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吉田春子『軍と共に』

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大江健三郎さんらを提訴した原告側弁護団は、大阪地裁法廷準備書面(2)において「沖縄県史第10巻」から6人の住民証言を引用しています※1。しかし、そのいずれもが、「集団自決は住民の自発的意志だった」ということを強調したいための、作為的な切り取り、いわゆる『トリミング』です。

 

県史における聞き取り調査とその採録は、そのとき起きたこと、そのときの心理を、あとからの評価をできるだけ付け加えないように語っています。したがって、「自決」のときの心境と、生き残ったあとの「心境」では違います。

 

―― 「集団死」へと一途だった自分が、「醒めて」、生へと向かうまで。

 

読者は、証言者のそうした変化を読み取って、読者自身の理解と評価に進むべきです。「潔い自死だった」との強調にのみ借用することなどはもってのほか、それこそ、「想像力」の貧困であり、証言者および犠牲者の心を冒涜するものと言わざるをえません。

 

したがって、「沖縄県史第10巻」にあたり、全文を採録し直したものから公開することにしています。

軍人と同じ壕の中に隠れていた吉田春子さんの証言では、自分をはじめとする住民たち、そして将兵の「死」と「生」との間のこころの葛藤が、登場人物の克明な記憶とともに深いひだのように描かれています。原告側弁護団がトリミングした部分は全体の10分の1にも満たないものです。  

 

 

参考: 「座間味村島住民避難図」

 

 

軍と共に

吉田春子 

座間味島字座間味 

 

当時、私は軍の炊事班の任務を負わされていたため、十九年の十月十日の空襲の日から軍と共に行動をしていました。

 

二十年の三月二十三日の空襲の時、ちょうど軍の壕にかくれていました。部落中が攻撃に見舞われていて、昼中は家族の事を心配しながらも、出て行くことは全く不可能な状態でした。やっと日が暮れて、米機が引き揚げてから、急いで家に帰ると、家は散々に荒らされ家族はだれもいません。ただ病弱の弟だけが歩行困難のため、近くの屋敷に避難していました。

 

弟と連れだって家族をさがしに恩納の方へ行ってみると、私の家族の他に、二、三の家族が一か所に集まって、かくれていました。そこに着いてしばらくしてから、再び、激しい艦砲射撃がはじまったので、一緒にいたおじいさんが、別の壕へと、移っていってしまいました。それからというもの、わずかの残された家族は不安で、びくぴくのし通しです。どうせ死ぬものだから、私は妹を連れて、照明弾の中を縫いながら、突貫隊※2の三中隊の壕へと走っていきました。兵隊さんと一緒におれば、いざとなっても大丈夫だと思ったからです。

 

私達が着いた頃、三中隊の壕ではにぎりめしに梅ぽしをつめて出かける準備をしていました。兵隊さんたちは、「自分たちは出かけるから、あなた方は残っていなさい」と言われたため、私達は壕に残ることになりました。その壕には、足に傷をうけた長谷川さんという兵隊さん一人に、他に民間人が四、五人残っていました。さらにその壕は奥で二つに分かれていたため、奥の方にケガをした人を合めて四人の人たちがはいっているのを私達は知りませんでした。

 

二、三日してから、私達の壕の前を、だれかがしきりに往き来している様子が伺えたので「こんなに危険な状態なのに」と隙間から外をのぞいてみました。仲間とぱかり思っていたのに、いつのまにか米兵が上陸してきていたのです。

 

あんなに敵が歩き回っているのに、どこからか水谷少尉が入ってきました。私達の壕は米兵の上陸に備えて機関銃をとりつけていたため、水谷少尉は、

 

「相手が撃ってこない限り、こちらからは絶対に撃ってはいけないぞ」と命令を下しました。

 

ところが言い終わらぬうちに、中に残っていた兵隊さんたちが、さかんに壕の前を歩いている兵隊におびえて銃を発してしまいました。それからというもの多量の手りゅう弾が投げられ、入口ふきんでは、あっちこっち「ポコ」「ポコ」と破裂音が聞こえ中の方からは銃を発し、しぱらく撃ち合いが続きました。

