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渡嘉敷島の惨劇は果して神話か4

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渡嘉敷島の惨劇は果して神話か―曽野綾子氏に反論する―4

太田良博
昭和四十八年七月十一日から同七月二十五日まで
琉球新報朝刊に連載
『太田良博著作集3』p179-183
目次


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【引用者註】言動が信用できない赤松に信をおく

赤松隊「陣中日誌」に、「三月二十九日も曇雨。昨夜より自決したるもの約二百名。首を縛つた者、手榴弾で一団となって爆発したる者、棒で頭を打ち合った者、刃物で頚部を切断した者、戦いとは言え、言葉に表し尽し得ない情景であった」と、あたかも目撃したように記録してある。

ところが、『ある神話の背景』では、「集団自決の情景」をみたものは、赤松隊には誰もいなかったことになっている。
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赤松の話では、第三戦隊陣中日誌は主に谷本候補生(伍長)が書いたという。

陣中日誌に関しては、作戦要務令第三〇八条から第三一七条の各条で規定してあるが、それら各条記載の規定内容をみても、同日誌は、相当軍隊経験に富む者でなければ書けるものではないことがわかる。各所属隊長の捺印署名と共に通常一カ月ごとに大本営に提出すべく規定された陣中日誌を、年端もゆかない、しかも陸軍学徒の身分にある者に書かせたというのも変だが、『ある神話の背景』の別の個所には、「谷本氏は人々に戦後、初めてまとめたという『陣中日誌』を配った」とある。戦後、手を加えたことが考えられ、いわゆる作戦要務令にある「陣中日誌」とはちがうようだ。

村民全体が自決せよ、というような重大な命令がでて、それが軍の越権であるとわかれば、殺されることがあっても、村の指導者としては身を挺して抗議すべきだった、と『ある神話の背景』の作者はいう。これこそ、作者のいう「戦後的発想」というものであろう。考えてみたらよい。戦時中、あの戦争が暴挙であることを知る者は国内にかなりいたはずだが、日本の知識人その他で、当時、軍に向かって正面切ってそのことを言えたものがいるだろうか。

一億の運命に関することでさえ然りであった。まして、軍刀をふり回すことしか知らない若年の下級士官に、村の指導者が戦場で抗議することは無意味で、そんなことができる
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状態ではなかったはずである。

「誰が悪いかといえば、最も残忍なのは米軍であろう。彼らは日本人の非戦闘員がいるなどということに、何ら道義的なものを感じないでいられたのであろう。なぜなら、その島に、ほんの少数の住民がいて、そんな連中の生命や家をふっとばしたからと言って、何ら心の痛みなどを覚えることはないのである」と作者はいう。

『鉄の暴風』が書かれた時代に「沖縄戦における米軍のヒ一マニズムと日本軍の暴状」を対照的にとらえる感情的背景があったことを、私は作者に話したことはあるが、ここでは私の予期しない方法で、状況が逆転させられている。

ただし、米軍の攻撃は戦闘行為であり、住民に対する責任を負うものは、あの時点では日本の国家であつた。住民疎開の問題がそこに介在してくる。その疎開が、また沖縄戦ではまことに計画性のない、泥縄式のもので、デタラメといってよかった。

「赤松元大尉は、沖縄戦史における数少ない、神話的悪人の一人であった。(中略)それは面長でやせた、どこにでもいそうな市井の一人の中年の男の姿をしていた。
 神話は神話として、深く暗く遠いところに置かれている限り、そして、実体が人々の目にふれない限り、安定した重い意味を持つのだった。しかしそれが明るみに取り出された場合、神話の本体を目撃した人はたじろぐのが普通である」と作者はいう。
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かんたんに言えば赤松が悪人には思えなかったということである。

だが赤松は、この作者がうけた印象とちがった姿を沖縄の人たちに見せた。『週刊新潮』に赤松に関する記事がでた直後、昭和四十三年八月八日、『琉球新報』でとりあげられたのが、現実の人物として、戦後、赤松が紹介された最初である。

琉球新報記者とのインタビューで、赤松は「自分のとった措置はまちがっていなかった。処刑を命じたのは大城訓導一人だけだった」と語った。それが沖縄の人たちを刺激した。

「神話の人物」は、決して「一市井人」としてではなく、「まったく事実を曲げる反省のない人間」として立ち現れたのである。

事実、『ある神話の背景』では、大城訓導以外にも処刑したことをみとめている。赤松の言葉は、前後、信用がおけないのである。

大城訓導の処刑理由として、彼が「れっきとした正規兵」であったことを作者は力説する。

防召兵は、沖縄戦で初めて召集された特殊な兵隊で、二等兵の階級をあたえられてはいるが、正規兵とはいえない。だいいち徴兵署をへずに、しかも「赤札」でなく、「青札」で召集され、十六歳の未成年者から五十歳の初老もふくまれ、兵隊の訓練もあたえず、武器も持たさず、もっぱら弾丸運びなどの使役に使った苦力兵を「正規兵」とするのは、正
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規兵の権利はあたえず、その義務だけを負わせた解釈である。

大城訓導の如きは、正式に防衛召集されたが、赤松隊が勝手に防召兵にしたのかどうかも疑わしい。

赤松隊の候補生や兵隊は食を求めて住民のいる場所をうろうろしていたらしい(統率は乱れていた)。彼らはなんともないのに防召兵が住民に接近しただけで処刑している。そこに「差別」を感ずる。

「日本軍将校」や「日本兵」が米軍の捕虜となり、米軍に使われて、何度も、渡嘉敷島の日本軍に降伏をよびかけている。降伏勧告にきた伊江島住民を処刑した赤松流のやり方からすれぱこれら日本兵捕虜こそ、まさに処刑にあたいする存在であるはずである。これら日本兵に対して赤松隊のとった反応は「無視すること」だけだった。そこにも「差別」を感じる。

『ある神話の背景』で、作者は自殺者の心理分析を試みている(集団自決の自害行為性の立証として)。むしろ赤松の心理を分析したほうが、事件当時の真相を理解するカギとなるのではないか。
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