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大江健三郎陳述書(本論部分)下

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大江健三郎陳述書(本論部分)下

沖縄タイムス
連載「視座・沖縄ノート 大江健三郎陳述書」
http://www.okinawatimes.co.jp/spe/syudanjiketsu.html

  • (1)「集団自決」疑いなし (12月9日朝刊総合6面)
    • 「鉄の暴風」根拠に執筆
  • (2)日本人の戦争責任問う (12月11日朝刊総合7面)
    • 再度の「国家犯罪」を危ぐ
  • (3)タテの軍構造に責任 (12月12日朝刊総合4面)
    • 「集団自決」通し自己批判
  • (4)民衆の死 抵当に生 (12月13日朝刊総合10面)
    • 酷たらしい現場から今に
  • (5)多様なかたちの「命令」
  • (6)記憶歪め 和解を期待 (12月15日朝刊総合7面)
    • 本土側が沖縄ねじふせ
  • (7)守備隊長 確実に責任 (12月16日朝刊総合7面)
    • 別人の繰り返しありうる
  • (8)「罪」否定の自己欺瞞 (12月17日朝刊総合6面)
    • 虚偽の物語 自ら意識せず


(9)島民の「友好」を幻想 (12月18日朝刊総合6面)

償い語らぬ死の責任者


 「本土においてはすでに」で始まる次の段落は何を述べたものか? この段落において、私は先の段落で書いている、一九四五年に行われた集団自決の悲惨が、本土においてしだいに表立った声にならなくなってゆく時代状況のなかで、その守備隊長として責任のある人物が(ここでも個人名をあげていませんが、私は渡嘉敷島の旧守備隊長を指しています)、本土においてと同様、沖縄においても、自分を批判する声は起こらなくなっているのではないか、と夢想し、幻想することがあったはずだ、という私の想像を語っています。

 一九七〇年、実際にこの旧守備隊長が沖縄に向かったとき、かれは集団自決を引き起こすことになった日本軍の、この島での責任者として、その罪を認め、償いうる道があれば償いたい、と島民に向けて語るために行ったのではありません。かれは戦後ずっと考えてきた、「おりがきたら」渡嘉敷島を訪れて、島民たちの友好的な雰囲気のなかで「英霊をとむらう」、その企画の実現のために沖縄に向かったのです。ここで私が指摘しているのは(そして批判しているのは)右に述べたような一九四五年の悲劇を忘れ、問題化しなくなっている本土の日本人の態度であり、それに乗じて、沖縄でも、二十五年前の集団自決の悲惨をかれに向けて批判する者はいない、と考えるようになっていた、その旧守備隊長の心理についてです。私は新聞報道からその認識を誘われ、旧守備隊長の持っていたはずの夢想、幻想を、私の想像力をつうじて描きました。それは小説の方法ですが、私はこのエッセイ・評論にあえて用いました。

 そこで私の批判した「かれ」は渡嘉敷島の旧守備隊長であり、私は各種の現地からの新聞報道で「かれ」の発している言葉が、「かれ」の戦後作りあげたどのような信条から出ているかを、私が「かれ」に見出すと考える「夢想」「幻想」として書きました。「エゴサントリクな希求」とは、自己中心的なねがいです。

 「屠殺者と生き残りの犠牲者の再会」という表現を、私はここで批判的に描いている人物の、「夢想」「幻想」の特殊さを強調するために用いています。「生き残りの犠牲者」とは、集団自決の経験のなかから生き残った人たちです。このような過酷な経験をし、家族を自分の手で殺すこともしなければならなかった、その上での生き残りの人物を、私はその人たち自身犠牲者でもあると考えます。

 「屠殺者」という言葉を(私はこの仕方を自分の小説の技法として作ってきたのですが)、日本語であいまい化されている言葉を、それにあたる外国語とつき合わせ、自分としての訳語を作って正確にする、という仕方で使っています。その仕方での私の意味付けは、「むごたらしく人間を殺した者」です。

 なぜ私が自分の定義によるこの日本語を使用したか? 現在使われている日本語の辞書としての代表的な『広辞苑』には、「屠殺」はあり、「(肉などを利用するため)家畜などの獣類をころすこと。」という意味があてられています。

