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「集団自決」論争の陰に隠れて

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「集団自決」論争の陰に隠れて


写真は、米軍の捕虜となった沖縄の朝鮮人慰安婦(ただし場所は慶良間ではない)


今、教科書の「集団自決」の説明を巡って激しい論争が起きているのは、沖縄慶良間列島の渡嘉敷島と座間味島でのことですが、この慶良間列島に朝鮮人軍夫や朝鮮人慰安婦がいた事実は陰に隠れています。


私が図書館で見つけた本は、
福地曠昭「オキナワ戦の女たち―朝鮮人慰安婦」海風社1992年8月 
です。




(p149~157を引用)

慶良間列島での女たち



 大きな鯨が現われる渡嘉敷島は、米軍が最初に上陸した島*1で『集団自決』の島として知られる。
 昨年*2亡くなったぺ・ポンギさんがこの島に連行され、生き延びて本島に移り住んだ。水勤隊や慰安婦が犠牲となっているため、朝鮮の人たちによって慰霊祭が四度行われてきている。那覇空港から離着陸のとき西の海に見える島々が慶良間列島と呼ばれる島々だ。
 この列島には渡嘉敷と座間味の二つの村があり渡嘉敷島、座間味島、阿嘉島、慶留間島があり他に多くの無人島が散在する美しい列島である。渡嘉敷はかつて、かつお節の生産場であったことや、徴兵検査合格率が全国一を誇る模範部落としても有名だった。昭和19年9月9日に兵員千人からなる鈴木部隊(少佐)が駐屯してきた。宿舎に民家が提供され、男も女も16歳から60歳まで働ける者すべてが陣地構築作業に動員された。
 9月20日には、赤松大尉を長とする「海上挺身隊」*3が渡嘉敷*4と阿波連に駐屯した。特攻艇((特攻艇の図は
http://hc6.seikyou.ne.jp/home/okisennokioku-bunkan/okinawasendetakan/kaijotokkoutei.htm
は米軍が上陸するとき、米船団を集中攻撃するための任務をおびていた。
 昭和十九年の終り頃、鈴木部隊は陣地構築を完了したので、本島に移動している*5。その後に水上勤務隊と称する朝鮮人軍夫3百人が楠原中尉を隊長として来島した。朝鮮人慰安婦たちは昭和十九年の十月に連行されてきている。


 米軍は三月二十六日午前八時に水陸両用戦争*6をもって阿嘉島の南部海岸から上陸した。どういうわけか守備隊は出撃せず、自らの手で特攻艇を破壊した。
 赤松大尉は住民を保護するどころか集団自決を命令し、三月二十八日午後三時、三百二十九人の島の人たちは悲惨な自決を遂げたのである。
 日本軍は朝鮮人軍夫をつかって住民から食糧を徴発させていた。生還した知念副官は、二人の朝鮮人軍夫を処刑したことを告白している。他にもスパイ容疑で朝鮮人軍夫を多数虐殺した。
 慰安婦たちのうち四名が敵弾に当って死亡し、白玉の塔に祀られている。渡嘉敷村で朝鮮人軍夫約二百人のうち、約百五十人が戦死した。


 同じかつお節の名産地だった座間味村では村民のうち百五十五人が悲惨な自決を遂げている。
 昭和十九年九月十日、梅沢少佐の率いる約一千人の陸軍部隊が座間味本島と、阿嘉島、慶留間島に駐屯してきた。陣地構築や弾薬倉庫の建設がはじまり、昭和20年の3月23日に米軍の空襲によって部隊が全滅するほどの被害をうけ、住民23人の死者を出している。
 座間味村でも軍命によって村民283人が自決し、村役場三役も手榴弾で自決した。
 阿嘉島では八月まで米軍に抵抗し、二百人が戦死し、座間味本島では三百人が戦死している、
 当時、阿嘉島には古賀少佐が率いる九百人の設営隊と特幹隊四百人が駐屯していた。
 これらの軍隊相手として、海に面した慰安所が設けられ、朝鮮人慰安婦が使われていたのである。


