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産業組合の壕

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産業組合の壕



産業組合の壕 -1-

(8月25日朝刊総合3面)
体制支えた兵事係も死へ
亡き父思い 心の真実追う娘

 戦後、座間味村長を務めた宮里正太郎(86)は、戦前の座間味役場のことを知る唯一の人物だ。入庁は一九四一年六月、十九歳の時、行政書記として採用された。役場への就職を勧めたのは、当時二十九歳だった役場職員、宮里盛秀だった。
 正太郎は学費を稼ぐため屋嘉比島の鉱山で働いたが体を壊した。重労働ができない正太郎のことを盛秀は心配していた。「体が大きく、厳格だけど優しい人。そんな印象だった」と正太郎は振り返る。

 役場には村長、助役、収入役の三役の下に、兵事、勧業、税務、衛生、受付の各係が一人ずつ。盛秀は兵事係として徴兵事務や在郷軍人会関係の担当をした。「重要な仕事だけに盛秀さんは、ずっと兵事係の担当だった。村民の兵籍など熟知していた」 正太郎の入庁が決まった時、親せきが羽織袴を仕立てようと喜んだ。それほど役場職員の地位は高かった。「ジッチュウトゥヤー(月給取り)」。村民は役場職員と教師を陰で呼んでうらやんだ。「役場職員には、簡単に話し掛けることもできない。尊敬もされ、恐れられてもいた」 新米職員の正太郎にとって役場の上下関係は厳しかった。「十代の職員は私ともう一人。仕事は大先輩の盛秀さんたちの指図通りに働いた」 正太郎は、四一年徴兵検査を受け満州の部隊に現地入営するため、役場を辞した。

 そのころから徴兵のため島から次々と男子青年の姿が消えた。「男子は役場に採用してもすぐ徴兵された。結果的に職員は、ほとんどが女子になった」。軍国主義体制を地域で支えた兵事係。「兵事係の職務を熟知していた盛秀さんは助役に就任しても、引き継がず兼務していた」 亡父・盛秀の写真を二女の山城美枝子(66)が友人に見せたことがあった。友人は「集団自決」のことは知らない。「怖い表情だね」。何げない一言が胸に刺さった。

 ある日、座間味島に渡る船中で年老いた女性が話し掛けた。「夫の出征後、盛秀さんが暮らしぶりはどうですか、とわざわざ訪ねて来た。優しい人だった」 軍国主義体制を村で支えた父。「威厳を保つ表情の下で、心中何を思っていたのか」 盛秀ら村三役役場職員ら十五家族六十七人が、産業組合の壕で「集団自決(強制集団死)」で亡くなった。戦後、一人残った美枝子が泣かない日はなかった。父の心の真実を求め続けた。=敬称略(編集委員・謝花直美)


産業組合の壕 -2-

(8月26日朝刊総合3面)
迫る地上戦 恐怖におびえ
空襲で集落壊滅 転がる遺体

 一九四五年三月二十五日。軍命でいったん集合場所の忠魂碑へ向かったが、米軍の攻撃が激化し、役場職員とその家族らは産業組合の壕へ戻った。この壕の「集団自決(強制集団死)」で、六十七人が亡くなる惨劇となった。壕をめぐる人々の体験をたどる。
 二十三日。教師に引率された座間味国民学校の生徒と女子青年団は島の東側のマチャンの浜で、食料増産に向けた畑の開墾をしていた。

 高等科二年で十四歳の宮里米子(76)は、芝刈りの束を教頭の前に積んだ。「先生、お昼が食べたい」。教頭に「もう一回刈ってこい」と怒られて、作業の列に戻った。

 その時、東の空に小さい鳥のようなものが、群れになって、向かってくるのが見えた。ブーン、ブーンと、低いうなるような音も聞こえる。影がだんだん大きくなる。

 「飛行機だ」「敵だ」。そう思った瞬間。ヒュン、ヒュン、ヒュン、いきなり機銃掃射が始まった。生徒は、農具を放り投げ、泣き叫びながら隠れる場所を探して散り散りになった。

 機影が去ると教頭は「生徒はいないかー」と叫びながら生徒を集めた。「先生、先生」と泣きながらはい出てきた、米子たちに集団で逃げるよう指示した。米子は女子青年団員らと一緒にマチャンを出発した。

 兵事主任で助役の宮里盛秀の妹、宮平春子(80)は当時十九歳。座間味集落の入り口付近を歩いている最中に、いきなり空襲に見舞われた。近くの壕へ逃げ込むと、中に日本兵がいた。

