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対照:石川達三の読売インタビューS21

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資料『石川達三インタビュー』(昭和21年5月9日『讀賣新聞』記事) 渡辺 2002/10/12 01:46


以下、1946年(昭和21年)5月9日『讀賣新聞』2面に掲載された石川達三のインタービュー記事全文です。

デジタル化にあたっては、時間節約のため、2000年10月24日に ash_28 の No.1847 の投稿を利用させていただきました。
この復刻版には、文字が判読しにくい部分がありますので、誤読があるかもしれません。
「掠奪、暴行、毆殺、毆殺」の「毆殺、毆殺」の部分は、「毆」の活字がつぶれていますが、このようにしか判読できませんでしたので、そのまま掲載いたしました。
改行、頭下げ、字体はなるべく原文を再現するようにいたしました。

この資料をお読みになるための、参考意見ゆ7を申し上げます。
  1. このインタビューは「國際裁判公判をまへに」語ったとされている。
  2. 東京裁判は1946年(昭和21年)5月3日に開廷したばかりであり、「南京事件」について具体的にどのようなことが取り上げられるかは分からない時点のものである。
  3. 石川達三が実際に目撃したことと、三三連隊から取材したことが、あまり区別されずに書かれている。
  4. 『生きてゐる兵隊』は日付を示しながら三三連隊の行動を記述している。三三連隊の将校と石川氏の個人的関係、石川氏の取材方法、作品の記述の正確さから、回想にたよったとは思われず、戦闘詳報作成などのために三三連隊の行動を記録していたノートを利用させてもらった可能性が高い。
  5. したがって、石川達三のインタビューの内容を、一六師団三三連隊元兵士の証言が多数集められている『南京戦 閉ざされた記憶を尋ねて 元兵士102人の証言』(社会評論社、2002年)と比較されたい。

以下記事

昭和21年5月9日 讀賣新聞 (木曜日) 第24911号 3版(2)☆☆

裁かれる殘虐『南京事件』


東京裁判の起訴状第二類
「殺人の罪」において國際検事團は南京事件をとりあげ日本軍の殘虐行為を突いてゐる、掠奪、暴行、毆殺、毆殺―昭和十二年十二月十七日、松井石根司令 官が入城したとき、なんとこの首都の血なまぐさかつたことよ、このころ南京攻略戰に從軍した作家石川達三氏はこのむごたらしい有 様を見て"日本人はもつと反省しなければならぬ"ことを痛感しそのありのまゝを筆にした、昭和十三年三月号の中央公論に掲載された小説『生きてゐる兵隊』だ
 しかしこのため中央公論は発禁となり石川氏は安寧秩序紊乱で禁錮四ケ月執行猶予三年の刑をうけたいま國際裁判公判をまへに"南京事件"の持つ意味は大きく軍國主義教育にぬりかためられてゐた日本人への大きな反省がもとめられねばならぬ、石川氏に當時の思ひ出を語つてもらふ

河中へ死の行進
首を切つては突落す

 兵は彼女の下着をも引き裂いたすると突然彼らの目のまへに白い女のあらはな全身がさらされた、みごとに肉づいた胸の両側に丸い乳房がぴんと張つてゐた …近藤一等兵は腰の短剣を抜い て裸の女の上にのつそりまたがつた…彼は物もいはずに右手の短剣を力かぎりに女の乳房の下に突き立てた―

"生きてゐる兵隊"の一節だ、かうして女をはづかしめ、殺害し、民家のものを掠奪し、等々の暴行はいたるところで行はれた、入城式におくれて正月私が南京へ着いたとき街上は屍累々大變なものだつた、大きな建物へ一般の中國人數千をおしこめて床へ手榴弾をおき油を流して火をつけ焦熱地獄の中で悶死させた

 また武装解除した捕虜を練兵場へあつめて機銃の一斉射撃で葬つた、しまひには弾丸を使うのはもつたいないとあつて、揚子江へ長い桟橋を作り、河中へ行くほど低くなるやうにしておいて、この上へ中國人を行列させ、先頭から順々に日本刀で首を切つて河中へつきおとしたり逃げ口をふさがれた黒山のやうな捕虜が戸板や机へつかまつて川を流れて行くのを下流で待ちかまへた駆逐艦が機銃のいつせい掃射で片ツぱしから殺害した

戰争中の昂奮から兵隊が無軌道の行動に逸脱するのはありがちのことではあるが、南京の場合はいくら何でも無茶だと思つた、三重縣からきた片山某といふ從軍僧は讀経なんかそツちのけで殺人をしてあるいた、左手に珠數をかけ右手にシヤベルを持つて民衆にとびこみ、にげまどふ武器なき支那兵をたゝき殺して歩いた、その數は廿名を下らない、彼の良心はそのことで少しも痛まず部隊長や師團長のところで自慢話してゐた、支那へさへ行けば簡單に人も殺せるし女も勝手にできるといふ考へが日本人全体の中に永年培はれてきたのではあるまいか

 ただしこれらの虐殺や暴行を松井司令官が知つてゐたかどうかは知らぬ『一般住民でも抵抗するものは容赦なく殺してよろしい』といふ命令が首脳部からきたといふ話をきいたことがあるがそれが師團長からきたものか部隊長からきたものかそれも知らなかつた

何れにせよ南京の大量殺害といふのは実にむごたらしいものだつた、私たちの同胞によつてこのことが行はれたことをよく反省し、その根絶のためにこんどの裁判を意義あらしめたいと思ふ


[『読売新聞<縮刷版>昭和21年版・上巻 昭和21年1月~6月』日本図書センター 1994年7月25日発行 272頁]


これを読むと、阿羅健一氏の言い分は信じがたい。阿羅氏は結局ゲラも何も、生前の石川達三氏に確認をとれなかった(とらなかった)ようだ。>pippo

『聞き書き「南京事件」』阿羅健一,補遺より

従軍作家・石川達三氏
 石川氏は昭和十年『蒼眠』で第一回芥川賞を受賞、昭和十二年、陥落直後の南京に中央公論杜から特派された。十二月二十一日東京をたって、上海、蘇州、南京をまわり、一月下旬に東京に戻った。この時、主に第十六師団の兵士に会い、これをもとに『生きてゐる兵隊』を書き、二月十八日発売の『中央公論』に発表した。ところが『中央公論』は即日、新聞紙法により発売禁止になり、石川氏は起訴され、九月に禁鋼四カ月、執行猶予三年の判決がおりた。
 戦後になり、『生きてゐる兵隊』は南京事件を扱った小説といわれるようになった。
 昭和五十九年十月、インタビューを申込んだが、会うことは出来なかった。理由は後でわかったが、それから三カ月後の昭和六十年一月に石川氏は肺炎のため亡くなった。インタビューを申込んだ時は胃潰瘍が良くなりつつあったが、会えるような状況ではなかったのである。しかし、そのおり、次の様な返事をいただいた。
「私が南京に入ったのは入城式から二週間後です。大殺戮の痕跡は一片も見ておりません。
 何万の死体の処理はとても二、三週間では終わらないと思います。あの話は私は今も信じてはおりません」

「返事」の真偽は全て阿羅氏の胸のうちにあるようです。本人に確認をとっていたら必ず阿羅氏は必ずその旨を書くことは、補遺の中の他の人についての記録を見ればわかります。それが書かれていません。

阿羅氏が「石川氏の返事」を公開しているかどうか、どなたか知っていたら教えてください。


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