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沖縄は「捨て石」だった

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インタビュー

沖縄は「捨て石」だった



外間守善
聞き手編集部

前田高地の激戦地で、


――外間先生は沖縄学の研究者として、また沖縄文化の紹介者として、多くの著作を世に出されてきましたが、昨年の六月二三日、沖縄戦終結の日を期して、ご自身の沖縄戦の詳細な体験記『私の沖縄戦記』(角川書店)を出されました。これを読んで、私は、初めて先生の前田高地の攻防戦を中心とした戦場でのご体験を知ることがでぎましたが、戦後六〇年以上たって、なぜこうした戦記を出されたのでしょうか。

外間
私はいままで、どうしても戦争の経験を書きたくなかったのです。でも自分も年だし、いま書いておかなければいけないと思って、やっと書く気になったのです。

妹(静子)が乗って九州に疎開に向かい、米軍の潜水艦に沈められた対馬丸のこと(一九四四年八月)、それから自分の幼いときの原風景をすべて消し去ってしまった十・十空襲(一九四四年一〇月の五波に及ぷ米軍機空襲)のこと、そして兵士となって戦った戦場での凄惨な経験を後世に残しておきたかった。

一九四五年三月、一九歳の私は現地召集の初年兵として、山形第三二歩兵連隊第二大隊に配属され、幹部侯補生として教育を受けた後、当初は南部の喜屋武(きやん)海岸の陣地に配備されました。しかし、三月末、沖合いを埋めた米軍の艦隊は湊川には上陸せず、西海岸を迂回して、読谷(よみたん)に上陸して南下してきました。私の部隊は四月二四日、中部戦線に移動、四月末から五月初めにかけて、沖縄戦の"関が原"とも言われた前田高地の激戦を闘いました(注、第三二軍は、戦略持久作戦の一環として嘉数(かかず)―首里に強固な防御ラインを引き、米軍の消耗を狙った。日米両軍が激突した第二主陣地に前田高地があった)。

この戦いで、八○○人から一〇〇〇人いたと思われる大隊のうち、九月三日の投降までに生き残ったのはわずか二九人。そのうち沖縄初年兵は、私を含め九人しかいませんでした。しかも三月に入隊した沖縄の初年兵は、名簿さえ残っていないのです。沖縄の若者たちは皆勇敢に戦いました。日本を守るため、沖縄を守るため、実に勇敢だった。その記録を残すのは自分しかいないのです。

大田昌秀氏(元沖縄県知事)は、私より半年年上で、学徒兵(鉄血勤皇隊)に取られました。でも私は正式の兵隊でした。それは、一九四四年の一二月で法律が変わって、四五年の三月までのわずか四ヶ月間の間ですが、徴兵年齢が引き下げられ、一九歳の青年が正式の兵士として召集されることになったからです。

前田高地では、相手のアメリカ兵士は海兵隊でした。彼らも若くて、私たちが銃剣で突っ込んでいっても逃げませんでした。前田高地は小さな丘で、その眼と鼻の先に米軍がいて、若者同士が取っ組み合いのようにして戦ったのです。前田高地にある為朝岩の周りをグルグル回って追いかけっこをしているようでした。銃は撃っても当たらないので手榴弾を投げあったり、相手の投げた手榴弾を投げ返したりしました。最後は石まで投げました。アメリカ兵にも家族や友人がいるだろうに、なぜここで死ななければならないのか、可哀想にも思いましたが、とにかく、殺さなければ殺される。そして、こんな狭いところで一〇〇〇人もの兵隊が死んでいったのです。本当に思い返すのも嫌なんです。

戦友たちに聴き取りをしていますが、戦争映画を見ただけですべてがフラッシュバックしてきて思い出したくもない、という人が多い。北海道の戦友にも、五回も六回も会いに行って、ようやく最近、「身体の傷を見るか」と言ってくれた人がいる。それも戦友だから、ようやく口を開いてくれるので、皆、思い返すのも嫌なんだど思う。