 

そこで水谷少尉が、


「もうしかたないから玉砕しよう」と言いだしました。

 

私達女性群は、しばらくすみの方にちぢこまって「きょうまでの命か」と思いつつ戦闘の様子を伺っていましたが兵隊さんたちが玉砕しようというのを聞いて、

 

「私もお願いします。私も」と我れ先に、伏せている兵隊さんたちの上におおいかぶさる恰好でとぴついていきました。ケガした長谷川少尉は、傷が痛みだしたらしく、早く死んで、楽になりたいといった様子です。それを、

 

「がまんして下さ,い。兵隊さんたちだけ死ぬような事をしないで、私達も一緒に死なせて下さい」と女の人たちは頼みました。

 

「これだけ大ぜいいては、手りゅう弾一個では全員死ねないな」とどうして死んだらいいかうちあわせている所へ、米兵からガス弾が投げこまれてきたのです。急に白い煙がたちはじめたので、兵隊さんたちが、

 

「ガスだ、ガスだ」

 

と叫びました。すぐさま、むしろなどを持ってガスをあおぎたてながら兵隊さんの毛布を大急ぎでかぶりましたが、急に目が見えなくなり始め、のどがかわき、息苦しくなってきました。その時兵隊さんたちは、

 

「今のうちだ、自決しよう」

 

とあわてましたが、どういう心変りか、水谷少尉は今度は、

 

「自分が命令を下すまでは絶対に自決をしてはいけない」

 

といいました。水谷少尉は防毒マスクをかけていながらも非常に苦しそうです。

 

煙がしだいに薄れてから各自の生存を確認しあい、そして水谷少尉手持ちの酒があったので、それで少しずつのどをうるおしてやっと落ち着きをとりもどしました。ところが、最初は全員無事だと思っていましたが、後で気がついてみると奥の方にケガしてはいっていた人は死んでいました。

 

その晩、「場所を敵に知られた以上、早めにここを出なければいけない」ということになりました。一緒にいた突貫隊の兵隊さんから、

 

「三中隊に連絡をとるため自分たちはこれから出かけるが、お前たちはここを動いてはいけないぞ」

と命令を受けたので、私達だけ不安ながらも残っていなければなりません。まもなくすると大雨が降り出しました。

 

敵が外にいる上に大雨に見舞われたため、小用をたすにもそれができなくなってしまったのです。がまんしようにもがまんもできずしかたがないので、各々、入口ですませることになりました。

 

しばらくしてのどがかわいたため、さき程小用をすませた後流れていったものが、溜まった水と一緒になって逆に流れてきたのも知らず、それを飲んでしまいました。何という味でしょう、それでもがまんできないので、いやな顔をしながらもみんな、お腹いっぱい飲んでいました。

 

その後、これまで私達だけが残されているとばかり思っていたものの、私達の話声を聞いたのか隣の穴から久しぶりに顔を会わせる友人がでてきたので、お互いびっくりするやら喜ぷやら、感激の対面をしました。それと同時に、仲間が増えた事で、心強くもなりました。

 

仲間が増えた事も手伝って、きょうこそ、私達も壕を出て行こうと準備をしている所ヘケガした朝鮮人※3がはいってきました。

 

「私達はこれから出て行こうと思っているのに、ここに何しに来たの」と腹だたしさも混じえて言うと、

「もうどこにも逃げることはできない。敵は完全に上陸してしまった」

 

