待たせしましたわ。」
「いえいえ。」
助手席に乗り込もうとした沙都子を、入江がとめた。
「沙都子ちゃん、何か忘れ物をしていませんか?」
「…いいえ?」
心臓が大きく脈打った。
(大丈夫。動揺するな、北条沙都子)
「では、何か、置いていかなければいけない物を、持ってきていませんか?」
「いいえ。」
言い切る。
気弱な態度は、余計に疑念を抱かせる。
「分かりました。」
入江の口元が笑みを作る。
「両手を上げて下さい。」
「か、ご主人様?」
「両手を上げて下さい。」
(気付かれてる?)
演技の笑顔を貼り付けたまま、沙都子は手を上げた。
入江は両手で、ぽふん、と沙都子の体を叩いた。
空港の職員が乗客のボディチェックをするときのような、そんな動きだ。
ぽふん、ぽふん、ぽふん。手が止まる。
彼は沙都子のポケットに手を入れ、中から薬を掴みだした。
「これは?」
予定していた言い訳を口にする。
「帰るのが遅くなってしまったら、外で飲まなくてはいけないでしょう?」
「沙都子ちゃんが持って行かなくても、私が持っていますよ。」
入江は、沙都子が所持していた薬の種類を確認し始めた。
サングラスが邪魔で、彼がどんな表情をしているのか分からない。
「そうでしたの? お聞きしたらよかったですわね。」
「どうして、一回分ではなくて、どれもシートで持ってきているんですか?」
「急いでいましたから、切ってくる余裕がありませんでしたの。」
「注射は? どうしてケースから出したんですか?」
「かさばりますもの。」
「注射も、出先で使うつもりで、持って来たんですよね?」
「ええ。」
「針なしでどうやって?」
「あら…ケースから出したときに、忘れてしまったみたいですわね。」
入江は沈黙した。
それが、沙都子にはひどく居心地が悪い。
彼がサングラスの向こうで何を考えているのかが読めない。
信じようと迷っているのか、あるいは裏切りを確信して自白を待っているのか。
「…沙都子ちゃん、手は、下ろさないんですか?」
「え? あ、もう、よろしいんですのね?」
下ろすとき、緊張しきっていた腕がごまかしようもなく震えた。
沙都子は喉まで出かかった悲鳴を飲み込んだ。
入江がゆっくりと深呼吸する。
「私の部屋に行ってください。」
「…はい。」
ばれた。
きっとばれた。
膝が震える。
これから多分、今までよりもずっとひどいことをされてしまうのだ。
逃げ出したいと思ったとき、悟史の部屋の窓が視界に入った。
(…駄目ですわ)
沙都子の体から震えが止まる。
彼女は殉教者の目で館に戻った。

どこにいたらいいのか迷った末、沙都子は入江の部屋の中央に立っていることにした。
しばらくして彼が入ってきた。
「お待たせしました。」
「いいえ。」
入江は椅子に座り、向かいのベッドを示した。
「どうぞ。」
「はい。」
背筋を伸ばして、ソファ代わりに座る。
沙都子はそのベッドに対して嫌な記憶しか持っていなかった。
入江のベッドの上では、いつもいやらしい事をされる。
「最初に言っておきますが、これからあなたが答えることを、私は疑いながら聞きます。」
「はい。」
当然だ、と沙都子は思った。
「あれをどうするつもりでしたか?」
自分で使うつもりだった、という言い訳はもう通用しないだろう。
今から別の理由をでっち上げるにしても、考える時間で嘘だとばれてしまう。
「上手くいきそうでしたら、警察か病院に届けるつもりでした。」
「そうですか。」
入江はサングラスを外し、普段の眼鏡をかけた。
今日はもう出かけるつもりはないらしい。
「届け出たら、助けてもらえると思ったんですね。」
「はい。」
入江も、北条鉄平のようにこぶしで殴るのだろうか?
沙都子は彼の手を見つめる。
「きちんとお話しておかなかった私にも非はあります。」
…殴らないのだろうか?
いいや、期待をしてはいけない。
「警察にも病院にも、組織の人間の手が回っています。駆け込んでも、沙都子ちゃんが
思うような結果にはなりません。」
「…はい。」
本当か嘘か分からない。
そこまでの力がなくても、牽制のためならそのくらいは言うだろう。
だが、雛見沢をまるごと一つ潰せるような組織なら、本当に可能なことかもしれない。

