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ノムラカツヨシ「渡嘉敷島・集団自決命令」

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http://www.nomusan.com/~essay/essay_31_tokasikijima.html
渡嘉敷島・集団自決命令
=言論の誠実=

2005.08.03
ノムラカツヨシ
http://www.nomusan.com/index.html
【引用者註】ここに飛ぶとノムラさんが横浜山手教会の主のように思います(私もそう思っていましたーni0615)。しかし、教会の公式サイトhttp://homepage3.nifty.com/catholic-yamate/index.htmlを見ますと、ノムラさんは一信徒であって教会を代表するわけでもなく、司祭・助任司祭、つまり神父でもなくhttp://homepage3.nifty.com/catholic-yamate/sisaisyoukai.html、横浜山手教会の名を使って靖国神社活動を行っている特異なお方のようです。

2005/07/25
皆さん、こんにちは。

昨日(7/24)の産経新聞に、
沖縄守備隊長遺族、大江氏・岩波を提訴へ
「自決強制」記述誤り、名誉棄損
という記事が出ています。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050724-00000001-san-soci

 先の大戦末期の沖縄戦で日本軍の命令で住民が集団自決を強いられたとする出版物の記述は誤りで、名誉を棄損されたとして、当時の守備隊長と遺族が著者でノーベル賞作家の大江健三郎氏と岩波書店を相手取り、損害賠償を求める訴訟を大阪地裁に起こすことが二十三日分かった。
 訴えを起こすのは、沖縄戦で座間味島を守備した陸軍海上挺進隊第一戦隊長を務めた梅沢裕・元少佐(88)と、渡嘉敷島を守備した同第三戦隊長だった故赤松嘉次・元大尉の弟、赤松秀一氏(72)。
 訴えられるのは、『沖縄ノート』(岩波新書)の著者の大江氏と、他にも故家永三郎氏の『太平洋戦争』(岩波現代文庫)、故中野好夫氏らの『沖縄問題20年』(岩波新書)などを出している岩波書店。
 訴状などによると、米軍が沖縄の渡嘉敷島と座間味島に上陸した昭和二十年三月下旬、両島で起きた住民の集団自決について、大江氏らは、これらの島に駐屯していた旧日本軍の守備隊長の命令によるものだったと著書に書いているが、そのような軍命令はなく、守備隊長らの名誉を損ねたとしている。

 沖縄戦の集団自決をめぐっては、昭和二十五年に沖縄タイムス社から発刊された沖縄戦記『鉄の暴風』で、赤松大尉と梅沢少佐がそれぞれ、両島の住民に集団自決を命じたために起きたと書かれた。この記述は、沖縄県史や渡嘉敷島(渡嘉敷村)の村史など多くの沖縄戦記に引用されている。
 疑問を抱いた作家の曽野綾子さんは渡嘉敷島の集団自決を取材し『ある神話の風景』(昭和四十八年、文芸春秋)を出版。座間味島の集団自決についても、生存者の女性が「軍命令による自決なら遺族が遺族年金を受け取れると島の長老に説得され、偽証をした」と話したことを娘の宮城晴美さんが『母の遺したもの』(平成十三年、高文研)で明らかにした。
 その後も、昭和史研究所(代表・中村粲元独協大教授)や自由主義史観研究会(代表・藤岡信勝拓殖大教授)が曽野さんらの取材を補強する実証的研究を行っている。(産経新聞) - 7月24日2時41分更新

私はたまたま曽野綾子先生の「ある神話の背景」を読んでいます。かつて出版された同書がすべて絶版で、古本のサイトでも在庫無く、芝の図書館で借りました。読売新聞社の「 曽野綾子選集2」、「生贄の島」「ある神話の背景」「切りとられた時間」の三編が収録されています。(産経紙は本紙も「風景」となっていますが、「背景」が正しいのだろうと思います。昭和四十八年、文芸春秋のオリジナルがどうなのか知りませんが)。誠実な力作、労作であると思います。しかし私の場合書き込みもしたいので本は必ず自分のが欲しいのです。復刊を切に望むものです。