 私は「朝鮮人の沖縄戦」を書くため兵庫県にいる梅沢少佐を訪ねたことがある。彼は失そうしたのでなく、米Wに投降していたのである。朝鮮人女性(慰安婦)が負傷していた彼を山中で、最後まで介抱していたことが分った。
 彼女は朝鮮出身者で、女学校を卒業したインテリ女性であったといわれる。


渡嘉敷島からの生還



 昭和十九年十一月朝鮮全羅南道の大田(たいでん)や水原(すいげん)出身の女たち28人が那覇に着いて後、渡嘉敷島、座間味、阿嘉島の海上特攻艇のある四つの基地へ7人ずつ送られた。渡嘉敷島は、東側の渡嘉敷と西の阿波連の2カ所。座間味島村阿嘉島の七人は、翌二十年二月中旬、古賀基地設営隊と共に島を去ったが、その他の組は残った。
 この慶良間諸島に行った女たちの一人、渡嘉敷島でアキ子と呼ばれ、戦後『沖縄のハルモニ』と本に紹介された朴さんは当時二十九歳。彼女は三人兄弟の一人で、父は米や豆、粟を栽培するかたわら他人に使われ、兄たちもバラバラに働きに出た。朴さんも子守りをしていたが、十七歳で結婚、間もなく離婚。女街の近藤某にすすめられ応募した。「儲かった金をどうするか」などといわれ「心がヒヤヒヤ」しながら五人の仲間と釜山に行くと六十人もの大部隊となっていた。近藤某はいつの間にか姿を消し、門司に一泊したが、ここで四人の女が脱走した。鹿児島から焼跡の那覇に昭和十九年十一月六日着、空家の病院に滞在した。十一月十三日、帳場の金子某の引率で渡嘉敷へ渡った。朴さんは渡嘉敷島に渡った時点でもなお「仕事せずに金儲けができる」と、喜んでかやぶき小屋に仮住いした。
 洋裁が習えるとさそわれた女もいた。


 慰安所が始まったのは、接収されたナカマジョーと呼ばれた仲村さん宅を九つの部屋に仕切ってからだった。(彼女は仲間ともで八人だったといっている。)慰安所は当初、山につくろうとしたがそれが変更されたのだ。その慰安所から近くの学校のところまで、一般兵が一列となって切符を手にしながら「未だか」と言って順が来るまで並んでいた。子供たちが、順を待っている兵隊をめずらしそうに見ていた、大人たちは「あれは食糧の配給をうけるために並んでいるんだ」と説明したそうである。
 一個大隊3百人を相手にするのでも夜もこき使われていた。一人で一日何十人もの相手をさせられたという。
 兵隊は日曜日に遊びに来て平日はこなかった。それでもときどきかくれて兵隊たちが遊びに現れていた。鈴木隊長がひんぱんに朴さんを訪ねてきたし、班長も来ていた。
 兵隊の中にはしつこいのがいて、何回も遊ぼうというのもいて女たちはいやな思いをした。言葉がわからず、だまされてきたのが悔しくて什様がなかった。下士官や将校たちは切符でないので列をなさず、夜間自由に出入りしていた。
 慰安所は外から見られないように、出人口を狭くしていた。部屋は簡単な板で仕切られていた。

 渡嘉敷のカータガーラ(川)では女たちが下着類を洗濯しているのがみられた。この川は流れ川で、山からきれいな水が流れ、飲料水にも使川していた。
 阿波連では、女たちが部落内の小さなカヤ葺きの二軒に住んでいた。ここでも兵隊がずらりと一列に並んで切符を手にして、もようど配給でも受けるかのようにみえた。
 夜は将校がつきあっていた。慰安婦は色が白く美しかった。「ピー」と彼女らをひやかすと「天皇ひとつだよ。言うな」とはね返していた。