沙都子が沈んでいると、入江が苦笑した。
「結構ぎりぎりなんですよ。沙都子ちゃんの存在が表に出ると、私も消されるんですから。」
沙都子は、入江の言うことが変だと思った。
「どうしてですの? ご主人様は、その人達の仲間なのでしょう?」
「仲間、とは言えませんね。私は所詮、道具ですから。」
投げやりな言葉とは裏腹に、入江の表情はにこやかだ。
「それも、もう使って済んだ、あとは捨てるだけの道具です。今殺すと目立つから、
ほとぼりがさめるまで延命されているだけですよ。沙都子ちゃんの事があってもなくても、
いずれ私は殺されます。私は大災害の真相について知りすぎている。」
「でも…それじゃあ、どうして計画に乗ったんですの?」
自分も殺されると分かっているなら、雛見沢を裏切る必然なんてなかったはずだ。
「危険な計画がある、って村の皆さんにお話して、皆で戦えば良かったんですわ。」
北条沙都子の言うことなら、雛見沢住人は聞いてもくれなかっただろう。
だが、入江は違う。彼は村の名士だ。どんなに荒唐無稽な話でも無碍にはされないだろう。
最悪でも、その情報を全国に広めれば、組織とやらも手を出しにくくなる。
「そうですね…計画について説明するには、他にも話さなければならない秘密があったんです。」
入江が窓の外に目を向けた。
傾きかけた太陽が、世界を金色に照らしていた。
「…私は、これでも昔は、日本でもトップクラスの脳外科医と言われていたんですよ?」
彼は少し得意そうだった。
微笑んだ表情のまま、かすかにうつむく。
「私は、正しいことをしてきたと思っています。心の底から、患者さんを助けたかった。
…でも、それが全部間違いだったと言われてしまったんです。」
入江の表情は崩れない。
子供から老人まで、雛見沢の患者たちを安心させていたあの微笑だ。
「誰一人、私が正しかったとは言ってくれませんでした。私の治療に感謝して、涙を
流してくれた人たちだって、肯定してはくれませんでした。…毎日毎日、何かしらの
恨み言が届いたんです。かつては私を神だと言ってくれた人から、鬼だ、悪魔だ、と。
電話や、手紙や…あらゆる手段で非難されました。」
入江は微笑んでいる。
…本当に?
「罪には問われませんでした。当時は正当な治療法と認められていたから、と。
でも、皆さん私のことを罪人だと思っていた。」
口の端を上げて目の端を下げたら笑っているように見える。
ただそれだけのことだと、沙都子は理解した。

そんな風に、見た目だけの笑顔を作れる人のことを、沙都子は知っている。
悟史だ。
苦しみを自分の内側にため込んで、誰にも偽物だと気付かれない笑顔を浮かべていた。

沙都子は入江の行った治療というものが、本当は正しかったのか間違っていたのか
なんて分からない。
ただ、彼の傷がどんな風に痛むのかは知っていた。
投石に割れる窓ガラス、まき散らされたゴミ、聞こえるようにささやかれる陰口。
自分が悪かったと思ったなら、それを受け止めることはできただろう。
例えば、食器を割って怒られた。それなら自分の失敗を認めて反省すればいい。
でも、沙都子が「北条」沙都子であることは、沙都子の責任ではない。
理不尽な迫害は全て、沙都子の存在そのものの否定でしかなかった。
自らの正義を信じた入江にとっても、迫害は存在への否定でしかなかったはずだ。

