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大江健三郎陳述書(本論部分)上

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大江健三郎陳述書(本論部分)上

沖縄タイムス
連載「視座・沖縄ノート 大江健三郎陳述書」
http://www.okinawatimes.co.jp/spe/syudanjiketsu.html

大江健三郎氏の著作「沖縄ノート」などの記述をめぐり、旧日本軍の戦隊長らが
名誉棄損を主張している大阪地裁の「集団自決」訴訟で、大江氏が「沖縄ノート」
について記した陳述書の本論部分を全十三回にわたって掲載する。沖縄戦時の慶良
間諸島で相次いだ住民の「集団自決(強制集団死)」について、「太平洋戦争下の
日本軍、現地の第三二軍、島の守備隊をつらぬくタテの構造によって島民に強制さ
れた」と語る大江氏。陳述書では、米軍施政権下の沖縄で数多くのジャーナリスト
や研究者らに会い、思考を深めていった経緯や、文章の構造や表現の趣旨、言葉の
選び方までがつづられている。

おおえ・けんざぶろう
1935年、愛媛県生まれ。東京大学在学中に小説「奇妙な 仕事」で作家デビュ
ー。1958年に小説「飼育」で第39回芥川賞、94年にノーベル文学賞を受賞。
11月には「集団自決」訴訟の被告として法廷で証言した。




(1)「集団自決」疑いなし (12月9日朝刊総合6面)

「鉄の暴風」根拠に執筆


 私は一九六五年(昭和四十年)文藝春秋新社の主催による講演会で、二人の小説家とともに、沖縄本島、石垣島に旅行しました。この旅行に先立って沖縄について学習しましたが、自分の沖縄についての知識、認識が浅薄であることをしみじみ感じました。そこで私ひとり沖縄に残り、現地の出版社から出ている沖縄関係書を収集し、また沖縄の知識人の方たちへのインタヴィユーを行いました。『沖縄ノート』の構成が示していますように、私は沖縄の歴史、文化史、近代・現代の沖縄の知識人の著作を集めました。沖縄戦についての書物を収集することも主な目標でしたが、数多く見いだすことはできませんでした。

 この際に収集を始めた沖縄関係書の多くが、のちの『沖縄ノート』を執筆する基本資料となりました。またこの際に知り合った、ジャーナリスト牧港篤三氏、新川明氏、研究者外間守善氏、大田昌秀氏、東江平之氏、そして劇団「創造」の若い人たちから学び、語り合ったことが、その後の私の沖縄への基本態度を作りました。とくに沖縄文化史について豊かな見識を持っていられた、沖縄タイムス社の牧港篤三氏、戦後の沖縄史を現場から語られる新川明氏に多くを教わりました。

 そして六月、私は自分にとって初めての沖縄についてのエッセイ「沖縄の戦後世代」を発表しました。タイトルが示すように、私は本土で憲法の基本的人権と平和主義の体制に生きることを表現の主題にしてきた自分が、アメリカ軍政下の沖縄と、そこにある巨大基地について、よく考えることをしなかったことを反省しました。それに始まって、私は沖縄を訪れることを重ね、さきの沖縄文献に学んで、エッセイを書き続けました。

 本土での、沖縄への施政権返還の運動にもつながりを持ちましたが、私と同世代の活動家、古堅宗憲氏の事故死は大きいショックをもたらしました。古堅氏を悼む文章を冒頭において、私は『沖縄ノート』を雑誌「世界」に連載し、一九七〇年(昭和四十五年)岩波新書として刊行しました。

 私はこの本の後も、一九七二年(昭和四十七年)刊行のエッセイ集『鯨の死滅する日』、一九八一年(昭和五十六年)『沖縄経験』、二〇〇一年(平成十三年)『言い難き嘆きもて』において、『沖縄ノート』に続く私の考察を書き続けてきました。とくに最後のものは、『沖縄ノート』の三十年後に沖縄に滞在して「朝日新聞」に連載した『沖縄の「魂」から』をふくんでいます。