 春子の姿を見ると「米軍の上陸は目前だ。あんたたちも絶対捕まえられないように、自決しなさいよ」。さらに「あんたたちは捕まえられたらすぐ強姦される。ちゃんと潔く自決しなさい」と畳み掛けた。

 初めて体験する本格的な空襲。地上戦の無残さを強調する日本兵。春子は「本当に強姦されるんだろうか。本当に殺されるんだろうか」と恐怖におびえた。

 米子たちは、ウハマ、ンチャーラと山中を逃げた。通常一時間の道のりだが六時間かかった。

 座間味集落は空襲で壊滅していた。学校は焼け、民家の玄関先に首のない遺体が転がっていた。初めて実感した戦争のむごさだった。

 祖父と兄はけがをしていたがなんとか動くことができた。手助けしながら、タカシタの壕を目指した。

 その日、多くの住民が集落を離れ、山の壕へと避難した。=敬称略(編集委員・謝花直美)


産業組合の壕 -3-

(8月30日朝刊総合3面)
男性は軍事体制の中に
避難小屋には女性ばかり

 一九四五年三月二十三日に座間味島を米機の空襲が襲う直前。宮村トキ子(75)の家族は座間味集落から離れたマチャンに造っていた避難小屋に逃れていた。村の男性たちはことごとく軍事体制の中に組み込まれていた。トキ子の長兄、盛秀は助役で軍と民間の連携を取る兵事主任、さらに防衛隊長でもあった。当時十六歳ですぐ上の兄、直はかつお漁船の軍属。「男連中は座間味集落をいったり来たりし連絡を取っていた。避難小屋には女ばかりだった」とトキ子は振り返る。
 二十五日夜、座間味集落から直が、家族を呼びに来た。「玉砕命令が軍から来た。軍の言う通りにしないと」。「玉砕」。トキ子はこの言葉を聞き「島自体がこっぱみじんになるのだ」と漠然と思った。サイパンと硫黄島がすでに「玉砕」。次は沖縄と、大人たちの話を耳にしていたからだ。

 一家は、夜道を座間味集落へ急いだ。夜空には米軍の砲弾が光の軌跡を刻み、島に次々打ち込まれていた。「まるで花火のよう。怖いんだけど、きれいだと思った」 当時十三歳のトキ子は現実感を持てずに、軍命によって死のふちへと向かっていった。

 役場職員で防衛隊員だった当時十九歳の宮平恵達は、二十五日の夜「忠魂碑の前に集合せよ」という軍命を、砲弾の下をかいくぐり、住民の避難壕へと次々伝令した。

 二つ違いの姉、宮里育江(82)は「恵達はとても優秀だった」と振り返る。戦前に那覇商業学校に進学したが、病を患い、志半ばで退学。島に戻ってからは農業組合を経て村役場書記に採用されていた。

 軍の経理部で働き、軍と行動を共にしていた育江は、米軍上陸が必至の気配となった二十四日、他の女性たちと家族の様子を確認しに集落へ戻った。

 家に向かう途中、偶然恵達に出会った。足に脚半を巻いた軍服姿。さっと右手をこめかみに上げ、軍隊式の敬礼をした。きりりとした恵達の姿に、育江は「働けて良かったね」と声を掛けた。兵隊に志願する同級生を見送るばかりの恵達。戦時の男性として弟がつらい思いをしていたのをを知っていたからだった。

 それが恵達に掛けた最期の言葉になった。育江は「今は悔やまれてならない」と涙ぐむ。

 住民に「集団自決」の軍命を伝えた後、恵達もまた産業組合の壕で母や妹、役場職員の家族らとともに亡くなった。=敬称略(編集委員・謝花直美)


産業組合の壕 -4-

(8月31日朝刊総合3面)
「忠魂碑前に集合せよ」
壕に軍命 誰もが死を予感

 「忠魂碑の前に集合せよ」。防衛召集で、日本軍の一員となっていた役場職員の防衛隊員が、住民の避難する壕から壕を走り回り、軍命を伝えた。
 集落を破壊され、壕外では米軍の攻撃がいよいよ激しさを増していた。そのような状態で、天皇への忠誠を誓う儀式が行われてきた忠魂碑への集合が命じられたこと。誰もが死を予感した。

 二十五日夜、タカシタの壕から、当時十五歳の宮里米子(77)ら家族も忠魂碑前へ向かった。途中、戻ってくる年老いた男性と出会った。忠魂碑一帯の攻撃が激しく、集合していた住民は解散してしまった、という。「自分たちの壕でやりなさいって」。男性は泣きながら話した。