「私は心から雛見沢を救いたいと思っていました。でも、駄目になってしまったんです。
せめて、あと五年あれば…。沙都子ちゃん。」
「…はい。」
「生きた人間を何人も切り刻んで、それでも結果を出せなかった医者を…
雛見沢は許したでしょうか?」
病気が原因で大量殺戮が起きると警告するなら、その病気が本当に存在するという
ことも説明しなければならないだろう。資料の中に、生体解剖を行ったという
記録があれば、それが雛見沢のためであったとしても…。

…入江はたぶん、本当に雛見沢のことが好きだったのだ。沙都子はそう思う。
好きだったから、拒絶されるのに耐えられなかった。
助けて「鬼」と呼ばれるのか、見捨てて「神」と記憶されるのか。
こんな、笑い方さえ忘れてしまった人間に「鬼」であれと強いるのは、沙都子にはできない。

「…監督は、今、幸せでして?」
「いいえ。」
許したいと思った。

ベッドから立ち上がる。
窓の外はすっかり夕焼けで、室内は温かい柿色に染まっていた。
黒いスーツ姿の入江と、黒いワンピース姿の沙都子が向かい合う。
それはまるで葬式帰りの父娘のようだ。
あれから3ヶ月、二人は毎日喪服を着ていたのだと、沙都子は理解する。

椅子に座る入江の元へ歩み寄る。
かつて兄がしてくれたように、梨花がしてくれたように、沙都子は入江の頭を撫でた。
彼には多分、悟史のような兄も、梨花のような親友もいなかった。
入江はひどく驚いた顔で、沙都子の事を見上げていた。
彼は呆然としていたが、あの頃の沙都子のように泣いたりはしない。
(可哀想な人…)
入江は多分、どうやって泣いたらいいのかを知らない。

入江が沙都子の体に腕を回す。
反射的に沙都子の体がこわばった。どうにもならない恐怖心に、体が震える。
それでも彼女は、彼の頭をなで続けた。
「…好きにして下さいまし。監督のしたいように。」
沙都子は、いやらしいことをされるのは嫌いだ。
けれど、それが入江の慰めになるのなら我慢してもいいと思った。

 ▼

その日、沙都子は初めて入江のベッドで眠るだけの夜を過ごした。
「ん…? おはようございます。」
入江が動く気配に、彼女は目を擦りながら体を起こした。
「あ、起こしてしまいましたか、すみません。」
「いいえ。」
入江はベッドの上で、手探りで何かを探しているようだった。
沙都子はベッドから下りると、机の上の眼鏡を取って差し出した。
「これですの?」
「…そんなところにありましたか。」
彼は苦笑して眼鏡を受け取った。

沙都子は両手を組み、ぐっと伸びをした。
ワンピースのまま寝てしまったせいで、あちこちがごきごきする。
それはスーツで寝ていた入江も同様で、肩や首筋を揉みながらうめいていた。
「…玉子は、スクランブルで?」
「はい、それで。私は、悟史くんのお世話をしてから下ります。」
「お願いしますわ。」
とりあえず新しい服に着替え、調理場に移動する。
昨日の買い出しが中止になってしまったので、食材の残りは少ない。
「うー…。」
他に適材がなく、沙都子はスープの具にカボチャを選択した。

調理をしながら、沙都子は昨夜の事を考える。
いつもは、沙都子が嫌がっている事を知っていても強いてくる。なのに、昨日は
沙都子が許可したのに何もされなかった。
(…別に、いやらしいことをしたかった訳ではありませんの?)
平均より発育はいい方かもしれないが、それでも沙都子の体つきは年齢相応だ。
嫌がる事をしたかっただけで、性欲自体は感じていなかったのかもしれない。
そう考えると、沙都子は昨夜の自分の発言が恥ずかしくなった。
(あああ、私、自意識過剰すぎますわ!)
鷹野のように見事なプロポーションをしているならともかく、こんな貧相な体で
好きにしろ、もないものだ。
(消したい! 監督の記憶から昨日の言葉を消してしまいたいですわー!)
動揺しながら作った朝食は、普段よりも塩分過多だった。