と言うのです。そうしているうちに、兵隊さん達もみんな帰ってきました。やはり壕を出るのは無理なようです。しぱらくは動かないことにしました。ところが、壕に留まることに決まってから少し気持ちが落ち着いたせいか、みんな水を要求してきました。無理もありません。先程から水らしい水を飲んでいないのです。がまんできないという事で、梅干しの樽が空いていたので、将校が朝鮮人に水をくんでくるよう命令して、いやがっているにも拘らず反発することなく水をくんできました。水がくると、みんなは飛びつかんばかりに水を飲みはじめました。ところが、容器が梅干し樽なので、すっぱくてかないません。それでも、飲まないよりはましだ、とみんながまんして飲んでいました。腹いっぱい飲んで終わった所へ水谷少尉が、「もう、みんな腹いっぱい飲んだのだから」と残った水に手や顔を洗ってしまいました。その後、やはりすっばい水では水を飲んだ気がしないということで、手や顔を洗った後の水を、再ぴ飲む人もいました。

 

何時間かしてから、やっとその壕を出ることになり、手りゅう弾を一個ずっもらって自由行動をとることになりました。手りゅう弾一個あれば、五人家族は充分死ねるのです。

 

女の人達四、五人は高月山の方へ登っていきました。下の方を見下ろすと戦軍やジープが走りまわり、それに鉄帽をかぶった兵隊が行き通っている様子です。もう、いくさは勝ったので友軍はまっすぐ歩いているのだなと思いました。

 

ある程度楽観の気持ちで歩いていると、防衛隊として参加している村の青年達と会ったため、大和馬の整備中隊の壕へ行こうと相談しました。そして、

 

「手りゅう弾は男が持っている方がいいから自分たちによこしなさい。君たちは自分たちの後を追ってくれぱいい」

 

と言うので、それに従うことにしました。ところが、私達が歩き出そうとした時、上の方で語し声が聞こえるため、顔を出してみるとちょうど私達を撃つのに都合のいい場所に、米兵が銃剣をかまえて立っているのです。団体で行動すると感づかれる恐れがあるため、別行動をとろう、と相談した所、いつの間にか男の人たちは姿を消していました。それからというもの、心細くても弾の中を縫っていかなけれぱいけません。

 

途中、山が深くて避難に絶好の場所まではいりこんできたため、目的地の整備中隊の壕に行かずに、そこで一休みすることにしました。しばらくすると、番所の山から大ぜいの住民が下りて行くのが見えるため、何があったのだろうと、ふしぎに思っている所へ、今度は、阿佐道の方からたくさんの米兵が銃剣をかついでずらっとならんでおりてきました。そして、私達のいる方を向いてすわりこんでしまったのです。私達は、全く逃げる手段を失なってしまいました。しばらくは、沈黙の状態が続きました。

 

何時間か経過してから、彼らが移動を始めたため、私達もひき返すことにしました。

 

大急ぎで山道を歩いていると、三中隊の壕で一緒だった水谷少尉や、ケガした長谷川少尉らと会ったため、今までの状況を話すと、三中隊の壕へ全員、引き返すことになりました。暗い坂道をケガした兵隊をかついで夢中で登り、やっと壕にたどりつくことができました。あたりは真暗やみで入口が見えないため、マッチをつけてみると、せっかくやってきたにもかかわらず、入口は、開けられないようにしっかりと閉じられているのです。しようがないので、また引き返すことになりました。山を登って行く途中で、夜が明けてきたため、明かるくなってからは、自由に道を出歩くことはできません。敵に発見されるからです。

 

竹やぶをかきわけ、安全な場所を見つけて、昼中はそこに隠れていることにしました。

 

あたりが暗くなりはじめた頃、月がでて、道をあかるく照らしてくれました。安全だから、と出かけようとした時、水谷少尉から、水をくんでくるよう言われましたが、不安なので、断わってしまいました。それからというもの、少尉はカンカンに怒り出し、別の人に言いつけてから、私に向かって、

 

「お前は、俺たちについてきてはいけないぞ」

 

と言うのです。そうは言われても、一人だけ置いてきぽりにされては心細いので、こっそり、うしろからついて行きました。ところが見られてしまったため、

 

「おまえは来てはいけないはずだ」

 

と日本刀をふりまわしてきました。私は、

 

「どうせ、いくさで死んでしまう身です」

 

