前のお話



圭ちゃんはその日、朝からおかしかった。
なぜか学校には遅刻してくるし、表情もどこか暗く重い。目の下にはクマが出来てるし顔色も悪かった。
休み時間、私とレナは圭ちゃんの席に駆け寄った。
「圭ちゃんどうしたの?遅刻なんて珍しいね」
「……別に」
圭ちゃんは微かに口元をぴくりと震わせると、私からふい、と目を逸らす。
そのよそよそしい仕草に胸が痛む。けれど私はそれを吹き飛ばすように無理やり大きな声で言った。
「別にじゃないでしょー?朝、待ち合わせ場所来ないしさ。レナとどうしたんだろうねーって心配したんだよ?」
「そりゃ悪かったな」
「はう、圭一くん何か怒ってるのかな、かな」
レナが眉尻を下げておろおろと呟く。確かにこの圭ちゃんの様子は怒りから来るものに見えた。
「怒ってねえよ。それより魅音」
圭ちゃんが私の方を見た。それはどこか非難の色を帯びた視線で、私はびくりと肩を震わせた。
「話がある。今日の部活は無しにして、一緒に帰ってくれないか」
「え……そりゃいいけど」
私は少し戸惑って、ちらりとレナを見た。レナも戸惑った視線を返す。
そこで、教室のドアを開いて先生が入ってきた。私たちは急いで席に戻る。
席に着く寸前、ちらりと圭ちゃんを窺う。
圭ちゃんはぼんやりと窓の外を見ている。その様子がかつて毎日のバイトで疲れ果てていた悟史の姿と重なって、私は愕然とした。
嫌な予感が背中を這う。脳裏に奇妙な考えが浮かび上がる。
圭ちゃんが悟史みたいになる?
まさか。ありえない。もう祟りは終わった。鷹野さんをやっつけて全部終わったんだ。
それじゃあ、この身体に纏わりつく嫌な予感は、一体何?
私はそれを振り払うように、頭をぶんぶんと振った。
外ではセミが鳴き続けている。
まるで、あの綿流し前日の時のように。


「梨花、梨花」
羽入が耳元で慌てた声で囁く。私は沙都子に「トイレに行く」と告げて教室を出た。
そして誰もいないトイレに入り、ため息を吐く。
あうあううるさいったらありゃしない。私は不機嫌なのを隠さずに羽入を睨んだ。
「何なのよ、一体」
「梨花、大変なのですよ。圭一が大変なのです」
けれど羽入は全く気にする様子もなく、眉根を寄せてわめき続ける。普段だったら私を不機嫌にしたら何をされるか分からないから、すぐに謝るはずなのに。
私は呆気に取られて羽入を見つめた。
「はぁ?圭一が何だって?」
「様子がおかしいのです。まるであれは、沙都子の叔父を殺した時、それからレナと魅音を殺した時と同じ…」
「それって、圭一がL5状態ってこと?」
「いえ、まだそこまではいってません。でも近いうちに、そうなりそうな雰囲気が…」
「やめてよ。今更発症したっての?冗談じゃないわ」
私は動揺を抑えきれず、苛立った声で言った。羽入はあうあうと口ごもる。
「ほ、本当は…この世界では、少しだけ違う部分があったのです」
「……どういうこと?」
「四年目の綿流し前日。いつもなら悟史が詩音に電話で沙都子を頼むところを、今回は実際に魅音に会いに行って頼んだのですよ」
「……それが圭一の発症と何の関係があるのよ」
「それは……」
羽入が口ごもる。
けれどその羽入の言葉を聞いて、私は少し安堵していた。
「気にしすぎよ。鷹野は倒したし、祟りの真相も明らかになった。仲間を疑う要素なんてどこにもないじゃない」
四年目の綿流し前日、悟史は詩音ではなくて魅音に沙都子を頼んだ。
けれど詩音はひとりで暴走することもなく、自発的に沙都子の面倒を見るようになった。おそらく幾多の世界で味わった経験が、無意識のうちに詩音をそうさせたのだろう。
どこにも問題は無い。圭一が発症する原因なんて、どこにも。
「……梨花は甘いのです」
羽入が俯いたまま、搾り出すような声で言う。私はぎょっとして羽入を見つめた。
「確かに仲間を疑う要素はどこにもありません。けれど、恋人は別です」
「は?」
「魅音と圭一は付き合っています。恋愛感情は、人をいっそう疑い深くさせるものです」
ぽつりぽつりと羽入が呟く。全く話が読めない。
「だから、圭一が何を疑うってのよ」
「………」
羽入は口をつぐんだ。まだ何か、隠していることがあるようだ。
「圭一が魅音を殺すかもしれないってこと?」
「分かりません。全部この世界が初めてなのです。
 綿流し前日に悟史が魅音に会いに行ったのも、圭一と魅音が付き合い出したのも、全部イレギュラーな出来事なのです。
 何が起こるのか、僕にはまるで想像もつきません……」
「じゃあ、手の打ちようがないじゃない。仲間と協力して立ち向かうならともかく、他人の色恋に私たちが干渉するなんて無理よ」
「分かってます。けれどどうか梨花、気をつけて」
私は困惑しながらも、教室に戻った。
沙都子の隣に座って算数のドリルを解くふりをしながらも、上級生の方を窺う。
確かに今日の圭一は少し様子が違う。そして魅音もいつもと違う圭一を見て、何かを感じているようだった。
