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島民を艦砲射撃から救った仲村渠明勇さん一家が、敗戦後斬殺された証言

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2 島民を艦砲射撃から救った仲村渠明勇さん一家が、敗戦後惨殺された証言


具志川村字西銘出身の仲村渠(なかんだかり)明勇さんは当時二十五歳、陸軍上等兵で現役を除隊していたが、防衛召集で海軍小禄飛行場守備隊に配属された。六月初め捕虜になって収容所へ入れられたものの、米軍の久米島攻略に際して"道案内"として同行し、住民に無抵抗を呼びかけていて、日本軍に襲われて妻子ともども斬殺されたのである。

六月二十六日に久米島へ上陸した彼は、妻のシゲさん(当時二十六歳)と、一歳になったばかりの長男明広ちゃんに再会し、隠れ家を転々としながら、米軍は一般住民には危害を加えないことを知らせていた。しかし日本軍が彼の動きをつかんで、スパイにまどわされるなと触れを出しているため、村の人びとは近づけず、八十五歳の老父もまた、ずっとはなれたところにいた。

明勇さんは、七男二女の末っ子であった。彼の長兄は、十月十日の大空襲のために那覇市で爆死した。次兄は病弱で、老父とともに久米島で生活。三番目の兄は移住先の南洋諸島で現地召集され、ペリリュー島守備軍。四番目の兄は、大阪で召集されてフィリピンヘ。五番目と六番目の兄は、それぞれ軍属として中国大陸で従軍……。空襲で死んだ長兄の長男は台湾防衛軍に、長姉の長男も海軍、次姉の長男は陸軍で、長女は赤十字看護婦と、文字どおりの"ご奉公"の一族なのである。

七男の明勇さんは穏やかな性格ながらも、なかなかシンが強く、人一倍の親思いであった。彼は収容所で、米軍の久米島攻略が行なわれるのを知り、郷里の妻子や父親を思い、いたたまれずに"道案内"を引き受けたのだった。

小禄飛行場北側に米軍が上陸したのは六月四日早朝で、包囲された沖縄方面根拠地隊司令官・大田実少将が自決したのは六月十三日午前零時十分(『沖縄方面陸軍作戦』)だった。約五千人の守備隊は、文字どおり玉砕している。「沖縄県民斯ク戦ヘリ県民二対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」と大田司令官が海軍次官あての訣別電を打ったのが六日夜で、十二日午後六時に連絡は完全に杜絶した。仲村渠明勇さんが捕虜になったのは、六月十二日前後だったろう。

金武村屋嘉の捕虜収容所は六月上旬に完成、避難民の収容所とはちがい、ここは二重の鉄柵で囲まれ、きびしい警戒だった。収容後は、郷里の様子を気にかけて、結果的に久米島出身者の代表として、道案内に出かけた。この事情については、二人の証言者がある。


久米島の仲里村字阿嘉出身の比嘉良厚さんは当時二十一歳で、球部隊(独立混成第四十四旅団)に従軍して大腿部を盲貫銃創、収容所のベッドに寝ていた。

六月二十三日ごろ、沖縄出身の米軍二世の通訳二人を伴って、仲村渠明勇さんが訪ねてきた。嘉手納の進駐軍野戦病院に収容されていた、やはり久米島出身の野村健さん(当時二十九歳)が、きっかけをつくったのだった。野村さんは胸から背中にかけて貫通銃創を負い、ベッドで重傷の身だった。ところが通訳の話では、近日中に久米島攻略に出動し、艦砲射撃を加えるという。野村さ一んは驚いて、久米島は無防備で、見張所はせいぜい機関銃が三丁くらいだから、艦砲射撃などせずとも無血上陸できると説き、住民をまきぞえにしないよう嘆願した。そして野村さんは、収容所で見かけた、仲村渠明勇さんの名前を出したのである。

