15年戦争資料 @wiki

沖縄戦からの発想

最終更新:

pipopipo555jp

- view
メンバー限定 登録/ログイン
『青い海』1971.9

沖縄戦からの発想


沖縄県民は戦争に献身的に協カした。そのことを正視してこそ強靭な批判精神が、平和共存への発想が生まれるのだ。
作家 星雅彦

今日では、核兵器の出現いらい次第に戦争へのイメージが、変質してきたと言われています。

核兵器は人類を絶滅させるものとして恐れられ、戦争への恐怖感も、広島・長崎を思い出すことによっていっそう強く大きくなってきたわけですが、そして一方では、それが安全弁の役目をしていると言えそうです。というのは、人類の絶滅という地球上の最悪の事態に対して、人間の最後の知恵が、その使用を思いとどませるという人間への最低の信頼が支えとなっているわけです。

しかしながら核兵器の存在は、戦争への恐怖感を完全に越えきせ、安心感をもたらすものではありません。現に、第二次世界大戦以後も、地球上のどこかではずっと戦争がつづいているからです。いうまでもなく、その戦争は、兵隊だけでなく一般住民もおびただしく死に追いやっているわけです。

だから尊巌なる人間の生命ということを考えるとき、戦争へのイメージが変ってきたとしても、ベトナムのゲリラ戦からも推測できるように、戦争の罪悪性は、不変であり、どのようにも許されるものではありません。また、どのようにも正当化できるものでもありません。

とはいうものの、現実に、戦争は実在し、また歴史を遡ってみても、戦争が絶えたためしがないのは、なんとも皮肉な現象です。そしてそれは、社会的なできごとの中でも、非常に矛盾した現実の間題です。国民の代表者である政治家の中には、戦争をみとめているかのような発言をする入がいます。そのようなときにたびたび使われる「祖国防衛」という言葉は、戦争の存在意義をとなえていることを意味します。なぜ、そうなってしまうのか? 一概に解答はできません。ただ一つには、その国の政治体制(政党)と経済状態とがからみあって、密接な関係をもっているといえるでしょう。…国の繁栄と衰退は、しばしば戦争に左右されるからです。だからそれは、どうしようもない政治的なリアリズムの問題です。

そこからラジカルな反戦平和の運動も起ってきたわけですが、なぜ戦争が起るのか、戦争は必要悪なのか、避けられないのか、といった問題は、政治問題でもあり、最終的には、発展して行くはずの人間の知恵に期待を抱くほかはありません。

そこで私は、戦後思想の原点だといわれるところめ沖縄戦に眼を向けて、考えてみたいと思います。


私は沖縄県史の九巻(戦争記録編)の執筆担当者の一人でした。その戦記は、これまで出版された戦記とはまったく違っていて、非戦闘員である一般往民の生まの体験記録です。それは何百人の戦争体験者から一人びとり聞き書きしたもので、米軍が上陸した頃から、戦火に追われてさまぎまな悲惨な目にあいそして捕虜になった頃までの、体験を綴ったものです。

この聞き書きの仕事を、私は約一年半やって、多くの追体験をしたのでした。そして沖縄戦について、さまざまなことを考えさせられたわけです。沖縄戦で、二〇万と推定される沖縄県民の死を思うとき、まず念頭に浮かぷのは、子供をつれて逃げさまよった母親たちの名状しがたい苦難の道でした。ジャーナリスティックには、ひめゆり部隊や鉄血勤皇隊の死がクローズアップされて話題になりましたが、沖縄戦でもっとも多大にして痛々しい苦労を重ねたのは、母親たちだったのです。つまり非戦闘員であるところの一般避難民でした。

