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「沖縄戦に“神話”はない」----「ある神話の背景」反論(2)

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「沖縄戦に“神話”はない」(太田良博・沖縄タイムス)」2回目

赤松大尉の暴状

まず、曽野綾子氏の「伝聞情報説」が事実に反することを立証するために、事のいきさつをのべておく。『鉄の暴走』の渡嘉敷島に関する話は、だれから聞いて取材したかと曽野氏に聞かれたとき、私は、はっきり覚えてないと答えたのである。事実、そのときは、確かな記憶がなかったのである。ただ、はっきり覚えていることは、宮平栄治氏と山城安次郎氏が沖縄タイムス社に訪ねてきて、私と会い、渡嘉敷島の赤松大尉の暴状について語り、ぜひ、そのことを戦記に載せてくれとたのんだことである。そのとき、はじめて私は「赤松事件」を知ったのである。

宮平、山城の両氏は、曽野氏が言うように「新聞社がやっと那覇で捕えることのできた証言者」ではなく、向こうからやってきた情報提供者であって、「それでは調べよう」と私は答えたにすぎない。そのとき、私は二人を単なる情報提供者と見ていたのだから、二人から証言を取ろうなどとは考えなかったし、二人も、そのとき、赤松事件について詳しいことは知っていなかった。

〈二人とも、渡嘉敷の話は人から詳しく聞いてはいたが…〉と、『ある神話の背景』のなかに書いてあるのは、曽野氏の勝手な解釈である。それで私は、あのとき、なんのメモもしなかったし、二人はそのことを告げただけで帰ったのである。その後、『鉄の暴風』が出版されるまで、いや、出版後も長く彼らとは会っていない。 

宮平氏の復員

宮平氏が沖縄タイムス社に私を訪ねてきたことを、私が特にはっきり覚えているのは、次の事情からである。宮平氏は私の中学の同級だった。そして、宮平氏が、沖縄タイムス社に姿を見せたときは、中学以来はじめての邂逅(かいこう)だったので、とくに印象が強かったのである。

宮平氏(終戦当時、准尉)が復員して、郷里の渡嘉敷島に帰ってみると、集団自決や住民虐殺事件が待っていた。その怒りをもって、宮平氏は、新聞社に私を訪ねてきたのだが私は、その宮平氏から渡嘉敷島の事件について取材したとは、曽野氏に語っていない。だれから取材したかについては、はっきりおぼえていないが、宮平氏から聞いて、はじめて、その事実を知ったことはたしかだ、とあやふやな返事をしたにすぎない。ところが『ある神話の背景』では、宮平・山城の両氏から私が取材したことにされている。 

取材に関する事実

曽野氏は、宮平氏当人とも会って、そのことについてたしかめているようだ。『ある神話の背景』では、つぎのようなカッコ付きの説明をしている。(もっとも、宮平氏はそのような取材を受けた記憶はないという)と書いてあるのである。そう書きながら曽野氏は、宮平氏から私が取材しているものと断定している。これは自己どう着である。宮平氏本人が私(太田)から取材をうけたことを否定しているのだから、では、太田は、だれから取材したのかということについて、曽野氏は、疑問をもつべきであり、さらに、取材に関する事実をたしかめるべきである。その疑問を残したまま、私自身もはっきりした記憶がないと答えてあったにもかかわらず、曽野氏は、私が宮平氏から取材したことにしてしまっている。そして、『鉄の暴風』の記述は、直接の体験者でない者からの伝聞証拠による記述だと断定しているのである。この断定のあやまちはどこからきているか。

『ある神話の背景』は、集めた資料や情報から帰納的に結論が導かれたものではなく、あらかじめ予断があって、それを立証するための作業であったようにおもわれる。はじめに赤松元大尉に会って、「悪人とは思えない」との印象をうけた。執筆者の私は、だれから取材したかについてあやふやな返事をした。だが、早とちりにとびついたのが〈伝聞証拠説〉である。そこで、宮平氏の被取材否定の高い障壁もカッコ付き説明で簡単にとびこえてしまったのである。でなければ書けなかった『ある神話の背景』の論理をささえる土台は、その点で、不安定なものとなる。

(太字は原文では傍点表記)


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