 この裁判を契機に、多様なレベルから『沖縄ノート』に向けて発せられた問いに答えたいと思います。

 座間味島、渡嘉敷島で行われた集団自決の問題が、後半の沖縄戦についての記述で重みを持っているが、その記述はどのようなものを根拠としたのか。

 沖縄戦について、戦後早いうちに記録され、出版された戦争の体験者の証言を集めた本を中心にして読みました。それらのなかで一九五〇年沖縄タイムス社刊の『沖縄戦記・鉄の暴風』を大切に考えました。理由は、私が沖縄でもっともしばしばお話をうかがった牧港篤三氏がこの本の執筆者のひとりで、経験者たちからの聴き書きが、一対一のそれはもとより、数人の人たちを一室に集めての座談会形式をとることもあったというような、詳細な話を聞いていたからです。もとより牧港氏の著作への信頼もあります。

 私は、それらに語られている座間味島、渡嘉敷島において行われた集団自決の詳細について、疑いをはさむ理由を持ちませんでした。

 私は、この集団自決が太平洋戦争下の日本国、日本軍、現地の第三二軍までをつらぬくタテの構造の力によって島民に強制された、という結論にいたりました。そして、このタテの構造の先端にある指揮官として島民たちの老幼者をふくむ集団自決に、直接の責任があった、渡嘉敷島の守備隊長の、戦後の沖縄に向けての行動について、それが戦前、戦中そして戦後の日本人の沖縄への基本態度を表現しているとして、批判する文章を書きました。この批判は、日本人一般のものであるべき自己批判として、私自身への批判をふくみます。


(2)日本人の戦争責任問う (12月11日朝刊総合7面)

再度の「国家犯罪」を危ぐ


 さて、その『沖縄ノート』ⅠⅩ章から、私は批判を書いていますが(二百八―二百九ページ)、まず、その二百八ページ十行目にある、自分が慶良間列島の関係者をたずねて直接にインタヴィユーをしていないことについて、一言述べておきます。私はこの本で、沖縄の戦後世代に対するインタヴィユーの結果を文章にしています。しかし、沖縄戦の最初の戦場の悲劇について、二つの島に行って生存者たちのインタヴィユーをすることはしていません。私は本土の若い小説家が、二つの島の生存者を訪ねて、その恐ろしい悲劇について質問する資格を持つか、またそれを実のある対話となしうるかに自信を持てませんでした。それより、沖縄のジャーナリストによる(牧港氏によれば一人ずつの、また時には座談会による)証言の記録を集成したものに頼ることが妥当と考えたからです。

《 僕は自分が、直接かれにインタヴィユーする機会をもたない以上、この異様な経験をした人間の個人的な資質についてなにごとかを推測しようとは思わない。むしろかれ個人は必要でない。それは、ひとりの一般的な壮年の日本人の、想像力の問題として把握し、その奥底に横たわっているものをえぐりだすべくつとめるべき課題であろう。その想像力のキッカケは言葉だ。すなわち、おりがきたら、という言葉である。一九七〇年春、ひとりの男が、二十五年にわたるおりがきたら、という企画のつみかさねのうえにたって、いまこそ時は来た、と考えた。かれはどのような幻想に鼓舞されて沖縄にむかったのであるか。かれの幻想は、どのような、日本人一般の今日の倫理的想像力の母胎に、はぐくまれたのであるか? 》

 この一節で私は自分が旧守備隊長にインタヴィユーしていないことをいい、そこで自分はかれの「個人的な資質」を「推測」しない、といっています。「推測」という言葉を私は『広辞苑』の定義「ある事柄に基づいておしはかること。」として考えますが、私はある事柄に基づいて、事実をおしはかり、決定するのではなく、あくまでもそのかわりに自分として「想像」したこととして書いているのです。