やっと掴み取った世界なのに。
ここまで来て、圭一が発症するなんて。
私は不安と苛立ちと落胆に、指に痕が付くほど、えんぴつを強く握り締めた。


「みー、今日の部活はお休みなのですか?」
「ごめんね。ちょっと圭ちゃんと約束しててさ」
放課後。私は苦笑いしながら手を合わせた。
意外にも梨花ちゃんは、私と圭ちゃんの休部に相当動揺しているようだった。
「悪いな。ちょっと大切な用事があるんだよ」
「圭一さんをこてんぱんに出来ないなんて残念ですわね。でもまあ、明日もありますし……」
「沙都子、明日そのセリフを言ったことを後悔させてやるぜ?」
圭ちゃんと沙都子が憎まれ口を叩き合っている。
その明るい様子はいつもの圭ちゃんのもので、それを見ながら私は少し安堵していた。
「魅音」
服の裾を引っ張られる。振り返ると梨花ちゃんが、じいっと私を上目遣いに見つめていた。
「その用事に、僕も付き添わせてはくれませんか?」
「……ごめん。それはちょっと無理かな」
「そうですか……」
梨花ちゃんは力なく私の服を離した。表情がひどく沈んでいる。
意外だ。そんなに部活が楽しみだったのだろうか。
「大丈夫だよ」
私は思わず言っていた。梨花ちゃんが大きな瞳をさらに大きく見開いて、私を見た。
「明日はちゃんと部活やるからさ。今日はとりあえず家に帰って、明日のための作戦でも練っててよ。そうだ、久々に料理対決はどう?」
「……魅音」
不意に、梨花ちゃんが手を伸ばして、私の手をぎゅっと掴んだ。
そしてとても真剣な声音で言う。
「約束してください。明日も必ず、みんなで部活をすると」
「え…?うん、いいよ?」
「じゃあ、もうひとつ。もし危険を感じたら、すぐに逃げるのですよ」
私は思わず吹き出した。
「何それ?危険って圭ちゃんのこと?」
梨花ちゃんが頷く。その表情は、とても冗談を言っているようには見えない。自然と私も笑みが顔から引いていくのを感じた。
「……分かったよ。約束する。明日もちゃんと部活をするし、危なくなったらすぐに逃げる。それでいい?」
「はい。お願いです」
梨花ちゃんは私の言葉に安心したのか、そう呟くように言うと手を離す。
すると、圭ちゃんの声が聞こえた。
「魅音、行くぞ」
振り向くと、教室のドアの傍に立って、圭ちゃんが私に微笑んでいた。
「うん」
私は頷く。そして圭ちゃんと並んで歩き出す。
教室から出る間際、私は一瞬梨花ちゃんを見た。
梨花ちゃんは無表情で私たちを見ていた。


ひぐらしの声が穏やかに辺りに響いている。
静かな田んぼの横を、私たちは並んで歩いていた。
「なあ、魅音の家に行ってもいいか?」
圭ちゃんが言う。私は少し驚いて圭ちゃんを見た。
てっきり、帰り道で済む話かと思っていたのだ。
「いいけど…話って何?」
「魅音の家で話す」
圭ちゃんは伏し目がちにそう答えて、歩くスピードを少し速めた。私も慌ててスピードを合わせる。
「……ねえ圭ちゃん」
「何だよ」
硬い声が返ってくる。圭ちゃんの何かを思い詰めたような険しい表情に、胸が痛む。
「あの、えっと、何か怒ってる…?」
言ってすぐに後悔した。学校でレナがした質問を繰り返しただけじゃないか。
不意に、ひぐらしの鳴き声がやんだ。
圭ちゃんはぴたりと立ち止まった。私も足を止める。そして圭ちゃんの背中を見つめた。
圭ちゃんが振り返る。眉も目も口元も小鼻の辺りも、微動だにしない。
その仮面のような表情に冷たいものを感じて私は怯えた。
「心当たりでもあるのかよ、魅音」
「え……」
ざあっ、と強い風が吹く。それは圭ちゃんの髪を揺らし、私の髪を揺らした。
「なあ、心当たりがあるのかよ、魅音」
薄ら笑いをしながら、圭ちゃんは私の顔を覗き込む。妙な恐怖が心臓の裏側を撫でた。
私はとっさに否定していた。
「な、ないよ、そんなの……圭ちゃんを怒らせるようなこと、私しない…」
そう言いながら、思わず俯く。圭ちゃんのその恐い表情を見ていたくなかった。
「……だよな」
圭ちゃんの手が、私の頭の上にぽすっと乗る。
視線を上げると、そこにはいつもの明るい笑顔の圭ちゃんがいた。
「魅音は俺の彼女だもんな。そんなことするはずないよな」
そう言いながら、わしわしと私の頭を撫でる。
ああ、いつもの圭ちゃんだ。私は頭を撫でられながら、緊張がほどけてゆくのを感じた。
「ほら行こうぜ。魅音の家に行くの、楽しみだったんだからさ」
「う、うん!」
圭ちゃんはいつものように元気な声で、再度歩き出す。私も同じように、圭ちゃんの後を追いかけた。
ひぐらしも鳴くのを再開している。その声を聞きながら、圭ちゃんの背中を見つめながら、私は梨花ちゃんの言葉を思い出していた。
『もし危険を感じたら、すぐに逃げるのですよ』
鈴の音ように凛とした梨花ちゃんの声。真剣な眼差し。強く握られた手の感触が蘇る。
危険?圭ちゃんが?