スープに口を付けた入江は、一瞬、微妙な顔をした。
「…ごめんなさい、失敗してしまいましたわ。」
食べられないほどではなかったけれど、出来がいいとは言い難い。
「いえ、美味しいですよ?」
「気休めはやめて下さいまし。自分でも分かっているんですから…。」
「いいえ、沙都子ちゃんの作るものは、どれも美味しいです。」
入江は笑って、本当に美味しそうに食べてくれた。
そういえば、今まで入江は沙都子の料理を残したことはない。
「…どうして、私でしたの?」
入江は、何が、とは聞き返さなかった。
「昨日、一晩考えて思い出しました。沙都子ちゃんが好きだったから、連れてきたかった。」
「…好きなら、どうして優しくして下さいませんの?」
「すみません、好きだって忘れていたんです。これから、優しくしてもいいですか?」
懇願するような口調に、沙都子は苦笑した。
「ええ。…でも、そんな大事なこと、もう忘れないで下さいまし。ぼんやり屋さんの
にーにーだって、忘れたりしませんわよ?」
「はい。」
「あと、大人の女の人の代わりにするのも、なしですわ。」
「え? あ、ああ…。」
即答しない入江を警戒する。
「…本当に、嫌なんですのよ?」
「はい、それは、もう。…ただ。」
「ただ?」
「代わりじゃなくて、沙都子ちゃんだから抱きたかった、んです…。」

長い長い沈黙の後、沙都子は気力を振り絞って口を開いた。
「監督、それは犯罪ですわ。」
すでに、いろいろな意味で犯罪者ではあるのだが。
「そうじゃなくて真剣に、16歳になったらプロポーズしようと思っていたんです。
結納して、入籍して、ちゃんと手順を踏んで…。」
「プロポー…。」
沙都子は言葉に詰まった。顔が赤くなる。
「そ、それなら! ここでだって、16まで待って下さいまし!」
途端に、入江の表情が曇った。
「16歳は…遠いです。沙都子ちゃんの次の誕生日まで生きているかも分からないのに。」
「あ…。」
残された時間は、沙都子が思っていたよりもずっと少なかった。

それでやっと、沙都子は現実を受け入れることができた。
二度と目を覚ましてはいけない悟史と、生きることを諦めている入江と、沙都子と。
3人だけの世界は、内側に向かって静かに閉塞していった。

 ▼

それはつまり、存在していないはずの時間だった。

北条悟史、昭和57年6月24日、失踪。推定死亡。
北条沙都子、昭和58年6月24日、失踪。推定死亡。
入江京介、昭和58年6月24日、死亡。自殺と推定。

これが既に決まった結末だ。
真実を訴え出て緊急に消されるか、ここでゆっくり死を待つのかの違いはあったけれど、
3人の記録が書き直しされることはないだろう。

見るはずのなかった雪を手のひらに受けて、迎えるはずのなかった春を過ごして、
沙都子は与えられた猶予を懸命に生きた。
「今年は、冷夏なんですって。」
ベッドの傍らで、沙都子は悟史のためにリンゴをむいていた。
「にーにーは暑いのが苦手ですから、喜んでますかしら?」
悟史は眠っているが、すり下ろして口に入れれば、少しずつ飲み込んでくれる。
「私は、夏はやっぱり暑い方が好きですわね。」
しゃりしゃりとリンゴを下ろしながら、沙都子は穏やかな口調で話し続ける。
「だって、暑くないとアイスが美味しくないでしょう? にーにーは…。」
その時、背後に人の気配を感じて、沙都子は悲鳴を上げた。
立ち上がった拍子に椅子が倒れる。
取り落としたリンゴと下ろし器が、汚れを散らして床を転がった。
「…あ、監督?」
「す、すみません。」
下ろし器を拾おうと身をかがめた入江から逃げるように、沙都子は数歩後ずさった。
「脅かすつもりは、なかったんです。」
「え、ええ。私の方こそ、ごめんなさい。」
「いいえ、雑巾を取って来ますね。」
怒った様子もなく、入江は下ろし器とリンゴを拾って出て行った。