 そして、『沖縄ノート』の終章にあたるこの章を、その答えにあてています。とくに答えの要旨は二百十四―二百十五ページに書いています。

 私はこの守備隊長の個人としての名前をあげていませんが、それも上に書いている理由からです。私は渡嘉敷島の集団自決が、日本軍―第三二軍―渡嘉敷島の守備隊という構造の強制力によってもたらされた、と考えてきました。そこで、この守備隊長の個人としての名前は必要でありませんでした。この批判において私は戦後になってこの守備隊長が行ったこと、発言した言葉を検討しています。材料は新聞に公表にされていました。そこではじめて浮かび上がってきた個人としての資質を私は批判しています。私はそれを日本人一般の資質に重ねることに批判の焦点を置いています。それが『沖縄ノート』において、個人名をあげなかった理由です。もし具体的に今述べた部分を引用するならば、次のようです。

《 おりがきたら、とひたすら考えて、沖縄を軸とするこのような逆転の機会をねらいつづけてきたのは、あの渡嘉敷島の旧守備隊長のみにとどまらない。日本人の、実際に厖大な数の人間がまさにそうなのであり、何といってもこの前の戦争中のいろいろな出来事や父親の行動に責任がない、新世代の大群がそれにつきしたがおうとしているのである。(中略)この前の戦争中のいろいろな出来事や父親の行動と、まったくおなじことを、新世代の日本人が、真の罪責感はなしに、そのままくりかえしてしまいかねない様子に見える時、かれらからにせの罪責感を取り除く手続きのみをおこない、逆にかれらの倫理的想像力における真の罪責感の種子の自生をうながす努力をしないこと、それは大規模な国家犯罪へとむかうあやまちの構造を、あらためてひとつずつ積みかさねていることではないのか。 》


(3)タテの軍構造に責任 (12月12日朝刊総合4面)

「集団自決」通し自己批判


 『沖縄ノート』全体の趣旨はどういうものか?
《 日本人とはなにか、このような日本人ではないところの日本人へと自分をかえることはできないか 》
という、この本で幾度も繰り返されているフレーズは、その全体の趣旨において、どのような重要性を持っているか?

 『沖縄ノート』は、本土の戦後世代である私が、明治の日本近代化の始まりに重なる「琉球処分」によって、沖縄の人間が日本国の体制のなかに組み込まれてゆく、そして皇民化教育の徹底によってどのような民衆意識が作りあげられ、一九四五年の沖縄戦における悲劇にいたったか、を学んでゆく過程を報告した。それが第一の柱です。

 私は戦後日本の復興、発展が、講和条約の発効、独立の出発点から、沖縄を本土から切り離しアメリカ軍政のもとにおいて巨大基地とすることを根本の条件としたこと、それが沖縄にもたらした新しい受難について書くことを第二の柱としました。その実状を具体的な人間の経験をつうじて示すために、とくに私が「沖縄の戦後世代」と呼ぶ、自分と同世代の人々へのインタヴィユーを中心にすえています。私の見る限り、それを伝えている刊本はまだありませんでした。

 そのようにして長い新しい苦難のなかで、沖縄の施政権返還が(巨大基地はそこにおいたままで)達成するまでを、私は報告したのですが、その過程で私のうちにかたまってきた主題がありました。私は太平洋戦争以前の近代・現代史において、本土の日本人が沖縄に対して取ってきた差別的な態度、意識について資料を読みとく、ということをしてきたのでしたが、戦後においても、日本の独立と新しい憲法下において、その憲法から切り離されている沖縄の犠牲のもとに、本土の平和と繁栄が築きあげられてきたことに、本土の日本人は、それをよく認識していないのではないか、そしてそれは近代化以来、現代に続くこのような日本人としての特性を示していることなのではないか、と考え始めたのでした。

 そして、私がこのような日本人としての、もとより自分をふくむ現在と将来の日本人について、このような日本人ではないところの日本人へと自分をかえることはできないか、と問いかけ、答えてゆこうとする努力が、この『沖縄ノート』の第三の柱をなすことになりました。

 この三本の柱にそくして『沖縄ノート』を書いてゆく上で、いま私がのべてきたような日本人としての自己批判のためのきっかけとして、もっとも明瞭な問題群を示していると私が考えたのが、慶良間列島における一九四五年の集団自決の事実です。私はそれを日本軍―第三二軍―そして慶良間列島の二つの守備隊へとつながるタテの構造に責任があるものとしてとらえました。私がこの『沖縄ノート』を書き続けている間に、二十五年後の日本本土と沖縄の、それぞれの民衆意識における、慶良間列島の集団自決の受けとめの、大きい裂け目を示すと思われるような出来事が続きました。