 しかし明治以来のわが国の翻訳文学、またそれに影響を受けて書かれた小説に見られることのあった「屠殺者」という言葉は、この辞書にはありません。「屠殺者」という日本語はbutcherつまり一般的には肉屋、そしてさきの字義による、家畜などを食用にするためにころす職業につく人のことを示します。ところがbutcherには、比喩的な意味として「むごたらしく人を殺す者」という使われ方もあるのです。

 今日の英文字でbutcherは文字通りの「家畜などを食用にするため殺す職業の人」という意味と、いまの比喩的な意味で使われ続けています。しかし、新造語としての「屠殺者」という日本語には、この両方の意味を混在させることで、食用の肉を作る職業人への差別的な使用がなされる危険があります。そこで『広辞苑』からは、この言葉が消されることになったのでしょう。

 そのような言葉の歴史を承知した上で、私はあの一節に「屠殺者」という言葉をbutcherの比喩的な意味をきわだたせて使っています。つまり、渡嘉敷島の集団自決においての「そのむごたらしい死の責任を持つ人間と生き残りの犠牲者の再会」ということです。


(10)「最後の時」放置の責任 (12月19日朝刊総合4面)

逃れようのない結末に


 「日本本土の政治家が」で始まる段落は何を述べたものか? この段落の文章の構造を説明します。

 まず前の段落の、ひとりの人物(かれは渡嘉敷島の旧守備隊長で、この段落では当時「若い将校」であった「ひとりの日本人」と呼ばれています)が、一九四五年渡嘉敷島で、その指導下にある守備隊が島民に強制した集団自決について、事実に反する「記憶」を作りあげての「夢想」「幻想」を抱く、そしてそれを現実に置き換えることが可能だと考えて二十五年後の沖縄におもむく、という場面を私は書いています。

 いまやそれができる、それができるようなおりがきた、とこのひとりの日本人が考えて、沖縄に行く。それは「日本本土の政治家、民衆」もいまやそれが事実に反しているといいたてるようでない現在、「そのようなおりがきたのだ」とかれは考えている。その時(以下は、書き手である私の認識の表明です。そのまま引用します)
《 まさにわれわれは、一九四五年の渡嘉敷島で、どのような意識構造の日本人が、どのようにして人々を集団自決へ追いやったかの、およそ人間のなしうるものと思えぬ決断の、まったく同一のかたちでの再現の現場に立ちあっているのである。》 
「戦争犯罪者」とは誰のことか? 「若い将校」とは誰のことか? 渡嘉敷島の旧守備隊長のことです。

 「若い将校」たる自分の集団自決の命令とは、何か? その根拠は何か? 私は、すでにこの陳述書でのべていますが、日本軍―第三二軍―渡嘉敷島の守備隊というタテのつながりのなかで、しかもそれが現実に行われた現場で守備隊の最高責任を持っていた将校として、他に変わる者はいないこの島の守備隊長に、渡嘉敷島の集団自決の直接の責任があると考え、その根拠ものべています。渡嘉敷島の守備隊長は、私の認識を繰り返しますが、さきにいった、タテの構造の一員として、集団自決に責任があります。この集団自決が「最後の時」にはなされなければならないということは、島民に徹底されている(慶良間列島の日本軍が米軍に勝利し、沖縄戦が逆転することがある場合、この「最後の時」は「命令」ではなくなりますが)。そこで、渡嘉敷島の陣地脇に集合させられている島民が「最後の時」が来た、と考えた時、それに対して積極的に実行中止の命令を出しうるのは、現地の守備隊長のみでした。それを旧守備隊長はせず、その夜起こったことを知らなかったとたびたび主張しています。それは、いまのべた、現地の指揮官として「最後の時」だ、という島民の認識をそのままにしておいたことで、それまでに積み重ねられた「集団自決」への「命令」が、実際に受けとめられてきたままに実行されたことへの、まやかしの発言なのです。

