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「沖縄戦に“神話”はない」----「ある神話の背景」反論(4)

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「沖縄戦に“神話”はない」(太田良博・沖縄タイムス)」連載4回目


体験者の証言記録

『鉄の暴風」の渡嘉敷島に関する記録が、伝聞証拠によるものでないことは、その文章をよく読めばわかることである。

直接体験者でないものが、あんなにくわしく事実を知っていたはずもなければ、直接体験者でもないものが、直接体験者をさしおいて、そのような重要な事件の証言を、新聞社に対して買って出るはずがないし、記録者である私も、直接体験者でないものの言葉を「証言」として採用するほどでたらめではなかった。永久に残る戦記として新聞社が真剣にとり組んでいた事業に、私(『鉄の暴風』には「伊佐」としてある)は、そんな不まじめな態度でのぞんだのではなかった。

『鉄の暴風』の渡嘉敷島に関する記録のなかで、具体的に名前が出てくるのは、住民の生存者では、当時の「古波蔵村長」と「渡嘉敷国民学校の宇久眞成校長」の二人だけである。『鉄の暴風』の問題の箇所の文脈からみても、その記録のなかに、すくなくとも、この二人の証言がはいっていることは察知できるはずだが、どういうわけか、ほかの面では、いろんな資料を鋭く読みとっている曽野氏が、この渡嘉敷島の記録が、伝聞証拠によるものか、直接体験者の証言によるものかという判断では、その目は曇ってしまっている。『鉄の暴風』のなかの記録が伝聞証拠によるものだとの前提が欲しかったからである。


宇久校長宅で取材

宇久眞成氏は、渡嘉敷島が戦場となった当時、国民学校の校長として、軍と住民の間にはさまれて苦しい立場に立たされた人である。『鉄の暴風』の渡嘉敷島に関する記録の末尾に出てくる、赤松大尉とその部下が米軍に降伏する場面は、宇久氏から直接聞いた話で、宇久氏は、その降伏式に立ち会っていたのである。その話は、私が単独で、宇久氏の家で取材した。

宇久家は、私が幼少のときからの隣家で、宇久氏の子供たちと私は幼なじみの間柄だったし、私が終戦の翌日、ジャワから復員したときも、一時、大分県に疎開していた宇久氏の留守家族の所に仮住まいし、その年十一月、沖縄に帰還するときも、宇久氏の家族の一員ということにしてもらって、いっしょに帰ったのであり、現在も、親族以上の交際を続けている。

宇久家は教育一家であり、長男と長女は定年で教職を退いているが、二男はいま高知女子大の先生である。宇久眞成氏(故人)は誠実な人柄であった。その宇久氏に、渡嘉敷島での体験を聞き、いろいろたしかめた上で、『鉄の暴風』のある記録を書いたのである。あのとき、口数の少ない宇久氏は、低い声でしみじみとした口調でつぶやいた。

「兵隊はこわい」----。

宇久氏が言う兵隊とは、赤松大尉と、その部下たちのことである。


記述改訂必要なし

これで、『鉄の暴風』のなかの渡嘉敷島に関する記述が、伝聞証拠によるものでなく、ほんとうの体験者からの取材であることをことわっておく。

伝聞証拠説で、『鉄の暴風』にある渡嘉敷島の記事はアテにならないものだという印象を与えた上で、『ある神話の背景』の論理は構築されているが、『鉄の暴風』の渡嘉敷島の記述が伝聞証拠によらない、実体験者の証言によって書かれたものとなると、あとに残るのは、赤松の言葉を信ずるか、渡嘉敷島の住民の言葉を信じるかと言う問題である。

私は赤松の言葉を信用しない。したがって、赤松証言に重きをおいて書かれた『ある神話の背景』を信ずるわけにはいかない。渡嘉敷島の住民の証言に重きをおいた『鉄の暴風』の記述は改訂する必要はないと考えている。

赤松はたしかな証拠もなく住民を処刑しているが、彼の言葉を信用して、彼のために全面弁護を試みている『ある神話の背景』よりも、戦争の被害者である渡嘉敷島の住民のなまなましい体験をもとに書いた『鉄の暴風』のなかの“渡嘉敷敗戦記”が信ずるに足るものである。同戦記は証言による記録として書かれたが、『ある神話の背景』は赤松弁護の意図で書かれている。



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