沙都子は入江を許したけれど、沙都子の体はどうしても入江を受け付けない。
目の前にいて、彼が敵ではないと言い聞かせていれば、ふざけ合うような会話もできる。
だが、さっきのように突然気配を感じたり、どんな形であっても彼の手に触れられると、
忘れることのできない恐怖と嫌悪感とかわき上がってくる。
それは死ぬまで消えない記憶なのかもしれない。

せめて夕食は、入江が好きな物を用意した。
どうにもならない事ではあるが、沙都子は、過去の出来事を咎めるような態度を
取りたかったわけではない。
「今日も美味しそうですね。…ありがとうございます。」
気持ちが入江に伝わっていればいいと、沙都子は願う。
「…そうそう、明日買い出しに行きますが、何か欲しい物はありますか?」
「買い出し? 一昨日行ったばかりではありませんこと?」
「ケーキを、買ってこようと…。」
沙都子はカレンダーを見上げた。
「あ、忘れていましたわ。」
明日は沙都子の誕生日。実質的には、沙都子の一周忌。
(1年、生き残れましたわね?)
…致命的に食卓を暗くしそうな感想は、胸の中にしまっておく。
「プレゼントは花を考えているんですが、他の物が良ければ…。」
他に欲しい物がないか、考えてみた。

梨花が欲しい、圭一が欲しい、レナが欲しい、魅音が欲しい、詩音が欲しい、
知恵が、校長が、クラスメイトが、健康な悟史が…。
…それを望めるのは、雛見沢で生きていた北条沙都子だ。

ここにいるのは死んでいる沙都子。死者には花を手向けるものだ。
「いいえ、お花がいいですわ。とびきり豪華な花束を下さいまし。」
「期待していてください。」
入江はグラスに口を付けた。
「そうだ、明日はとっておきのワインを開けましょう。甘口だから、沙都子ちゃんの
口にも合うと思うんです。」
「…私、未成年ですわよ?」
「ジュースで割って、度数を下げれば大丈夫ですよ。」
「監督がおっしゃる、とっておき、は、ものすごく高いんじゃありません?」
「…ん、まあ、それなりに。」
多分、ワイン好きの人間ならもったいないと思うのだろうけど。
「いいですわ、おつきあいします。」
「ありがとうございます。」
入江は、いつも患者に見せていた慣れた笑顔を作った。
それから一瞬だけ、引きつるような表情をした。

身を乗り出して頭を撫で始めた沙都子に、入江がとまどった声を上げる。
「…あの、沙都子ちゃん?」
「監督は、笑うのが本当に下手ですわね。」
「そんなことありませんよ…。」
反論はしたが、彼は沙都子の手から逃れようとはしなかった。

 ▼

「昼は要りませんので。」
「はい、いってらっしゃいまし。」
玄関で見送って、洗濯物を取りに行こうとしたところで、チャイムが鳴った。
「?」
今、鍵をかけて出たばかりなのに、忘れ物でもしたのだろうか?
「はい?」
沙都子は内側から鍵を外し、ドアを開けた。
そこにいたのは知らない男だった。
体格は入江とそう変わらない。作業服を着て、手には、プラスチック製の黒い…。
(スタンガン)
理解するのと、ばちっという衝撃は同時だった。
沙都子は声も出せずにその場に倒れ込んだ。

