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妄説に断!渡嘉敷島集団自決に軍命令はなかった

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雑誌正論 2006年11月号

妄説に断! 渡嘉敷島集団自決に軍命令はなかった

「日本文化チャンネル桜」社長 水島総/同局取材班 井上和彦、仙頭直子
より

照屋昇雄氏の証言


渡嘉敷島から戻った翌日、那覇市のホテルで、私達は、照屋昇雄氏のインタビューを行った。三欣会という沖縄保守系の人々の勉強会に参加する形で、照屋氏は仲間と共に私達を待っていた。だいぶ緊張した様子で、ご自身もそう話されていた。以下のインタビューは、五月と七月、九月に照屋氏からお聞きした話の核心部分である。

「ずっと沖縄本島にいらっしゃったのですか?那覇市に?」
那覇市にいるんですよ。小さい時はクニガミのモトグというところ。
「沖縄戦は体験されてるのですか?」
体験しておりますよ。僕は重砲七連隊。僕はその時少年兵だから。捕虜になりましたかね、一年八ヶ月だったかな。ハワイ(の収容所)で二十一歳の誕生日、戦後戻って、あれやこれやして新聞社に入ったりしてね、食うためにいろんな思いして。
「その中で援護局の職員として採用されたということですね」
そうですね。琉球政府社会局援護課調査係、調査係の旧軍人軍属資格審査委員です。政府関係者から『援護法ができて、軍人関係の調査を行うからこないか』と言われ審査委員になりました。私は、島民にアンケートを出したり、直接聞き取り調査を行うことで、援護法の適用を受ける資格があるかどうかを調べたりしました。各市町村をかけずりまわって調査をするのは、南西諸島に対する旧軍人軍属に対する日本政府からの恩給、沖縄戦で亡くなった人にはお金をあげましょうということで、沖縄戦について、戦闘状況を調べてくれと。いつどこで戦死したかなど調査して、記録簿を作って、厚生省に援護金をもらうために、私が審査員になったんです。

「なぜ今六十一年経って、当時のことを話すことを決心されたのですか」

私はね、本当、今までね、口をね、何十年間 全部封鎖しておりましたよ。で、渡嘉敷村のこと、座間味村のことが嘘で報道されて、嘘、言ってるんですよね。赤松隊長や座間味にいた梅澤隊長、少佐ですね、あの人は。この方なんかにすまない、すまないと思いながら、今まで、もう歯くいしばって、あっちの村の人も、全部心ひとつにしてね、誰が来ても、誰にもそのこと、言わないといってね。何故、今ごろ私がね、その話をするかといいますと、大きな理由があるんですよ。

赤松隊長が、自決命令を出して、住民をね、谷底のところ、全部で三百十五名、自決させたんだと、大きく報道しているのは、(沖縄)タイムスですよ、真実性が欠けてるんです。それはもう惨たらしい自決のやり方だったんです。もう本当にね、一緒に調査した南方連絡事務所から来られたマブチさんていう方がおりましたが、なんとか助けられんかというわけで、援護法上、自分で死んだものは、自決は援護法に該当しないんです。この戦争で、満州や南方全部、たくさんの人が自決してるんですね。

それを沖縄だけね、格別にできないということでね、絶対にそれはできないということだったんですよ。村長さんの玉井喜八さんと二人でね、五十五年だったかなあ、自決は軍の命令だったと嘘言って、文章書いて、書類作って、援護金もらったなんて言えなかったし、それは責任問われたら大変だし、今まで全部口を封じておりました。渡嘉敷島の人も、援護局の書類を書いた人の小峰さん、誰も言わない、言ってはいけない、ということで隠し通していた。

玉井村長さんが死んで、あの人の慰霊をするために真実を明かすときが来たんじゃないかという事で、奥茂治さんたちからもお話があって、正しいものを、後世に伝えなければいけないと思って、もう新聞に叩かれようが何しようが、もう真実を述べてね、いいんじゃないかと思ったんですよ。今まで、隠し通して、僕らももう年だし、いつ死ぬかわからんから、真実をね、もうハッキリしようじゃないかと、僕自身で決めたんですよ。

「渡嘉敷島ではどれぐらい聞き取り調査をしましたか」 

渡嘉敷村の場合は、あっちに約一週間くらいいましたね。いちいち、何か調査するには、そんなくらいに長くかかるんですよ。要するに援護金の該当するのは全部なんです。だからだいたいの嘘はわかりますってね。

