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渡嘉敷島の惨劇は果して神話か6

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渡嘉敷島の惨劇は果して神話か―曽野綾子氏に反論する―6

太田良博
昭和四十八年七月十一日から同七月二十五日まで
琉球新報朝刊に連載
『太田良博著作集3』p188-192
目次


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【引用者註】渡嘉敷島の日本軍と住民との関係

『ある神話の背景』の作者は、「赤松令嬢」の立場にひどく同情しているようだが、その場合、赤松に処刑された人たちの遺族の、戦後の苦しみにも思いを到すべきであろう。

『ある神話の背景』で、いわゆる「遊泳許可事件」に関して、知念元少尉は、「米軍がもし渡嘉敷島の海岸で海水浴をしようと思ったら、そんな協定を結ばなくても、全く自由にできましたな」と証言する。
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それは自ら渡嘉敷島の日本軍が無力化していたこと、同島が米軍の完全支配下にあったことを問わず語りに語ったものである。かかる状態で、赤松のいう「島の死守」とは何を意味していたのだろうか。

『鉄の暴風』の中で、処刑される伊江島の女たちに穴を掘らせたと書いたら、作者の問いに対して赤松隊員は、「墓穴を掘る体力も自分たちにはなかった」とトンチンカンな返答をしている。

作者は作戦要務令の綱領を引用して、「軍隊の目的は戦力だけを保持することだ」と説明する。墓穴も掘れないような赤松隊員の「戦力」とは何だったのか。彼らは「戦力」どころか、自分たちの「生命」を保持するだけがやっとであったという実情ではなかったのか。

『ある神話の背景』や同じ作者の『切りとられた時間』のあちこちで、大岡昇平の『野火』にでてくるような軍隊の姿が描写されている。

知念元少尉の証言に、米軍に投降するときは、「三百人の生き残りが並びまして、連隊旗を持ち、ラッパを吹いたんです」というのがある。いかにもちゃんとした軍隊だったことを誇示する言葉である。

穴も掘れないような餓死寸前の兵隊がフラフラし整列して、軍隊の格好を保とうとして
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いる光景が目に浮かぶ。

ラッパを吹く気力もまだあったんだゾと言っているように聞こえる。

餓死寸前の状態にあった渡嘉敷島の日本兵がどうして「島を死守し、全軍の戦局に有利になるような作戦任務を遂行していた」ことになるのか、非現実的な屁理屈としかとれない。

「日本軍の監視哨の間を、自由にくぐり抜けて出入りしていたと思われる一人の防召兵をとらえて、陣地のもようを敵に通報したという理由で処刑した」ということが『切りとられた時間』に書かれている。

右の事実の真否はわからないが、そう書いている作者が、『ある神話の背景』では、防召兵を「れっきとした正規兵」だったと規定する。正規兵なら監視哨の間を出入りしても処刑されるわけはないはずである。「陣地のもようを敵通報した」という証拠は敵に聞かなければわからない。立証が不可能に近い理由で処刑するなど防召兵に対する扱いがいかなるものであったかがわかる。

渡嘉敷島の集団自決についてよく、「共同体意識」といったものからの解釈がなされることがある。集団自決の理由を島自体の固有の問題とむすびつけようとする考え方である。伊江島の例をとると、米軍の猛攻をうけ、日米両軍の激闘があったのに、伊江島ではなぜ
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集団自決がなかったのだろうか(※1)。特攻隊員のいた渡嘉敷島や座間味島で集団自決があったのはそれらの島々の住民の特殊な事情というより、「そこにいた日本軍と住民の特殊な関係」と「外部から遮断された閉鎖状況」に原因があったのではないだろうか。
【引用者註】※1 今は、伊江島でも大規模な集団自決があったことが知られている。

『切りとられた時間』の中で、渡嘉敷島のことを「誰もがみんな泳いで脱出することを考又たこの島」と表現している作者が、どうして『ある神話の背景』では「渡嘉敷島を死守するつもりだった」という赤松隊生存者の言葉を確信するように紹介してあるのだろうか。

『切りとられた時間』の中に、「どこの国の軍隊も、住民のお守りなどしないよ。国民のために闘う訳だけどね。その国民はもっと抽象的な存在でね、すぐそこらへんにいる住民ということじゃないんだ。どこの誰がそんな高尚な論理を考え出したかね」という言葉がある。渡嘉敷島の問題を考える場合、右の会話の一部は、最も核心をついたもののように私にはおもわれる。

それは、国家、国民、戦争、軍隊の関係を考えさせられるものをふくんでいる。「国家悪」の根源の問題もふくまれている。

作者は、この問題はよけて通っている。

『切りとられた時間』に、集団自決で家族を殺した一人の女が、戦後、殺人罪として島
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の駐在に自首することを考えていた、というくだりがある。こんなことを書く作者が、どうして、『ある神話の背景』の中では、赤松の住民処刑と、その無反省を弁護しているのだろうか。

「私が渡嘉敷島の指揮官だったら、どんな卑怯なことをしたかわからない」という作者の確信のようなものは、その場になってみなければわからないことで、「戦後的発想」かも知れない。作者自身、戦時中の少女時代を回想して、あの当時、「生きて虜囚のはずかしめをうけず」という信念をもっていたとのべている。

この「戦後的発想による仮定的思考」の上に、『ある神話の背景』の論理が組み立てられている。宇久真成氏(当時、渡嘉敷国民学校長)の話によれば、大城徳安氏は教頭だったが、あからさまに赤松隊の行動を批判するので、要注意人物として、陣地付近で苛酷な労働を強要されていたという。大城氏は当時、五十近い人で、親子ほども年の違う赤松隊員たちからいじめられたことも、陣地を離れる原因の一つだったかも知れない。大城氏の処刑には多分に感情的要素がまじっていた、とおもわれる。
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