沙都子に電撃を与えた男は玄関を大きく開き、屋内に侵入してきた。
彼と同じ色の作業着を着た男達が、沙都子の脇を通り過ぎていく。
「あと1人いるはずだ。」
「二階を確認してこい。」
沙都子はうめきながら顔を起こした。
玄関の外で、ぐったりとした入江が引きずられていくのが見えた。
「…だめ、かんと…。」
伸ばした手が、彼に届くはずがない。
男が沙都子の上にかがみ込んだ。
「…あ?」
襟の中にスタンガンの先を押し込まれて、放電端子が首の肌に接触した。
ばちん、と視界が白く焼かれる。
そして沙都子の意識は黒い闇の中に落ちた。

<終>


















…ラストがちょっとぶち切りですが、マイルドに改稿した結果です。
初稿は鬱すぎるかな、と思い変更しました(下の方にのっけときます)。

今後の参考にしますので、よかったらアンケートボタンをポチってください。
(終了しました、ご協力に感謝)

マイルドにして正解(or初稿は読んでない) 17票
いや、初稿の方向に駆け抜けた方が良かったよ 13票

思ったより拮抗してました。
どちらでもよければマイルド傾向、どうしても書きたければ鬱ルート。
で行きたいと思います。















<初稿あらすじ>

ケーキを買いに出て、入江は東京に捕まって死亡。
沙都子はパニックから発症しかけ、それを押さえるために自分で注射する。

薬の副作用で眠り込み、目を覚ましてからダイニングに向かう。

明かりが付いているので、入江が帰宅した喜んで部屋に飛び込む。
そこにいたのは、薬が切れて目を覚ました悟史(拘束は引きちぎっている)。
沙都子を守る、と言いながら叔母(に見える妹)を撲殺する悟史。
このへん軽くスプラッタ。

数日後、別荘にやってくる山狗。
廃人状態で独り言を呟いている悟史と、沙都子の死体を発見(腐敗描写はなし)。
山狗は、死体袋二つと灯油を持ち込む。


エロはないです。
…大丈夫そうでしたら、下にどうぞ。



















 ▼

入江を送り出した後。
いつも通りに家事を片付けて、簡単に昼食をすませて、3時のお茶の準備をして。
そして沙都子は、心の中に不安が芽生えたのを感じた。
(…まだ、3時ですわよ?)
帰っていてもおかしくはないが、帰らなくても心配するような時間ではない。
だが、芽生えた不安感は枝葉をのばし、沙都子の心を浸食していく。
(どうしましたの、北条沙都子。何がそんなに心配なんですの?)
クールになれ、といくら繰り返しても、不安感は一向に納まるところを知らない。
(ただの買い出しですわよ? 監督はちゃんと、ケーキとお花を…)
「!」
不安の原因を理解した。

今日は沙都子の誕生日だ。
昭和57年に悟史が失踪した日だ。

叔母は死に、叔父は出て行った。
兄と二人だけで過ごすはずだった誕生日の夜。
悟史がくまのぬいぐるみを持って帰ってくることを、ずっと待ち続けていた。
一生懸命作った夕食は、唐揚げの味付けを少し失敗していて、
それでも悟史は喜んで食べてくれるだろうと思ってわくわくしていた。
日が暮れてきて、電灯を付けに行くタイミングを逃してしまって、
どんどん暗くなっていく部屋の中で、沙都子は泣いていた。

外を見る。
まだ明るい。
今は昭和59年で、昭和57年ではない。
…入江はきっと帰ってくる。

沙都子は大きく深呼吸した。
(大丈夫、大丈夫ですわ…)
ごくりとつばを飲み込む。
心臓がどきどきしている。
もう一度つばを飲み込んだ。
(…気持ち悪い)
吐き気を感じる。

沙都子は紅茶の缶を出したまま、自分の部屋に行った。
机の引き出しから注射器のケースを取り出し、ワンピースをたくし上げて腹に打つ。
「ふー…。」
寝起きに1本打っているから、今日はこれで2本目。
基本的には入江の指示通りに打っているが、発症の予感がしたらすぐ使うように
言われていた。
(落ち着いて、落ち着いて…)
ベッドに横になり、心を静めるために深い呼吸を繰り返す。

自分たちは1年も放置されていたではないか、と思う。
それを、何を今更…。
…。
…1年は長い。
それは組織が、ほとぼりが冷めた、と考えるのに十分では?