復刊ドットコム
http://www.fukkan.com/
でPHPと再刊の交渉に入っているようです。興味のある方は、是非投票なさって下さい。

いずれにせよ散発ではありますが「戦犯裁判」が始まったようです。対象期間は戦後60年、使った武器は言論。基準はその言論が事実に基づいたものであったかどうかです。

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2005/07/26
皆さん、こんにちは。

昨日お呼びかけした曽野綾子氏著作復刊の件、クライン孝子さんの「孝子日記」でもお願いしたのですが、スゴイ効果がありました。全部かどうか分かりませんが相当に寄与したと思います。ありがとうございました。

--復刊ドットコムより--
復刊ドットコム< http://www.fukkan.com/ >より、新着投票・投稿のおしらせです。
■「ある神話の背景 沖縄・渡嘉敷島の集団自決」(曽野綾子)
【投票情報】(現在217票)
昨日15票の投票がありました。
http://www.fukkan.com/vote.php3?no=14114

これはもう復刊間違いなしですね。しかし、おそろしく重い本です。おそろしく、重い・・・。

渡部昇一先生が、
“「文献研究の分野では ad fontes (源泉に〔立ちもどれ〕)ということが重要とされている。初版から、あるいは原稿があればそこから変遷のあとをたどることが議論の基礎になる。いい加減なテキストをもととして議論してもはじまらない。”
とおっしゃっています。(→)
(余談ですが ad fontes というのは詩編42-1にも出てくる言葉です。パレストリーナの美しい曲があります。神よ、鹿が谷川を慕いあえぐように、わが魂もあなたを慕いあえぐ。)

これは言論における基本的なモラルでしょう。孫引きはしない、ということです。今回の渡嘉敷島における集団自決の問題も、情報はどこから出たのか。曽野綾子氏は記します。

「あの多くの沖縄関係の書物が赤松氏の行為を断定し、断罪した証拠はどこからきたか。」

「赤松隊長の命令によって集団自決が行われたと断定した第一の資料は沖縄タイムズ社によって刊行された『沖縄戦記・鉄の暴風』であり、初版は昭和25年8月15日である。」

それを原典と考える根拠を曽野さんは記していますが、驚いたことに取材源となった証言者二人の聴取は、現地でなく那覇で行われ、

「二人とも、渡嘉敷の話は人から詳しく聞いてはいたが、直接の経験者ではなかった。しかし当時の状況では、その程度でも、事件に近い人を探し出すのがやっとだった。太田氏は僅か三人のスタッフと共に全沖縄戦の状態を三カ月で執筆したのである。」

「いずれにせよ、恐らく、渡嘉敷島に関する最初の資料と思われるものは、このように新聞社によって、やっと捕えられた直接体験者でない二人から、むしろ伝聞証拠という形で、固定されたのであった。」

ad fontes にほど遠いものが原典となったのです。
曽野さんは、「鉄の暴風」の執筆者、その二人の証人、赤松隊長・隊員、現地の生存者に綿密な取材をし、「神話の背景」を記しています。今回の遺族による訴訟によってノーベル賞作家のモラルが問われるでしょう。大江健三郎さんの「沖縄ノート」はまだ読んでいませんが(昨日アマゾンで手配しました)、論の素材が「鉄の暴風」より手前にしかないなら、厳しい評価を受けるべきです。

曽野さんは渡嘉敷島で現実にあった集団自決の詳細を直接当事者から聴取し冷酷とも思える文体で描写しています。そして、

 S.I.ハヤカワの「思考と行動における言語」によれば、報告の文章は次の二つの規則に従う必要がある、という。第一に、それは実証可能でなければならず、第二にできるだけ推論と断定とを排除しなければならない。
 「報告は直接の経験についてでなければならぬ。自分が自身で目撃した光景、自分の出席した会合や行事」とハヤカワは規定する。
 赤松神話は、第一歩からこの最も根本的な要素に欠けていた。「鉄の暴風」の編纂のときに、もし一人でも直接の体験者が加わっていたなら、問題はもっと素朴に、本質的な点に絞られて来ていたかも知れない。

これは今もなおわが国「報道」の病根でしょうね。
ad fontes を忘れた報道が、故なき苦しみを人に与え、真に克服すべき問題点を紛らわせる。
今回、当時の梅沢裕・元少佐(88)と故赤松嘉次元大尉の弟、赤松秀一氏(72)が大江健三郎氏や岩波書店を訴えるそうです。取材の誠実性が問われる裁判となるでしょう。