私は五月四日の日本軍の総攻撃の日(注、第三二軍は、五月四日未明、浦添や西原に進攻してきた米軍に総攻撃を行ったが失敗、約五〇〇〇人の死者を出した)に右手右足に銃弾と手榴弾の破片を受けて負傷しました。その瞬間、それまで経験したことのないような熱さが全身を貫きました。血みどろになりながら銃弾を自分で足から取り出し、何もないので粘土を貼り付けて包帯を巻きましたが、兵士としては役に立たなくなってしまったのです。

五月九日、本部壕から大隊が移動するとき、最後に残され、後始末をしてくるように言われました。衛生兵は、壕の中で呷いている重傷を負った兵士たちに「最後の水」と「手榴弾も渡せ」、というのです。「最後の水」というのは青酸カリを入れてあるバケツのことです。置き去りにされた負傷兵たちは皆泣いていました。可哀想で、私はバケツの水を捨ててしまいました。でも、私自身、役に立たない負傷兵として、そこに置き去りにされたも同然だったのです。

前田高地では、首のない死体を沢山見ました。両足のない死体もあった。私の戦友は両手で大八車の取っ手をしっかり握ったままで死んでいた。それから、自分たちの斬り込みの任務を報告に本部に帰って来て、報告をしたとたんに息を引き取った沖縄の初年兵もいた。そこまでして、自分たちの任務に忠実であろうとしていた。皆、そういう教育を受けてき
たんです。

本土の教育よりも沖縄の教育のほうが、もっと徹底して日本人になる教育だった。日本を守るため、沖縄を守るため、戦わなければならない、という考えだったのです。

私は一度も逃げようと思いませんでした。死んでもいいと思っていました。何度も斬り込みに行きました。あるとき私は白兵戦でアメリカ兵の腿を銃剣で突き刺したことがある。するとそのアメリカ兵は刺されながら、私に抱きついて首を絞めたのです。気が遠くなって、もうおしまいか、と思ったとき、仲間の兵士が来て、アメリカ兵の頭を銃剣で割って私は助かった。戦場では相手が憎くて殺したくて殺すんじゃない。やむをえない、殺さないと殺されるから殺すんです。きっとアメリカ兵も同じだったど恩う。

沖縄は「捨て石」だった


――戦場で戦っていた頃には沖縄戦の全体像が見えなかったと思いますが、沖縄戦とは日本軍の作戦にとってどのような戦いであったと考えられますか。

外間
沖縄戦が始まるときに、日本はすでに沖縄を見捨てていたのです。サイパン、硫黄島が落ちた後、次は沖縄か台湾だといわれました。そのとき、閣議決定で、沖縄の人間を台湾に二万人、九州に八万人疎開させることが決まったのですが、次が台湾か沖縄と言われているときに、なぜ台湾に疎開などさせるのでしょう。つまり、初めから日本軍は沖縄に米軍が来るこどを予期していたわけです。しかも、沖縄の若者が集まっていた精鋭の武(たけ)部隊は沖縄戦の直前に台湾に転出させられて、要求しても補充もされなかった。沖縄は本土の「捨て石」にされたのです。沖縄が一日戦争を延ばせば、本土決戦が一日延びる。おそらく日本軍には初めから沖縄を救おうという意識はなかったと思います。

さらに、戦場になった後も、五月二八日、日本軍は首里司令部を放棄したとき、戦いを止めるべきだった。あそこで止めておけば、南部に避難していた一〇万人もの沖縄住民が戦闘に巻き込まれることはなかったのです。それを考えると本当に無念です。島田叡(あきら)知事は、「住民が戦火に巻き込まれる」と軍の南部撤退に反対したのですが、第三二軍は、一日延ばせぱ本土決戦の準備につながると判断して南部に撤退した。

県の職員として非戦闘員であった私の兄(守栄)も、島田県知事と行動をともにしていて、六月二〇日、南部の壕で自決しました。アメリカ兵が「出て来い」と呼びかけるのを聞いて、仲間と一緒に手榴弾で自決した。私は戦場で、手榴弾で自決した人をたくさん見たが、手榴弾をおなかに抱えこんで爆発させていた。兄もそうしたのだろうと思います。

住民には喜屋武のほうではなく、知念(ちねん)のほうに避難するよう、日本軍は指示したようですが、戦場の中で住民にはそのような指示は届くはずもありません。住民は兵隊の行くところのほうが安全と思って、どんどん喜屋武のほうに集まっていった。しかし、結果的に日本軍は住民を救うどころではなかったのです。