どくん、と心臓が大きく鳴った。
「あ…あう…う。」
沙都子は口を手で押さえ、転げ落ちるようにベッドから下りて再びケースに手を伸ばした。
本当は、次の注射まで3時間は空けるように言われている。
だが、患者が急性発症した際に入江が使う注射は、この数倍の濃度の物だ。
成分的には、まだ上限までいっていないはず。
沙都子は迷いながらも、その日3本目の注射を打ち込んだ。

追加した治療薬が血管内を回り、体が冷たくなるような感覚に襲われる。
吐き気がおさまり、思考がぼんやりとして不安感が和らいでいく。
沙都子は安堵のため息をついた。
この感じは知っている。分校で倒れたときに、入江が注射してくれた時と同じだ。
目を覚ました時は診療所にいて、あのときは「貧血だったようですね」と誤魔化されたが。

沙都子はベッドに倒れ込んだ。
あのときと同じ、強い眠気を感じる。
治療薬を多めに注射した際の副作用らしい。
目を閉じると、彼女はすぐに深い眠りに落ちていった。

 ▼

目を覚ました沙都子は、ぼーっとする頭で目覚まし時計を手に取った。
カーテンが開きっぱなしだった窓からは十分な月光が差し込み、文字盤が読み取れる。
「…2時半?」
12時間近く眠っていたということか。
薬が効いているせいか、精神状態は落ち着いていた。
眠っていて夜の注射をとばしてしまったので、今打たなければならないかもしれない。
沙都子としては、発作予防の意味で打っておきたい。
だが、眠りに落ちる前に変則投与してしまったから、入江に相談してからの方が
無難かもしれない。

もし発症の予感がしたらすぐに対応できるように、沙都子は注射器のケースをポケットに
入れた。

廊下に出ると、階段の下から明かり漏れていた。
(監督!)
ほら、ちゃんと入江は帰ってきた。
今年は昭和59年。昭和57年ではないのだから。
足音を押さえて驚かせよう、なんて余裕はなかった。
ただ、彼が帰ってきてくれたのが嬉しくて、沙都子は階段を駆け下りる。
「お帰りなさいまし!」
ダイニングに駆け込む。
人影がこちらを振り向いた。

沙都子の高揚は一瞬で凍り付いた。
「に、にーにー?」
眠っていなければいけないはずの悟史が、肩越しにこちらを振り向いていた。
やせた体で、こけた頬で、落ちくぼんだ目だけがぎらぎらと鋭い。
(にーにーが、どうして? …あ、夜の点滴交換…誰もしてない)
いつもは入江がやっているけれど、帰ってこなかったのなら、沙都子がするべきだった。
自分の発作で手一杯で、隣室の兄の状態にまで気が回らなかった。
「…また、帰ってきたんだね?」
彼はため息をついて、くしゃっと髪の毛をかき回した。
沙都子は、彼の手首から血が出ているのに気付いた。
(拘束を…自力で?)
視線を下げる。
裸足の足首は、手首と同じように擦れて出血している。
拘束具は革製だった。だが、普通の人間に、それもこんな細い体をした人間に
引きちぎれるような物ではない。
それが可能だったとしたら、彼は、想像も付かないような異常な力を出したことになる。
「落ち着いてくださいまし…。」
ポケットの中でこっそり注射ケースを握りしめる。
これは悟史にも効くだろうか?
「うるさい!」
怒鳴りつけられて、沙都子はびくっと体を震わせた。
「あんたはいっつもそうだ。…帰ってくる。」
ダイニングのテーブルに、ワインの瓶が置いてあった。
悟史の手がそれを掴む。
「あ、それは!」
入江が、今夜開けてお祝いしようと言ってくれたワインだ。
「だめですわ!」
沙都子は思わず悟史の腕にすがりつこうとした。
瓶を振り上げた悟史は、躊躇なくそれを振り下ろした。