 それらに集中して考察を進めることで、私は『沖縄ノート』を書き続け、自分にとって「日本人とはなにか、このような日本人ではないところの日本人へと自分をかえることはできないか」という問いへの答は、自分にまだないということを書いて私は本を結びました。私はそれ以後も、沖縄と本土日本とについての、ここにのべたような問いかけを続けて、文章を書き続けることもしてきました。

 私が五十年間にわたって小説とエッセイ、評論を発表し続けてきたことは、経歴を記したくだりで申しましたが、いまその五十年を振りかえる機会をえて考えますことは、自分のエッセイ、評論が一九四五年の敗戦によって軍国主義体制から解き放たれた少年の、新しい憲法による民主主義、平和主義のレジームのなかで、どのように自己実現してきたか、それを語るものを中心としている。ということです。『沖縄ノート』はそれらすべての中心にあります。


(4)民衆の死 抵当に生 (12月13日朝刊総合10面)

酷たらしい現場から今に


 『沖縄ノート』六十九ページ十行目から七十ページ五行目までには、次のように記されています。

《 慶良間列島においておこなわれた、七百人を数える老幼者の集団自決は、上地一史著『沖縄戦史』の端的にかたるところによれば、生き延びようとする本土からの日本人の軍隊の
《 部隊は、これから米軍を迎えうち長期戦に入る。したがって住民は、部隊の行動をさまたげないために、また、食糧を部隊に提供するため、いさぎよく自決せよ 》
という命令に発するとされている。沖縄の民衆の死を抵当にあがなわれる本土の日本人の生、という命題は、この血なまぐさい座間味村、渡嘉敷村の酷たらしい現場においてはっきり形をとり、それが核戦略体制のもとの今日に、そのままつらなり生きつづけているのである。生き延びて本土にかえりわれわれのあいだに埋没している、この事件の責任者はいまなお、沖縄にむけてなにひとつあがなっていないが、この個人の行動の全体は、いま本土の日本人が綜合的な規模でそのまま反復しているものなのであるから、かれが本土の日本人にむかって、なぜおれひとりが自分を咎めねばならないのかね? と開きなおれば、たちまちわれわれは、かれの内なるわれわれ自身に鼻つきあわせてしまうだろう。》

 私がここに述べている中心は、一九四五年の沖縄戦から、この執筆の現在時である一九六九年に始まり一九七〇年に至るまで(そして『沖縄ノート』がなお出版され続けて同時代の読者を得ている、いま現在まで)、「沖縄の民衆の死を抵当にあがなわれる本土の日本人の生」という命題です。それを私は、「この血なまぐさい座間味村、渡嘉敷村の酷たらしい現場においてはっきり形をとった」、と資料にそくして論じています。しかし、この文脈において(また『沖縄ノート』の全体をつらぬく執筆動機に関わって)もっとも重要なのは、「それが核戦略体制のもとの今日に、そのままつらなり生きつづけているのである」という認識です。

 この一節において、私が上地一史著『沖縄戦史』を引用しているのは、次の理由からです。はじめ私は上記の『鉄の暴風』からの引用を考えていましたが、それだと(引用は三十四ページの九行目―十三行目)赤松氏の個人としての名前が二度出て来ます。そこで『沖縄戦史』の文章を引用しました。

 私は、上の二冊の書物を初めとする記録によって、集団自決の現実について知り、そこから出発して考え始めました。それが二つの島の住民たちによって、軍の命令、軍によって発せられた、抵抗しえない命令と受けとめられ、実行にうつされたことに疑いはない。それを沖縄戦の全体の文脈のなかで理解しようとするとどうなるか? 私はその方向で考え続け、私としての結論にいたりました。つまり私は慶良間列島の集団自決について、日本の近代化をつうじての皇民化教育が沖縄に浸透させていた国民思想、日本軍、第三二軍が県民に担わせていた「軍官民共生共死」の方針、列島の守備隊というタテの構造の強制力、そして米軍が島民に虐殺、強姦を加えるという、広く信じられた情報、俘虜となることへの禁忌の思想、それに加えて軍から島民に与えられた手榴弾とそれにともなう、さらに具体的な命令、そうしたものの積み重なりの上に、米軍の上陸、攻撃が直接のきっかけとなって、それまでの日々の準備が一挙に現実のものとなったのだ、という考えにいたって、それを書いたのです。