この一般避難民は、まったくの無力で、ひたすら砲火から逃れて南部へ南部へとさまよい歩き、肉親をつぎつぎと失って行ったのでした。そして沖縄本島の南端のギーザバンタ摩文仁喜屋武の海岸に辿りつくまでに、さまぎまな死を目撃しています。たとえば、壕の中で赤ちゃんがどうしても泣き止まないので、兵隊から泣く子は殺してしまえと怒鴫られ、子供が泣くと砲弾がとんできて皆を犠牲にするから出て行けと叱られ、思いあまって母親が赤ちやんを窒息死させる。もしくは子供をかかえて壕から飛び出て行って砲弾にあたって死ぬ。また、女子供だけでギーザバンタの崖の上までやっと逃げてきて、あとはその崖をおりて海岸の岩の下に隠れるほかはなくなったとき、お年寄りはどうしてもつれて行けないので、捨てて行く。また、ある母親は、お婆さんを一人崖の上に置いて行くのがしのびなくて、娘にお婆さんの面倒を見るように言いつけて、お婆さんと娘を置いて、海岸におりて行きました。そして海岸の岩の下に穴を掘って、カニのような生活をしているとき、米兵に「デテコイ、デテコイ」と一言われ、もう飢え死にするよりは出た方がよいと諦め、捕虜になって、米兵につれられて再び崖の上にのばったときに、お婆さんと娘が火焔放射器で黒くこげ死んでいるのを見るのです。このような悲惨な話は、数限りなくあるのです。米軍がギーザバンタのことをSuiside Cliff(シューサイド・クリフ=自殺崖)と呼んでいた意味が、当時の惰況を物語っているようです。

肉親との離別のぽかに、捕虜になってから、国頭に送りこまれたとき、寒村の国頭の人たちからカンダバー一(甘藷の葉)も与えられない冷遇を受けたり、マラリヤや栄養失調で死んで行った死者たちを、穴を掘って幾人も重ねてただ埋めて片付けたこと等々、ことごく他人に語りたくない出来事ばかりです。

したがって、ほんとうの戦争体験者は、そのあまりの深刻さに、語りたがらないわけで、二六年間、ぼとんど沈黙を守っていたと言っても過言ではありません。

それらの重い□をひらいて語られた多くの言葉中には、友軍という名の第三二軍のいわば敗残の日本兵の、残虐性や、あらぬスパイ容疑で殺された事件や、自決をせざるを得なかった経緯が出てきます。が、紙幅の都合もあって、一つ一つ取り上げて論ずる余裕はありませんので、私はそれらさまざまな問題を総括して一つの結論を出しておきたいと思います。

それは何かというと、戦争というものは、国民全体がそれに参加せざるを得なくなったとき、より多大な犠牲と傷痕を残すということです。国民全体を動かすということは、そこへ引き摺りこむイデオロギーがあるということであり、日本の場合は特に旧天皇制ということが問題になるわけです。

日本の戦争は、大東亜共栄圏という大義名分をもっていました。それは、資源の少ない島国の中に一億の人□がひしめきあい、近代国家としての発展があやしまれたばかりか自給自足の行き詰まりもあって、いきおい南方の土地と資源をわがものにして繁栄しようという野心のたまものでした。つまりアジア諸国を侵略することでした。それをとなえた政府と軍部は、そこで国民の心を団結させるために、天皇制を最大限に生かしたわけでした。

八紘一宇の理念を拡大させるところの、天皇制が絶対的に悪であるとは、言い切れませんが、少なくとも戦前の旧天皇制は、じゅうぶんに批判されるにあたいします。天皇制を論ずることは、日本の思想の根底を見当することになるだろうと思います。

天皇制が軍部と結合した場合、つまり打って一丸、すべてを統一する思想と軍隊の行動が重なったとき、どんなに危険な情況をつくるか、そのことを、太平洋戦争は証明したのでした。端的に言って、沖縄戦の犠牲は、旧天皇制という軍国主義思想の犠牲にほかなりません。

沖縄の新聞紙上では、昨年の三月、渡嘉敷島でかって友軍の隊長をしていた赤松氏の一群が、慰霊祭に参加するため来島してから、戦争責任の問題が起こりました。これからもこの問題は論じられるでしょうし、追及されるでしよう。がしかし、たとえば集団自決に追いこんだといわれているところの赤松隊長を、追及してもどうにもならない壁にぶっつかってしまいます。なぜなら、個人的な追及では、解決できない問題であり、赤松隊長も加害者であると同時に被害者でもあるからです。

御国のために身も心も捧げるという思想が、自決をもたらしたと言えるわけですから、誰が自決命令を出したか、ということは実は間題ではないのです。

そのことは、私が慶良間諸島に再三渡って聞き書きした結論でもあり、軍部の教育の恐ろしさもさることながら、命令もされないのに自決した人たちも含めて、非戦闘員も実は潜在的には戦闘員であったと言えるのです。なぜをら、沖縄県民は、精神的に、また実際上も、献身的に戦争に協力していたのでした。

このことを正視することによって、どのようにも戦争に協力しない強靭な批判精神をもつこと、そこから平和共存への発想が生まれるだろうと、願望的に考える次第です。
目安箱バナー