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戦争を知っていてよかった

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「戦争を知っていてよかった」
曽野綾子 新潮社2006.6.15
「新潮45」h15.1~17.3

戦争を知っていてよかった


世の中のすべてのことは―時には病苦でさえ―知らないより知っていた方が重厚な人間を創るものだが、戦後の日本には、あくまで知らない方がいい、という信念に囚われたものがたくさんあった。

病気はその一つで、これだけは確かに、人間を創るから病気にかかる方がいいという発想はどこにもない。

しかしそれ以外のことは、求めて悪い状態を体験することはないが、自然にそうなってしまった場合は、充分にその意味を評価する道が残されている。貧乏、親との死別、失恋、勤め先の倒産。どれもない方がいいが、そうなればなったで、その体験が別の人間を完成するきっかけになることが期待できる。

知らない方がいい、という信念の元に扱われた第一のものが戦争である。戦後、日本にはまともな軍事学も発達しなかった。孫子の言う「彼を知り己を知れば、百戦して殆(あや)うからず」という知恵も定着しなかった。しかし今度アメリカのイラク侵攻を見ながら、私個人は戦争を死っていてよかった戦争を体験として知っていてどんなによかったか、としみじみ感謝したのである。

私は十三歳の時に大東亜戦争の終戦を迎えた。その前に、アメリカの爆撃を受けて、東京が焦土になる姿を見た。知人の青年たちが、戦場から二度と帰らなかった現実の無残さを知識としてではなく体験として知った。

空腹、栄養失調、個人的・社会的貧困、女子工員の生活、アメリカ軍の進駐、戦後復興の姿も私小説的に見た。体験が明確な記憶に組み込まれる年頃になっていて幸いであった。ここ数カ月の間に私はあらゆるマスコミやいわゆる「その道の通」の友人たちから、イラク侵攻に予想される裏話を聞かせてもらい、読み続けて来た。どれも政治や経済にうとい私にとっては、眼の覚めるような貴重な知識であった。しかし同時に私は戦争を体験したおかげで、戦争について言われるさまざまな話に迷わされなくて済んでいる面もあることを感じた。

たとえば民間人を巻き込まない戦争などというものがあり得るという言い方ほどおかしなものはない。アメリカが敵とするのはサダム・フセインとその息子たちの政権であって、戦争は一般人を巻き込むものではないとアメリカ側は開戦前から言い、民間人の犠牲者が出たことは国際世論でも大きな非難の理由になっている。その時私は密かに思ったものだ。それならアメリカはCIAの名において、サダムに対して向こう何十年でも執勘に刺客を放つ宣言をし、それを実行に移す方が、確実に民間人を巻き込まなくて済むというものではないか?

一九四五年当時でも、戦争はあらゆる民間人を巻き込んだ。広島・長崎は非戦闘員を当然傷つけることを予測した攻撃ではなかったか。先日、当時十歳前後だった「往年の子供たち」(今はかなり年をくったおじさん・おばさんたち)が数人集まって空襲の話をしたのだが、アメリカの油脂焼夷弾は、火のついた油の飛沫が建物や人間にべたりと貼りつくもので、人間は生きながら火達磨になったという。

私の知人は一九四五年の三月九日夜の東京大空襲で焼け出された翌朝、隅田川にかかる橋の一つを渡る時、無数の小さな雪のようなものが、風に乗ってさらさらと足元に流れて来るのを見た。初めは気がつかなかったが、やがてそれは人間原の骨片であることがわかった。その夜を含めて、東京では十万人以上もの民間人が焼死したのである。そうした結果をアメリカが予想できなかったはずはない。つまり今とは比べものにならないほどの素朴な構造の武器しかなかった時代から、戦争は常に巻き添えになって殺される人も出ることを意味していた。

もし戦争がピンポイントで、敵の大統領官邸や作戦司令部だけを完全に制圧できるものなら、そして民間人には少しも被害なしで済むなら、戦争はお互いに納得した「戦争のプロ」同士の、西部劇の一騎討ちと同じで、少しも悪いものではないではないか。戦争が悲惨なのは、戦う意志も方途も持たない民間人が必ず巻き込まれるからなのだ。だからイラクで子供が負傷するのも女性が殺されるのも、それは第一にその国の長であるサダムの責任であり、次に他国に侵攻したアメリカの責任である。

大東亜戦争の時、国民はすべて大本営発表という報道管制下に置かれていた。そこで知らされたのは、すべて敗北を隠した偽りの発表であったが、それは程度の差こそあれ宣伝戦というものとしては当然のことだと私は今でも思う。もし戦時の発表が冷静で自制的で正直に真実だけを伝えるものなら、この点でも戦争は悪くないものであろう。