と逆に反抗して行ったので、とうとうおどかすだけで、斬りつけてはきませんでした。

そのような事がありながらも、水谷少尉は、自分の手元にある食糧を、兵隊や私たちに同じように分けてくれ、

 

「食糧はもう心配ないだろう。さて、どこへ行こう」

 

と、案内してくれるよう言われました。ところが、みんな、自分の家族の壕一帯だと、地理的にも詳しいが、その他の所となると、全く皆無の状態です。さっぱり見当がつかないので、全員、自由行動をとることになりました。その頃からは、みんな疲れが出たということで木かげにすわったまま、だれも立てません。しばらく休んでいると、いつの間にか仲間の一人がいなくなっていることに気がつきました。あわてて彼女の名前を呼んだり、あっちこち調べてみると、ゆうゆうと大和馬の方からやってくるのです。どうしたのかたずねてみると、一人で大和馬の整備中隊の壕に行こうとした所、水の豊富な場所を見つけたので一人で飲んではもったいないと思い、私達をよびに来たとの事。さっそく、その場所に向かうことにしました。なるほど、着いてみると、水は豊富な上、山が深いため、敵に発見されることはありません。みんな思うぞんぶんに水を飲んでそこで一夜を明かすことにしました。ところが、やっと水が飲めたと安心しているところへ、ケガした長谷川少尉が破傷風になったらしく、

 

「何か首すじが変だ、、どうしたんだろう」

 

とくり返し言っています。少しずつ水を飲ませてやると、あの大の男が水を飲み込むのにもがきにもがいてからしか、飲み込めません。彼は自分の持っている日本刀でさし殺してくれるよう頼んでいましたが、生きのびられるだけは生きてくれるよう、私達は逆にお願いしました。しかし、あまりにも苦しそうなので、一緒にいた兵隊さん達も最初は断わり続けていたのに、見ておれなくなったのかどうせ死ぬものだから、と念願をかなえてやることにしました。

 

残されたわずかの時間を同僚たちとあれこれ話しをしてから最後に、

 

「私が死んだ後、上から何も見えないように土をかぶせてくれ。そしてあなた方は私の死ぬ姿を見ないように上の方に行っていなさい」と言葉を遺しました。私達は言われた通り彼の見えない場所に行き、銃声が聞こえた後、戻ってきました。長谷川少尉はすでに事切れていました。その後、遺言どおり、土をかぷせてから、銃声がした以上、そこに留まるのは危険だとして移動することになりました。そろって歩き出した頃、みんなまともに食事らしい食事もとってないので、少しでもつまずくとすぐひっくり返ってしまう状態になっていました。

 

月夜の道を、夜通しすべってころんでははい上がりとくり返しながらガケを登っていくと、稲崎山の中腹までやってきました。つまり、島の裏側に着いたわけです。海岸は軍艦がぎっしりと埋めつくしていました。これまでの疲れが一度におおいかぷさってきたせいか目もあけてはおれません。みんなも黙りこくっています。

 

いつの闇に寝てしまったのか目をさますと、またまた先程の女の人がいません。どこへ行ったのだろうとみんなでさがしていると、夕方になってから戻ってきました。話を聞いてみると、山のふもとを二、三人影が往き采していたため、伺事だろうと、一人でさっさとおりていったという事です。彼女の話では、こんなに逃げ回って歩いているのは私達だけで、民間人は大ぜい一か所に避難しているということでした。なるほど山の上からみると住民が壕の中を出入りしている姿が伺えます。一週間近くだれにも会うことがなかったため、住民はみんな死んでしまって、自分たちだけが生き残っているとばかり思っていたものが、こんなに大ぜい生きているとは、夢みたいな感じもします。そこでは、だれそれは捕虜になったとか、だれは玉砕したとか、あらゆる情報が聞かれたとの事でした。私達も仲間に入れてもらって山をおりて行くと、やはり顔見知りの人たちが大ぜいいます。その時から私達は住民と共に生活することになりました。

 

