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人間をおとしめるとはどういうことか

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『すばる』2008年2月号

人間をおとしめるとはどういうことか

――沖縄集団自決裁判に証言して
大江健三郎

(傍点は太字にした)

1

 秋の終り、若い時には桜の花の美しさがわからなかったように紅葉にも目を惹かれなかった(つまり個別の花や葉に目をこらしても、集団をなすそれには鈍感だった)私が、この日頃紅葉にじっと見とれていると、老齢にからめて家内にからかわれる私が、新幹線の遠山の眺めに顔を上げる余裕もなく、裁判の陳述書、書証、その副本の類に熱中していた。

 その私に、距離を置いた席から振り返ってくるのが気になった外国人女性が、名古屋を過ぎて時がたち、書類をしまい老眼鏡をいつもの丸眼鏡に戻した私の脇に立って、八年前、ベルリン自由大学で教わった学生だが、記憶にあるか、と尋ねかけた。

 私はもう中年の知識人に見える相手に、生き生きした娘の面影を見出した。ドイツの小説の古い岩波文庫の翻訳を、自作の準備に整理していて、意味があいまいに感じられる箇所を、ドイツ語の原文に対照してもらい、ずいぶん助けられた人。

 ――あなたに教えてもらったクライストの『ミヒャエル・コールハース……』を引用した長篇を、この冬に出します、あの際は長い時間ありがとう。

 私はそれまで書類を載せていた隣りの座席に坐ってもらい、彼女が会社関係の弁護士として東京―ベルリンを往復している、という近況を聞き、自分の話もした。ベルリン自由大学の講義でも二週間をあてたが、一九四五年の沖縄戦のはじめ、慶良間列島で七百人に及ぶ非戦闘員の島民が、家族ぐるみ集団自殺をとげた。講義の後、日本軍の強制について論じている『沖縄ノート』*1を叩き台に質問が集中したが、自分は二年来、二つの島の旧守備隊長と遺族から名誉毀損で訴えられていて、これから大阪地裁で被告として最終の証言をしに行く。そういって私は、整理したばかりの裁判の論点を説明した。

 ――ドイツで訴訟が行なわれているとしたら、ガス室で殺されたユダヤ人は自分の意志で死んだ、と言い出されたようなものね、といってから、法廷が初めての経験である私に、彼女は私らの共通語である英語で、あなたへの examination in chief はあなたの側の弁護人によるものだから、そちらはいいけれど、怒りやすいブロフェッサーには、cross-examination が厄介ね、と憂い顔をした。

 それから(私はこの人がいかにも娘むすめしていた顔で、なにか特別な熟語を私が日本語で引用するたび、それはやまと言葉で、何といいますか? と質問し、それこそ厄介だったのを思い出した)、主尋問の方はいいとしてといって続けた方の英単語を、日本語で説明するつもりらしく彼女はこういったのだった。

 ――根掘り葉掘り尋問、ということですから……

 三時間後、私は彼女がそのように訳した、つまり反対尋問を受けていたが、やまと言葉というにはためらいのある彼女の言い廻しを思い出すとおかしく、幾らかなりと平常心に戻れたものだ。

 その朝の新幹線に乗るまでも、私が被告として尋問を受けるかたちで証言することについて、準備をしないできたのではなかった。私が、そして私の『沖縄ノート』をふくむ沖縄関係の三冊の著作の刊行について岩波書店が、渡嘉敷島の旧守備隊長の実弟赤松秀一氏、座間味島の旧守備隊長梅澤裕氏を原告とする、名誉毀損裁判の提訴を受けてから、私は自分に関わるものに限らず、年々更新されている沖縄戦資料を読むことを始めた。もとより『沖縄ノート』も検討した。この岩波新書は一九七〇年九月に刊行されているが、私はこの本にまとめた文章を六九年六月から七〇年四月にかけて雑誌『世界』に連載するかたちで書いた。