 「渡嘉敷島で、どのような意識構造の日本人が、どのようにして人々を集団自決へ追いやったのか、およそ人間のなしうるものとは思えぬ決断」とは何か? 旧守備隊長は、集団自決のその当日まで、守備隊長として、すでに島民に行きわたっている、集団自決に向けて押しつめられている、かれらに共通の思いに対して、それをやってはならない、と命令する決断ができる立場にいる、島でただひとりの人間でした。かれはそれをせず、大きい悲劇が起こるままにしました。放っておけば「最後の時」として起こることをそのまま放置したことこそが、島民の側からいえば逃れようのない結末をもたらした、直接の責任者のひとつの決断であったのです。

 「再現の現場に立ちあっているのだ」とは? 戦後二十五年たって、一九四五年の渡嘉敷島での「ひとりの日本人」の心の働きが、そのまま本人によって再現されている(そうすることで一九四五年の罪が、罪でないものとして自他に受けとめ直されるように企てている)ということです。もし一九七〇年の旧守備隊長の訪沖が、あのように激しく批判されることがなかったとしたら、この企てはマンマと成功したでしょう。


(11)罪責感ない守備隊長 (12月20日朝刊総合9面)

架空法廷 ドイツとは逆に


 『沖縄ノート』二百十三ページ三行目から十一行目は、次のように記されています。

《 おりがきたとみなして那覇空港に降りたった、旧守備隊長は、沖縄の青年たちに難詰されたし、渡嘉敷島に渡ろうとする埠頭では、沖縄のフェリイ・ボートから乗船を拒まれた。かれはじつのところ、イスラエル法廷でのアイヒマンのように沖縄法廷で裁かれてしかるべきであったであろうが、永年にわたって怒りを持続しながらも、穏やかな表現しかそれにあたえぬ沖縄の人々は、かれを拉致しはしなかったのである。それでもわれわれは、架空の沖縄法廷に、一日本人をして立たしめ、右に引いたアイヒマンの言葉が、ドイツを日本におきかえて、かれの口から発せられる光景を思い描く、想像力の自由をもつ。かれが日本青年の心から罪責の重荷を取り除くのに応分の義務を果たしたいと、「或る昂揚感」とともに語る法廷の光景を、へどをもよおしつつ詳細に思い描く、想像力のにがい自由を持つ。 》

 私が、この段落で書いていることは、一九四五年の渡嘉敷島で行われた、日本軍から強制されての島民の集団自決が、一九七〇年の日本の青年たちにとってしっかり受けとめられているのではない、それはむしろいまや日本の政治家から日本人一般を包みこむ大きい風潮ではないか、それをあらかじめ見きわめての、渡嘉敷島の旧守備隊長の、渡嘉敷島に渡ろうとする企てではなかったか、ということです。

 私は沖縄戦で行われた沖縄住民への日本軍の犯罪の典型的な例として、渡嘉敷島での集団自決の強制がある、と考えていました。それに対していかなる法的機関による裁判も行われていない以上(おなじことの、将来における再現をふせぐために、というのが私の考えの中心にありましたが)なんらかのかたちでの「沖縄法廷」が開かれるべきであった、と考えていました。そしてここでは、ひとつの「沖縄法廷」の架空のものを想像したのです。

 その架空法廷で、渡嘉敷島の元守備隊長がどのようなことを語るだろうか、ということを様ざまに考え、私は戦後の(一九七〇年現在の)「日本青年」と「ドイツ青年」の比較を設定しました。そして、私がそこにイスラエル法廷におけるアイヒマンの証言を(ハナ・アーレントの書物から)引用したのは、次の意図からです。