 米子の家族は、元の壕へ引き返し、配給米で最期の食事をすることになった。母親が火に鍋をかけた時、照明弾があがり、辺りが明るくなった。すぐに米軍の攻撃が始まる。「危ない」。米子は弟を背負い、妹二人の手を引き、壕を出た。母親はけがをした兄を支え、追ってきた。

 内川山近辺になると、壕を探すため米子が家族の先頭をきり、段々畑の中を登っていった。がらんとした壕に、高齢の女性が一人、風呂敷を抱えて座っていた。「入ってもいいですか」と聞いて、了解を得た米子は弟とともに家族を待った。

 しばらくして、壕の入り口から、米子を屋号で呼ぶ声がした。「ミイカンザトの家族は出てください」。「はーい」。米子が無邪気に返事をし、外に出ると、いつの間にか外には大勢が立っていた。やはり忠魂碑前から引き返してきた役場職員や家族たちだった。米子が入ったのは、役場職員が使っていた産業組合の壕だった。

 「私たちは、どこへ行ったらいいんですか」。米子の問いに誰も答えなかった。ふびんに思ったのか、同級生の母親が「私たちの壕と交代。交代だよ」と二十メートルほど離れた家族壕の場所を指し示した。壕の上手の畑には火の手がすぐに回りそうだった。米子は心配で壕に入らずに、外の暗がりに一人座っていた。

 子どもたちがふざけあっている声が近づいてきた。「ちぶるー」「みちゃー」。聞き覚えのある声。同級生で、収入役の娘の宮平ミチコだった。

 学校へも遊ぶのも一緒の親友。避難や米軍の攻撃に疲れ果てた米子は、友達に会いたくて懸命に呼んだ。「ミチコさーん、ミチコさーん」。

 「米子さーん、さようなら、元気でねー」。ミチコは米子の声の方へ近寄ることもなく、産業組合の壕へと向かった。=敬称略(編集委員・謝花直美)


産業組合の壕 -5-

(9月1日朝刊総合3面)
「国の命令であの世に」
壕内に大人たちの号泣 響く

 兵事主任の宮里盛秀の家族は二十五日の夜、軍命を受け、マチャンの浜から集落奥の内川山の壕へと戻った。父親、盛永が専務だった農業会の壕(通称・産業組合の壕)近くに、連絡がとりやすいように作った壕に、親族約三十人で入った。
 夜十時ごろだったか。どこかへ行っていた盛秀が戻り、壕奥にいた父・盛永と話すのを、盛秀の妹、宮平春子(80)が聞いた。盛秀は思い詰めた様子だった。「明日か、あさってに上陸は間違いない。軍から自決しなさいと言われている。国の命令に従って、あの世に一緒に行きましょう」 壕内部でも照明弾で空が明るくなり、島中の山が燃えている様子が分かる。米軍上陸が目前なのは明らかだった。

 盛秀の言葉に対して盛永は黙りこんでいた。「軍からだったらしょうがない」。しばらくし、納得し難いように答えた。

 盛秀は家族と別れのあいさつを始めた。父親に「生きている間は何もできなくて。あの世に行ってから親孝行します」と親不孝をわびた。

 当時三十三歳の盛秀には長男英樹=当時(7)、長女郁子(6)、二女美枝子(3)、十一カ月の三女ヒロ子、四人の子がおりかわいがっていた。子どもたちをそばに引き寄せた。「今までずっと育ててきたのにね、この手で…。手をかけることは、とても、苦しいではあるが。お父さんもついているから、一緒だから、怖がらないでね」。盛秀はついに、ぼろぼろと泣きだした。「こんなに大きくなったのに。育ててきたのに。自分の手で子どもを亡くすということは…」。震えながら、きつく子どもたちを抱きしめた。年長の英樹は意味も分からず、大きな瞳でまばたきするばかりだった。

 厳格な長兄の盛秀が、なりふり構わず家族の面前で泣き崩れている。軍の指示を住民に伝える兵事主任という役割と、子どもたちへの愛情の間で、板挟みになって慟哭する兄。兄のつらさが春子には痛いほど分かった。壕内には、盛秀の号泣と春子やほかの大人たちの泣き声が響き続けた。