 ただ、序章だけは、六九年の一月に書いたものだ。この年のはじめ、沖縄県人会事務局長として、沖縄返還運動の、本土における中心的な働き手であった古堅宗憲(ふるげんそうけん)氏が、その事務所のあった日本青年館の火災で死亡した。その死を悼んで書いた文章で、もしこの出来事がなかったとすれば、私が個人的な学習カードとして作っていたものから、この時機に岩波新書『沖縄ノート』としてまとめる運びにはならなかっただろう。

 後にのべることになるが(それについて書いた箇所が、今回の裁判の直接の争点とされている)『世界』連載を続けている間に、渡嘉敷島の旧守備隊長が沖縄を訪ね、その来島に抗議する人々との間に衝突が起こった。私はそれをめぐり、とくに沖縄現地の二つの新聞の報道にもとづいて、『沖縄ノート』の終りの章を書いた。沖縄戦から二十五年たっての、日本人の沖縄についての考え方・感じ方を、根本的に再考しようとした。それが『沖縄ノート』をしめくくる主題ともなった。主題は連続して、いま現在の私のものでもある。私は三十七年前の本について(のみならず)、いま現在の思いを述べることもできる機会として受けとめて大阪地裁への陳述書を書いた。数年ごと、書庫の全面的な整理を繰り返してきた私には(それをやらなければ、書庫のある二階が、大きい地震を待たず崩れ落ちると、建築家の友人に警告されてのこと)『沖縄ノート』を書いた際の資料はなく、新しい書物は入手しやすいけれど、この裁判にあたって原告、被告側それぞれに法廷に提出する準備書面、それらにそえられる資料のコピーをもらったのが有効だった。

 さらに自分で集めた新資料のひとつに、弁護士徳永信一氏が『正論』(二〇〇六年九月号)に発表されている論文*2がある。そしてそれは、後になって考えたことだが、この原告側弁護士による私への、根掘り葉掘り尋問に向けて、あらかじめ私に準備をうながすところもあったのだ。徳永氏は次のように書いていられた。

 《……平成12年10月の司法制度改革審議会において曽野綾子氏は、大江氏が『沖縄ノート』で赤松元大尉を「罪の巨塊」などと《神の視点》に立って断罪したことを非難して、こう述べている。

「それは『沖縄県人の命を平然と犠牲にした鬼のような人物』という風評を固定し、憎悪を増幅し、『自分は平和主義者だが、世間にはこのような悪人がいる』という形で赤松元大尉を断罪し、赤松隊に所属した人々の心を深く傷つけた…それはまさに人間の立場を越えたリンチでありました」(同審議会議事録)。》

 曽野綾子氏の『ある神話の背景―沖縄・渡嘉敷島の集団自決』に書かれている、この主題についての文章をそのまま(つまり引用のなかで後略とされる箇所は、この本の著者の記述どおり)写すと次のようである。

 《大江健三郎氏は『沖縄ノート』の中で次のように書いている。

「慶良間の集団自決の責任者も、そのような自己欺臓と他者への瞞着の試みを、たえずくりかえしてきたことであろう。人間としてそれをつぐなうには、あまりに巨きい罪の巨塊のまえで……(後略)」

 このような断定は私にはできぬ強いものである。「巨きい罪の巨塊」という最大級の告発の形を使うことは、私には、二つの理由から不可能である。

 第一に、一市民として、私はそれほどの確実さで事実の認定をすることができない。なぜなら私はそこにいあわせなかったからである。

 第二に、人間として、私は、他人の心理、ことに「罪」をそれほどの明確さで証明することができない。なぜなら、私は神ではないからである。》

 もっとも、ここに引用した曽野氏の発言、文章はそれが行なわれてからすでに時日が経過しているから、修正がなされているのではないか、といわれるかも知れない。そこで二〇〇七年十月二十三日の産経新聞「正論」欄への、曽野氏の寄稿*3からあわせ引用しておく。

