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女性たち

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女性たち(座間味)



女性たち -上- (9月16日朝刊総合3面)
軍が擦り込む「自決」思想
「足でまとい」手榴弾渡され

 日本軍が駐屯した一九四四年九月以降、徴兵で若い男性がいなくなった座間味島では、二十代の若い女性たちが、軍の経理や炊事、看護などさまざまな職務で軍属として働いた。
 軍と行動を共にすることで、「敵が上陸したら自決せよ」と実際に直接に手榴弾を渡され、「集団自決(強制集団死)」の思想を強く擦り込まれた。

 四五年三月。「敵が上陸した」。座間味集落の東側、日本軍の壕が集中していたタカマタの海上挺進隊第三中隊の壕に、伝令が叫びながら、飛び込んできた。

 一気に緊張が高まった。爆雷を搭載したボートで米軍艦船へ体当たりすることが任務だった特幹兵が、武装準備を急いだ。いよいよ壕を出る寸前。「連れていってください」。宮里育江(82)たちが叫んだ。当時十九歳の育江は当初、軍の経理室で働いたが、この壕では看護婦の友人とともに、傷病兵の看護に当たっていた。

 育江は空襲がいったん収まった二十四日夕方、母親や家族の顔を見に、座間味集落へ帰った。家族から一緒に避難しようと言われ、心が動いた。だが、軍の壕に救急袋を取りに戻ったため、結局、家族の元へ戻ることができなかった。

 接収され軍の調理場となった鰹節工場で、炊事班員だった吉田春子(81)も妹と逃れて来た。斬り込みに行く特幹兵が出て行った後、壕に入ることを許され、合流した。

 足が不自由な弟と壕にとどまるという母親は、「一緒に逃げられない。どこで死んでも一緒だ」と春子に逃げるよう諭した。前に弟をおぶって逃げた時も、日本軍の壕に入れてもらおうと三カ所訪ねたが返された。しかし行くあてがない春子は妹を連れ、再びタカマタの日本軍の壕にたどり着いたのだった。

 特幹兵は育江に、手榴弾を手渡した。「おまえたちは軍の足でまといになる。いざとなったらこれで自決しなさい」。手榴弾の栓を抜き、たたきつけて破裂させる―使い方も教わった。傷病兵と壕に残された。

 翌朝、壕の入り口から米軍の姿が見えた。出ればすぐに見つかる距離。一歩も動けず、昼の間中、ひっそり息を静めて座っていた。夕方。米兵が近づいてきた。パラパラパラ。あっと思った瞬間に、壕内へ機関銃の乱射が始まった。続いて、砲弾が打ち込まれ煙が壕内に充満した。煙を吸わないように布団をかぶり、なんとかしのいだ。=敬称略(編集委員・謝花直美)









女性たち -中- (9月20日朝刊総合3面)
「自決」用の手榴弾不発
迫る米軍 首つるも死ねず

 米軍の上陸がいよいよ迫った時、日本軍の経理室にいた軍属、宮里育江(82)は本部壕へ移れるよう、日本兵に頼んだ。しかし「本部には戦隊長と慰安婦がいるから駄目だ」と言われた。
 座間味島にも日本軍の慰安所が設置されていた。上州幸子(85)の看護婦だった妹は、日本軍の診療所に勤めていた。朝鮮半島から連れて来られ慰安婦とされた女性たちの手当てをしていた。女性たちのことを「話してはいけないことだ」とほとんど語らなかった。

 炊事班だった吉田春子(81)は、日本兵から「兵隊たちと一緒に居たほうがいい。米軍は何をするか分からない」と注意されていた。

 十代後半から二十代の女性たちには、米軍の手に落ちる恐怖を、軍が支配していた日常の中から刷り込まれた。

 米軍の攻撃を受けた夜。壕の傷病兵らが「今晩、逃げないと明日はやられる」と、壕脱出を試みることになった。育江ら女性五人も、夜のうちに高月山へ移動することになった。

 しかし途中夜が明けて、攻撃が激化した。谷間にいた育江らの上空を米軍の砲弾が飛び、木々も残っていない山中で身を潜めるしかなかった。そこに上ってきた防衛隊員が「敵は上陸した。どこも敵でいっぱいだ。早く逃げないと」と叫んだが、どうしようもなかった。