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2005/08/02
皆さん、こんにちは。

先月の26,27日に「渡嘉敷島集団自決」について書きました。集団自決を命令したとされる「赤松大尉」の弟と、守備隊長であった生存者が、大江健三郎氏、岩波書店を、名誉毀損で訴えるというものです。

25日-沖縄渡嘉敷島集団自決?
26日-ad fontes 言論の誠実

私はこの一文を書くために、
沖縄タイムズ社「鉄の暴風」
岩波書店「沖縄ノート」
を手に入れました。



「鉄の暴風」は1980年版ですが、

「戦後三十余年の歳月を経過する中で、沖縄戦に関する新しい事実の発見や資料の発掘もすすんでおります。しかし、第二版刊行の際に削除した数行の字句および、今回、あきらかな事実の誤りを訂正したほかは、すべて初版のとおりにしました。」

ということですから、ほぼ初版本なのでしょう。但し曽野綾子氏の指摘する重要な3月26日は、27日に訂正されているようです。
問題の「渡嘉敷島集団自決・赤松大尉命令」については、仄聞記事であり当事者よりの取材をしていないと、曽野綾子氏は編著者本人に確認しています。しかもこの本が、「原典」となったのです。



大江健三郎氏の「沖縄ノート」は1994年版です。初版は1970年9月ですね。
これは難解な本です。よく分からないというか、本当に意味のあることが書いてあるのか、私には見出せない、それほど高尚な本です。
ただ、ほとんど頁をめくる度に繰り返し現われる、呪文のような言葉、

日本人とは何か、このような日本人ではないところの日本人へと自分をかえることはできないか、

を読んで、ああこの人は心底日本人がキライなんだな、と思いました。(→)
私は半分はきっちりと読んで(渡嘉敷の件はプロローグを含め全10章の4章目に出てきます)、あとは走り読みにかえました。きっちり読んだのと走り読みと、私の中に残った量は同じであります。

以上を踏まえ自分のコメントを付けようと思いましたが、曽野綾子先生の端的痛切な言葉が『首相官邸』サイトにありました。裁判云々は別にしても、大江さんは答えなければいけないでしょうね。 ひとを攻撃するとき、私たちは最も誠実でなければならない。言論を使うなら、使うのは自らが確認した根拠にのみ限らなければならない。それがその人間の品格でしょう。



=以下、曽野綾子氏の「司法制度改革審議会」における発言=

http://www.kantei.go.jp/jp/sihouseido/dai34/34gijiroku.html
第34回司法制度改革審議会議事次第
日 時:平成12年10月16日(月) 9:29 ~12:10
場 所:司法制度改革審議会審議室
(渡嘉敷島集団自決に関する部分のみ。全体は上記URLからご参照下さい。)

【曽野委員】

 過日ちょっと触れましたが、私は過去に書きました数冊のノンフィクションの中から、一つの作品を例に引いて、その作業の困難さをお話ししたいと思います。

 ここに持参いたしましたのは『或る神話の背景 沖縄・渡嘉敷島の集団自決』という本です。この話は、終戦の年の3月、沖縄本島上陸を前に、その南西の沖合にある慶良間列島の中の渡嘉敷島で集団自決が行われた、という事件です。当時島には陸軍の海上挺進第三戦隊の130人が、ベニヤ板の船に120 キロの爆弾をつけて夜陰に乗じて、敵の艦艇に突っ込む特攻舟艇部隊としていました。

 3月下旬のある日、米軍はこの島を砲撃後上陸を開始し、それを恐れた約三百人の村民は軍陣地を目指して逃げましたが、陣地内に立ち入ることを拒否され、その上、当時島の守備隊長だった赤松嘉次隊長(当時25歳)の自決命令を受けて次々と自決したというものでした。自決の方法は、多くの島民が島の防衛隊でしたから、彼らに配られていた手榴弾を車座になった家族の中でピンを抜いた。また壮年の息子が、老いた父や母が敵の手に掛かるよりは、ということで、こん棒、鍬、刀などで、その命を絶った、ということになっております。