「その時は、関係者の方、何人くらいから話しを聞いたのですか?」

そうだなあ、女の方から大方聞いてるからね、百から二百名…一日書いて、夜はまた整理せんといかんですね、たくさんの人の証言をまとめることは難しいんですね

「その百名以上の方の中に、集団自決が軍の命令だと証言した住民はいましたか」

一人もいないですよ。一人もいない。これは断言します。女も男も全部集めて調査しましたよ。だって無いのに。軍の命令があったっていうのは、僕は、沖縄タイムスの記者が自決のあったサイパンかどこかの記事を引用してね、書いたんじゃないかと思いますよ。自決命令したとかなんとか言うのは、サイパン帰りがおりましてね、サイパンでは隊長命令で自決したってね、それを沖縄に適用して真似てね、隊長命令と書いたんじゃないかと。

「蘇鉄(そてつ)地獄」を何とかしたい それに応えてくれた赤松隊長

「なぜ集団自決をしたのでしょうか」

沖縄での自決の実態を僕ら掌握してみたらね、沖縄のね、文化、風習っていうかな、沖縄の墓は、外国で死のうと、どこで死のうと、全部こちらに、大きな墓に祀るという昔からの文化があります。家族が全部集まる。その文化があるので、あちこち死ぬよりも、家族一緒に死のう。そしたら誰か墓に祀るだろう。

それと、当時の教育思想関係からして、国に減私奉公しようという気持ちで死んだんです。撃ちてしやまん、アメリカにあれするより、一人でも殺して死のうといって。

それと集団自決は、座間味が先なんですよ、二十六日。二十八日が渡嘉敷。あっちの村長さん、農業組合長、校長先生ね、非常に熱血で誇り高い人でね、最初、校長先生が切腹してね、自決し始めたらしいよ。もうぼんぼんアメリカ軍が上陸してるもんだから、じゃあ死んでいこう。その村長さんと校長先生が死にはりまして、そしたら座間味の人は、こっちからこちらへ伝えられましてね、僕らも死のうかといってね、三十二名ぐらいかな、自決して死んだ、もう米軍に上陸されて混乱しているですよ。僕は死なないと言ってこっちの島に逃げてた者が、もう大変だ、もう住民全部死んだ、全部自決したって。それを聞いて、こっちからこっちに大きな噂が流れてね。

どうしようかこうしようか言う時にね、古波蔵っていう村長さんが、あの人、村からね、信用無いんですよ。だって住民集めて、演説もしてるんです。全部死ぬと言ってね、アメリカの捕虜になって女はアメリカのおもちゃになってとか、何とかかんとか言ってからね、もう自決やりましょうって手榴弾持ってね、あの、赤松隊長が渡したってあれも嘘ですよ。防衛隊って言ってね、一般の人がすぐ召集されて、何でもない兵隊も軍だかわからないものを、鉄砲もつけたし、全部、手榴弾渡してあったのよ。一人くらい撃ち殺せって、戦車をね、ぶっ壊せって。防衛隊の人たちがね、逃げてきてね、村の人たちの中に入って、これを爆発させてるんですよ。もう全員死ぬという噂が、流れ流れて渡嘉敷村の愛着を持っている人は、集まって自決した。これが理由です。聞いた範囲は、これであります。

「集団自決を軍命令とした経緯はどうなんですか」

援護金の調査しているとき、1ヶ月間、アメリカから食糧の配給がストップされ、その時に蘇鉄を食って死んだ人がいる。「蘇鉄地獄」と言ってね、その時にね、援護法ができてるからなんとかしてみようと、あまりに惨たらしい死に方だから、かわいそうだというふうで、東京の(南方同胞)援護会なんかも掛け合って、援護法の適用って出来ないかってことになって、南方連絡所のマブチさんという人が、もう泣くぐらいに懇願した。なんとか助ける方法がないかって言ってね。審査委員会というのがありましてね、東京で。その時にはね、何回言っても、ノー!駄目って。日本国中ではそういう人たくさんいるからね、駄目だって言って、ああやこうやしてるうちにね、その規定の中に、隊長の命令、もしくは、隊長の命令による銃殺、もしくはスパイ行為とかで、援護法の適用法律がある。

その中に「隊長の命令によって死んだ場合は、お金をあげましょう」という条文があるんだが、実際に隊長の命令で自決したという人はいなかった。そしたらね、誰なのかわからんが、誰かがその当時の隊長さんたちにね、お願いして、とにかく、自決命令を出したと言ってくれ、そうすれば(政府から)お金が出るからと言ってね、しかし、誰もならない、馬鹿じゃない限り、あんた、自分で自分を、縄で首しめる隊長はいないですよ、そして十二月頃かな、最後の東京の会議がありましてね、私は参加しておりませんが、渡嘉敷の玉井喜八村長さんが、参加したらしい。