まさか。
私はその考えを振り払うように、歩く足に力を込めた。


「ここが魅音の家かあ。さすがでかいなー」
圭ちゃんの声はどこか嬉しそうにはしゃいでいて、私はその子どもらしさに思わず笑った。
「あはは、でも大きすぎるとかえって不便だよ。婆っちゃと二人暮らしだから、もうちょい狭くてもいいんだけどね」
靴を脱ぎ、玄関を上がり、私は圭ちゃんを居間に連れていった。
「そういえば今日、魅音の婆さんは?」
「……ちょっと習い事で留守にしてるけど、夕方になる前には帰って来ると思うよ」
本当は会合で、今日は夜遅くまで帰ってこない。
けれどそれを圭ちゃんが知ったらどうするか、何となく想像がついて、私は嘘をついた。
圭ちゃんはそれを聞いて、小さく呟いた。
「へえ、そっか。習い事か」
テーブルの傍の座布団に圭ちゃんが座る。
私は台所に行って、新しくお茶を淹れた。圭ちゃんに出がらしのお茶なんて飲ませられない。
そしてお盆にお茶が入った湯飲みをふたつ並べて、居間に運んだ。
テーブルを挟んで圭ちゃんの正面に座り、湯飲みを圭ちゃんに差し出す。
圭ちゃんはお茶を一瞥して、「ありがと」と言った。けれどお茶に手を付けようとはしない。
私は不思議に思いながら口を開いた。
「で、話って何?」
圭ちゃんのはしゃいだ表情が急に真顔になる。私はその温度差に緊張しながら圭ちゃんの言葉を待った。
「魅音、そのことなんだけど…」
不意に電話のベルが空気を裂くように鳴り響いた。圭ちゃんがそれに反応して口を噤み、電話が鳴っている廊下の方に視線をやる。
「ごめん、圭ちゃん。ちょっと出てくるね」
私は席を立った。
「ああ、気にすんな」
圭ちゃんは少し笑って、手をひらひらとさせた。
私は小走りで廊下に出る。
電話は私を急かすようにけたたましく鳴り響く。
受話器を取ろうとして手を伸ばし、自分の手が汗で湿っていることに気付いた。
何で私は汗なんかかいてるんだろう。変だな。そう思いながら電話を取る。
電話の相手はレナだった。
『魅ぃちゃん、レナだけど…』
「ああ、レナ。どうしたの?」
レナはほんの少し躊躇うように、おずおずと切り出す。
『圭一くんとの話は済んだ?』
「うんにゃ、まだ。今圭ちゃんが家に来てるんだ。これからその話ってのを聞くの」
『……そっか。あのさ魅ぃちゃん、圭一くん今日ちょっとおかしくない?』
「へ?」
『朝からどこかよそよそしくて、目つきも恐かったし。こんなこと言うのは悪いんだけど……まるで一年前の悟史くんみたいな』
その言葉を聞いた瞬間、私は思わずびくっとした。
どうしてかは分からない。それはまるで、ずばりと隠し事を見抜かれたような、知られたくない欠点を指摘されたような、そんな気まずい気持ちだった。
でも私が何を隠してたって言うんだろう。指摘されたのは圭ちゃんであって、私は関係無いじゃないか。
そう思いながらも、なぜか私はそれを否定するような言葉を返していた。
「そうかな?結構元気いいみたいだけど。家に来て、随分はしゃいでるし」
『それならいいんだけど…でも魅ぃちゃん、気を付けてね。今日の圭一くん、すごく攻撃的に見えたから…』
ああ、まただ。胸の中で妙な感情がびくりと震える。
私はそれを誤魔化して笑った。
「分かった分かった。心配してくれてありがとね。圭ちゃん待たせてるから、そろそろ、いい?」
『うん。ごめんね電話なんかしちゃって。じゃあまた明日』
電話を切っても、まだあの妙な気持ちは治まらない。
まるで必死に土の中に埋めていたものを、無理やりほじくりかえされたみたいなこの感覚。
手を湿らせている汗も、何となく多くなった気がする。
居間へと戻る足が、どこか重かった。


「随分遅かったな。誰だったんだ?」
居間に戻ると、圭ちゃんが不思議そうな顔で私を見た。私は笑って応える。
「レナだよ。圭ちゃんのこと心配してた」
「心配?何で?」
「さあ。今日学校で圭ちゃんが不機嫌だったからじゃない」
そう言いながら、テーブルの上に視線を走らせると、湯飲みにはまだ手付かずのお茶が入っていた。
圭ちゃんって、緑茶好きじゃなかったっけ?
