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集団自決の思想

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『青い海』1971.9

集団自決の思想

―集団自決の記録「それは島」撮影後書―
映画監督 間宮則夫

私たちが「それは島」という映画を撮りに渡嘉敷島に渡ったのは、島の観光シーズンも終りに近ずいた、一九七〇年九月下旬であった。それから十一月上旬まで、延三〇日近くスタッフ総勢八名、一軒の空家を借りて合宿をしながらロケーションを行った。泡盛を酌交しながらの島の日常的レベルでの撮影はきわめてうまく遂行された。そうしたなかで私たちは徐々に「集団自決」の問題、つまり島人たちの内部意識の問題にふれていったのだが、それはなかなかうまくいかない。島の人たちは渡嘉敷島を中心にした慶良間戦の一般的状況については実によく説明もし、個々の戦闘についても饒舌なくらい語ってくれる。だが、こと「集団自決」の核心については口をとじてしまう。

「その当時は外地にいたのでわからない」
「子供だったからわからない」
そして泡盛で酔った時は
「お前たち! そんなこと探ぐってどうしようと言んだ!」
島人たちの一般的意識は悲惨な出来事を早く忘れようというところにあるようだった。

私たちは島の青年達ともよく「集団自決」について語りあった。そして青年たちに二つの意識の流れがあることがわかった。一つは過去のことをとやかく言うよりも、現実の問題を考えるべきだとする意見。もう一つは、この世の中で最も悲惨な体験をした唯一の島なのだから、「集団自決」の悲惨さをもっと社会にアッピールすべきだという意見であった。こうした二つの意識の流れを保守と革新に色別けすることは簡単であろう。だが後者の意見に"自分はやれないけれどほかの人にはぜひやってもらいたい"といった但し書が付せられているのを聞いたとき、私たちは「島」という閉鎖社会の重圧をひしひしと感じてしまった次第である。たった三〇日間の滞在で島の生活構造の裏の裏まで知るなんていうことはとういて不可能なことではあるが、実感としては、島とは踏み込めば踏み込むぽど、とらえどころがない。いってみれば、気負い込んだ私たちは見事、島の血縁共同体的なヒエラルキーによって、他所者・旅人として、あたたかくむかえられ、丁重にあつかわれて、つつがなく追い出されてしまったような気がしてならない。

誠に不充分な体験ではあるが、撮影という特殊な行動を通して、知り得た事柄の一端を記してみたいと思う。

■渡嘉敷戦記について


戦争当時の村長が中心となり、当時の村役所で、生々しい記憶をもとに記録されたであろう「渡嘉敷島の戦闘概要」を読み、更に現実の島人に接したとき、私たちは改めて、いったい"事実"とは何なのか。私たちが日常何気なく使用する"事実"という言葉の意味するものは何なのかということに突きあたった。

「渡嘉敷島の戦闘概要」に記されているものは、終始一貫して、軍隊を、島人にとっては島の守備隊を呪った呪誼の記録とも言える。その記録に現われる隊長、赤松大尉はまさに卑怯・臆病・不決断の男、住民を死に追いやった元凶として描かれている。そこには、本来ならば島を守備する、言い変えれば島人たちの生命・財産の安全を保障してくれるはずの軍隊に、いっさいの信頼を托して行動したのが、ことごとく裏切られたことへの怨みが籠められている。また、視点を変えて"概要"を読むと、そこには人命を無視して、ただ天皇のため忠義を尽す帝国主義軍隊の本性が、はからずも暴露されていることがよくわかる。

だが、今日の島人たちの意識はどうなのだろうか。

私たちがカメラと録音機を手に島を歩きまわって、島人からかっての兵隊を懐つかしむ声は聞けても、帝国軍隊を憎む声は聞かれなかった。例えば、自決生き残りのKさんは手首の無い腕を振りながら、舟艇壕の保存について語り、将来島の観光資源の一つにしたいと私たちに熱心に語ってくれた。その声には惨酷な仕打に対する慣怒も怨念もこもっていなかった。むしろそうした情念を超えて、二五年前の戦争の足跡をまるで自らの分身をいつくしむかのような気持で語る姿は、まさに純朴な島人そのものであった。あるいは、このKさんは戦争中防衛隊員(戦局逼迫して現地召集された島人によつて編成された。兵隊に準ずるものであったらしい。軍属とはちがうと彼ははっきり否定した。)であったので、余計軍隊にノスタルジアを感じているのかも知れない。その他の島人たちにしても、また婦人たちにしても、武器弾薬の乏しさ、彼我の物量の差を含めた戦闘態勢のあまりの相違におどろきの思い出は語るが、守備隊の残虐性については口の端にものぼらなかった。わずかに自決の模様を話してくれた一人が、降伏調印で島の小学校校庭に並んだ兵隊たちをみて、『住民があれだけの大きな犠牲をはらっているのに、君たち軍人はおめおめと故国に帰るのか』と、泣いたということを語ってくれたにすぎなかった。