 「生き延びようとする本土からの日本人の軍隊」とは、本土防衛のための沖縄戦を戦いぬくために、なによりも日本軍が生き続けて戦うことを第一義とみなしている(その根本条件の上に、第三二軍の「軍官民共生共死」の方針がある)と私が考えていることを示しています。

 「沖縄の民衆の死を抵当にあがなわれる本土の日本人の命題」については、さきに私の考えを示しました。


(5)多様なかたちの「命令」(12月14日朝刊総合6面)

構造的積み重ね 島民に浸透


 「この事件の責任者はいまなお」以下において、私は一九七〇年現在においてなお、渡嘉敷島の集団自決という事件をもたらした、日本軍―第三二軍―渡嘉敷島の守備隊という、責任のタテの構造の、最先端にあった守備隊長は、事件の被害者たちになにひとつあがなっていない、と書きました。そして、それに続けて、
《この個人の行動の全体は、いま本土の日本人の綜合的な規模でそのまま反復しているものなのであるから、かれが本土の日本人にむかって、なぜおれひとりが自分を咎めねばならないのかね、と開きなおれば、たちまちわれわれは、かれの内なるわれわれ自身に鼻つきあわせてしまうだろう》
と書いています。

 そこに私がこの一節で書こうとした考えの中心があります。

 「この事件の責任者」と私が書いているのは、一九四五年当時の慶良間列島の二人の守備隊長のことです。そして私がなぜ「この事件の責任者」の個人の名前をあげていないかに、私は自分の、渡嘉敷島、座間味島の集団自決の責任はどこにあるか、誰にあるか、という考え方を示しました。すなわち、この島のそれぞれの守備隊長という、日本軍―第三二軍につらなる命令のタテの構造の一端、ということがもっとも重要なのです。

 もし、渡嘉敷島、あるいは座間味島で、そのどちらかの守備隊長が、日本軍―第三二軍の命令のタテの構造の最先端で、その命令に反逆し、集団自決を押しとどめる命令を発して、実際に働き、悲劇を回避していたとしたら、その時こそ守備隊長の個人名を前面に出すことが必要でした。

 『沖縄ノート』二百八ページ一行目から同ページ八行目までには、次のように記されています。

 《このような報道とかさねあわすようにして新聞は、慶良間列島の渡嘉敷島で沖縄住民に集団自決を強制したと記憶される男、どのようにひかえめにいってもすくなくとも米軍の攻撃下で住民を陣地内に収容することを拒否し(『鉄の暴風』三十三ページ、『秘録・沖縄戦記』山川泰邦著百四十八ページ)、投降勧告にきた住民はじめ数人をスパイとして処刑したことが確実であり(『鉄の暴風』三十八―三十九ページ、『秘録・沖縄戦記』百五十二ページ)、そのような状況下に、「命令された」集団自殺をひきおこす結果をまねいたことのはっきりしている守備隊長が、戦友(!)ともども渡嘉敷島での慰霊祭に出席すべく沖縄におもむいたことを報じた。僕が自分の肉体の奥深いところを、息もつまるほどの力でわしずかみにされるような気分をあじわうのは、この旧守備隊長が、かつて《おりがきたら、一度渡嘉敷島にわたりたい》と語っていたという記事を思い出す時である。》