私は少し残念な気持ちになりながら、すっかり冷めてしまった自分のお茶をごくりと飲む。
気を取り直して向かい合う。
「で、話って何?」
しっかりと圭ちゃんを見据えて、私は聞いた。
「話?何だっけ。忘れちまったなあ」
「は…?」
圭ちゃんはけろりとした顔で笑う。私は訳が分からず眉を顰めた。
「まあいいじゃねえか、そんなの」
「ちょっと圭ちゃん、何言って…」
不意に圭ちゃんが立ち上がる。そして一瞬のうちにテーブルを避け、私の方へと身体を滑らせる。
どうしたのと聞く前に、視界がフッと暗くなり、ぬうっと圭ちゃんの手が伸びて私の肩を掴んだ。
それはとても強い力で、私の身体はそのまま後ろに倒れそうになる。
「やっ…」
私は小さく叫んで身を捩った。その拍子に腕が湯飲みに当たった。
湯飲みがぐらりと傾き、なみなみと注がれたお茶の水面が大きく揺らぐ。
ああ、圭ちゃんのために淹れたお茶が。
倒れながら視界の端で、お茶がゆるやかな動きで畳の上に広がり零れるのを、私は見た。
そして私たちは、ついこの前の体育の時と同じ体勢になる。
「…どういうこと、圭ちゃん」
「どういうことって、見たまんまだよ」
圭ちゃんは全く悪びれる様子も無く、むしろ薄ら笑いさえしながら言う。
やけに余裕そうな声だ。こちらを見下ろすその顔は影で暗くなっている。表情がよく窺えない。
何となく圭ちゃんを遠く感じて、背筋が寒くなった。
「やめて。もうすぐ婆っちゃが帰って来るの」
そう言えば手をどけると思った。けれど、圭ちゃんは口を開く。
「嘘だろ」
それはとても硬く低い口調で、いつもの圭ちゃんの声とは違う。私は頬が強張るのを感じた。
「う、嘘じゃないよ。ほんとにもうすぐ婆っちゃが…」
「今日魅音の婆さんは会合があって、夜遅くまで帰ってこない。違うか?」
どうして。私は目を見開いて圭ちゃんを見つめた。
「どうしてそんなこと知ってるの、って顔だな」
くくっと笑いながら、圭ちゃんの手がやけにゆっくりと、私の頬を撫でる。
骨ばった圭ちゃんの男の子らしい手。普段なら心地良いはずのその感触が、何故か今は不安と恐怖を煽る。
「魅音、嘘ばっかりつくなよ。騙されるのって、結構傷つくんだぜ?」
ドスの利いた低い声が、なぶるように私の耳元に入り込んでくる。
畳に私の両肩を押さえつける、その手の力の何と強いことか。
恐い。
本能的に恐怖を感じる。唇が震える。手は汗で既にびっしょりと濡れている。
私は上擦った声で、叫ぶように言っていた。
「ご、ごめん…」
「俺は別に、婆さんのことで魅音が嘘をついたことを怒ってるんじゃない。もっと他のことだ」
圭ちゃんがあの低くて気味の悪い声で、訳の分からないことを言い出す。
私はおろおろと、ただ圭ちゃんを見つめるしか出来ない。
……訳が分からない?
……本当に?
不意に胸の奥で誰かがぽつりと言った。
それが自分の心の声だとすぐに気付く。
本当に分かってないの?
じゃあ、さっきからずっと続いてる、この不安は何?
本当は勘付いてるんじゃないの?
身体が強張る。背中も手も気持ち悪いぐらい汗でじっとりと濡れているのに、口の中だけがからからに渇いているのが分かる。
見下ろしてくる圭ちゃんの視線が、まるで刃物を私の喉元に突きつけているようで、それがあんまり恐ろしいものだから、私は身動き出来ない。
「魅音、心当たりは無いのか?」
「な、無いよそんなの…」
私は繰り返す。けれど胸の奥で冷静な自分が言葉を紡ぐ。まるで圭ちゃんと一緒に私を責めるように。
嘘だよ。もう勘付いてるんでしょ。
「嘘だろ?魅音には分かるはずだ」
「やだ、やめて!分かんない、分かんないよ!」
私はその冷静な自分に向かって、噛み付くように怒鳴る。
勘付いてる?私が?何に勘付いてるって言うの!?
だっておかしい。知ってるはずないもの。圭ちゃんがそれを、知ってるはずがないもの!!
「分かんないのか?じゃあ言ってやるよ。魅音に思い出させてやるよ」
あれ?……あれ?
違和感が強くなる。
圭ちゃんの肩を掴む力が強い。痛い。放して。嫌だ、何も聞きたくない!
冷静な自分が私を無感情の瞳で見下ろす。圭ちゃんが私を憤怒の表情で見下ろす。
やがてふたりの口の動きが重なり合い、私がひたすら隠していた一つの事実を露呈させようとする。
私はふたりの口から目を離すことが出来ない。
……やだ
「お前が」
お願い、
「悟史に」
やめて!
