それは、存在しない世界。
或いは、存在しても書き留められる事のなかった世界。
それは穏やかで、ルールは閉じ込めれていて、だから何も起こらなくて、誰も涙を流さない世界。


「悟史君、ホワイトデーって知ってますか?」
「何だいそれ」
「何年か前から出来たらしいですよ、バレンタインデーの対になる日」
「対…?」
「バレンタインデーに女の子がチョコをあげるでしょう?そのお返しを一ヵ月後の3月14日に男の子があげるんです」
「へぇ、じゃあ僕が詩音に何かあげるんだね」
「そうなんです。期待してますよー?」
「ええっ! そ、そうだなあ…むぅ…」

 本気にして眉を顰める悟史君が愛おしい。

「うそうそ、あんまり気負わないでください。一緒にいられるだけで嬉しいんですから」
「むぅ…」

 先月のバレンタインデーに私は悟史君に輸入物のチョコレートをあげた。
 私のお小遣いはそんなに多くはないから、6粒入りのそれでも大奮発だった。

「あのチョコ、美味しかったですか?」
「美味しかったよ!中がとろーっとしてた…」

 幾つかは沙都子の口に入ったのかなと苦々しい邪推をしたが、その無邪気に細められた目を見ていると
悟史君が私のプレゼントに喜んでくれた事を純粋に喜ぶ余裕が生まれてきた。
 悟史君の唇が好きだ。ピンク色で女の子みたいにぷるんとしていて、笑うとぴんと張る。

「詩音は何がほしい?」

 一瞬思いを巡らす。
 可愛い人形? ふわふわのぬいぐるみ? ちらちら光るアクセサリー? 抱えきれない程の花束?

「だーから、何にもいらないんです。悟史君と一緒にいられれば良いんです。」

 私には予感があった。いや、記憶と言った方が正しいかも知れない。
 悟史君が私に笑いかけてくれなくなる記憶。私の頭を撫でてくれなくなる記憶。
 だからその言葉は真実だった。
 悟史君は、むぅ、と呟いてまた喫茶店の大きな窓の外に目をやる。

「お姉だけですって、そんなのお願いするの」
『そっかなー? 普通なんじゃないの、若い二人だったら…」』

 電話の向こうのお姉はうひゃひゃひゃと少し下品に笑った。わざと。

『でもさ、何かくれっつったって欲しいモノってそれ以外ないんだよねー』

 溜息を吐きながら圭ちゃんを少しだけ不憫に思う。

「お姉はガンガン押せるタイプじゃないと思ってましたが」
『そりゃ園崎家次期頭首、此処一番には押さなきゃねえ』

 この年頃の女の子のお喋りは取り留めなく続く。殊それが恋人の事ともなれば尚更だ。

『ま、とにかく詩音も私みたいに押してみるこったねー!」』
「はいはい、参考にさせていただきます」

 いつものように挨拶して受話器を置く。

 葛西が用意してくれた食事をつつきながらも悟史君にどう言おうか悩んでいた。
 気のない様子で切ったハンバーグを転がす私を葛西が心配そうに覗き込んでいる。
 私の不安を消す方法。叔母の所に厄介になっている悟史君の負担にならない私へのプレゼント。
「一緒にいるだけ」と呟いてみる。限りなく正答に近い回答だと確信する。
 ご飯をよそっていた葛西が怪訝そうに私の方を振り返るので、私はにっこり笑って、
このハンバーグ美味しい! と言ってあげる。

「私ね、悟史君がいいです」
「…ふぇ?」
「だから、ホワイトデー。悟史君がいい」

 悟史君の目はよくわからないと言っている。これ以上直接的に言いたくない。

「あと一週間しかないでしょう? 私からのリクエストです。」
「う…うん…」

 悟史君のシャツの袖を軽くつまんで、少しだけ手を触れさせる。
 色とりどりのショーウィンドウを眺めるふりをして、私は鏡越しの悟史君の顔を見る。
 ぽんやりと視線の定まらない顔。半歩後ろを歩く私から見える悟史君の耳は赤かった。
 その赤さがたまらなく愛おしくて、指先を悟史君の手の平に回してみる。
 包んでくれた悟史君の手はとても温かかった。

「じゃあ、また」
「はい」

 悟史君の自転車のブレーキが軋んだ。

「次はいつかな」
「一週間後に」
「…むぅ、遠いなあ」
「私も早く会いたいです」
「……むぅ。僕も。」
「きっと一週間なんてすぐですよ。じゃあ」
「詩音、またね。」

 自転車に腰を入れてこぎ始める悟史君を見送る。
 夕日が照って悟史君のシャツを染めていた。
 悟史君が毎日雛見沢に帰らなくて済むようになればいいのに。
 そうしたら夕暮れが大好きになるのに。
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最終更新:2023年08月16日 11:49