 ここで私が記述している事例のいちいちは、私が『沖縄ノート』を書き始める前から読み続けてきた、一九四五年の沖縄戦の生き残りの証言にもとづく書物に、すべて根ざしています。さきの引用の中に括弧に入れて本とそのページ数を記しました。この一節で私が「おりがきたら一度、渡嘉敷島へわたりたい」という言葉で代表させている発言と同じ意味の、旧守備隊長の言葉は、次のように繰り返されていました。たとえば、一九六八年四月六日号の「週刊新潮」の記事「戦記に告発された赤松大尉」です。一九七〇年三月の実際の沖縄訪問の際の「沖縄タイムス」「琉球新報」にも同種の発言があります。たとえば前者の単独インタヴィユー、そして後者の談話。「前からぜひ来沖したいと考えていたが、こんど渡嘉敷村から招かれたこともあって来沖した。」

 集団自決について「命令された」と私が括弧つきで書いているのは、これまでも明示してきた私の「命令」という言葉の意味づけ、それが日本軍― 第三二軍―そして慶良間列島の二つの島の守備軍というタテの構造によって、沖縄の住民たちに押しつけられたものであり、直接には二つの島に入って来た日本軍によって、多様なかたちでそれが口に出され、伝えられ、手榴弾の配布のような実際行動によって示された、その総体を指すということ、その構造的な日々の積み重ねが島民のなかに浸透していなければ、集団自決が、ついにその時が来たという島民の窮地での認識にいたり、それが実行されることはなかったこと、そのきっかけをなす「命令」の実行の時はいまだ、という伝達がどのようになされたのであれ(多くの語り伝えがありますが)、一片の命令書があるかないか、というレベルのものではないことを強調するためでした。私は、旧守備隊長がその沖縄訪問の時をずっと待っていたという、さまざまな発言をひとまとめにして、「おりがきたら、一度渡嘉敷島にわたりたい」と考えている、という表明に代表させています。週刊誌、新聞での例は上記に示しました。


(6)記憶歪め 和解を期待 (12月15日朝刊総合7面)

本土側が沖縄ねじふせ


 『沖縄ノート』二百十ページ四行目から二百十二ページ二行目までには、次のように記されています。

《 慶良間の集団自決の責任者も、そのような自己欺瞞と他者への瞞着の試みを、たえずくりかえしてきたことであろう。人間としてそれをつぐなうには、あまりにも巨きい罪の巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き伸びたいとねがう。かれは、しだいに希薄化する記憶、歪められる記憶にたすけられて罪を相対化する。つづいてかれは自己弁護の余地をこじあけるために、過去の事実の改変に力をつくす。いや、それはそのようではなかったと、一九四五年の事実に立って反論する声は、実際誰もが沖縄でのそのような罪を忘れたがっている本土での、市民的日常生活においてかれに届かない。一九四五年の感情、倫理感に立とうとする声は、沈黙にむかって次第に傾斜するのみである。誰もかれもが、一九四五年を自己の内部に明瞭に喚起するのを望まなくなった風潮のなかで、かれのペテンはしだいにひとり歩きをはじめただろう。

 本土においてすでに、おりはきたのだ。かれは沖縄において、いつ、そのおりがくるかと虎視眈々、狙いをつけている。かれは沖縄に、それも渡嘉敷島に乗りこんで、一九四五年の事実を、かれの記憶の意図的改変そのままに逆転することを夢想する。その難関を突破してはじめて、かれの永年の企ては完結するのである。かれにむかって、いやあれはおまえの主張するような生やさしいものではなかった。それは具体的に追いつめられた親が生木を折りとって自分の幼児を殴り殺すことであったのだ。おまえたち本土からの武装した守備隊は血を流すかわりに容易に投降し、そして戦争責任の追及の手が二十七度線からさかのぼってとどいてはゆかぬ場所へと帰って行き、善良な市民となったのだ、という声は、すでに沖縄でもおこり得ないのではないかとかれが夢想する。しかもそこまで幻想が進むとき、かれは二十五年ぶりの屠殺者と生き残りの犠牲者の再会に、甘い涙につつまれた和解すらありうるのではないかと、渡嘉敷島で実際におこったことを具体的に記憶する者にとっては、およそ正視に耐えぬ歪んだ幻想をまでもいだきえたであろう。このようなエゴサントリクな希求につらぬかれた幻想にはとどめがない。おりがきたら、かれはそのような時を待ちうけ、そしていまこそ、そのおりがきたとみなしたのだ。