「抱かれたってことだよ」
圭ちゃんの声が鼓膜に突き刺さる。私は呆然とそれを聞いた。
胸の奥の冷静な自分が霧散して、後には私しか残っていない。嘘つきでみじめな私しか残されていない。
「魅音は俺に言ったよな。誰かと付き合うのも、そういうことをするのも、俺が初めてだって。
 俺嬉しかったんだぜ?魅音のこと大事にしてやろうって、心の底から思ったんだぜ?」
圭ちゃんの手が私の襟元をぐっと掴む。恐怖のあまり喉に声が貼り付く。
「なのにどうしてだよ、どうしてだよ魅音!!」
圭ちゃんが吼えるように言う。そして同時にシャツを左右にぐいっと引っ張る。
ばちっ、という音と共にシャツのボタンが弾け飛び、胸元が肌蹴てブラが露わになった。
ボタンがかつん、と畳の上に落ちる音が響く。
「け、圭ちゃ…」
「……嘘をついたら、罰を受けなきゃな。そうだろ、魅音?」
圭ちゃんが笑う。いや、違う。笑っていない。この表情は笑顔なんかじゃない。
尋常じゃない。私をこうして押し倒すことにも、いや、殺すことにさえ、1ミリの罪悪感も抱いちゃいない。
恐い恐い恐い。
圭ちゃんの手がブラを掴み、乱暴に上に引っ張り上げようとする。嫌だ!
「やだ…やだやだ、やめてよっ」
私は震える声で叫びながら、抵抗しようと腕を伸ばす。圭ちゃんの手を振り払おうと暴れる。
その瞬間、身体がずん、と重くなった。
「…あ……?」
今まで感じたことのない倦怠感。腕が重い。頭が重い。睡魔が私を襲う。
どうして。
「……やっと効いてきたか」
圭ちゃんが口元を歪めて言う。効いてきた?何それ……
不意に気付く。私はとっさに畳に転がる湯飲みを見た。
圭ちゃんが私の視線に気付く。
「そうだよ魅音。魅音が電話に出てる間に、入れといたんだ、薬」
たちまち絶望する。眠っちゃ駄目だ。眠ったらきっと、私に逃げ場はなくなる。
そう思う意志に反して、睡魔はどんどん強くなる。視界がぼやける。圭ちゃんの姿が揺らいで曖昧になる。
意識が薄れる。瞼が鉛のように重い。
私は何か言おうとした。圭ちゃんに言わなければいけないことがある。圭ちゃんに伝えなければならないことがある。
それは、やめてとか、手を放してとか、そんなのじゃなく。
圭ちゃん、圭ちゃ…ん……
白く霧散してゆく意識の中、私は力を振り絞って手を伸ばし、圭ちゃんの名前を呼んだ。
もう圭ちゃんの姿は見えない。けれど私は圭ちゃんに向けて呟く。
圭ちゃん。
ごめんなさい……
そう小さく掠れた声で呟いた記憶を最後に、私の意識は途切れた。


……夢を見ていた。
私は幼い子どもに戻っていて、何かの箱を庭の木の根元に埋めようとしている。
地面をがりがりと必死に掘る。白く細い小さな指は土で黒ずみ、爪の間にも土が入り込んで汚れる。
けれど私は堀り続ける。がりがりと。そして十分な穴を作り上げると、そこにその箱を入れ、また土を戻す。
不意に後ろから声が聞こえる。高くあどけない、わたしのそれとよく似た声。
おねえ、なにしてるの。
詩音だ。私は背中が冷たくなるのを感じながら、顔を向けずに言う。
何でもないよ。あっちに行ってて。
けれど声は続く。
どうしてかくすの。おねえ、わたしにかくしごとなんてしないでよ。
してないよ。
私はそう返事しながら、手は必死に土を戻している。箱が段々とその姿を隠してゆく。
うそだよ。
小さな白い手が私の肩をぎゅっと掴む。黒ずんだ私の手が動きを止める。ああ、駄目だ。まだ箱は埋まり切っていないのに。
うそをついたね。
高い声が、無感情にそう呟く。
私はおそるおそる振り返る。そこには詩音ではなく圭ちゃんがいて、私を見下ろしていた。
許さない。
圭ちゃんがそう低く呟き、私は目を見開く。そして世界は再び闇に包まれる。


はっと目を覚ます。自分の部屋の天井が見える。ああ、夢か。私は安堵して息を吐いた。
「あっ……」
起き上がろうとする。けれど両手ががちゃん、という音を立てて、私は自分の身体の自由が利かないことを知った。
私の両手は頭の上で手錠で繋がれ、さらにその手錠に結ばれた縄は柱にくくりつけられている。
中途半端に脱がされた服はそのままに、私は床に寝かされていた。
「目が覚めたか?」
「ひっ…」
左に圭ちゃんがいた。無感情の瞳で私を見つめている。
「魅音、護身術もやってんだって?抵抗されたら面倒だから、ちょっと縛らせてもらったぜ」
そう言いながら圭ちゃんの手が私の胸を掴む。私は小さく悲鳴を上げた。