 育江の手に、手榴弾があった。特幹兵は「いざとなったら、これで死になさい」と言い渡し、使い方を教えていた。「手榴弾で全員死のう。ツツジの花の下で死のう」。女性も防衛隊員も輪になって身を寄せた。

 育江が栓を抜き、パンパンと地面でたたいた。爆発しない。防衛隊員が代わったが、やはり不発。突然、機関銃が打ち込まれた。一行は慌て、散り散りになった。

 育江たちが逃げる途中、集落の様子をうかがうと、すでに破壊され尽くした後で、米軍が陣地をつくっている様子だった。

 米兵が倒れた日本兵を蹴り、生死を確認をしていた。実際に見る日本兵の死。「人が死んでいる」。恐怖が込み上げ、一歩も歩けなかった。

 夜が暮れて、誰からともなく「首をくくって死のう」と言い出した。暗闇を手探りし、めいめいで木に登り始めた。持っていた風呂敷をひもの代わりにし、枝に掛けた。そこに首を掛ける。ぐいっ。全身の体重が首に掛かる。あまりの痛みに耐えかねて慌てて降りた。絞めた首の痛さだけが残った。「痛いよ、痛いよ。お母さん」。皆、おいおいと泣き出した。=敬省略(編集委員・謝花直美)





女性たち -下- (9月21日朝刊総合3面)
刀で斬りかけた日本兵 住民の生死 軍が握った

 「集団自決(強制集団死)」を実行できなかった宮里育江(82)たちは、タカマタの壕で看護をしていた傷病兵らと山中で出会い、共に行動する。その時、吉田春子(81)は、日本兵の命令に逆らったため、殺されかけた。
 山奥に差し掛かった時、一人の日本兵が突然、春子に命令した。「おまえ、水をくんでこい。さもなければ一緒に連れていかないぞ」。薪とりや草刈りに行ったことがない集落から離れた場所。わき水の場所は分からない。戦争前でも、危険を避けるため山へは複数で入った。それなのに、戦時下で一人で行けとは…。春子はおびえて「一人では行けない」と言った。日本兵は別の女性を、無理やり一人で行かせた。

 山中で妹と二人だけになるのが心細く、兵隊たちの後を追った。一人では歩けない傷病兵を見かね肩を貸した。水をくめと命令した日本兵が、春子の姿を見とがめて、軍刀を振り上げた。「ついてくるのか。斬ってやる」

 「死ぬのか。妹はどうなるんだ」。春子は恐怖で心臓が止まりそうになり、わなわなと震えた。「私はどうなるんだ」。支えがないと歩けない少尉がとりなした。刀を振り上げた日本兵は、なんとか刀を下ろした。

 その後、春子の命を救った少尉は、破傷風で苦しんだ末、部下に自らを銃で撃たせて「自決」した。日本軍という組織に染みわたった「玉砕」という思想を実行した。

 春子の時のように、住民の生きるか、死ぬかを、戦時下で日本軍が決めることができた。その軍の大元にある「玉砕」の思想。それを住民に押し付けたのが「集団自決(強制集団死)」だった。

 日本兵が整備中隊の壕方面へ行くことになり、解散することになった。女性五人は阿佐の裏手の浜に渡った。浜辺の様子をうかがっていると、ガマらしい所から、住民が出入りして炊事をしていた。女性たちと同じ座間味集落の人々が、ユヒナのガマに隠れていたのだった。「皆が生きている」。てっきり死んだと思っていた住民の姿に、女性たちは驚いた。

 「生きていたのか」。人々も、女性たちの姿に驚いた。

 日本兵は、かねて住民に対して、米兵は女性を強姦し殺害し、男は戦車でひき殺すと、宣伝していた。行方不明になった育江ら女性たちを心配する住民に対して、日本兵は、皆が木につるされて死んでいたと話したという。女性たちの存在が、日本軍に浸透していた「玉砕」の思想をさらに強化するために利用されていた。=敬称略(編集委員・謝花直美)




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