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ふたつの赤松大尉手記

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ふたつの赤松大尉手記


二つの赤松手記

太平洋戦争末期1945年3月すえ、米軍上陸攻撃の最中、沖縄の渡嘉敷島島民3百有余を集団死に至らしめた責任者とされた元海上挺進隊長大尉赤松嘉次氏は、戦後26年目の1971年、51歳のとき2つの雑誌に相次いで手記を載せた。1つは沖縄地方総合誌『青い海』6月号に載せた「私たちを信じてほしい」であり、もう一つは、全国総合月刊誌『潮』11月号に載せた「《私記》私は自決を命令していない」である。

赤松氏はその前年1970年の3月、渡嘉敷島で行われた慰霊祭への出席を目的に復帰前の沖縄に渡航したが、抗議にあって慰霊祭出席をとりやめた。
二つの赤松手記はどちらも、その抗議のことを踏まえて書かれた物だが、内容を読むとそこには興味深い相違がある。前者は「弁解の言葉」であるが、後者は「逆告発の書」である。後者のほうが字数が多くその分内容が変わっても不思議ではないが、言葉使いや文体まで相当大きく変わっているのである。

筆者は、後者の月刊誌『潮』11月号掲載「手記」は、プロの文筆家の代筆によるのではないかと疑いを持つ。もちろん、アマチュアの寄稿文を雑誌編集者が手を入れたり、ページ内に収める添削をすることは当然だが、2つの文章を比較した「文相」の違いを、皆さんはどう読み取るのだろうか? 後者の手記が、故赤松嘉次氏本人の遺稿として、現在係争中の裁判所に『書証』として提出されているだけに、私は気になる。

しかもこの「手記」の内容は、曽野綾子著「ある神話の背景」のモチーフと構成に、そっくりまま引き継がれているように見えるのは、気のせいだろうか?


戦後25~6年その当時、赤松氏を"迎えた"渡嘉敷島の心情や、沖縄の一般的雰囲気については、同じ『青い海』9月号から引いてみる。


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