戦争は戦いなのだから、欺瞞と威嚇が基礎なのだ。エリマキトカゲだって、敵を打ち負かそうとして、エリマキの部分(あれは本当は何の部分なのだろう)を広げる。現実以上に自分の力を大きく錯覚させるのが戦いの常道だ。戦いだけでなく、政治も外交も、この欺瞞なしにやれることではないだろう。だから戦争における欺瞞にいちいち怒ることはないのである。

それにしても大東亜戦争の頃、私たちは(子供だったせいもあるが)相手の国について何も知らなかった。私の夫は開戦の時、中学四年生だったが、同級生に船会社の経営者の息子がいた。宣戦布告の翌日、夫はこの友人からアメリカと日本の船舶保有量の統計を見せられて、この戦いは負けると思った、という。しかしそんな客観的判断の資料を与えられていた日本人は当時例外中の例外であった。

アメリカがバグダッドに侵攻する前に、民兵の服(私服)を着た初老に見える男が、銃を片手にテレビのカメラマンに向かって、「バグダッドは死守する、アメリカは必ず負ける」と根拠のない明るさで決意を述べていたが、私たちはまさに同じ顔をして日本には神風が吹くから必ず勝つのだ、と確信し、割烹着を着て愛国婦人会のたすきを掛けたおばさんたちも、イラクの民兵と同じことを喋っていたのだと思う。

しかし私はごく最近にいたるまで、アメリカには(日本と違って)優秀なアラビストがたくさんいて、かなり現実を知って開戦に持ち込んだ、と考えていたのである。もちろん知っていたから、その通りにするということではない。しかし少なくとも「自由社会の指導理念」「公的見解」「表面上の理由」としてアメリカが述べた侵攻の理由、サダム政権後のイラク、のイメージが、あまりにも単純で現実離れしたものであり、恐らくアラブ通の間では全く通用しないものだろうと思われることに、私は煩悶している。

アメリカは、最初から繰り返しイラク国民を残虐なサダム政権から解放し、イラク国民を民主化し、真の自由の尊さを教えるために戦っているのだ、としている。しかしもしまともなアラビストがこの計画に噛んでいたなら、このような見解が、イラクに住む人々の「習憤と体質」「好みと安定」を反映するものではないことを強調しただろうと思う。

二〇〇三年四月五日には、アメリカはバグダッド国際空港を一応制し、ジャーナリストたちの質問は急にサダム以後の人道支援・暫定政権をどうするか、ということに移行した。アメリカはクルドと結んで、クルド地区への侵攻をたやすくしたから、クルド人たちがアメリカ軍を歓迎して笑ったり踊ったりする光景も放映されたのである。

しかしクルドもしたたかな人々だ。クルドはサダムに一九八八年に化学兵器で約五千人とも言われる人々が虐殺された歴史を持っている。アメリカに近づいて来たのは、「敵の敵は味方」という最も普遍的で単純な力の原則に則っているだけだ。アメリカが必要なくなれば、「金の切れ目が縁の切れ目」である。これはアフガニスタンでもイラクでも同じことだ。

アフガニスタンの時に私が初めて知ったのは、あちこちに群雄割拠していた部族の長たちのことを英字新聞が「ワーロード」と表現したことだった。ワーロードは「揶揄的な意味での将軍」だということになっている。つまり一番適切な日本語の訳は清水次郎長のような「親分」である。

民主主義が存在し得ない土地では―その理由は後に述べる―部族支配がその代行をするのは、全世界で見られる自然な成り行きである。アラブ国家の中でも、例外的にエジプトなどのように地中海文化圏に属し、長い年月の間に西欧的国家経営の理念と現実とに触れた国は別として、多くのアラブ国家の民衆は、現在も民主主義ではないし、またそれを本気で目指してもいない。百年、二百年先の遠い未来はわからないが、数十年で民主的国家が形成されるとは到底思えない。彼らにその能力がないというのではない。日常生活の中でそうした政治形態は全くそぐわないからである。

戦後のアフガニスタンに、西側は多額の金を出したが、あの金は一体どういう形でどこへ行ったか。忘れっぽいマスコミはこの頃アフガニスタンの状況をほとんど報道してくれないから、私たちにはわからないのだが、アフガニスタンで俄にインフラの整備もよくなり、放牧民的生活の中に、日本やアメリカ型の文化生活が進んだという話は、私たちの耳にはあまり入って来ていない。もちろん一部の金は、学校建設、道路の復旧、医療設備の改善に使われたであろう。しかし大部分の金は、部族の族長たちに配られて儲けになったはずだ。誰もが配分には決して満足してはいないだろうが、何しろいい儲けにはなったのだから、今のところはじっとしている。

