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『鉄の暴風』取材ノートを中心に

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『鉄の暴風』取材ノートを中心に

『太田良博著作集3』p159-166


沖縄で書かれた初の戦記


一九七〇年にニューヨークで初版がでたジヨン・トーランド著『ザ・ライジング・サン』(副題、日本帝国の興亡、日支事変から終戦に至る太平洋戦争の全貌を日本側の資料をもとにして書かれたもの)の中に、「アイアン・タイフーン」と題する一項があって、沖縄戦にふれている。The Iron Typhoon のタイトルは、もちろん『鉄の暴風』の直訳で、内容は著者独自の取材によるもののようだが、題名は、沖縄タイムス社から出された『鉄の暴風』を借用したものと思われる。

『鉄の暴風』は、沖縄で書かれた最初の戦記である。それでも、同戦記が刊行されたのが一九五〇年、すでに終戦から五年の月日が流れていた。戦後の沖縄における文化の立ちおくれが、そのことからもうかがえる。

『鉄の暴風』の執筆に参加したいきさつは、こうである。私は沖縄民政府(在知念村)の財政部に勤めていたが、ある日、沖縄タイムス社の牧港篤三記者から、その企画をうち
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あけられ、執筆参加を求められた。

その前に、同社発行の『月刊タイムス』に短編「黒ダイヤ」を発表したことがあって、同社とは寄稿者としてのつながりはあった。

『鉄の暴風』は、豊平良顕氏の監修で、牧港氏と私が執筆に当たることになり、それを契機に私はタイムス社に入社した。たしか、取材三カ月、執筆三カ月の予定で、ほぼ、その予定通りに仕事が完結したと記憶している。突貫作業だったわけである。一九四九年春から取材をはじめ執筆にとりかかったときは、とても暑い時期だったようにおぽえている。

当時、タイムス社は崇元寺の向かいにあって、社屋はカマボコ型トタン屋根だった。編集局と隣り合わせた総務局のかたすみで、ひとつの机をはさんで、牧港氏と私が向き合って、取材した資料を整理したが、夏の炎熱がトタン屋根にあたるため、部屋の中は、むし風呂のようであった。

牧港氏は、首にかけたタオルでときどき顔や、裸体になった上半身のあぶら汗をふきふき、黙々と鉛筆を動かしていた。巻紙のような長い新聞のザラ紙にさらさらと鉛筆を動かしていたが、私はザラ紙に書くのに慣れていないのでたまに不思議なものでも見るようにうつ向いて仕事をしている彼の方に目をやったものだ。執筆は、一種の苦行でどうという
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記憶も残っていない。思い出すのは取材期間のことだけである。

常務取締役だった豊平氏が、ほとんど、この戦記編纂に専念していたところから、社をあげての事業だったのだろう。取材はインタビュー、座談会などがおもで、そのため南は糸満、北は大宜味村まで足を伸ばした。牧港氏と私が個々に、あるいは二人が共同で取材することもあったが、たいてい豊平氏が加わっての取材だった。どこかで昼食をとるときも、豊平氏は、時間が惜しいと思つたのか、世間話はほとんどせず、戦争体験や戦記編集の話に終始した。豊平氏と牧港氏は、沖縄戦の体験者で、戦記編纂に対する熱意も体験から出たものにちがいなかったが、体験者でない私は、なかば両氏の熱意に引きずられたような形であった。

執筆が終わると、原稿は全部きれいな楷書体で、アルバイトに清書させていた。

また、英文の全訳をアメリカ軍政府に提出する必要があったらしく、琉球大学の翁長俊郎氏に依頼して翻訳させたと聞いたが、私はその翻訳文は見ていない。結局、朝日新聞(東京)刊行となったわけだが、それには「現代人による沖縄戦記」というサブ・タイトルがついていて、心にひっかかるものを感じた。当時、あのていどの本を出版する設備が沖縄にはなかったのである。本の用紙はザラ紙で、日本の敗戦社会の香りがぷんぷんと漂うものだった。
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それから、ちょうど二十年をへた一九七〇年、沖縄タイムス社から『鉄の暴風』第二版がでている。第二版では、初版の副題はとりのぞかれて、単に「沖縄戦記」としてある。第二版は同社で印刷製本したようだが、東京の朝日新聞で刊行された初版とくらべると、紙質といい印刷、製本といい、はるかによく、時代の進運というものを感じさせる。

『鉄の暴風』がでる前に、すでに古川成美氏の『沖縄の最後』がでていて、これが沖縄戦に関する最初の戦記だったと思う。『鉄の暴風』は、沖縄で最初に書かれ、住民の体験を主にした意味では最初の戦記とはいえる。

私は、執筆するまえに『沖縄の最後』を読んでいた。

兵隊として沖縄戦を体験した古川氏個人の行動が中心となっていて、文章が美しく、映画のシーンを見るような鮮やかな印象を与えられた場面がいくつかあった。

今日、沖縄戦に関する出版物は、百数十冊を数える。なかでも、いちばん書いてもらいたくて、いちばん書く可能性の少なかった八原博通氏(第三十二軍高級参謀、元大佐)の『沖縄決戦』が出るにおよんで、沖縄戦記に関する限り「戦後」は終わり、いちおうの区切りがついた感じがする。でも、沖縄戦記は、これからもなお書き続けられてゆくだろう。単なる体験記録ではなく、歴史的解釈も加えられてゆくにちがいない。
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消えぬ「住民不在の戦争」