 時は迫り、壕では死への準備が始まった。子どもたちに晴れ着が着せられた。田んぼの水で米を炊き、おにぎりを最期の食事にした。作りたての温かく真っ白なおにぎり。子どもたちは小さな手でおいしそうに平らげた。死のための食事は、大人は食べることができなかった。「食べられるだけ、食べさせなさい」。何も知らない子どもたちだけが、無心にほお張った。=敬称略(編集委員・謝花直美)



産業組合の壕 -6-

(9月2日朝刊総合3面)
「軍から命令」死を覚悟
「死ぬときは一緒だ」家族で約束

 忠魂碑に集合する時間が近づいた。座間味村内川山の家族壕を、兵事主任で助役の宮里盛秀が家族を連れて、出ようとした時。末妹の宮村トキ子(75)の目前で、父盛永が盛秀を呼び止めた。「盛秀、もうどうにも生き延びられんのか」。最後の望みを託した問い掛け。盛秀は「お父さん、軍から命令が来ているんです。いよいよですよ」。納得させるように言い含めると、再び歩みだした。
 砲弾が着弾し、地面が揺れ、砂ぼこりが舞った。座間味集落発祥の地、マカーの宮に建つ忠魂碑近くまできた時、行く手から泣き叫びながら人々が逃げてきた。盛秀の妹、宮平春子(80)は「照明弾が落ちて、誰もいなくなった、そう叫んでいた」。一行も元の内川山へきびすを返した。

 向かったのは役場職員が使っていた産業組合の壕。形状は段々畑の段差を壁に、松の坑木を組んだ屋根に枝や土を置き偽装した小屋だった。役場の重要書類や米を保管するための壕が「集団自決(強制集団死)」の場所になろうとしていた。

 たどりついた時、すでに忠魂碑から来た人々で、盛秀ら一行が入る余地はなかった。「皆さん出てください。忠魂碑で皆散り散りになった。自分たちのことは自分で考えてください」。盛秀は壕内へ呼び掛けた。

 「私たちはどうするんですか」「皆でつくった壕だから一緒に死なせて」。中の住民が興奮して叫ぶ。「私は私たちの責任しかとれない。皆さんは自由にしてください」。盛秀は説得しようとした。しかし出て行く者はなかった。仕方なく盛秀と妻子、末弟の直が入り、残りの家族は元の壕へ入ることにした。盛秀は「すぐに連絡を取らせる。死ぬときは一緒だ」と約束した。

 盛秀と住民が押し問答をする間、トキ子は姉の峯子と産業組合の壕へ入っていた。「壕の中にいた住民の足元が空いていたので、身をかがめ、そこに入った」。入り口付近に座ると、奥で義姉が手を振っていた。しかし、皆が地面に座り込み、とてもそこには行けそうもなかった。

 ボン。勢いよく音をたて扉が閉まった。父母が見えないために、トキ子は不安になり「お父さんとお母さんのところで死ぬ」と泣きじゃくった。人々が「ふんでーはへーくだせー(泣き虫はつまみ出せ)」と怒り出した。戸が開きトキ子は壕を追い出された。それが盛秀ら家族との別れとなった。=敬称略(編集委員・謝花直美)



産業組合の壕 -7-

(9月6日朝刊総合3面)
15家族67人が「集団自決」
軍命伝え子を抱き泣いた盛秀

 産業組合の壕に入った兵事主任で助役の宮里盛秀と妻子。当時三歳で、祖母にかわいがられていた盛秀の二女の山城美枝子(66)や父母、妹らは二十メートルほど先の家族壕に別れて入った。
 「集団自決(強制集団死)」の時は末弟の直を知らせにやるという言葉を信じ、一家は待ち続けた。予定は夜中の十二時。「午前一時になっても、二時になっても、三時になっても知らせは来なかった」。盛秀の妹・宮平春子(80)は振り返る。

 翌日昼すぎ、壕の上手に米軍の姿を目撃した一家は壕を捨て、数カ月に及ぶ山中避難をした。産業組合の壕で、盛秀ら十五家族六十七人が亡くなったのを知ったのは、だいぶたってからのことだった。

 日本軍が座間味島に駐屯した時から、盛秀は軍と村の間を忙しく行き来していた。

 ある時、軍関係の仕事で鹿児島へ約一カ月出張した盛秀が、お土産に珍しいパイナップル缶詰を持ち帰ったことがあった。

 「日本が一番。戦争に勝つんだ」。そう思っていた盛秀の妹、宮村トキ子(75)は、軍のために忙しく立ち働き、珍しい物を持ち帰る兄の姿に「兄さんは偉くなった」と、誇らしかった。