 当時の資料を列挙しますと、1)沖縄タイムス社刊『沖縄戦記・鉄の暴風』2)渡嘉敷島遺族会編纂『慶良間列島・渡嘉敷島の戦闘概要』3)渡嘉敷村、座間味村共編『渡嘉敷島における戦争の様相』4)岩波書店『沖縄問題二十年』(中野好夫、新崎盛暉著)5)時事通信社刊『沖縄戦史』(上地一史著)6)沖縄グラフ社『秘録沖縄戦史』(山川泰邦)7)琉球政府『沖縄県史8(沖縄戦通史)各論篇7』(嘉陽安男著)8)岩波書店『沖縄ノート』(大江健三郎著)9)平凡社『悲劇の沖縄戦』「太陽」(浦崎純著)
 などがあります。これらの著書は、一斉に集団自決を命令した赤松大尉を「人非人」「人面獣心」などと書き、大江健三郎氏は「あまりにも巨きい罪の巨塊」と表現しています。

 私が赤松事件に興味を持ったのは、これほどの悪人と書かれている人がもし実在するなら、作家として会ってみておきたいという無責任な興味からでした。私は赤松氏と知己でもなく、いかなる姻戚関係にもなかったので、気楽にそう思えたのです。もちろんこの事件は裁判ではありません。しかし裁判以上にこの事件は終戦後25年目ころの日本のジャーナリズムを賑わし、赤松隊に所属した人々の心を深く傷つけていたのです。

 もとより私には特別な調査機関もありません。私はただ足で歩いて一つ一つ疑念を調べ上げていっただけです。本土では赤松隊員に個別に会いました。当時守備隊も、ひどい食料不足に陥っていたのですから、当然人々の心も荒れていたと思います。グループで会うと口裏を合わせるでしょうが、個別なら逆に当時の赤松氏を非難する発言が出やすいだろうと思ってそのようにしました。渡嘉敷島にも何度も足を運び、島民の人たちに多数会いました。大江氏は全く実地の調査をしていないことは、その時知りました。

 当時私はまだ30代で若く体力があったことと、作家になって15年以上が経過していたので、いくらか自分で調査の費用を出せるという経済的余裕があったことが、この調査を可能にしました。

 途中経過を省いて簡単に結果をまとめてみますと、これほどの激しい人間性に対する告発の対象となった赤松氏が、集団自決の命令を出した、という証言はついにどこからも得られませんでした。第一には、常に赤松氏の側にあった知念副官(名前から見ても分かる通り沖縄出身者ですが)が、沖縄サイドの告発に対して、明確に否定する証言をしていること。また赤松氏を告発する側にあった村長は、集団自決を口頭で伝えてきたのは当時の駐在巡査だと言明したのですが、その駐在巡査は、私の直接の質問に対して、赤松氏は自決命令など全く出していない、と明確に証言したのです。つまり事件の鍵を握る沖縄関係者二人が二人とも、事件の不正確さを揃って証言したのです。

 第二に、資料です。

 先に述べました資料のうち、1~3までを丁寧に調べていくと、実に多くの文章上の類似箇所が出てきました。今で言うと盗作です。ということは一つが原本であり、他の資料はそれを調べずに引き写したということになります。それをさらに端的に現しているのは、これほどの惨劇のあった事件発生の日時を、この三つの資料は揃って3月26日と記載しているのですが、戦史によると、それは3月27日であります。人は他の日時は勘違いをすることがありましょうが、親しい人、愛する者の命日を偶然揃って間違えるということはあり得ません。

 つまり「沖縄県人の命を平然と犠牲にした鬼のような人物」は第一資料から発生した風評を固定し、憎悪を増幅させ、自分は平和主義者だが、世間にはこのような罪人がいる、という形で、断罪したのです。

 当時、沖縄側の資料には裏付けがない、と書くだけで、私もまた沖縄にある二つの地方紙から激しいバッシングに会いました。この調査の連載が終わった時、私は沖縄に行きましたが、その時、地元の一人の新聞記者から「赤松神話はこれで覆されたということになりますが」と言われたので、私は「私は一度も赤松氏がついぞ自決命令を出さなかった、と言ってはいません。ただ今日までのところ、その証拠は出てきていない、と言うだけのことです。明日にも島の洞窟から、命令を書いた紙が出てくるかもしれないではないですか」と答えたのを覚えています。しかしこういう風評を元に「罪の巨塊」だと神の視点に立って断罪した人もいたのですから、それはまさに人間の立場を越えたリンチでありました。

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