米軍通訳からこのことを知らされ、明勇さんも大いにあわてた。収容所内の久米島出身者を訪ね歩いて、米軍の作戦行動を中止させる協力者をさがした。それにはまず、久米島の実情を正確に知らせることが必要だった。

比嘉良厚さんは、出征前は勤労奉仕で、海軍見張所へ行ったこともある。母親は、炊事を手伝ったりしている。だから仲村渠明勇さんは、「彼にもぜひ事情を聞いてくれ」と、通訳を連れてきたらしい。作戦部付の通訳は、このとき大型の久米島地図をひろげた。

通訳の説明によれぱ、久米島の日本軍兵カが、白瀬川(仲里村と具志川村の境を通っている川)の上流より下流に、一万五千名より二万五千名集結し、字島尻より字銭田までの間に砲門が数門配置され東海に向けてあり、また字大原と北原部落には糧秣貯蔵が大量になされていて、これだけの装備をされているので三日三晩、軍艦三隻で艦砲と空襲で連続砲爆撃して上陸を敢行するとなっていた。仲村渠と比嘉氏は、事の重大さを痛感し、久米島の無防備を再三嘆願し、吾々の一命にかえても攻撃を中止させるべく通訳をして米軍に頼み続けた結果、君たち二人が遣案内に行くならば艦砲は中止するとの、通訳の話であった(遺族によるパンフレット『仲村渠明勇一家三名が殺害された全容』)。

負傷している比嘉良厚さんは、通訳が出してくれたジープで、嘉手納野戦病院へ連れて行かれた。応急治療で、久米島攻略の艦船に乗れるようにするためである。しかし入院した比嘉さんは、それきり仲村渠明勇さんに会っていない。傷は数日間でよくなったものの、すでに仲村渠さんは、久米島に向けて出発していた。

沖縄島の西方六〇キロに、渡名喜島がある。面積三・二平方キロで人口九百人ちょっとの渡名喜村に向けて、艦砲からまず一発を撃ちこんだのが六月二十四日で、無防備であることがわかって無血占領。その足で、久米島へ向かったのだった。