 「兄はいつも緊密に軍と連絡を取っていた。空襲があると、役場の重要書類を持ち出すのに、妻にも指示していた」。戦時体制で、村の兵事主任として軍組織の末端を担った盛秀は、米軍上陸が近づくと、軍と住民の間で板挟みになり苦悩した。

 「集団自決」の前の晩、盛秀は「集団自決」の軍命を伝え、子どもたちを抱き、号泣した。産業組合の壕では、役場職員以外の人々に、「自分たちの責任は自分たちでしか取れない」と、「集団自決」の場になる壕を出るように促した。

 春子は、最近まで公の場で兄について話すことをためらってきた。話せば、号泣していた兄の姿が脳裏に浮かび、涙が止まらなくなるからだ。

 しかし、教科書検定で教科書の「集団自決」記述から日本軍の強制が削除されたことが、春子の背中を押した。その記述では、兄の悔しさも、春子たちの体験も何も伝えることができないからだ。春子は「教科書から事実を消すのは絶対反対だ。あんな残酷なことがあるのが戦争だ。子や孫たちに伝え、二度と戦をさせてはいけない」と語気を強めた。=敬称略(編集委員・謝花直美)



産業組合の壕 -8-

(9月7日朝刊総合3面)
家族と親族 一度に失う
女性ただ一人 遺体収容に参加

 日本軍の軍属として経理室で働き、米軍上陸後は軍と行動を共にしていた宮里育江(82)。山から投降して、大勢の住民が生きているのに驚いた。しかし家族の姿はどこにもなかった。「あんたの家族は産業組合の壕で亡くなっている」。そう聞かされた。
 戦後二カ月。米軍の道路建設のために一部が落盤した産業組合の壕で、遺体収容が行われることになった。育江は、怖さよりも、家族を捜したいという一心が先立ち、たった一人の女性として作業に参加した。

 段々畑の段差を利用し、松の坑木を組んだ小屋のような形の壕。ここで住民がどのように「集団自決(強制集団死)」に追い込まれたかは分からない。壕内の穀物袋の上で、人々は眠るように死んでいた。肌はふやけ、腐れかかり、異臭が充満していた。損傷が激しく、身元の確認は着物の柄などで行われた。

 育江の家族はそこにいた。「軍命」を伝える伝令として走りまわった弟の宮平恵達=当時(19)。最期に、軍隊式の敬礼であいさつを交わした軍服姿だった。紋付きはかまの祖父=同(67)、弟、妹、叔母も一緒だった。母=同(47)は結い上げていた長い髪がばらりとほどけ、見覚えのある繕い跡のモンペ姿だった。

 住民が見守る中、次々と遺体が運び出された。家族の生存に一筋の希望を抱いていた人々の思いは打ち砕かれた。遺体にすがりつく人たちの号泣とすすり泣きが、荒れ果てた段々畑に広がった。

 育江の母親は、南洋帰りでおしゃれな女性だった。戦前、郵便局勤務の育江は、給料が入るとよく母親に着物を買った。家族壕に放置していたボイルやしま柄、美しい模様の母のものだった着物は、衣料不足の中、いつしか住民の手に渡った。「母の着物が役立っている」と、思うようにした。けれどそれを着た人に出会うと、日常の中で母の死の現実を突きつけられるのだった。「母は古ぼけたモンペを着て亡くなっていた…」。思いはいつも産業組合の壕へ飛んだ。

 育江は、役場関係者が多かった父方の親族ほぼすべてにあたる約二十人を産業組合の壕で亡くした。「いとこまでいっぺんにいなくなった」。家族と親族を奪った「集団自決」は、軍がいなければ起こらなかった。「軍関与の削除は何のためにするのか。平和学習で大勢の学生が島に証言を聞きに来る。沖縄戦の体験を語り継ごうとしているのに矛盾している」と話す。=敬称略(編集委員・謝花直美)



産業組合の壕 -9-

(9月8日朝刊総合3面)
3歳 たった一人残され
涙にあふれる家族への思い

 大人たちが壕の中から、白骨化した遺体を次々と取り出した。すごいにおいがしていたはずだ。しかし当時、五歳の山城美枝子(66)は「においさえ感じなかった」。どんな気持ちで見ていたのか、覚えがない。
 大きなツワブキの葉に乗った頭蓋骨を、親せきが差し出した。「あんたの父ちゃんだよ」。とっさに摘んだツワブキの花を、美枝子は父の頭蓋骨の眼窩に差し入れた。「幼かった自分の、精いっぱいの弔いのつもりだったのか」と振り返る。

