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「沖縄戦に“神話”はない」----「ある神話の背景」反論(3)

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pipopipo555jp

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「沖縄戦に“神話”はない」(太田良博・沖縄タイムス)」連載3回目。


実は『鉄の暴風』は伝聞証拠によって書かれたものではないのである。それを明らかにする前に一言ことわっておきたいことがある。私は、曽野綾子氏に、取材した相手をはっきりおぼえていないと答えた。事実、そのときは、そうであった。取材相手をおぼえていないというのは、取材者としては、うかつのように聞こえるかもしれないが、それにはそれなりの理由があった。 

記録は取材の一部

一つの理由は、『鉄の暴風』を書くに当たっては、あまりにたくさんの人と会ったので、話を聞いた、それらの人たちがいちいちだれであったか、おぼえていないということである。一つの座談会に、多いときは二十人近くも集まる。座談会だけでもいくらやったかわからない。それも沖縄戦全般にわたっての取材で、渡嘉敷島の記録は、そのごく一部である。取材期間三ヵ月、まったく突貫工事である。それに『鉄の暴風』に記録として採用したのは、これまた取材の一部であり、記録されなかった証言者のものもふくめると、いちいちおぼえられないほどの人たちと会っている。

『鉄の暴風』は、証言集ではなく、沖縄戦の全容の概略を伝えようとしたため、証言者の名前を克明に記録するという方法をとらなかった。 

立体的証言を信用

もう一つの理由は、取材のやり方である。『鉄の暴風』の執筆者は、牧港篤三記者と私の二人であったが、普通、ルポ・ライターがやるように、あるいは新聞記者が新聞記事を取材するように、私たち執筆者が任意に、あるいは主意的に取材相手を選択して取材したのではなく、話を聞くために人を集めるにあたっては、大体において、新聞社(沖縄タイムス)がお膳立てをしたのである。私たちは、社が集めてくれた人たちの話を記録して、それを文章化する作業につぎつぎと追われていた。

証言者の名をいちいちおぼえていないのは、そういう事情にもよるが、曽野氏から渡嘉敷島に関する取材相手を聞かれたときは、『鉄の暴風』の執筆からすでに二十数年もたっていたのである。

『鉄の暴風』で証言者の名前をいちいち記録しなかったのも、理由はほかにもあるが、そのときの証言者たちの一つの事件に対する複数の立体的証言を私たちが信用していたからである。生死の境をくぐってきたばかりの人たちの証言として重くみたからであり、沖縄戦の体験は、沖縄住民の歴史的な共有財産(注:原文は傍点)であると考えたからである。

渡嘉敷島に関する記録も、社が直接体験者を集めて記録したものである。記録の場所は那覇市内のある旅館の一室であった。その旅館は、現在の国映館の筋向いの奥まった所にあったようにおぼえている。このことを、『ある神話の背景』が出たあと、『鉄の暴風』を読み返していくうちに思い出したのである。


古波蔵氏も出席

新聞社が責任をもって証言者を集める以上、直接体験者でない者の伝聞証拠などを採用するはずがない。あのとき旅館に証言者を集めたのは、沖縄タイムス社の専務だった座安盛徳氏(故人)だった。

当時、座安氏は、糸満に居住していて、その対岸の渡嘉敷島の関係者を集めるのに有利な立場にあった。そのとき、例の旅館に集まった人たちが誰々であったか、確かな記憶はないが、その中に、戦争中の渡嘉敷村長だった古波蔵惟好氏がいたことをようやく思い出した。古波蔵氏は、集団自決の現場にいた人である。

古波蔵氏とは、その後も二回ほど会っている。同氏は、姓を「米田」に改め、那覇の泊港の船舶関係の事務所にいた。その事務所に、私はいくつかの事実を確かめるために訪ねて行ったのである。この再度の訪問で、私が知りえた事実のなかには『鉄の暴風』に記録されなかったものもある。『ある神話の背景』のなかの他の箇所について反ばくできる材料であるが、伝聞証拠説に関する本筋から外れるので、ここでは割愛することにする。

戦後二十数年もたって曽野氏が赤松大尉やその隊員から聞いた話よりも、戦後まもなく、戦争体験者から聞いた話によって書かれた『鉄の暴風』の記録がより確かであると信ずる。



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