その時に、厚生省の課長さんかな、なんか、赤松さんがね、村を助けるために十字架を背負いますと、言いよったよということなんです。村長さんは早速、赤松隊長に、自宅に会いに行ったの。兵庫県かどこか関西の方…そこへ行ってですね、隊長命令だったという命令書を書くということになっているそうですが、ということを話したらね、お前ら書いてこい、お前らが書ければサインして判子を押しましょうということになったんです。

村長さん大喜びしてね、二十五日頃帰ってきましたよ。書類と資料提出が、翌月の十五日か十六日までに間に合わして、その隊長さんの命令って書くんだから、二人で、大晦日だったなあ、二人夜通しで作って、大晦日という、書き終わってね、二人で一杯飲みながら、もう夜明けで…。

「それは命令書なんですか?」

あれはね、命令じゃなかったな。渡嘉敷住民へ告ぐと書いてある。玉井村長と二人でね、赤松隊長の身になって書いたからね、何年何月何日、渡嘉志久から米軍が上陸して、もはや村の役所の前にきてる、国のために降伏せず、一人でもアメリカ人をやっつけて、というよう内容だったはず、住民もね、死して国のためにご奉公せよとか沢山書いて、自決せよとかそんな命令じゃないんですよ、教育じみてるのが命令書となってるんです。

 「それは、赤松隊長には見せたんですか?」

サインして(判子を)押して、(翌年)一月十五日だったかな、閣議に出さなければ間に合わないということで、十五日までに、間に合わすよう、村長さん持っていったの。サインと判子を宜しく貰って、喜んでね、間にあったと言って、二人でまた飲み屋で一杯飲んで。私はあとから、南方事務所のマブチさんという人に「赤松隊長、どうして、お願い聞いてくれたのかね?」と聞いたら、「照屋君、あの人は、沖縄病といわれるくらい沖縄にかかっている偉いい方から、何とか沖縄を救えないかと耳打されたという話があるんだが、だからあんなに一生懸命になっているんだよ」と。

本当か、真実はわかりませんよ。赤松隊長が、私が命令したということにしようと十字架を背負ってくれた。赤松隊長さんは、村民からは、神様みたいな方だった。非常にいい人、私も、会ってみてそう思います。

「住民は、赤松さんがそうやってくれらから援護金が出たことを知っているのですか?」

わかってる。だから、いかにどんな人が来てもね、口をつぐんでいる。唇寒しでね、絶対言いませんよ。向こうの住民は、絶対に、

「援護担当だったコミネさんは喋ってくれないのですか?」

言わない。あの 村のね、援護係してたのは小峯幸信。まず言わないでしょう。五十年くらい前よ、絶対言ってならん、死んでも言ってならん、これ言ったら、大変になるよつって、玉井村長と小峯さん、この僕と三人で誓いを立てたんです。村民はね、これを聞いてね 全部わかるわけです。絶対言わない、座間味も同じ。

「あらためて、お聞きしますが、なぜ、今証言すると決めたんですか」

深い理由があるんですよ。赤松隊長はね、余命三ヶ月、ガンで亡くなったらしいんですがね、電話でね、私は命が三ヶ月しかありません、だから、玉井村長、村史から私が自決命令をしたと、あれをね、削除して、その訂正文をはさんでくれんかと何回もきた。何回もね。そうしたら村長さんはね、赤松隊長はもう病気だし、照屋くん、どうしたらいいか、恩はあるし、村史からこれ消したらいけないし、僕はもう寝ても起きてもできないよってね、どうしたらいいのって言ってね、いろいろ弁護士とかね、いろいろ調べたらね、ああもいかない、こうもいかない、もう、心配して眠ることもできないんですよ。

そしてどうしようかって二人とも夜通し酒飲んで、帰ってきても、また電話きてね 照屋くん、僕、ウィスキー飲んでも、睡眠薬飲んでも眠れんつって。僕は慰めてね、宥めながら何回も呼ばれ、やけ酒飲みました。そして赤松隊長が亡くなったら、玉井村長、あの人は、ああも出来ない、こうも出来ないと毎日心労してね 病気して、間もなくして死にましたよ。あの人はこれで死んだんですよ。

考えてみんさいよ、どこの隊長がね、学識ある人がよ、例え命令したと言ってもね、命令しなかったと突っぱねるのが普通ですよ。悪いことを僕が引き受けましょうって、いかに善い人であるかね、本当に十字架を背負ってね、僕らは毎日手を合わせておりましたよ。だってこの人に責任負わせて苦しめているでしょ、新聞に赤松隊長の悪口見たりするとね、心が張り裂ける思い。胸に短刀裂かれる思いしよった。あんないい人をね、だから私もね、真実を言ってね、もう隠すもんじゃない、言うべきとこは言っておこうと、もう寿命しれてるからって言ってね、生きてるうちにはっきりしたことを申し上げようと思って今、申し上げてるんですよ。あの人のね、御霊をね、安らかにするために、私は真実を言わなければいけないんです。