 「集団自決(強制集団死)」で三十三歳で亡くなった父・宮里盛秀との対面だった。盛秀の家族から一人残された美枝子を見守る大人たちは、皆すすり泣いた。

 沖縄戦当時、三歳だった美枝子は、祖父母や叔母らと一緒だったため、結局、満員の産業組合の壕に入れなかった。盛秀、母親や三人のきょうだいはそこで亡くなった。

 妹が生まれたばかりの母親に代わり、二女の美枝子を祖母が育てた。戦後は、盛秀の家族からたった一人残った子である美枝子を、祖母はことのほか大切にした。「いとこたちと海やまき拾いに行っただけでも、祖母は私の姿が見えなくなると、心配してすぐに呼びに来た」 正月に、祖母は掛け売りで買った大きなゴムまりを、「皆には見せないで」と言い含め、美枝子にだけこっそり与えた。約束を守り、押し入れに隠して、一人で時々取り出して、ゴムまりの鮮やかな色や模様を眺めて楽しんだ。外でついてみたい―。室内まで聞こえるまりつき遊びの声に我慢できずに、こっそりとまりを持って、目立たぬように輪に加わった。

 祖母の温かな愛情に包まれて育ち、感謝の気持ちを持っている。「私はうれしいことも、わーっと表現できない。周囲のことから、いつも思いが引いている」。美枝子は、そんな気持ちがずっとぬぐえなかった。

 家族が「集団自決」で亡くなったことを、美枝子が理解するのに時間がかかった。「時代が少し落ち着いてから、周りで大人たちが言っていたことから、状況を知るようになった」 亡くなった祖母は美枝子が「物心ついてから、ずっと泣いていた」と言っていた。小さいころについたあだ名、「なちぶー(泣き虫)美枝子」は、今も変わらない。死に別れた家族のこと、かわいがってくれた祖母のこと。さまざまな思いがあふれて、涙なしに語ることができないから。=敬称略(編集委員・謝花直美)


産業組合の壕 -10-

(9月9日朝刊総合3面)
胸に渦巻く「最期」の姿
父の思い伝えるため生き残った

 今年春、取材を依頼した時、兵事主任・宮里盛秀の二女、山城美枝子(66)は、泣きながら断った。夏、再び依頼した時、美枝子は「私は父の思いを伝えるために残されたような気がする」と話し、取材に応じてくれた。
 七歳の兄英樹、六歳の姉郁子、もうすぐ一歳だった妹のヒロ子。「集団自決(強制集団死)」直前に、父・盛秀は、子どもたちを抱きしめて「こんなに大きく育てたのに…」と号泣した。自らの手にかけねばならないことに、震えていた。

 「小さい時は、家族を失った悲しみはそれほど感じなかった」と話す美枝子。叔母たちから聞かされた戦時の様子から、父の心痛に思いが至ったのは、美枝子自身が親になって後だった。「子どもを育てる中で、父の最期のことを思うとつらさがこみ上げてきた」。

 それ以来、美枝子の心は震え続けている。「父のことを話しても、話さなくても、いつも、頭がいっぱいになる」。途切れがちな言葉を、懸命に紡ぐ。

 「たくさんある思いをどう表現していいか分からなかった」。渦巻く思いを胸の中に抱えてきた。

 盛秀は座間味島に駐屯した日本軍と民間を結ぶ兵事主任として、軍の命令を住民に伝える役割を担った。軍に絶対服従の状況の中で、軍と住民の板挟みになりながら、家族を含め、大勢の住民が命を落とすことになる「集団自決(強制集団死)」の軍命を伝えた。

 「父が生きていたなら、当時の自分が見識がもっと広く、大局的な見方ができたらと、悔やんでいたと思う」 家族の中から美枝子が一人だけ残ったこと。つらかったその体験が、今は父が自らの思いを託すためだったのでは、思うようになった。「死を無駄にするな。お前は世の中のことをよく勉強しなさい」「平和は大きな犠牲の上に成り立っている。そこをあらためて知ることが大事だよ」。父が語り掛けているように思える。

 「集団自決」の記述で日本軍の強制が削除された教科書検定については「憤りを感じている」という。検定の結果があったからこそ、言えなかったことも言わなければ、と思うようになった。

 普天間飛行場を人間の鎖で包囲した時、沖縄国際大学に米軍ヘリが墜落した時の抗議集会。個人として孫の手を引き、参加した。二十九日の検定意見撤回を求める県民大会に、父の思いを胸に参加する。=敬称略(編集委員・謝花直美)


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