 昭和二十年三月二十三日、空襲があり、機銃掃射で渡嘉敷の炊事場で一人が死に、負傷した二人が軍の医務室に運ばれた。
 たまたま三十人ほどの青年団の団長で、皆と壕掘りをしていた玉城源二さんは、お父さんが貫通重症を負って、この医務室に人院していたので引きとりに行くと「兄さん、歩けないから連れて行って」と哀願された。しかし、米軍艦艇が上陸してくる瞬間であったので玉城さんはそれをふりきった。重症を負っていた父を連れていたので仕方がなかった。2~3日後、医務室へ行ってみるとその慰安婦の死体があった。一人の慰安婦は、一緒に阿波連の谷から渡嘉敷を経てカーラガシラに避難した。後日、そこから住民は恩納河原へ移動した。3月23日の空襲のあと、24日には恩納河原に避難し、25日集団自決したのである。米軍が上陸したのはそれから3日後だった。*7
 生き残った"朝鮮ピー"の一人は、戦後、渡嘉敷の米田さん宅にいたが、座間味から米軍に収容された。他の一人は、三中隊が白旗を挙げて降服したとき共に行動した。その後、彼女は一人息子のいる福岡へ生還したといわれる。


阿嘉島アガイミーヤの一番座



 慶良間諸島のうち慶留間島だけには慰安所がなかった。その北向いの阿嘉島の朝鮮人慰安婦たちは、アガイミーヤの一番座に住んでいた。
 この慰安婦たちは学校の近くにあった民家を借りて「南風荘」という慰安所で働いていた。基地設営隊が彼女らの相手で、未成年だった特幹の儀同保さんらは出入りを禁止されていた。
 彼女らは日本語を使い、部隊の炊事場に食事をとりにくるときよく会った。
 儀同さんは、奇しくもここへ連行された慰安婦たちが、昭和19年11月鹿児島から同船したマレー丸の六十人余りの朝鮮人慰安婦たちであることを知った。班長は中年であったが他の六人は二十代の若さであった。渡嘉敷もそうだが、夜は将校、昼は兵隊で切符を手にした時間割り当てであった。
 孤島の淋しさを彼女たちは朝鮮の歌でまぎらわし、それが島の人たちの同情を呼んでいた。「早く国へ帰りたい」と言っていた。
 儀同さんは屋嘉収容所で、敗戦後の8月24日の時点で、人の朝鮮ピーを目撃している。一方、朴さんたちは、3月23日以後は"営業中止"の状態となった。そこで責任者の金子某が日本軍へ行って、食べ物もないので一緒においてもらいたいと要望、長くいた壕から西山陳地に上って軍と協力した。食べ物は全然なかった。それでも炊事にいたのでよかったものの、朝鮮人軍夫たちは一番ひもじかったはずである。
 三月二十七日に上陸した米軍が、山に登ってきて米兵の声がすぐ近くに聞こえこわくなった。「若いし、どうせ死ぬなら死ね」という気持ちでもあった。死ぬことより、ひもじさをおさえることができなかった。飢えていても飛行機の機銃掃射や艦砲がこわかった。
 あるとき、テントの中でドラム缶に水を人れ、薪を燃やして隊長が風呂に入っていると、弾がドラム缶に命中し、幾つもの穴が開いたことがある。また、壕から出て入り口の便所に座っているとき、飛行機から投下された爆弾の破片がすぐそばにとんできて、生きた気持ちがしなかった。生きられると思わなかった。米軍機は木の上をすれすれに飛んで、陣地をめがけて攻撃をしていた。そんな危険な中を命令とはいえ命がけで薪を探したり、昼は米をついて炊事の任務に当たった。兵隊が斬り込みにいって負傷してくると、その服を洗濯するのに肩や腰が痛くなるほどであった。それでも日本の国のためだと思って一生懸命働いた。
 壕にいるとき、心の中で日本勝ってくださいとばかり考えていた。「勝ってほしい」と祈っていた、アメリカが勝ったら殺されると思っていた。それだけに敗戦はくやしかった。日本は戦争に負けて、米軍のまいた降伏勧告のビラに従って山をおりたが、彼女たちは自殺を考え、逃げようと思わなかった。
 負傷した以外の残る4人は米軍の捕虜となったらしい。


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注釈

*1 阿嘉島、慶留間島、座間味島が昭和20年3月26日で1日早く、渡嘉敷島は翌3月27日

*2 1991年のこと

*3 挺進隊が正しい

*4 部落名ではトカシク

*5 第9師団の台湾転出の影響で、というのが定説

*6 戦車

*7 日付の混乱が見られる