 《1970年、終戦から25年経った時、赤松隊の生き残りや遺族が、島の人たちの招きで慰霊のために島を訪れようとして、赤松元隊長だけは抗議団によって追い返されたのだが、その時、私は初めてこの事件に無責任な興味を持った。赤松元隊長は、人には死を要求して、自分の身の安全を計った、という記述もあった。作家の大江健三郎氏は、その年の9月に出版した『沖縄ノート』の中で、赤松元隊長の行為を「罪の巨塊」と書いていることもますます私の関心を引きつけた。

 作家になるくらいだから、私は女々しい性格で、人を怨みもし憎みもした。しかし「罪の巨塊」だと思えた人物には会ったことがなかった。人を罪と断定できるのはすべて隠れたことを知っている神だけが可能な認識だからである。それでも私は、それほど悪い人がいるなら、この世で会っておきたいと思ったのである。》

 十一月九日の法廷で、私に先だって証言された原告、赤松秀一氏は、『沖縄ノート』のことを知ったのは曽野氏の著書をつうじてであり、『沖縄ノート』を入手はしたが、兄についての箇所を飛ばし読みしただけだ、と証言された。

 もうひとりの原告、座間味島の旧守備隊長梅澤裕氏が怒りを覚えられたというのも、『沖縄ノート』を直接読んでというより『ある神話の背景』に導かれて、と見るのが妥当に思える。梅澤氏が『沖縄ノート』を読んだのが、この裁判が始まって以後のことだ、という証言もなされている。旧隊長自身によって。

 原告側は、一九四五年の渡嘉敷島の守備隊長について『沖縄ノート』が「極悪人」としているむねいうのであるが、私は極悪人はもとより悪人という単語すら、この本に一度も書きつけてはいないのである。なぜかといえば、それが『沖縄ノート』を書いた私の主題とは関わることのない言葉であったから。『沖縄ノート』を書いていた私に、かれらを悪人とする認識は無縁のものであったからだ。

 しかし赤松秀一氏の「陳述書」*4にはこう書かれている。

 《……大江健三郎氏の「人の罪をこのような明確さでなじり、信念をもって断罪する神の如き裁きの口調に恐怖を感」、そこに描かれた神話的大悪人の話に疑問をいだかれた曽野綾子氏は、昭和45年9月に大阪で行われた慰霊祭参加報告会を皮切りに、多くの関係者に積極的かつ精力的に取材され、関連文献を調査され、ついに昭和48年5月、『ある神話の背景 沖縄渡嘉敷島集団自決』を出版されました。》

 そして赤松秀一氏は、曽野氏の本が出たことで赤松旧隊長の名誉は守られたと考える。ところが氏にとって新しい状況が起こる。

 《平成16年、兄と陸軍士官学校で同期だった山本明氏が私に会いに来ました。兄の話をされましたが、私は、『ある神話の背景』の出版で、全て済んだことだと言ったのですが、山本氏は、まだ生きている話だと言いました。私は、その後、弁護士と会って、学校の歴史の教科書にまで、軍が自決命令を出したことが書かれていることを知りました。教科書に書かれているということは、歴史にまでなっていることと同然です。私にとっては、これが一番ショックでした。さらに、『鉄の暴風』もまだ廃刊されずに出版を続けており、岩波書店では『沖縄ノート』も版を重ね、兄を極悪人であると決めつけた内容が修正もされずに書かれて売られていることを知りました。》


3

 これらの資料を読んだことに立って、私の証言は、曽野綾子氏の『ある神話の背景沖縄・渡嘉敷島の集団自決』の、『沖縄ノート』に関わる記述が(意識してか、あるいは無意識的にか、それこそ私の知りうることではないが)あきらかな誤読によってなされていることを、説明するものとなった。