上陸後の久米島の動静をしるために、前出の「吉浜智改日記」を引用してみよう。

  • 〈六月二十六日〉午前八時、仲里村イーフの浜に、米軍無血上陸す。島民クモの子を散らした如く、奥山へ奥山へと四散す。この日をもって、農業会職員も各々、家族の退避所へ、分散した。為に、山の日本軍への飯米供出もできなくなった。責任者は両面の敵を警戒せねばならぬ危険に置かれた。
  • 〈六月二十九日> 字西銘出身、仲村渠明勇君、山中でうろたえている人々に対し、「米軍は良民に危害を加えないから、抵抗せずに、安心して山から下り、帰宅するように」と告げ廻る。明勇君の話によれば、「米軍は軍艦三隻で、艦砲射撃を予定していたが、捕虜になった私たちは、久米島の無防備を説明し、艦砲射撃を中止させた」由。
  • 〈七月五日> 鹿山兵曹長は、自分は山奥を転々として安逸をむさぽりながら、「斬込み」と称して、部下には五、六名を一組とし二、三丁の銃器を与え、残りは竹槍を持たせ、米軍の通過する路傍に待機させて狙撃を行わしめた。兵曹内田常雄氏の一隊五名は、小港坂の下で米軍戦車に発砲した為、直ちに発見され機関銃掃射を受けて戦死した。同兵曹と共に、村義勇隊員、字鳥島の青年仲宗根寿君も戦死し、隊員二名負傷す。
  • 〈七月六日> 民衆が山から下りると、山に残るのは、軍人ということになるので、女をつれ廻ってうろたえている鹿山は、民衆に向い、「退山する者は、米軍に通ずる者として殺害すべし」と宣伝した。民衆之に怖(おぴ)えて、下山する者なし。
  • 〈七月七日> 米軍民政部は、宣撫班を組織し、各部落へ立入り、戸毎に人無き家を片っぱしからほじくり返した。
  • 〈七月八日〉山の手の部落は、鹿山の脅迫におびえて下山せず、下の部落では、「米兵、婦女子を辱しめる」という噂により、再び山へ退避し始めた。
  • 〈七月九日〉「退山する者は殺害する」との鹿山の言で、下山を怖れていると、米軍から、「住民は一日も早く、帰宅して農耕すべし。左なくば、日本軍と見なし、山を掃討する」と布告が発せられた。民衆は山にも居れず、里にも居れずで、只路上を右往左往するばかり。鳴呼、信頼していた皇軍!今や完全に山賊化し、民衆の安住を妨害す。耕さねば、日一日と窮迫する食糧の現状をも知らず、自已の安逸をのみむさぼる鹿山兵曹長は、一体いつまで逃げ廻るのか。
  • 〈七月十日〉午前八時、山田方面に銃声あり。タ刻に家族を、神仏を奉持して帰宅せしむ。自分は鹿山の動静を伺うために山に残る。
  • <七月十四日> 米兵、裸体のまま、民家を荒し廻る。民衆再び、山へ退避さわぎあり。
  • 〈七月十五日> 米兵、空家を荒しし、家畜や鶏を殺生する者多し。上田森の陣地、一層強化さる。
  • 〈七月十六日> 今も尚、米軍の暴行を怖れて、山から山へさまよう娘たちあり。
  • 〈七月十七日> 米軍将校、軍医と通訳を伴い来訪す。家族驚き、老弱病体なる由を伝え面接を拒絶したが、強いての要請により、明日を約して帰した。
  • 〈七月十八日> 米軍将校再び来る。「病気も治してやるから、是非、治安の維持、島の統治に当ってもらいたい」との切なる要望。私は「日本軍人として、明治・大正・昭和の三代に仕えておりながら、今おいそれと敵の軍門に降るということは良心が許さない」と拒絶する。
  • 〈八月十五日> 日本無条件降伏す。午後二時、米軍は民衆の前にラジオを開放。ラジオの前には無数の村民が立ち塞がっていたが、日本降伏の放送に、民衆只呆然自失、声無く、此処彼処にすすり泣く声あり。
  • 〈八月十八日〉米軍に久米島は無防備の島であることを説明して、艦砲攻撃の難を救った仲村渠明勇君が、上陸と共に住民「無抵抗でいるように」と伝えたというので、仲里村字銭田イーフ原にて惨殺された由。


仲村渠明勇さんは、米軍の上陸地点である通称イーフ原で、日本軍の追及を逃れて、妻子といっしょに過ごしていた。隠れ家に親子三人、昼間は息をひそめて、夜になったら行動を起こしていた。

日本軍はすでに、彼のことを嗅ぎつけて、探索していた。だから危害が肉親に及ぶのを恐れて、実家や親類のところへは近づかないようにしていたのに、とうとう八月十八日夜、やってきた兵隊たちによって殺害されたのだ。

遺族によるパンフレットから引用する。

実家の父親は、隣家の上江洲智和氏と当山松氏を雇い、三人の死体収容にやった。右両名(ともに故人)によって確認されたことは、仲村渠明勇は左脇腹を斜め下へ二十センチ以下の切傷が大きく口を開けて焼死していた。また、勝手口から裏庭へ血痕が続き、屋敷囲いのためその家にはアダンが繁っていたが、勝手口より裏のアダンの行き止りのところに血の固りが散乱していたとの証言をしており、三人の死体は家の中にあったので殺害して家の中に運び入れて、石油をかけて住居共焼いたものと考えられます。


【引用者註】久米島の仲村渠さん一家が上記のように虐殺されたのが8月18日、渡嘉敷島の赤松隊が投降勧告書を陣地前に差した村民4名のうち2名を殺害したのが8月17日、いずれも「無条件降伏」の玉音放送のあとでした。おそらく、米軍協力者への恨みのやり場として『血祭りにあげた』ものと思われます。


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