「やっぱりいい身体してるよなあ」
圭ちゃんが力を込めて私の胸を揉む。私はその手から逃げるように身を捩った。私は懇願する。
「圭ちゃん、お願いやめて…」
「圭ちゃんじゃなくて御主人様の方が嬉しいんだけど」
まあいっか、と呟きつつ手を放して立ち上がる。私は一瞬びくついた。
圭ちゃんが私の足の方に立ち、両手で私の両足を持ち上げる。
不意に訪れた浮遊感に、私は怯えた。
「なあ魅音、俺さ、魅音にお仕置きするにはどんなのがいいかって考えたんだ」
「え……」
圭ちゃんはまるで今日の弁当の中身何?と聞くのと同じような口調で言い放つ。
「でさ、思いついたんだけど、電気あんまって知ってるか?」


両腕を頭の上で拘束された魅音に、抗う術はなかった。
俺は魅音の形の良い脚に手を当て、ぐい、と持ち上げた。
その拍子にスカートがめくれてずり下がり、白い太ももとその奥のパンツが見えて、思わず息を飲んだ。
魅音は怯えきった目で俺を見つめている。
「でさ、思いついたんだけど、電気あんまって知ってるか?」
魅音はその言葉を聞いた途端、表情を強張らせた。
構わず魅音の股間に足を伸ばす。足の裏で、その柔らかい敏感な部分を布越しにぴったりと感じた。
「やっ…やだ…」
つま先をぐっと曲げる。柔らかい感触。魅音は身を捩って逃げようとする。
「これなら丁度いい罰ゲームになるだろ?」
「お、お願いやめてよぉっ…ひっ」
逃げられないようにがっしりと脚を掴んで、親指でぐりぐりとその部分を刺激する。魅音は小さく呻いて顔を引きつらせた。
「じゃあ、始めるぞ魅音」
「や、やだやだ!やめて、けいちゃ…」
俺は足を小刻みに震わせ始めた。
布越しの振動を受けて魅音が叫ぶ。
「やめ、や…あぁああっ!!」
魅音の顔が赤くなる。眉根が寄せられて、すごく色っぽい。
……悟史にも、あんな顔を見せたんだろうか。
胸の奥で魅音に対する憎悪がむくりと頭を持ち上げる。
「魅音、どうしたんだよ?いつもならこんな罰ゲームへっちゃらだって言って、耐えてみせるじゃねえか」
俺は足に力を込めた。強く強く、布越しに魅音の股間を擦る。
魅音は俺の言葉を聞いて、唇を噛んでぎゅっと目を閉じた。声を必死に耐えている。
俺は構わず続ける。魅音が泣きそうな顔をしたって構うものか。悪いのは嘘をついた魅音だ
「あ……あぁ…」
不意に、魅音の表情が微かに変わる。目を見開き、赤い顔のまま焦ったような表情を浮かべる。
「や…だめ、けえちゃ…お、おねが…やめ、ひゃうっ」
「ん?どうした魅音」
俺は笑いながら足の動きを止め、可愛がるように足の裏で魅音の股間をすりすりと撫でさすった。
その微力な刺激にも魅音は肩をすくめ、小さく呻く。
「や、やめて…わたし、わたし……」
そのもじもじとした様子に俺は気付く。
「もしかして…漏れそうなのか?」
そう聞いた瞬間、魅音の顔が歪むのが見えた。
なるほど。そう言えば帰ってきてからトイレ行ってねえな。お茶も飲んだし。
こんな風に股間を刺激されれば、そりゃあトイレにも行きたくなるだろう。
「……ならしょうがねえな」
「ほ、ほんと!?」
魅音の顔がぱっと輝く。解放してもらえると思ったらしい。
俺は微笑んで、足でずん、と魅音の股間を押した。
「あうっ」
魅音が呻くのを聞いて、俺は足を動かし始める。先ほどよりも強く。
「あ…やあああっ、だめだって、だめだってばぁっ!!」
いやいやをするように頭を振ったせいで髪の毛が床に広がり、魅音の姿をよりいっそうしどけないものにする。
「やめ、けえちゃ、うあぁあっ!!も、もれちゃうよぉっ」
「うん、我慢しろ。魅音が悪いんだから」
泣きそうな顔で魅音はじたばたともがく。手錠に拘束された両手を、狂ったようにがちゃがちゃと動かす。けれどもちろん鎖が外れるはずもない。
魅音はただ股間を擦られているしか出来ないのだ。
俺はガガガガ、と足を動かし続ける。
「も、もれちゃ…やあああああっ…」
「魅音、漏らすなよ?掃除が大変だぞ」
魅音の顔は湯気が出そうなほど赤い。肌蹴た胸元も赤らんでいる。掴んでいる足も汗ばんでいる。
相当辛いのだろう。必死に尿意に耐えるように目をつぶっている。
可哀想だ。めちゃくちゃ可哀想で、めちゃくちゃ可愛い。
もう電気あんまを始めて、魅音が尿意を訴えてから二分は経っただろうか。
俺はラストスパートをかけるように、足を小刻みに強く振動させた。