ガラスの割れる音がした。
頭部が痛い。頭から肩にかけて、沙都子の体をワインが濡らす。
沙都子は頭を抱えて、床の上でもがいた。
「痛っ、にー…。」
「殺しても、殺しても、あんたは帰ってくる!」
割れた瓶を、悟史は部屋の隅に投げ捨てる。
瓶が粉々に砕けて飛び散った。

悟史は部屋の中を見回して、花束をかかえた乙女のブロンズ像を手に取った。
その像の顔立ちは少し沙都子と似ていた。
「死ね! 死ね! 死ね! 僕たちの前に、二度と現れるな!」
悟史の攻撃に、沙都子の体が容赦なく破壊されていく。
「にー…にぃ、待っ。」
「沙都子は僕が守るんだ!」
…その言葉に、沙都子はもう抵抗できなくなった。
悟史をここまで追い詰めたのは自分だ。
そして今でも、彼を追い詰めた沙都子を守ろうとしてくれている。

沙都子はそろそろと片腕を上げた。
よく、眠っている悟史にしていたように、その頭を撫でてあげたかった。
伸ばした腕が、折られた。

 ▼

山奥の別荘の前で、白いワゴン車が止まる。フロントガラスが初夏の光を反射して
キラキラと輝いていた。
揃いの作業服に身を包んだ男達が車から降り、別荘の玄関に近付いていく。
「しっかし、たかが場所の特定に、ずいぶんかかったな。」
「ああ、入江のセンセーが強情だったってよ。」
「例の新薬使ったとか、使わないとか。」
「はぁ? 素直に吐いときゃ、センセーももうちょっと楽に死ねたのに。」
「こっちにお気に入りのモルモットがいたんだろ?」
先頭の男が玄関を開けようとして鍵に阻まれた。
ポケットからキーホルダーを取り出し、何度か間違えたあと正しい鍵を見つけ出す。

ドアを開け、足音を忍ばせて屋内に侵入した。
そっとドアを開けて室内の様子をうかがった男が、おもしろくなさそうな声を上げる。
「…なんでえ。」
昼前の明るい光が差し込む部屋の中には、ろくな獲物はいなかった。
ついて入ってきた男達も、彼と同じ感想を抱いているらしかった。

予定されていたターゲットは2人。
少女の方は床の上で死んでいた。
少年の方は壁にもたれかかってうつむいていた。ひどく衰弱した様子で、ぶつぶつと
何かを呟いているのでなければ、こちらも死んでいると判断していたかもしれない。

「おい、死体袋2つは、持ってきてるだろうな?」
「はい。…自分は、二階に灯油をまいてきます。」
少年はうつろに床を見つめて独り言を続けていて、彼らの声には反応しなかった。
男の一人が近付く。
「油断するなよ。」
「ええ。ちょっと、何言ってるのかと…。」
少年の声を聞き取った男が吹き出した。
不思議そうな仲間達の視線に、彼は自分の頭を指さしてくるくると回して見せる。
仲間達が笑った。

笑いが納まると、男はテーサー銃を少年の胸に押し当てた。

 ▼

昭和59年 6月26日

正午ごろ、×県 鹿骨市の山中の別荘で火災が発生しているとの匿名通報あり。
所有者の女性(38才)は、別荘はここ数年使用していなかったと証言している。
同日近辺では不審火が多発しており、警察では同一犯による放火とみて調査を
続けている。


<終>

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最終更新:2007年03月18日 08:58