 アイヒマンは友人から「或る罪責感がドイツの青年層の一部を捉えている」ということを聞きます。それを契機にかれはナチス・ドイツのユダヤ人虐殺の犯罪を追及する捜索班から逃れることをやめ、逮捕されると、イスラエル法廷に対して(現実にはありえないことでしたが)自分を公衆の前で絞首するようにさえ提案しました。その理由としてかれはこういいます。「私はドイツ青年の心から罪責の重荷を取り除くのに応分の義務を果たしたかった。なぜならこの若い人々は何といってもこの前の戦争中のいろいろな出来事や父親の行動に責任がないのですから。」 一方で私は、「日本青年」にはこうした前の戦争に対する罪責感は一般的にないのではないか、と考えたのです。そしてやはり沖縄戦に対する罪の意識はない旧守備隊長が、「沖縄法廷」でその意見を申したてるとすると、どういう内容となるだろうか? 私はそれをグロテスクに感じる、と書いています。渡嘉敷島の集団自決の、日本軍の責任を現地で担うべき旧守備隊長をアイヒマンになぞらえ、「沖縄法廷」による公開処刑をまで言い出している、とする読み取りは、まったくあたっていません。戦争の責任の考え方について、アイヒマンと渡嘉敷島の旧守備隊長との考え方は逆なのです。アイヒマンはドイツの青年が感じとっている「罪責の重荷」を取り除いてやるために自分で罪を引き受け、絞首によってそれを償おう、と考えたのです。渡嘉敷島の旧守備隊長にも、日本青年にも、罪の意識はないのです。その点を私は比較してグロテスクに感じる、と書いたのです。


(12)悲劇を繰り返す懸念 (12月21日朝刊総合6面)

「ノート」の根本的な動機


 『沖縄ノート』は今日まで版を重ねているが、その刊本について最初の版を改訂していないことに関して。

 渡嘉敷島について。赤松隊長命令説を否定する文献等が出たことを知っているか?(曽野綾子著『ある神話の背景』、赤松嘉次『私は自決を命令していない』) 知っています。読んでもいます。この陳述書のなかにもすでに赤松嘉次『私は自決を命令していない』を私が信頼しない理由は示してきました。曽野綾子著『ある神話の背景』で直接私の名があげられている部分への、私としての回答も示しました。この本の全体に向けては、私は太田良博氏ら沖縄の知識人たちの批判よりほかの、自分としての批判は持っておりません。その上で私は『沖縄ノート』の守備隊長と自決命令に関する部分、自決命令を前提に論評した部分を訂正する必要はない、と考えています。その理由を申します。

 私が「命令」という言葉を『沖縄ノート』で使用しているのは、次の部分です。

《 慶良間列島においておこなわれた、七百人を数える老幼者の集団自決は、上地一史著『沖縄戦史』の端的にかたるところによれば、生き延びようとする本土からの日本人の軍隊の
《 部隊は、これから米軍を迎えうち長期戦に入る。したがって住民は、部隊の行動をさまたげないために、また食糧を部隊に提供するため、いさぎよく自決せよ 》
という命令に発するとされている。 》(六十九ページ)

《 あの渡嘉敷島の「土民」のようなかれらは、若い将校たる自分の集団自決の命令を受けいれるほどにおとなしく、穏やかな無抵抗の者だったではないか、とひとりの日本人が考えるにいたる時、まさにわれわれは、一九四五年の渡嘉敷島で、どのような意識構造の日本人が、どのようにして人々を集団自決へと追いやったかの、およそ人間のなしうるものと思えぬ決断の、まったく同一のかたちでの再現の現場に立ちあっているのである。》(二百十一~二百十二ページ)

 私は、このように書きながら、「命令」という言葉を、渡嘉敷島の守備隊長が、本日**時に、集団自決せよ、と島民たちに告げる「命令書」を書いて渡した、あるいは島民たちの代表に向かって第三者の前で、同じ内容の「命令」を発した、という意味のレベルで、そう書いたのではありません。

 すでにのべてきましたが、私は日本軍―第三二軍―渡嘉敷島の守備軍―そして、皇民教育を受けてきた島民というタテの構造のなかで、島民たちが日々、島での戦闘が最終的な局面にいたれば、集団自決の他に道はない、という認識に追い詰められてきたと考えています。米軍の上陸と攻撃が島民たちの現実の問題として迫った時、このすでに島民たちにとって共通の、自分らのとるべき態度はほかにないとされていたことが、実行されたのです。それは日々、島民たちに向けて徹底されてきた、タテの構造におけるその命令が、現実のものとなった、ということです。すでに私の認識は示しましたが、日本国―日本陸軍―第三二軍―慶良間列島の守備隊という「タテの構造」の、「最後の時」における集団自決の実行は、すでに装置された時限爆弾としての「命令」でありました。それを無効にするという新しい命令をしなかった。そしてそのまま、島民たちを「最後の時」に向かわせた、というのこそ渡嘉敷島の旧守備隊長の決断であり、集団自決という行為を現実のものとしたのです。