「魅音、そんなに漏らしたいなら漏らしてもいいんだぜ」
「そ、そんなの、や、やだよぉ…ひううぅううっ…」
魅音の身体が震えている。電気あんまの振動のせいだけではないだろう。
俺は魅音の股間を踏みつける。悟史のモノを受け入れたであろうその部分を貶めるように、ぎゅうっと。
「うああぁっ、ごめ、ごめんなさい…ごめんなさ……おねが、ゆる、ゆるしてけいちゃ…ひうっ」
魅音の唇から謝罪が漏れる。それを聞いて俺は唇を噛んだ。
ごめんなさい?何だよそれ。
何で謝るんだよ。何を謝ってるんだよ。
「ごめんなさ、ごめんなさいぃ…ふあああ…」
潤んだ瞳で、必死に許しを請うように魅音が俺を見る。普段の俺だったら、見たら何でも言うことを聞いてしまいそうな顔だった。
俺は思わず言っていた。
「悟史にも、そういう顔見せたのかよ」
魅音の声が一瞬止まり、表情が驚きへと変わる。
尿道はこの辺りだろうか。俺は狙いを定めてつま先をぐりぐりとめり込ませる。
それが決定的になったらしい。魅音が口をぱくぱくと開いて、呼吸を忘れたかのように目を見開く。身体が仰け反り、白い喉元が見えた。
「ひ…も、もぉ…だめ、やだあああぁああぁっ!!!」
魅音の唇から悲痛な叫び声が漏れて、身体が硬直する。
そして俺は、じわっと足元に広がる、生温い濡れた感触を感じた。


最悪だ。
股間に広がる生暖かい感触。極度に緊張していた身体が弛緩する感覚。そして胸の中に広がる、羞恥と絶望。
「……すげえな」
圭ちゃんが足を止めてぽつりと呟く。最悪だ。私はもう一度そう思った。
好きな人には一番見られたくない姿だ。大股開いてお漏らしだなんて。
「まさか本当に漏らすとはなあ。魅音、お前いくつだよ?」
圭ちゃんの滑稽な動物を揶揄するような言葉が胸を抉る。頭がカーッと熱くなる。死んじゃいたいぐらい恥ずかしい。
涙をぼたぼたと零しながら、私は俯いた。すると圭ちゃんが「さて」と言いながら足を私の股間の上に当てなおす。濡れたパンツがぐちゅ、と音を立てる。
「へ…?」
私は訳が分からず圭ちゃんを見た。圭ちゃんが私の視線に気付いて、笑いながら言う。
「これで終わりなわけねえだろ?せっかくなんだし、もっと楽しまなきゃなあ」
「ちょ…やだ、や…あぅあぁあっ」
漏らしたせいで先ほどよりも敏感になったその部分を容赦無く踏みながら、圭ちゃんの足がガガガガ、と振動する。
パンツがグシュグシュと水音を立てる。頭の中がぐちゃぐちゃになる。下半身が熱い。私は馬鹿みたいに大きく喘いだ。
「ああぁあああっ!!ひゃうううううぅうっ!!」
最初はくすぐったかったはずの感覚は、今や快感へと変わっていた。
乱暴に股間を踏まれて擦られる。それがこんなに苦しくて気持ちいいなんて、知らなかった。
恥ずかしくてたまらないのに、どうしても身体を圭ちゃんの足に押し付けてしまう。唾液が開きっぱなしの唇からたらたらと零れる。
「ふあっ、だめ、ひう、んああああああ…」
「魅音、随分気持ち良さそうだな?股間踏まれるだけで感じるなんて、おかしいんじゃねえの」
圭ちゃんの熱を孕んだ声が耳に届く。
確かに私はおかしいのかもしれない。圭ちゃんの足の指がぐりぐりと股間にめり込み、私は叫びながら身を捩る。本当に動物みたいだ、私。
下半身がただ熱くてむず痒くて、どうしようもなく苦しくて、おかしくなる。
身体ががくがくと上下に震動する。手錠に繋がれた腕が擦れて痛い。血が出てるんじゃないだろうか。
ひくひくと喉が痙攣する。唾液が胸にぽたりと落ちる。
頭が熱でぐらぐらしてぐるぐるする。股間に圭ちゃんの足があって、それがどうしようもなく熱くて、ぞくぞくして、ああ、もう分かんない。
ひ、ああ、やだ、そんな、踏んじゃだめ、そう思うのに、声帯が壊れたみたいに、喘ぎしか出て来ない。
う、また、あっ、やぁ、んうう……だめ、だよ、けいちゃん……
くすぐったい。またおしっこがでそう。熱い、あついあついあつい。
もう、ぜんぶ、どうでも、いい。あついから、もう、いい。あぁあ…あついよぉ……
「ふわ、ふあああああぁああああっ!!!!」
股間で圭ちゃんの足が強く振動を続ける。私は身体を反らし、ぶるっと大きく震えた。
「……魅音、イッたのか?」
圭ちゃんが聞く。分かってるくせに。私は放心状態で、ぐったりと床にもたれた。
ようやく圭ちゃんの足が止まる。
「あーあ、びしょびしょだな。きったねえ」