「沖縄戦の記録面だけでなく、それを超えた、なにか戦争の意味といったようなものまでさぐることができたら、たいしたもんだが……!」

誰かが、そんなことをいうのを聞いたことがある。その言葉に刺激されたかどうかおぼえていないが、戦争をテーマにしたトルストイの短編集を読んだ。あのころ、そんなのが、とこで手にはいったかは忘れてしまった。

しかし、豊平氏の方針は決まつているようだった。戦争体験の事実だけを記録するということだった。目次をふくめた編集方針は、取材、執筆の期間を通して、三人が話し合う中から浮かび上ってきたが、主として豊平氏の裁断によるものであった。

編集の特色は、沖縄を三つの様相に区分したことである。中・南部の激戦、北部山岳地帯の飢餓との戦い、沖縄戦が集約された形であらわれた離島の戦記、この三つが柱になつていて、それに、女子学徒看護隊(姫百合隊)の体験記録が加わり、戦記全体の主要部分をなしている。

姫百合隊に関する部分は、生存者の座談会や、金城和信氏が所持していた女子学徒の手記がもとになっている。

また、板良敷朝基氏の寄稿があり、「住民の手記」として掲載され、戦記に花を添えた
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感じがあったが、なかなかの筆力で、たんなる手記というより、文学的な香りの濃いものであった。

付録の「戦闘経過概要」は、初め予定されていなかったが、あとでつけ加えられた。

沖縄戦に関する中央紙の記事の切抜き帳を持っている人がいて、その記事からまとめたものである。

私が執筆した部分は、第二章の「集団自決」、第三章の「神山島斬込み」の中の三項、神山島斬込みの部分、同章の「牛島・長の最期」、第四章の「女学生従軍」「南風原陸軍病院」「泥屍の道」、第五章の「第三外科の最後」「運命甘受」「女学生の手記」(これは女学生の手記に手を加えただけ)、「草むす屍」「平和への希求(姫百合之塔由来記)」、第六章の「武士道よさらば」、付録の「戦闘経過概要」で、その他大部分は、ほとんど牧港氏の執筆である。初版四三八ぺージのうち、だいたい七四ぺージが板良敷氏の手記、二三〇ぺージが牧港氏、一三四ぺージが私の執筆部分という割合である。

『鉄の暴風』の中の「集団自決」と題した渡嘉敷島戦記の部分が、曽野綾子氏の『ある神話の背景』で、「赤松神話」の原典とされて一つの問題を投げかけている。

曽野氏の『ある神話の背景』は、多くの関係者の証言を集めている点では圧巻で、渡嘉敷島の戦闘に関する貴重な記録といえる。
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曽野氏は、ほかに渡嘉敷島の集団自決を扱った『切りとられた時間』があるが、宗教的な立場から渡嘉敷島の「集団自決」と「住民処刑」の問題を掘り下げようとしている。

『鉄の暴風』には、主要な事実で、もれたのもある。久米島の住民虐殺事件やトノキヤ(現在の大宜味村白浜)での日本兵による那覇疎開民集団虐殺事件などである。

久米島の事件は、当時、知らなかったが、トノキヤ事件は、ただひとりの生存者という中年の男が那覇の壷屋にいて、私が取材し、四百字詰原稿用紙で三十枚ていどと思われる記録を書いた。しかし、それは「没」になった。理由は、その事件には、那覇の疎開民と地元民とのアツレキがからんでいるようで、将来にシコリを残すおそれがあるということだったらしい。

トノキヤ事件の真相は、そのまま埋もれるものと思っていたが、さいきん、戦史研究者たちによって再調査されているようである。

対馬丸による疎開学童遭難については、一項を設けるべきだったと思う。

『鉄の暴風』は、いわば沖縄戦記に関する総論的なもので、その後、各論的な詳細な記録が続々と出版された。『鉄の暴風』は、戦争体験者の記憶がまだ生々しい時に記録しておかないと、未曽有の戦禍をうけた民族体験が歴史の中に埋もれるおそれがあるという気持ちもあって企画されたものと思うが、時が経つにつれて、沖縄戦の記録は、ますますく
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わしいのが出てくるようになった。

『鉄の暴風』の序文で、米軍のヒューマニズムにふれた個所があるが、当時は、アメリカ軍政の牧歌時代で、まだ日本復帰運動は芽生えていなかった。その後、米軍人の行動は、アンチ・ヒューマニズムに転じた面が多く目につき、住民の反米運動と日本復帰運動がはげしくなって行った。

しかし、沖縄戦が「住民不在の戦争」であったという事実は消えない。かつての帝国主義的軍隊に対する沖縄住民の拒否反応も根強く残っている。

ただ次のことだけはいえると思う。

沖縄住民の目に映じた日米両軍の姿というのは、ある限定された状況の中でとらえられた現象的なものであった。民主主義国家の軍隊と軍国主義的超帝国主義国家の軍隊とは、その成立から言って根本的な差異はあるはずだが、沖縄戦で米軍の行動がヒューマンであったのは、多くは、その圧倒的勝利による「余裕」によるものと思われる。また、米軍の保護下で、「死」から「生」への道を歩み出した住民にとって米軍は「生命の恩人」のようにみえたであろう。だが、勝利なきベトナム戦争では追いつめられた立場の米軍はまことに狂暴性を発揮している。沖縄戦における「友軍」と住民の悲劇的関係は、追いつめられて「余裕」のない状況の中で生じたという一面のあることも否めない。
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