 日本本土の政治家が、民衆が、沖縄とそこに住む人々をねじふせて、その異議申立ての声を押しつぶそうとしている。そのようなおりがきたのだ。ひとりの戦争犯罪者にもまた、かれ個人のやりかたで沖縄をねじふせること、事実に立った異議申立ての声を押しつぶすことがどうしてできぬだろう? あの渡嘉敷島の「土民」のようなかれらは、若い将校たる自分の集団自決の命令を受けいれるほどにおとなしく、穏やかな無抵抗の者だったではないか、とひとりの日本人が考えるにいたる時、まさにわれわれは、一九四五年の渡嘉敷島で、どのような意識構造の日本人が、どのようにして人々を集団自決へと追いやったかの、およそ人間のなしうるものと思えぬ決断の、まったく同一のかたちでの再現に立ちあっているのである。 》


(7)守備隊長 確実に責任 (12月16日朝刊総合7面)

別人の繰り返しありうる


 「慶良間の集団自決の責任者も」で始まる最初の段落は何を述べたものか?

 「慶良間の集団自決の責任者も」という、この段落を書き出した時、私にはここで『沖縄ノート』の執筆の時点、一九七〇年、渡嘉敷島を実際に訪れようとしている、当の渡嘉敷島において行われた集団自決の責任者を批判する、という思いがもっとも強くありました。この段落に始まって、私の考察は、渡嘉敷島の集団自決の責任者に焦点をおいて展開しています。

 集団自決の責任者は、私の考えでは、すでにのべたとおり、日本軍―沖縄にある第三二軍―慶良間の二つの島の守備隊という命令手続きのすべての段階において見出しうる者ですが、この批判の焦点はとくに渡嘉敷島の守備隊長を指しています。

 実名で記載しなかった点。それもすでにのべましたが、私の考察の中心の軸をなす責任論に立っています。私は沖縄戦における集団自決について書きながら、注意深く、守備隊長の個人の実名を記述しない、という原則をつらぬきました。

 守備隊長は、さきにのべた日本陸軍の命令系統の、最先端の責任者として、確実に責任を負っているのです。たとえば、第三二軍の、軍としての階級や専門において、守備隊の編成の際、A、B、Cという個人名を持つ将校のいずれもが、渡嘉敷島の守備隊長に選ばれる位置にあったとして、私はそれらのA、B、Cの人間的資質の差によって、現実に行われてしまった悲劇が違ったものになったのではないか、というようには考えないのです。

 もし、たとえば慶良間の二つの島の一方で、集団自決の決行の時が迫った時、ひとつの島の守備隊長が、かれの権限において、島民の内に広まっている集団自決をする企図を放棄するように、と命令し、部下の兵隊たちから島民にその命令を徹底させたとすれば、悲劇の避けられる可能性はおおいにあったでしょう。そして現実にそれがあったのだったら、私は全力をつくして、その守備隊長の人間的資質について調査し、個人的インタヴィユーも行って、当然にその個人名をあげたでしょう。

 しかし、現実に行われたことは、慶良間の二つの島での集団自決です。そしてそれぞれの島の守備隊長には、責任があります。そこで私はこの部分で、渡嘉敷島の旧守備隊長を批判しながらかれを個人名でなく、守備隊長という役職の名において呼んだのです。そして、集団自決以後の、とくに戦後においてのかれの責任の取り方(それらはともに、責任の回避の仕方ということになりましたが)を考える、という手法をとったのです。

 そのようにすることで、私は、日本の軍隊構造のなかでの一守備隊長の、一九四五年の沖縄戦で行ったことが、近い将来、まったく別の日本人によって繰り返されることがありうる、そしてそれを許容する方向に、日本の社会は進みつつあり、その意味において、日本人は、戦前、戦中の「このような日本人」から自分自身を作りかえてはいない、という私の認識を表現したのです。


(8)「罪」否定の自己欺瞞 (12月17日朝刊総合6面)

虚偽の物語 自ら意識せず


 「責任者」の内面について想像したものか?