インタビューを終えた照屋氏は、長く苦しかった「沈黙」から解き放たれたせいか、疲れてはいたが、ほっとした様子とすべきことをした誇りに満ちた表情を浮かべていた。インタビューの途中では、何度も声を詰まらせ、涙を流した。その涙が、凍結されたままだった「沈黙」を一筋づつ溶かしていくように思われた。男の涙はいいものだと思った。

電話が鳴ると心臓が縮む 真実語った照屋さんの今


さて、二人のインタビューでも指摘されていない一つの「沈黙」について、私はあえて述べておきたいと思う。慶良間諸島の皆さんの「沈黙」は、ただ、援護金をもらうために自決を軍命令にしたという理由だけではないということである。

それは、もし、軍の自決命令が無く、戦前の日本の「軍人勅諭」的な価値観を採らず、戦後の価値観で考えてみると、集団自決は大規模な無理心中殺人事件であり、当時残っていた法律の「尊属殺人罪」の適用も考えられなくはなかったのである。情状酌量の余地は勿論あるが、少なくとも戦後的価値観で見れば、特殊な状況下における殺人事件と見られても仕方ない。

だからこそ、どんなことがあっても、軍命令としたかった要素もあったのではないか。戦前までの日本において、自決は自らの誇りと武勇、栄光を体現するものだった。慶良間の集団自決もそんな流れの中に起きた。集団自決で散華なさった皆さんを軍国主義に騙された戦争被害者として片付ける戦後日本と沖縄に、私は怒りすら覚えるのである。

私達は、この照屋昇雄氏と金城武徳氏に対して五月に行ったインタビュー内容を文字メディアで取り上げてもらおうと、テープと企画書を産経新聞社に持ち込んだ。産経はこれまでも集団自決問題について積極的に報道、論評してきたが、今回も記者が沖縄まで取材に飛んでくれた。それが八月二十八日付けで、同紙一面(東京版)に掲載された記事である。

私達も衛星放送「日本文化チャンネル桜」(CH767)として、八月十五日、「沖縄集団自決の真実」として特別番組で放送した。この反響は大きかった。インターネットの2ちゃんねるでは、投稿数が一万を超える大きな反応を呼んだ。照屋さんの勇気を称える投稿がほとんどだった。

これに対して、沖縄ではどうだったのか。集団自決は軍命令だったとする主張の大本となった「鉄の暴風」の出版元で現地の新聞社「沖縄タイムス」は、冷たい黙殺を続け、沖縄タイムスと並ぶもう一つの現地新聞社琉球新報は、早速文化欄で、「集団自決訴訟 問われる沖縄戦観」と題して訴訟被告側の岩波書店編集局副部長のインタビュー記事を掲載した。その見出しは「軍の残虐性否定が目的 沖縄の人々への挑戦」という刺激的なものだった。

九月初め、私たちは再び座間味島取材のため、沖縄を訪れ、照屋さんに話をうかがった。新報の記事が出ても、その決意は全く揺ぎ無いものだったが、電話が鳴ると心臓が縮むような思いがすると話していた。琉球新報も、その後はインターネット上の反応に恐れをなしたか、沖縄タイムス同様、沈黙を続けている。この両新聞を読んでいると、朝日新聞が保守新聞に思えてくると言っていた沖縄の知人が、曽野綾子氏さんの『沖縄戦・渡嘉敷 島集団自決真実』(絶版になっていた『ある神話の背景』をWAC出版が今年五月に文庫として復刻)那覇市内の書店の店頭には並らんでいないと連絡して来た。これが戦後沖縄の現実なのだろう。 

そういえば、大江健三郎氏が、九月になって五回目の中国訪問をしたという報道があった。大江氏は、南京市内にある「南京大虐殺記念館」を初めて訪れ、「館内には展示品がたくさんあるが、大江氏は一つひとつに丁重に頭を下げていた」「頭を下げた回数は全部で100回を超えているだろう」(九月十三日付、中国紙「現代快報」)「大江氏は日本人の鑑だ」(同紙十四日付)などと現地メディアに報じられた。このノーベル賞作家の中国での神妙な平和の使徒のごとき表情を想像すると、私は笑うに笑えず、得体の知れない私達人間への「沈黙」を余儀なくされるのである。

取材スタッフ 井上和彦・仙頭直子
取材協力 奥茂治(南西諸島安全保障研究所)                   
産経新聞記者 豊吉広英
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