圭ちゃんが私のスカートをめくって中を覗き込む。
「濡れて気持ち悪いだろ?脱がしてやろうか」
私はその言葉に反応を返すことが出来なかった。呆然としていたのだ。
何やってんだろう。婆っちゃと一緒に暮らしてるこの家で、園崎本家で、大好きな男の子に股間を踏まれて、おしっこ漏らして、私本当に何をやってるんだろう。
真っ暗だ。もう全部真っ暗だ。私は涙が頬をだらだらと流れるのを感じた。歯を食い縛ってきつく目を閉じる。
圭ちゃんが足から手を放す。私の両足はようやく解放され、濡れた床の上に下ろされた。


私の足を向けた側から圭ちゃんが離れて、私の横に来る。
「魅音」
圭ちゃんが私を呼んだ。
「どうして悟史に抱かれたんだ?」
ぽつりぽつりと静かな声が耳に届く。私は答えずに顔を背けた。
すると圭ちゃんが私の胸を掴む。とても強い力で。それは鈍い痛みを私に伝えた。
「うあっ」
唇から悲鳴が漏れる。痛い。
「答えろよ、魅音。どうしてお前は悟史に抱かれたんだ?」
圭ちゃんは手にぎりぎりと力を込める。胸が潰れてひしゃげそうに痛い、苦しい。私は掠れた声で呻いた。
「……すきだったの」
好きだった。愛しかった。切なかった。
悟史に抱かれて、この上なく幸せだった。
夕方。バス停。熱と吐息。触れ合う肌。ひぐらしの声。
あの時の情景が一瞬にして脳裏を駆け巡る。私は唇が震えるのを感じた。
一瞬、圭ちゃんが動きを止め、そして再度口を開く。
「へえ。じゃあ俺は?」
圭ちゃんは手の力を弱めない。むしろ先ほどよりも強くなってる気がする。痛い、いたいいたい。
私は圭ちゃんの言葉の意味が分からず圭ちゃんを見た。圭ちゃんは無表情で私を見つめている。
「俺が悟史に似てたから、俺と付き合ったんだろ?悟史が帰ってきたら俺のことは捨てるのか?」
私は驚いて目をしばたかせた。何を言ってるんだろう。そんな訳がないじゃないか。
確かに圭ちゃんには悟史に似たところがある。圭ちゃんに惹かれたきっかけがそこにあると言われれば、否定は出来ない。
でも圭ちゃんは圭ちゃんだ。私が今好きなのは圭ちゃんだけだし、悟史が帰ってきたとしてもそれは変わらない。
だから私は胸を圧迫されながらも、途切れ途切れに言った。
「私が、今、好きなのは、悟史じゃなくて、圭ちゃんだよ」
圭ちゃんは、胸を掴む力を強くすることをやめない。爪が肌に突き立てられて、その部分が赤らんでいる。苦しくて息を詰めた。
「嘘だ」
圭ちゃんの、獣が唸るような低い声が響く。背中が恐怖で粟立つ。
「俺のことなんて好きじゃないくせに、俺から逃げようと思ってるくせに、お前はこうやって俺を何度も騙すんだ」
圭ちゃんの手が一瞬胸を離れる。安堵する暇も無く、圭ちゃんの指がブラをずり下ろした。
胸が露わになり、乳首が外気に触れる。私は身体を強張らせた。
「俺はもう騙されねえぞ。魅音を罰して、逃げられないようにしてやる」
うわ言のようにそう呟く。どうしてこんなに疑うんだろう。本当に、こんなにちゃんと好きなのに。
「今まで俺を拒んでたのは、悟史が戻ってきたら心置きなく悟史と付き合うためだろ?悟史がいない間に他の男と遊んでましただなんて口が裂けても言えないもんな」
悔しくて新しい涙が滲んだ。
「何泣いてんだよ。逃げられないと思うと、悲しくて涙が出るってか?」
私のせいだ。
私が自分を守るために嘘をついたせいで、圭ちゃんは私が信じられなくなってしまった。
頭の中を、邪気の無い明るい笑顔で私の頭を撫でてくれた圭ちゃんの姿がよぎる。
目の前の圭ちゃんは、何もかもを拒絶した傷ついた瞳をして笑っている。
私のせいで圭ちゃんは傷ついたんだ。私が圭ちゃんを傷つけたんだ。ごめん、ごめんね圭ちゃん。
戻さなきゃ。元の圭ちゃんに、私が戻さなくちゃ。
「……んね」
「は?」
「ごめんね…本当に、ごめん……」
圭ちゃんの表情が一瞬止まる。
「はっ、なるほどな。やっぱり俺を懐柔する気か。悪いと思うんなら、俺の気の済むようにやらせろよ」
圭ちゃんはそう吐き捨てるように言うと、私の胸に顔を近づける。私は言った。
「いいよ。圭ちゃんがしたいなら」
圭ちゃんが私を見た。
「その代わり、気が済んだら、私のこと許して。そして、前みたいに笑って?」
返事は無かった。


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最終更新:2007年04月09日 23:53