 私が『沖縄ノート』で行っている批判の根本にある動機は、将来の日本人が、同じタテの構造に組み込まれて、沖縄戦での悲劇をもう一度繰り返すことにならないか、という懸念です。私は一九四五年の経験がありながら、日本人一般はこのタテの構造への弱さをよく克服していないのではないか、と惧れています。そこで、このような日本人ではないところの日本人へと自分をかえることはできないか、という問いを繰り返す『沖縄ノート』を書いたのです。私は『沖縄ノート』を改訂しなければならない、と考えていません。



(13)軍の自決命令を確信 (12月23日朝刊総合9面)

内容に訂正の必要なし


 座間味島について。宮城晴美著『母の遺したもの』は読んだか?

 読みました。この裁判が、はじまってから、それに向けて提出される各種の資料を読むようになりましたから、その時点においてです。

 座間味島を含む慶良間列島の集団自決は日本軍の命令に発するとされている部分を訂正する必要はないか? その必要はない、と考えています。私が直接に座間味島という名をあげず、しかし慶良間列島での集団自決について、日本軍の命令として論評している部分の「命令」についての意味づけは、すでにのべたとおりです。

 なお、『母が遺したもの』に記述されている、一九四五年三月二十五日の、座間味村の指導的立場にあった人々とともに五人で守備隊長のいる壕に行く情景には深く印象づけられました。五人のなかの村の助役がこういいます。「もはや最後の時が来ました。私たちも精根をつくして軍に協力致します。それで若者たちは軍に協力させ、老人と子供たちは軍の足手まといにならぬよう、忠魂碑の前で玉砕させようと思いますので弾薬をください」。それに対する守備隊長の返事はこうです。「今晩は一応お帰り下さい、お帰り下さい」。

 私はこの返事に、強いリアリティを感じます。この通りの返事がなされたのだ、と考えます。もっとも重要な選択を、責任をかけて行わねばならぬ問いかけを受けて、返答を留保する、先送りする。その際の日本人に特有の(といいますのは、私の長年読んできた外国文学で、この言い廻しに出会ったことがないからですが)言い方がこれです。そしてその留保の間に、つまり決して否定されたのではない、それまでに積み重ねられていたタテの構造をつらぬく集団自決の命令が、島民たちによって、現実の問題となったのです。

 私は『沖縄ノート』において座間味島の集団自決について、その隊長命令のあるなしを論評していません。そして、現在の私は、渡嘉敷島においてと同様に、座間味島において集団自決への日本軍の命令があった、と考えます。それはこの裁判において、新たに行われている、生き残りの島民たちの証言によっても支えられている確信です。

 「書き直す」ことの大切さを述べているが、本件についてはどうなのか?(『石に泳ぐ魚』事件)

 私は今年で五十年間、小説(そしてエッセイ、評論)を書いてきました。その経験に立って、私が作り出した小説(そしてエッセイ、評論)の技法の、中心にあるものが、草稿の文章の書き直しを、必要と感じる回数、行い続けることです。私の草稿としての原稿とそれが定稿となる過程を実際に見てきている編集者は、私がelaborationと呼んでいる技法の実際をよく知っています。

 なぜ私が、定稿となるまでの様ざまな段階で、文章の書き直し、elaborationを行い続けるのか? それは、自分の表現を正確にするためです。私は原稿用紙にペンで文章を書く段階から、ゲラ刷りになった段階まで、繰り返しこれを行います。さらにもう一度(これも日本に特有といっていい発表形態なのですが、月刊の文芸雑誌に掲載してからも、単行本にする前に)書き直しを行います。そして、いったん単行本にすれば、それによって作者としての最終的な責任をとります。しかし、もちろんミスプリントの訂正は目につく限りしてきましたし、書いてある事実、論評に事実に反するところがあると自分で認めれば、訂正します。『沖縄ノート』については、その必要を認めておりません。(おわり)



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