 そのとおりです。そして私はこの「責任者」に、渡嘉敷島において軍の責任者としての自分が行ったことの「罪」についての認識がなかったはずはない、と考えます。それを自分の内面の思考の手続きにおいて、「罪」ではないものに置きかえた操作、それを私は「自己欺瞞」と呼びます。そしてそれで他人を納得させようとしている作業を「他者への瞞着の試み」と呼びました。

 「あまりに巨きい罪の巨塊」とは、集団自決の強制で、自分の権力のもとにある島民たちを死に至らしめることをした、そのいちいちの「罪」の総体をさしています。ひとつの家族の一家での自殺、殺し合いをもたらしたものとしての「罪」があります。その具体的な「罪」が、三百人を超える人々について、ひとつひとつ重ねられているのです。それを私は、「あまりに巨きい罪の巨塊」というのです。

 私の使った「あまりに巨きい罪の巨塊」という表現について、それをひとつの家族に死をもたらすという「罪」とは次元の異なった(神でない者には云々できない、といった)「罪」を指す、という読みとりをする人がいます。しかし、私は、渡嘉敷島で引き起こされた、一家族、一家族の悲惨な死という具体的な「罪」について、それらが渡嘉敷島でどれだけの大きい規模に積み重ねられたか、それを(神ではない)人間として考えようとして、この表現を用いたのです。

 「過去の事実の改変に力をつくす」とは、どういうことを指しているのか? 渡嘉敷島の元守備隊長が、この島で行われた集団自決が、日本軍の強制によって行われたのでない、という方向に向けて事実を改変するために行った発言は幾つもの報道によって私の知るところでした。とくに旧守備隊長の沖縄再訪にあたっての新聞紙上の幾つもの談話にそれは一貫してみられますが、その旅発ちに先だっての、『週刊新潮』(一九六八年四月六日号)での談話は、典型的です。旧守備隊長は、終始、集団自決が行われた夜、自分はそれを知らなかったと言い通します。「私はまったく知らなかった。おそらく気の弱い防衛隊員が絶望して家族を道連れに自殺しはじめたんだと思う。」この週刊誌で旧守備隊長は、伊江島から投降勧告に来た女子三名、男三名を処刑したことについて、「…私は、村長、女子青年団長とどう処置するか相談したら、“捕虜になったものは死ぬべきだ”という意見でした。」といっています。またやはり投降勧告に来た二人の少年についてはこういっています。「そこで“あんたらは米軍の捕虜になったんだ。日本人なんだから捕虜として、自らを処置しなさい。それができなければ帰りなさい”といいました。そしたら自分たちで首をつって死んだんです。」この裁判を契機に、法廷の外と内でそれらの実態はさらにあきらかとなっています。

 「かれのペテンはしだいにひとり歩きをはじめただろう」とは?

 ここで「かれ」は渡嘉敷島の集団自決の日本軍―第三二軍のタテの構造の先端で責任をもつ、守備隊長をさしていますが、かれが上にのべた事実改変の発言を行う一方、あらためて引用しますが、
《 誰もかれもが、一九四五年を自己の内部に明瞭に喚起することを望まなくなった風潮のなかで 》、
いやそれは事実とは違う、という反論にさえぎられることなしに、通用するようになった、その現在時において、守備隊長は、それが自分たちの作り出した、虚偽の物語であることを意識しなくなりさえしているだろう、という意味です。私はかれのこの種の言動について新しい報道に接するたびに、その思いを深めました。



(9)島民の「友好」を幻想 (12月18日朝刊総合6面)
    償い語らぬ死の責任者
(10)「最後の時」放置の責任 (12月19日朝刊総合4面)
    逃れようのない結末に
(11)罪責感ない守備隊長 (12月20日朝刊総合9面)
    架空法廷 ドイツとは逆に
(12)悲劇を繰り返す懸念 (12月21日朝刊総合6面)
    「ノート」の根本的な動機
(13)軍の自決命令を確信 (12月23日朝刊総合9面)
    内容に訂正の必要なし




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