「渡嘉敷島の戦闘概要」にもられた軍隊への呪誼が島人たちにとって本念なのか、一九七〇年三月二八日に二五年ぶりにおこなわれた、軍民合同の慰霊祭をささえる島人たちの『過去は水に流し、これからは仲良くやる』といった意識構造と慰霊祭に平然と参加した兵隊たちの『あれは赤松大尉のやったことで直接俺には関係ない』といった自己の戦争犯罪の追求をすっぽりとすりぬけたところでの責任転嫁の意議構造との癒着したところの今日の島の日常が真実なのか。考え得ることは、"戦闘概要"は戦時の極限状況における異常として、戦闘の想い出の生々しい時期に記されたものであり、"慰霊祭"は肉親を死に追いやった元凶に対する怨念を二五年という歳月のフィルターが浄化したことによっておこなわれ得たのかも知れないということだ。

秩序の回復、つまり島のヒエラルキー(権力機構)が確立されるのに二五年の年月を必要とし、それが確立された今日、未来へむかってのあの積極的な姿勢の中で平和を念願して記されたであろう。"意識の革命性"は保守化してしまったのであろうか。

合同慰霊祭によって、過去のいっさいを水に流し去ることは、島人たちの意識の変革によって島の秩序体制が変ってしまうことへの恐れと、帝国軍隊への屈服、ひいては日本帝国主義国家体制への従属を意味するのではないかとも考えることができる。

■赤松来県阻止抗議について


昨年三月の那覇空港における。赤松来県阻止抗議デモは、結局赤松大尉が自決命令を下したか下さなかったかという事実関係の押し問答に終始してしまった。結果として赤松元大尉の渡島は阻止されたので目的の半分は達成されたのかも知れないが(阻止行動の目的は合同慰霊祭そのものを中止させることではなかったかと推察をする)、抗議団の真意は遂いに赤松元大尉には通じなかった様であった。そして彼には、渡嘉敷村民が暖かく迎えてくれようとしているのに、どうして島とは、また事件とは無関係にみえる人たちが、渡島を阻むのか理解できなかったにちがいない。

彼は乏しい武器弾薬と兵員で、豊富な物量をほこる敵を相手に、最後まで立派に任務を完遂した戦士だと、自らをおもい込んでいることだろう。そしてたまたま犠牲となった住民には気の毒なことをしたといった気持しか持ち合わせていなかったことであろう。だからこそ慰霊をするという発想が成り立つのだ。(招待されたから慰霊祭に参加するという受動的行動でもその本質は同じだ。)

このことは何も赤松氏個人の行動のみを責めているのではない。沖縄戦を、また米軍支配下にあった戦後の沖縄を、ただ、"悲劇"としてしかとらえきれていない大和人全部に、それこそ、私たち映画スタッフのうちの大和人をも含めたところの問題としてとらえているつもりだ。

彼は帝国軍人として、また天皇の忠実なる赤子として、ひたすら自らに課せられた使命を忠実に遂行しただけであり、その過程において、そのことのために、住民を集団自決に必然的に追い込んでしまったということに対する自己批評と歴史分析が徹底的に欠けている。彼は敗戦このかた今日まで、そうした思想点検を、ついぞおこなったことがなかったにちがいない。彼は、自分が自決命令を下していないのだから、住民が集団自決を決行したのはまったく住民の事情であって、自分はあづかり知らぬことである。従って抗議団から責任追求をされても、ただ目をぱちくりさせるだけで答えるすべもないのは当然なことといえる。だが事態はこれを当然なことといってすますことはできない。この責任は如阿に日時がたとうとも、また遠い過去の追憶の中にしまいこまれようとも、絶対に追求されなければならない事実だ。

私たちは戦時下における島の最高責任者として、赤松元大尉にいっさいの責任があると考えている。そしてその前提にたって、自決命令を赤松元大尉が下したか下さなかったかという個人に責任が帰結していくような事実関係はさしたる重要な事柄ではないと考えている。個人の善意が問題になるのではなく、問題なのは、彼自身が「命令」であり、彼の行動そのものが「命令」である状態に当時の島が置かれていたことである。

もし赤松元大尉が命令を下さなかったなら彼にかわる他の「赤松」が下したかも知れないし、もっと大胆に言えば住民個々の意識の中に命令を下した「赤松」が存在していたかも知れないのだ。また沖縄人は大和人よりもより巨大な「赤松」に支配されていたであろうし、渡嘉敷村民をはじめ離島の人々は本島に住む沖縄人よりも更に巨大な「赤松」に支配されてうごかされていたという日本の歴史構造が問題であり、そうした認識の上にたって断罪していかなければならないと考えている。

渡嘉敷島の村民たちが一般論としての渡嘉敷戦記は雄弁に語りながらも、集団自決という個的戦争体験については黙して語ろうとしないのも、単に悲惨な想い出を新にすることを厭う気持ばかりではなく、自らの意識の中に「赤松」の存在を認めているからなのではないだろうか。

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