みんなは夜になると芋を人の畑からこっそりとってきたり、なべがないため、ちょっと大きめのゆがんだ空罐をさがしてきて、それ一つで、芋を洗って炊いたり、水をくんできて飲んだり、野菜を洗ったりしました。

 

芋がやや炊けたと思った頃、大急ぎでつぶしますが、だれか来る気配がすると、それをやめ、火が残っているかまには水をかけて急いで消し、煙をかくそうと、一生懸命あおぎたてたりしました。

 

そのような生活が二日も続いた頃、敵にぱれそうになったため、阿佐部落の裏海岸へ行くことになりました。食糧がないため、何か流れてくるのをさがしながら行こうと海岸ぞいを歩いていると、いつの間にか部落民の避難しているユヒナの壕へたどりつきました。

 

そこでは、この壕にいただれだれは出ていってしまったと話をしていましたが、そう言いながらも、やはり自分たち自身、食糧もないし、島全体は軍艦に囲まれているし、先が見えて不安になったのでしょう。だれからともなく、自分たちも出て行こうという話がもち上がりました。私達もこれ以上抵抗しても……、と、やはり決心を固めました。みんなが支度している所へ、まるでうちあわせていたかのようにタイミングよく大発※4がやってきて、私達を座間味都落の方へ連れていったのでした。

 


 

【※1】 →下記


【※2】「特幹隊」が正しい。特幹隊とは特攻任務の海上挺進隊のこと。隊員の殆どが特別幹部候補生だから「特幹隊」という。もしかすると村の人たちは「特攻」のことを「突貫」と言ってたかもしれない。他に文中には「整備隊」がある。基地建設と守備の「基地整備隊」が、海上挺進隊とともに座間味には駐屯しており、米軍上陸時には両方をあわせて梅澤裕少佐が最高指揮官であった。

 

【※3】朝鮮人、男性なら基地建設の軍夫、女性なら従軍慰安婦。当時、慰安婦は慶良間4島 3島4箇所に7人ずつ配置されていた。梅澤裕少佐も怪我をして朝鮮人慰安婦の看護を受けているところを米軍捕虜となったとされている。ここに登場する「朝鮮人」は、水汲みにいかせられたり、筆者のそばにいることから、女性(従軍慰安婦)のようだ。

 

【※4】大型発動機船。   

 

 


 【※1】 →大阪地裁法廷準備書面(2)

 

(原告側準備書面の引用部分)

 

そこで水谷少尉が、


「もうしかたがないから玉砕しよう」と言い出しました。


私達女性は、しばらくすみの方にちぢこまって「きょうまでの命か」と思いつつ戦闘の様子を伺っていましたが兵隊さんたちが玉砕するというのを聞いて、


「私もお願いします。私も」と我れ先に、伏せている兵隊さんたちにおおいかぶさる格好でとびついていきました。ケガした長谷川少尉は、傷が痛みだしたらしく、早く死んで、楽になりたいといった様子です。それを、


「がまんして下さい。兵隊さんたちだけ死ぬような事をしないで、私達も一緒に死なせて下さい」と女の人たちは頼みました。


「これだけ大ぜいいては、手りゅう弾一個では全員死ねないな」とどうして死んだらいいか打ち合わせている所へ、米兵からガス弾が投げこまれてきたのです。急に白い煙がたちはじめたので、兵隊さんたちが、


「ガスだ、ガスだ」


と叫びました。すぐさま、むしろなどをもってガスをあおぎたてながら兵隊さんの毛布を大急ぎでかぶりましたが、急に目がみえなくなり始め、のどがかわき、息苦しくなってきました。その時兵隊さんたちは、


「今のうちだ、自決しよう」


とあわてましたが、どういう心変わりか、水谷少尉は今度は、


「自分が命令を下すまでは絶対に自決をしてはいけない」


といいました。水谷少尉は防毒マスクをかけていながらも非常に苦しそうでした。

 

(原告側準備書面引用おわり)

 


沖縄戦体験証言

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