当時アメリカからカルザイという不思議な人物が突如として出て来た。恐らく彼はアメリカの利権の代表者としてひっぱり出されたのだろうと皆思っているが、とにかくあの時アメリカから最も多くの金を引き出せるのは、グッチのデザインによる「民族どてら」をこざかしく着ているという噂のカルザイ以外にいなかったのだから、と、現実主義者の親分たちは仕方なく呑んだのだと識者たちは見ている。親分たちの関心は、つまり自分たちの部族にいくら分け前が廻って来るか、ということだけだ。彼らは常に分け前を多くくれる人に付くから、その同盟の構図は流動的である。そして多くのヨーロッバの国々とアメリカとソ連は、そうした力関係の中で「旦那」になり続けることに、多かれ少なかれ失敗して来ているのである。

アメリカにとって、日本に民主主義が定着したということは、判断を大きく狂わせる元になったと私は思うことがある。それはアメリカが自分流の民主主義を、ほとんど実験的に他の国家に植えつけた外交政策の奇蹟的成功例だったのだ。理由は二つある。

第一に、日本には国民全体にもう数百年間にわたる基礎教育があった。幕末の頃の日本人の識字率は恐らく世界最高であったろう。

第二に、戦後の日本は、初めに火力、次に水力で、国中に安定した良質の電力を供給することに成功した。既に達成されていた初等教育のおかげで、日本では電力整備を達成することが、制度的にも技術的にも意識的にも可能になっていたのである。

一九三〇年代には既に多くの家にラジオがあった。ラジオを持っている人は御自慢で大きな音でそれを鳴らしたから、木と紙でできた日本の家屋からは容易にその音が漏れ、隣近所でラジオを持っていない人もそれを聞いてラジオの恩恵に浴した。当時のねじ式の時計は一日に五分くらいは平気で狂ったが、ラジオが正午の時報をポーンと鳴らせば、人々は律儀に時計の針をなおせた。こうした電力の普及が、戦後の日本の工業化、近代化、民主化を底辺から可能にした。一方、いつも私が言うことだが、安定した良質の電気が供給されていない土地には民主主義はあり得ないから、彼らは昔ながらの族長支配の下で暮らすことを守られていると感じて来たのである。

イラクには国の隅々にまでは電気がないから、人々は民主主義というものを知らないに等しいし、またその欲求もないだろう。民主主義がなければ、自動的に族長支配が機能し、族長によって人々は安全を守られている。

歴代の族長たちと比べて、サダムがどれほど「悪い支配者」だったか、私には充分な知識がない。しかしそもそも慈愛に満ち、部族民に湿情で接し、自分も部族民と苦楽を共にした族長などというものの存在はなかったはずだ。程度の差こそあれ、族長は常に収奪的圧政と時々わずかなお慈悲とを見せて支配して来たのだ。基本的にそうした社会形態以外、人々は馴染んでいないから、それ以外の政治形態は恐いし、嫌悪するのである。

私はそのことをインドで学んだ。三十年来私が働くことになった小さなNGOは、インドのイエズス会の神父たちにも経済的な支援をし、神父たちが不可触民の子供や青年たちの教育をする仕事を見て来た。神父たちはカトリック、不可触民はヒンドゥである。神父たちはしかしヒンドゥの生徒たちに、決してキリスト致をおしつけることはしなかった。彼らはただ子供たちをかわいがり、人間の尊厳を教えた。しかし私が驚いたのは、一番差別を受けている多くの不可触民が、特別な教育を受けている人は別として、決定的に差別が好きだということであった。これは不思議な情熱であった。彼らは、自分が最下層であると差別されることを、更に下の階層を設定し意識することで安定させていたのである。不可触民より下の部族というのは、私が見た限りでは、ヒンドゥ社会の外にある部族―例えばランバーディと呼ばれるジプシー、かつてアフリカからゴアに奴隷として連れて来られた肌の黒いシーディー、今でも森の奥深くに隠れて人を見ると逃げるゴーラ、遊牧して牛飼いをするガウリ、などという部族である。不可触民が、こうした人々を差別するのは、差別社会以外の形態を知らないので、同じような社会形態の中で同じようなやり方で矛盾を解消しようとするからである。

アフガニスタソもイラクも、民主主義などというものを知らないから、さし当りそんなものは要らない。サダムよりましな部族の支配者がくれば、それは望ましいが、どっちみち強力な支配者などというものは、多かれ少なかれ権力と財力をほしいままにして来たものだ。サダムを憎む人は多い。しかしその残忍さは理解し得るものだ。部族統治以外の政治形態を押しつける者は―ブッシュであろうと誰であろうと―もっと不愉快な存在なのである。自分にとっていいものを他人にもいいものとして押しつける。アメリカという国が、自国の行動の原理としてそれを口にする時、その説明の幼さに、私は辞易している。(二〇〇三・四・五)
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