ひめゆり部隊(師範学校女子部と県立第一高等女学校)や白梅部隊(県立第二高等女学校)などの看護隊は、最前線の部隊に付き添っていくのです。その少女たちも最後は手榴弾を抱えて自決していきました。はらわたが飛び散って死んでいく兵隊や住民を、私はたくさん見ました。

仲宗根政善先生も、南部に下っていくとき、重傷を負った生徒を見捨てていく経験をされた。仲宗根先生の生涯は、そういう形で死んでいった生徒たちの魂を供養する生涯だった。そういう恩いは沖縄の誰にでもあるのです。

生きのぴたのは倶然


――日本軍は「軍官民共生共死」を掲げ、兵土にも住民にも、捕虜になることを許さず、「玉砕」を強いましたね。六月二三日、牛島司令官、長参謀長は自決して、日本軍の組織的戦闘は終りましたが、牛島司令官は「最後の一人まで戦え」と命令、九月まで散発的な戦闘が続きました。

外間
牛島中将も日本軍から見捨てられたのだと恩う。最後の県知事の島田叡さんも、死ににきたようなものだが、どこで死んだか分かっていない。荒井退造警察部長ともども、六月一九日までは生きていたことは分かっているが、その後の消息は分からない。

私たちは前田高地から離れて、北上原というところで九月三日に降伏したのだけれど、それまで戦争が終ったことは知らなかった。ゲリラ戦をやっていたのです。

第一大隊長の伊東大尉は、国吉というところでバラバラになった軍隊を再編して戦っていました。しかしこれ以上は無理だということで八月の終わりに投降した。その彼が、北上原でゲリラ戦を続けている部隊があるということを聞いて、説得に来て、その人に説得されて九月三日に降伏したのです。そのとき私たちは彼をまずスパイではないかと疑った。本当かどうか、伊東第一大隊長であるかどうかを確認した上で、降伏を決めました。

――〇六年度の教科書検定で、慶良間(けらま)列島の「集団自決」から軍の関与を表す表現が修正されました。その根拠として、文部科学省は、当時の守備隊長が起こした裁判を挙げていますが、その裁判で原告らは、住民の自決は軍の足手まといにならないための「清い死」であったと主張しています。外間先生が体験された戦場の死は「清い死」だったのでしょうか。

外間
清い死とは思えません。兵隊は可哀想でしたよ。

住民はもっと可哀想だった。子どもをつれた女や老人が、艦砲が落ちる戦場をさまよっていました。壕には日本兵が一杯で、追い出されていたのです。沖縄の人は方言しか語せない人もいて、何人かの住民がスパイとみなされて殺された。南部では、沖縄の女性がスパイだと捕まってきたのを、私が通訳して助けてあげたことがある。中部では、やはりスパイといわれて引きずられてきた老人も助けました。

戦友は皆死にました。私は自分が生き残るとは思えませんでした。どうやって生きのびたか、まったく覚えていません。部隊に置き去りにされたけれど、先に出ていった部隊が全部やられてしまって結果的に後からついていって助かったこともあるし、逆に敵のほうに突っ込んでいって生き残ったこともある。戦場では、どうしたから生き残れた、ということはないのです。生き延びたのは、まったくの偶然としか思えません。

そうやって生きのびて、初めて、「命(ぬち)どう宝(たから)」(命こそ宝である)ということが分かるのです。私は心から平和を願います。

いま考えると夢のような出来事ですが、こんなことが六〇年前、本当にあったのです。
(聞き手・編纂部岡本厚)


ほかま・しゅぜん
一九二五年那覇市生まれ。沖縄師範在学中に現地入隊し、前田高地などで戦う。戦後、金田一京助、仲原善忠、服部四郎などに師事。『おもろさうし』の研究などで、沖縄学の第一人者となる。法政大学名誉教授。沖縄学研究所所長。主な著書に『おもろさうし辞典・総素引』(共偏)、『うりずんの鼻』、『沖縄の言語史』、『南島抒情琉歌百選』(共編)、『伊波普猷―人と思想』、『沖縄の歴史と文化』、『沖縄学への道』『回想80年』ほか多数。
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