 私は『沖縄ノート』で、日本の軍、沖縄の第32軍、そして二つの島の守備隊が、そのタテの構造ぐるみ、七百人にも及ぶ島民に「集団自殺」の死を強制した「罪」を、(ここでとくに注意をうながしておくが、大阪地裁の法廷で「集団自決」という言葉が使用されているのにならって、私は自分の陳述書とそれにもとづく証言でもそのようにした。しかし、沖縄で長く議論されてきた、女子供をふくむ非戦闘員の島民たちの自殺を、自決と呼ぶことは不当だとする議論に私は説得される。そこでこの文章以後、私は集団自殺という言葉のみを用いる)「神の視点」に立ってではなく、人間の目で批判した。この戦争犯罪が、一個人の(かれが悪人だったゆえの)仕業だった、とは考えないからである。

 私は、曽野綾子氏の立論がテクストの誤読によるものであることを証言したが、まず『沖縄ノート』から、問題部分に傍点して引用し、あらためてそれを詳しく説明したい。

《人間としてそれをつぐなうには、あまりにも巨きい罪の巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き伸びたいとねがう。》

 かれとは渡嘉敷島の守備隊長である。罪の巨塊は、「巨きい数の死体」である。そのまえに立つかれ罪の巨塊だ、と読みとるのは、なにより文法的にムリじゃないだろうか?

 私が『沖縄ノート』にこの文章を書いた時、私の頭のなかには沖縄タイムス社で資料を見せてもらった期間に接した(後に、米軍撮影によるとして新聞紙面に載ったものもふくまれていた)渡嘉敷島の小さな窪みに向けての斜面で、少女と、若い母親と幼児、そして老人の男の下半身の写った写真など、数かずの画像があった。そして私は、渡嘉敷島の山中に転がった三百二十九の死体、と書きたくなかった。私はそれより他の言葉を探した。その私に浮かんだのは、他殺死体を指す言葉として覚えている corpus delicti という単語だった。大学受験に失敗した私は、浪人生活の一年をお茶の水の予備校で過したが、数学と理科の四科目が弱点であることは、毎週の模擬テストで骨身にしみてわかった。そこで私はそれらを集中して復習することにし、英語は高校生にも購入できる値段で神田の古書店にいくらでもあったペンギン・ブックスの緑色表紙、つまりミステリーを読むという、息ぬきも兼ねた方法をとった。そして私は、「死体なき殺人」というたぐいの小説でこの単語に出会い、しっかり辞書を引いて覚えていた。

 corpus delicti には二種の英語訓みがついていたが、もともとのラテン語では、corpus が身体、有形物、delicti が罪の、ということで、実際に法律用語として使われていることも知った。私はそのまま、罪の塊という日本語にした。それもあれだけの巨きい数という意味で、『沖縄ノート』では罪の巨塊とした。巨きい巨塊なら、同義語反復といわれるかも知れないが、あまりにも巨きいとすれば、巨塊のという漢字の強調であることがはっきりすると判断したのでもあった。


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 このようにして、主尋問と反対尋問に答える私の証言は、まず『沖縄ノート』の、原告たちから提訴されている箇所が、この本のテクストの正しい読み方に立って問題化されたというよりは、その誤読にもとづいている、ということを証明するものになった。そしてもうひとつの、尋問での間題点についても、あらかじめ私には、先にそこから引用した原告側弁護士、徳永信一氏の論文で心構えをすることができていた。それはつまり、私が自分の文章についてまともな読解を示す、いわば国語の授業めいたものの下・・・・・・(つづく)


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【注※】
  1. http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/694.html
  2. http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/713.html
  3. http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/684.html
  4. http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/634.html

続きは・・・・
「小説すばる」2月号特別寄稿
「『人間をおとしめる』とはどういうことか──沖縄『集団自殺』裁判に証言して」
は、大江健三郎が裁判の核心に触れながら、その体験を綴っている。
http://subaru.shueisha.co.jp/html/read/re0802.html
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